辛毗~悔恨の館にて(7)
袁紹は辛毗の攻撃で瀕死の状態になりながら、辛毗に真実を語ります。
それは、辛毗の「高貴で清廉な名家の当主に仕えた」という誇りを打ち砕くものでした。
この残酷な真実を、辛毗は受け入れられるのでしょうか。
話が終わると、袁紹は辛毗の顔を見上げて静かに言った。
「許攸の言うとおり、袁家が滅亡したのは間違いなくわしのせいだ。
だからおまえには、わしを殺す理由がある」
袁紹はかすかに苦痛の混じった吐息を漏らし、悲しげな笑みを浮かべた。
「おまえの、好きなようにすればよい。
いかなる理由があろうと、わしが大勢の臣を破滅に追い込んだのは事実。
おまえがわしを救わぬというなら、わしはそれを受け入れよう」
袁紹はそう言ったが、辛毗の手は動かなかった。
いや、むしろ震えて握っていた鉈を取り落してしまった。
「あ……わ、私は……」
とぎれとぎれに何か言おうとするが、言葉が出てこない。
当然だ、辛毗は今の話を理解することで頭が一杯なのだから。
今までずっと高貴な袁紹を信じてきた辛毗にとって、この話は天地がひっくり返るような衝撃だった。
これまでの記憶に伴う感情ががらがらと崩れて、平衡感覚すらおかしくなる。
(袁紹様が、そのような血筋を……!)
辛毗の記憶の中の袁紹は、どこまでも高貴で上品だった。
およそそんな卑しい世界には縁がなさそうな人間だった。
その袁紹が娼の血筋であることを受け入れるのが、まず大変だった。
「辛毗よ……」
袁紹が苦しげにつぶやく。
「どうやら、一度眠りにつかねばならぬようだ。
この傷は、ここから再生するには深すぎる……」
辛毗がはっと気づくと、袁紹の首から流れ出た血は大きな血だまりを作っていた。
辛毗の着物の裾がずいぶん吸ってくれたはずだが、それでも血はたっぷりと床にたまっている。
あの首への一撃で、どれだけの血を失ったのか……。
袁紹の顔は青白く、その身はぐったりとして動かなかった。
それを見て、辛毗はようやく主の危機に気が付いた。
「ああっ申し訳ありません!!
すぐに手当てを……!」
慌てる辛毗を遮って、袁紹は続ける。
「いや、手当ての必要はない。
わしはすでに死んでおる。
一時的に気を失い、時間が経てばまた復活するだけだ」
それを聞いて、辛毗は少し落ち着きを取り戻した。
そうだ、袁紹はもう死んでいる。
死んでから、過ちに気づいて会いに来てくれたんだ。
そう思ったとたん、辛毗の胸にじわりと感慨が広がった。
「殿、私は……」
まだこんがらがったままの言葉を、それでも袁紹に届けようとする。
しかし、袁紹は目を閉じてふーっと長い吐息を漏らした。
辛毗の膝に預けた体から、力が抜けていく。
「すまぬが、もはや耳もよく聞こえぬ……。
もうすぐ、表が……ここに来る……。
後は、片割れに……任せ……」
とぎれとぎれの声が、小さくなって消えていく。
ほどなくして、袁紹は動かなくなった。
「あ、そんな……殿!?」
辛毗が揺り動かしても、もう反応はなかった。
代わりに、金属音を帯びた足音が近づく。
それに気づいて顔を上げたとたん、辛毗は目を丸くした。
「と、殿……!」
そこにいたのは、間違いなく袁紹だった。
辛毗は、信じられない思いで二人の袁紹と対峙していた。
一方は、血塗られた姿で、辛毗の膝に頭を乗せたままこと切れている。
もう一方は、生前と変わらぬ姿で辛毗を見つめている。
今辛毗の目の前に現れた袁紹は、辛毗のよく知っている顔をしていた。
宙を彷徨うような定まらぬ眼差し。
どこか人を信用しきれぬ、不安げな表情。
河北で共に過ごしたあの頃とそっくりだ。
袁紹は、すまなさそうな顔で辛毗に語りかけた。
「突然このような場所に招いて、すまなかった。
どうやら、思っていた以上に危険な目に遭わせてしまったようだな」
先ほどの投げやりな口調とは違う、相手を気遣う丁寧な口調だ。
「今おぬしが膝枕をしているのは、わしの魂の片割れ。
幼き頃、高貴なわしとなって生きるために切り離した悪夢だ。
本来なら、生前付き合ってきたわしが会いに行くはずであったが……許攸に怪物の前に転がされてしまい、しばらく眠りについておった」
よく見れば、目の前にいる袁紹の手や頬にはわずかに治りかけの傷跡が残っていた。
二人の袁紹を見比べて、辛毗は理解した。
(なるほど、魂が分かれたとは、こういうことだったのか)
目の前にいる……表の袁紹は悔しそうな顔でぎゅっと唇を噛んだ。
「こちらのわしは、悪夢から生まれた怪物の制御がきかぬ。
幼き頃の姿でおぬしの真意を問うつもりであったが、許攸に先に出会ってしまい気づかれた。
……あやつとは、そんな歳からの付き合いでな」
幼い頃の姿と聞いて、辛毗は琴線に触れるものがあった。
この世界に入ってから、市街地で聞いた少年の悲鳴だ。
あれは、自分に会いに来た袁紹のものだったのか。
そして、自分に合う前に許攸の邪魔が入り、怪物に殺されていたのか。
つまり許攸は、その時から怪異の主を知っていた。
そのうえで、最初から辛毗を利用する気で行動を共にしていたのだ。
気づいたとたん、辛毗はどうしようもない自己嫌悪に襲われた。
許攸の行動に違和感を覚えたことは、何度もあった。
その時に許攸の意見を突っぱねていれば、こんなことにならなくて済んだかもしれない。
(ああ、私は愚かだ……。
あれほど許攸が信用できぬと分かっていながら、結局許攸の思うままになって……)
そんな辛毗の心中を読んだのか、表の袁紹は優しく微笑んだ。
「おぬしが気に病むことはない。
おぬしはわしの真実を知らなかった、わしが知らせなかったのだから、おぬしに罪はない。
罰せられるのは、むしろわしの方であろう」
袁紹は辛毗が落とした鉈を拾い上げ、再び辛毗に手渡した。
「許攸の言うことはもっともだ、おぬしが悪夢から脱出する方法はこれで合っている。
その鉈で、今すぐこちらのわしを殺すがいい。
そうすれば、この悪夢は一時的に消滅し、おぬしはここから逃れられる」
表の袁紹は兜を脱ぎ、辛毗の前に正座した。
そして、首を差し出すように目を閉じて頭を垂れる。
「さあ、現世に帰って安寧に生きるがよい」
辛毗は再び握らされた鉈を、ためらいながらも振り上げた。
これで自分は、現世に帰れる。
あれほど辛い思いをしてきた君主を、犠牲にして。
自分と君主を陥れた許攸に、何もできないままで。
自分は生きたい……だが、本当にこれでいいのか?
「くっ!!」
その迷いを振り切るように、辛毗は大きく身を振って鉈を振り下ろした。
許攸を追っていて、辛毗に攻撃を受けたのは裏の袁紹でした。
その間、表の袁紹は序盤で受けた傷を癒すため行動できませんでした。
表と裏の袁紹二人を同時に行動不能にすれば、悪夢の世界は消滅します。劉備編では、劉備たちはその方法で強引に悪夢から脱出しています。
許攸は自分が表の袁紹を殺し、辛毗に裏を殺させることでここから脱出しようとしていたのです。