辛毗~束縛の間にて(1)
袁紹と辛毗は許攸を倒しに向かいますが、袁紹はまだ辛毗に言っていないことがたくさんあります。
特に、袁譚を自分の手で地獄に落としてしまったことは、袁譚に仕えていた辛毗には言いづらいことです。
しかし、避けて通ることはできません。
自分が救われるためには、自分の全てを許してもらわないといけないのです。
袁紹と辛毗は、二人で扉の前に立っていた。
中からは、呻きともすすり泣きとも叫びともとれる声が流れてくる。
「ここは……先ほどは何もいなかったはず」
辛毗がそう言うと、袁紹は驚いたように辛毗の方を向いた。
「そうか、おぬしはすでにこの部屋を……。
それで、母上の手紙は見たのか?」
手紙と聞いて、辛毗は思い出した。
そうだ、さっきここに入った時、手紙を読んだではないか。
そして、その時はどういう意味か分かりづらかったので、頂戴してきたはずだ。
辛毗が懐から手紙を取り出すと、袁紹は苦々しい顔をした。
「持っているのなら、話は早い。
その手紙を読めば、ここにいる化け物がどれほど凶暴か分かるであろう。
……この母上は、生きていた時からそうだった」
それ以上話すのは辛そうだったので、辛毗は黙って手紙を読み返してみた。
<あの女のように、ただ暴力を振るった訳ではありませんわ。
あれは、れっきとした躾の一環なのです>
(暴力?)
さっきは気にせずに読み進めたある言葉が、辛毗の胸にぐさりと突き刺さった。
<私もできる事なら、あの子を傷つけたくはありません。
でも、あの子はあの娼婦を思って泣き叫ぶ限り、名門の当主にはなり得ませんわ。
私はあの子の幸せを思って、心を鬼にしているのです>
(傷つける?心を鬼にする?)
よく読めば、どうにも物騒な単語が並んでいる。
これが袁紹の育ての母の手紙なら、これは何を意味するのか……。
袁紹が娼婦を想って泣き叫んだというのは、産みの母親を想っていたのだろう。
育ての母親は、それが名家の当主にふさわしくないと矯正しようとした。
そして、暴力を振るい……。
意味が分かったとたん、辛毗の背中に冷たい汗が流れた。
間違いない、袁紹は育ての母親に虐待を受けていた。
つまり、この扉の中にいる母上とは……。
扉の中から漏れてくるのは、哀れな女の悲鳴。
しかし、うかつに近づけば暴力の鉄槌を打ち込まれる。
袁紹がこの期に及んで入るのをためらう訳が分かった。
辛毗は少し冷たくなった手で、手紙を再びふところにしまいこんだ。
「ま、待ってくれ、実はもう一つ……おぬしに謝らねばならぬことがある!」
扉に手をかけようとした辛毗の手を、袁紹がなおも引き止める。
手は冷たい汗でじっとりと湿り、ひどく力が入っていた。
察するに、相当言いたくないことなのだろう。
「殿、それほどご無理をなさらずとも……」
辛毗がなだめようとしても、袁紹は頑なに首を横に振った。
「いや、これだけは話しておかねばならぬ!
わしの口から、言っておかねば……!!」
袁紹の顔は、恐怖に引きつって青ざめていた。
「わしは、死んでからおぬしより先に袁譚をここに招いた。
だが、奴は死んでも考えを改めることなく、救いを求めるわしを嘲笑った!
ゆえに、わしはあやつを……おぬしが仕えた、あの息子を……!!」
袁紹の奥歯が、震えてがちがちと鳴る。
袁紹の次の言葉を待つ辛毗の脳裏に、さっきこの部屋で見た血文字が蘇った。
『袁譚顕思、ここに堕つ』
辛毗の背中に、ぞわりと悪寒が走った。
「わしはあの愚かな息子を……ここで捕らえ、地獄に引きずり込んでしまった!!」
嫌な予感は、的中した。
辛毗と兄辛評がずっと仕えてきた袁譚は、袁紹自身の手で始末されていたのだ。
一瞬、辛毗は視界が歪むようなめまいを覚えた。
しかし、袁紹の謝罪の声が、辛毗の意識を引き戻した。
「ごめんなさい……!!」
部屋を出る時に聞いた、かすかな声と同じだった。
(そう……だな。
袁紹様とて、したくてした訳ではないのだ)
一瞬怒りと不信に傾きかけた心を、辛毗は静かに立て直した。
そして、勇気を振り絞ってここで告白してくれた袁紹に感謝した。
ここで袁紹自身の口で言ってくれなかったら……。
戦っている最中に許攸の口から言われたら……。
自分はまた、一時の感情に支配されて君主に刃を向けたかもしれない。
審配を打ち据えた、あの時のように。
「大丈夫でございますよ、殿の事情はしっかりと受け取りました。
このうえ許攸が何を言おうとも、私の心は揺らぎませぬ」
辛毗は再び袁紹の肩を抱き、ささやいた。
袁紹の体から余計な力が抜け、安心するのが分かる。
「さあ、二人で許攸を倒しましょう。
そして、殿の悪夢をここで断ち切るのです!」
辛毗の凛々しい声に、袁紹は涙ぐんでうなずいた。
この先に、人の悪夢につけこむ悪魔がいる。
しかし、もう恐れることはない。
ようやく繋がった強固な主従の絆を手に、二人は扉に力をこめた。
中は、異様な雰囲気に包まれていた。
部屋を囲む壁は燃え上がり、壁からは槍のようなものが突きだしている。
床の各所に有刺鉄線が張り巡らされ、足場を狭めていた。
そして天井からは、髪の毛のような細い糸で数十の剣がぶら下がっていた。
その牢獄のような部屋の中央に、美しい着物の女がうなだれていた。
頭から下がる髪の毛の一束一束が手となり、辛毗たちに気づいたようにゆらりと持ち上がる。
「ワタクシの……いとしイ本初……」
目のない顔で袁紹の方を向き、重い体を引き起こすように立ち上がる。
目があるはずの場所には何もないのに、辛毗は確かに彼女の視線を感じた。
袁紹を愛し、子を幸せにしようとする母の視線。
しかし同時に、袁紹を恨み、憎む刃のような視線。
彼女が少し前に出ると、その後ろにもう一つ影があった。
袁紹が、ぎりっと歯を噛みしめる。
「許攸!!」
許攸は逃げる様子もなく、不気味に落ち着き払っていた。
こいつの頭に中には、すでにもう一度袁紹を陥れる策が描かれているのだろう。
しかし、今度は必ずそれを破り、袁紹を救ってみせる。
辛毗はかすかに身を引く袁紹を支えるように、寄り添った。
今回のボス戦では、幼い袁紹の悪夢というより母親の悪夢が色濃く反映されています。
秘密が暴かれるのを恐れて、毎日怯えていた彼女。
ちょっとしたことから秘密がばれるのではないかと、一歩踏み出すにも限界まで神経をとがらせていた彼女。
その目には、世界がこの部屋のような地雷原に見えていたのです。