辛毗~悔恨の館にて(9)
袁紹と辛毗は、お互いの気持ちを分かりあうことができました。
二人で手を取り、許攸を倒そうと決意します。
しかし、そううまくいくでしょうか。
許攸は保身のための悪知恵がとんでもなくよく働くので、どんな妨害を仕掛けてくるか分かりません。
やることが決まると、表の袁紹と辛毗は裏の袁紹の体を怪物のいない部屋に移した。
そして自分たちも、ひとまずその部屋で腰を下ろした。
「まずはここで、裏の復活を待つ。
この館は閉ざしておるから、許攸がここから出ることはない。
裏が復活し怪物を制御できるようになってから、三人で奴を追い詰める」
その作戦には、辛毗も同感だった。
袁紹二人が同時に気を失えば、この世界は消滅し許攸は逃げてしまう。
それを考えると、表の袁紹しか動けないこの状況で攻撃をかけるのは考え物だ。
「それに……辛毗よ、おぬしも疲れておるだろう。
少し休んだ方がよい」
袁紹は辛毗の方を気遣うように、柔らかい視線をよこした。
そうとも、辛毗はこれまで緊張しっぱなしだった。
悪夢にのみ込まれてから袁紹と出会うまで、か弱い文官の身では一時も気が抜けなかったのだ。
それに、袁紹の真実を受け入れるのは思った以上に重労働だった。
このまま戦い続けても、力を発揮できるとは思えない。
それは辛毗自身にも分かりきっていることだ。
「今、茶でも淹れてこよう。
大丈夫だ、生きた人間の体にも害はないようにしておく」
どうやらこの悪夢の世界は、袁紹の意識によって多少形を変えられるらしい。
袁紹が近くにあった戸棚を開くと、上等な陶器の湯呑が置いてあった。
すぐ側にある急須からは、すでに湯気が立ち上っている。
「ふふふ、わし一人でもこれくらいのことはできる。
そもそも、生きていた頃はずっとこちらのわし一人でやってきたのだから」
どこか自嘲を含んだつぶやきに、辛毗ははっと気づいた。
そうだ、生前の袁紹は割れた魂の半分だけで過ごしていたんだ。
秘密を漏らさぬために片割れを心の奥底に押しこんで……。
だとしたら、生前の袁紹のどこか力の入らない雰囲気も納得できる。
人の半分の魂でやってきたのだ、判断力も意志の強さもずいぶん削がれていたはずだ。
あの頃の決断の鈍さやうわの空のような視線は、そのせいだったのかもしれない。
「殿は本当に、ご苦労をなさいました」
辛毗がしみじみと言うと、袁紹は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「それ以上言うな、この生き方を決めたのはわしなのだ。
魂の半分で生きてきたが、それでもわしは幸せであったと思っている」
辛毗の前に、いい香りのする茶が差し出される。
袁紹は生前から茶を淹れるのがうまかったが、それは死んでも変わらないらしい。
その茶に口をつけると、辛毗の中でありし日の記憶がよみがえった。
河北で袁紹と共に茶を飲んだ、穏やかな日々……。
思わず涙がこみあげてきて、辛毗は慌てて口を離した。
そして、一つ言いたかったことを思い出し、話しかけようとしたとたん……袁紹の異常に気付いた。
「……う、ぐっ……!」
突然、袁紹の顔が険しくなった。
額に脂汗を浮かせ、眉間にしわを寄せて頭を抱える。
「あ、があぁ……な、ぜだ……!?」
座っていた体が崩れ落ち、湯呑を倒して茶がこぼれる。
絞り出すようなうめき声をあげ、袁紹は苦痛にのたうち始めた。
「殿!?」
慌てて駆け寄る辛毗の耳に、おぞましい叫び声が届いた。
きぃいいやぁあああ!!!
重たい空気を震わせて、館中に絶叫が響く。
この世のものとは思えぬ、異界から漏れ出てくるような耳触りな響き。
しかしそれは、人の女のようでもあった。
それに呼応するように、袁紹が身をのけぞって悶える。
「ひぃ……ぐっ!お、お許しくださ……い!!
あう……うう、は、母上ぇえ……!」
袁紹は目に涙を浮かべて、頭を押えて唸っていた。
あまりの痛みに、体ががくがくと震えている。
不意に、壁の穢れが動いた気がした。
「え!?」
辛毗がはっと顔を上げると、急速に部屋が荒廃していくのが分かった。
壁の漆喰がはがれ、中に埋め込まれた柱があらわになる。
血の穢れが浮き上がり、血管のように蠢きだす。
天井が闇にのまれ、どこまでも暗い空間に梁が吸い込まれるような造りに変わる。
まるで袁紹の苦悶を体現するように、周囲はさながら地獄の様相に変化した。
いや、それは響き渡る叫び声の主の苦しみかもしれない。
その叫び声は、耳にするだけで頭が割れそうになるほど痛々しかった。
叫びが治まると、同時に袁紹の苦しみも治まったようだ。
肩で息をしながら、どうにか手をついて体を起こす。
起き上がって少し落ち着くと、袁紹は引きつった顔で辛毗を見つめた。
「辛毗よ、どうやら悠長に休んでいる時間はなさそうだ。
許攸が……わしの大切なものを傷つけたらしい」
袁紹はやっとのことでそれだけ言うと、遠くを見つめるように視線を移した。
「この悪夢の中心となる……母上の幻を傷つけたのか……。
このまま苦しめられれば、裏が復活するまでわしが正気を保てるか分からぬ」
袁紹の視線は、扉の向こうを見据えていた。
「すまぬが、早急に許攸のもとへ向かわねばならぬ!
居場所は分かっておるから、すぐにでもここをたちたいが……。
おぬしには、苦労をかける」
しゅんとうつ向く袁紹に、辛毗は力強く答えた。
「構いませぬ、今は殿の魂を守ることが最優先でございます。
生前あなた様を支えてあげられなかった分、本日はお返しいたします!」
その答えに、袁紹の顔が本当に嬉しそうにほころんだ。
一人で悩んでいても、何もできない。
二人なら、きっとこの苦境も越えられる。
辛毗と袁紹はそれぞれに得物をとり、悪意のはびこる館の中を再び歩き出した。
それぞれの館にいる母親の幻影は、他の怪物と違って袁紹とより密接につながっています。
それに気付いたのかたまたまなのか、許攸は今度は母親の幻影に手を出してきました。
次回、袁家に対する許攸の真意が語られます。