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夢の吊り橋 作者:西山正義
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(前編)

   夢の吊り橋  (前編)

                    西山 正義


 日曜日だというのに、いつもの出勤時間より早く家を出た。師走に入ってさすがに寒くなってきた。僕は、長年愛用して擦り切れだらけになった革のジャンパーを着込み、足早に駅へ向かった。
 電車は空いていた。平日とは明らかに客層が違う。何も考えがまとまらぬうちに、終点のターミナル駅に着く。新宿だ。待ち合わせの時間にはまだ充分間がある。とりあえず集合場所に行ってみる。まだ誰も来ていない。日曜の朝の新宿は汚い。空気もがさついている。絞ったままの雑巾がそのまま乾いて打ち捨てられたような風情だ。
 低血圧で寝起きの悪い僕は、いつも朝食はほとんど食べない。胸焼けがして朝は何も食べられないのだが、きょうはこれから長い時間バスに揺られることになるので、軽く腹ごしらえしておこうと、ファーストフードの店に入った。ハンバーガーとホットコーヒーを買って店から出てくると、ちょうど厨房屋さんの社長が通りかかる。僕に気づくと、恰幅のいい体躯を揺すって、いつもの人懐こい笑顔を振りまきながら、二、三歩戻ってくる。
「よう、おはよう」
「おはようございます」
「早いじゃないか。お、なんだ、朝飯か」
「ええ、まあ」
「おれも食ってないんだよな。あとで幹事に買ってこさせよう。……お、奴らも来てるな」
 見ると横断歩道の向こうに何人か集まっていた。厨房屋のオヤジはおーいと手を振り、「みんな相変わらず馬鹿面さげてるな」と舌を出す。
「それにしても、きょうは寒いなァ」
「ええ、冷え込みますねェ」と僕も調子を合わせる。
 まだマイクロバスは到着していなかった。ひととおり挨拶を済ませ、朽ちかけた屋台の上にホットコーヒーのカップを置き、砂糖とミルクを入れ、ハンバーガーをぱくつく。
 バスが来た。マイクロバスをチャーターしたとは聞いていたが、まさか電気屋さんの社長が運転してくるとは思わなかった。
「やあ、どうも。定刻ぴったりだろう」
「なんだァ、野田さんが運転していくのォ。大丈夫かあ」空調屋さんの工事主任が叫んだ。そのすっとんきょな声は閑散としたビル街にこだまするほどだった。
「野田さんには、折角の忘年会旅行だというのに、たいへんご足労おかけしますが、何分にも予算の都合で……、なにはともあれ、二日間よろしくお願いします」幹事を務める内装屋さんの専務が言った。「はい、では揃ってる人からどんどん乗ってください。置いていかれても知りませんよ」
 僕は後ろから二番目の目立たない席に座った。騒がしい人たちはどうやら前の方に陣取ったようだ。隣はおとなしい空調屋さんの部長だ。幹事役の斎藤君と鳥越さんがビールとつまみを配る。
「朝メシ食ってない人は、おにぎりもあるよ」
 それならそうと先に言ってくれよ、と僕は思った。ハンバーガーなんか食うんじゃなかった。胸につかえる。
 車が動き出す。いささかぎこちなく、そろそろと。二速から三速へスムーズに入らない。
「おい、いきなりエンストしたなんて言うんじゃないだろうなァ」空調屋さんがまた怒鳴る。
「ばかやろう。こちとらダテに戦車部隊で鳴らしたわけじゃないんだぞ」
 ほんとかよと僕は思ったが、あながち嘘でもないらしい。さあ、出発だ。もう眠くなってきた。斎藤君ががマイクを取る。
「ゴホン、本日は皆さん、えー、たいへんお忙しいところ多数お集まりいただきまして、誠にありがとうございます」慣れない台詞を照れたように言う。「まじめにやれー」と野次が飛ぶ。「えー、まあ、今年一年の疲れを忘れて、きょうあすと二日間、大いに盛り上がりましょう。それで……、残念ながら、と言うか、まあ、予定通りなのですが、主賓は来ませんので、気楽に無礼講でいきましょう。で、ご覧のとおり、諸般の事情で、野田さんには申し訳ありませんが、運転手になっていただきました。よろしくお願いします」
「おれはこんなオヤジとなんか死にたかないぞォ」建具屋さんがすかさず野次る。
 新宿の南口から代々木方面へ抜けて行ったのまでは覚えているが、もうどこをどう走っているのか分からなかった。というより、どこを走っていようがどうでもよかった。どこのランプからのろうが、首都高三号線から東名高速に入る筈であった。前の晩夜更ししたので、酒盛りに巻き込まれる前に眠ってしまいたかった。

 いろいろな業者が集まった一行十八名は、これから静岡県の奥地、南アルプスの表登山口にあたる寸又峡温泉へ向かう。一行は、ある宅配ピザ・チェーンの新装工事業者の寄り合いで、現場の総監督である内装工事屋を中心に、その下請けの各業者と、厨房設備屋、空調と吸排気の設備業者、そして店舗内外のサインを受け持つ看板屋の各担当者。ほとんどが職人さんだ。僕は看板屋の営業マンとして来ている。昨年は、ピザ屋も不景気らしく夏以降出店がなかったので、二年振りの忘年会旅行となる。
 この種の旅行はあまり気乗りしないものだが、お客さんを接待するためのものではなく、いずれ気心の知れた業者同士の集まりなので、気は楽だった。ところが、その行き先が、よりによって寸又峡だとは。急遽計画されたこの旅行。最初、行き先を聞いた時、僕は不意を突かれ、僕の心はおおいに騒いだ。
 忘れていたわけではない。いや、忘れるわけがない。だが、今年があれから十二年目の節目の年だったとは、旅行の幹事から「寸又峡」という地名を聞かされるまで、正直言って全く意識していなかった。
 その〈事件〉とそれに引き続くいくつかのエピソードは、当事者でも身内でもない僕にとっても忘れられない出来事であった。しかし、その〈事件〉がその後の僕の《人生》や生き方に大きな影響を与えたかというと、残念ながら(といってもいいのだろう)、そのようなことはなく、今では、《青春》(そう、まさに青春!)のほろ苦い思い出として、微笑をもって迎えられるものだと思っていた。ところが、久し振りに「寸又峡」という地名を耳にし、十二年振りに訪れることになった今、果たしてそれだけのことだったのかという思いがふつふつと湧き上がってくると同時に、仕事をしていてもその頃の記憶が鮮明に蘇ってくるのを抑えることが出来なくなっていた。
 久坂政道という友人が死んで十二年。つまり今年は十三回忌だったのだ――。
 自殺だった。投身自殺というのか入水自殺というのか。いや、あるいは本当は事故だったのかも知れないが、いずれにしろ、久坂政道は、十二年前の六月のある日、寸又峡の大間川に懸かる「夢の吊り橋」という名の吊り橋から転落して、十九歳でこの世を去った。その後、僕はある事情によって、彼の死までの道のりを辿ることになるのだが、結局最後まで真相は判らなかったし、そういう事実があったという現実の前ではすべてが徒労だった。状況は揃っていた。しかし事故という線も考えられた。ただ僕個人にとっては、状況だけで充分だったし、ああ、彼は自殺したのだな、と何の抵抗もなくはじめから了解していた。彼なら当然そうなるだろうなとも思っていた。生きていれば、ただそれだけでいいのか、というのが当時の僕の、あるいは僕たちの、基本的な物の考え方であった。しかし、その頃はすでに〈自殺〉というものにかつてほどの興味がなかったこともあり、何よりも自分たちの事に忙しかったので、彼の死をそれ以上詮索するつもりはなかったし、その後も時折思い出すことはあっても、直接自分自身のこととして関わってくるようなこともなかったのに……。

        *

 久坂政道と僕は、S学院中学からの同級生で、高校までの六年間ずっとクラスも一緒だった。僕らが入学した学校は、お洒落な若者の街として当時脚光を集めはじめていた東京のM市の繁華街を抜けた所にあり、幼稚園から大学まで併設された、いわゆる私立のお坊ちゃま・お嬢ちゃま学校で、中学と高校は男女別学だった。この手の学校は都内にはいくつもあるが、お坊ちゃん学校といっても「超」が付くほどのエグゼクティブはいないところに特徴があった。中学受験のレベルでいえば、中の上といったところで、一貫教育を旨としていたので当然のことながら進学校ではない。在学中は保守的な学校だと反発していたし、行儀や風紀にはやはり厳しかったが、その後予備校で知り合うことになる武田行雄などが通っていた、同じ東京の多摩地区にあるL学園ほどではなかったようだ。いずれにしろのんびりした学校で、生徒たちも東京郊外の典型的な《中流》家庭の出で固められていて、いい意味でも悪い意味でも平均的だったので、たいした波風も立たず、風紀には厳しかったが、世間の厳しさからは隔離されているような学校だった。
 それはそれとして、何かしら琴線に引っ掛かるものがあって、自分にとって気になる存在の同級生というのが一人や二人いるものだ。皆いろいろな小学校からそれなりの受験勉強を経て集まって来ていたので、それぞれに気にはなっていたが、なかでも僕が最もその存在を意識していたのが久坂政弘であり、北原広志であった。もちろん他にも気になる奴はいた。僕は足の速さと球技には自信があったので、それは時には運動面でのライバルだったりするのだが、彼らに共通していえるのは、自分に無いものを持っていたという点である。ところが、その無いものが安心して甘んじていられるような種類のものである場合は、普通に付き合うことが出来たし、(もっとも、僕は端から見て無口で取っつきにくいという印象を与える上に、かなり人見知りする質だったので、いささかぎこちなくではあったが……)、必要以上に相手を意識することはなかった。
 しかし、久坂と北原は違った。この二人に特別な感情を抱いていたのは、たぶん自分と同じ種類の人種であるということを直観的に嗅ぎつけていたからであり、さらに、自分より一歩前を行っているというような劣等感と、憧れの裏返しのようなある種の嫉妬心をかき立てられていたからであろう。それ故に、僕の価値観や世界観に大きな影響を与え、三十歳を越えた現在でも変わらずに付き合いのある北原広志とも、中学二年の夏頃まではあまり接することはなかった。北原とは、中二の夏、自由参加の林間学校で少し話をしたのをきっかけに急速に親しくなり、高校でクラスが別になってからもお互いの教室を行き来したりしていたのだが、久坂政道とは、高校でも同じクラスになったにもかかわらず、最後まで親しく付き合うことなく終わってしまった。
 僕がS学院中学に入学して最初に仲良くなったのは、本人はそういうつもりはないのだが何となく剽軽で、ほのぼのとした性格の成田倫太郎という友人だった。彼とは要するに馬が合うというやつで、最初から意気投合し、いつも一緒にいて苦にならず、僕にとっては心地好い風のような存在だった。そこに居るだけで周りの人間を明るくしてしまうところが彼にはあった。北原と二人きりだと、いつも緊迫していて、時々息が詰まることがある。そこに成田倫太郎がいるだけで、空気がなごみ、収まりが良くなる。だから少なくとも高校時代までは、僕と北原の間には無くてはならない貴重な友人だった。面白いことに、久坂政道が一番親しく付き合っていたのも成田倫太郎であり、僕と久坂、あるいは北原と久坂は、成田を通じて親しくなってもよさそうなものなのに、ついにそうはならなかったのだ。
 ところで、このように同性の友人に対する特殊な思い入れが芽生えるのには訳がある。僕らの学校は純然たる男子校ではなかったが、男女別学で、女子部の校舎は大学のキャンパスを挟んだ反対側にあり、普段女生徒と接することはなかった。もし同じ教室内に女の子がいたならば、事情は変わっていただろう。意識の半分(いやそれ以上かな)はそちらに向いていた筈だ。男女共学に比べて、同級生あるいは上級生や下級生に対する同性愛めいた感情が芽生える確率は高い。僕にもそのような経験がないわけではない。もっとも、例えば戦前の旧制高等学校の寄宿舎生活の中から生まれてくるような同性愛にはほど遠い淡いものであって、それが本格的な同性愛に発展することはまずなかったが……。共学がいいか、別学がいいか。それは一概には言えない。異性に対する幻想が必要以上に増幅されるという良くない傾向はあるが、男子校や女子校には、遠慮がなくていいという面もある。いずれにしろ異性への興味は肥大していく年頃であるが、それがどんなに頭の中で渦巻こうとも、日々の教室内では異性に煩わされることなく、他の事(あえて勉強とは言わない)に意識を集中することが出来た。もちろん、最初から女の子を意識していたグループもいた。校舎は離れていても通学路は一緒だし、小学校から上がってきた連中には、当然のことながら女子部にかつてのクラスメイトがいたのだから。それに何といっても、僕らの学校がある街には若い女性が犇めいていたのだから。しかし、僕も北原も成田も、そしておそらく久坂も、少なくとも高校三年になるまではそういうこととは無縁だった。いま思えば何という勿体ないことをしていたのかと思うが、お蔭でたくさん本が読めたし、北原と成田の三人でささやかにやっていたバンド活動も、女の子の目を気にすることなく自由な発想でやれたのだった。
 久坂政道はなかなか成績優秀な生徒で、北原広志などと並んで常に上位にいた。実は僕も最初はそうだったのだ。北原がある先生から伝え聞いた話によると、入学試験の席次は、北原が四番で、久坂が六番だったらしい。そして何と僕が二番だったらしいのだ。おそらくこれはあくまでも実際に入学した生徒の順位であって、もっと優秀なのはいくらもいたのだろうが、その話を聞いて、入学早々の中間テストのあと担任に言われた、「君はもっと出来ると思っていたのだが……」という言葉が納得できた。というのは、僕は小学校の終わり頃から欧米のポップ・ミュージックに魅せられていて、それがロックやフォークと本格的に出会うことによってその熱はさらに嵩じてきて、単なる《ファッション》としてではなく、ロックやフォークから精神的な影響をもろに受けていたので、学校の勉強には全く興味が失せてしまい、受験までして入った学校に対する失望も手伝って、成績は目に見えて落ちていった。最初の試験はそれでもクラスで五番だったが、一学期末には早くも十二番に落ち、二学期以降は二十位代、つまり中の中か、中の下のあたりをうろうろしていて、卒業まで上がることはなかった。久坂や北原も同様に音楽や文学から相当影響を受けていた筈なのだが、彼らは僕よりも屈折した精神の持ち主だったためか、ポーズが上手かったのか、授業中だけは真面目にしていたのかは判らないが、二人はいつも上位の成績をキープしていた。
 ところが、高校に上がりクラスが二倍に増えると、北原は相変わらずだったが、僕と久坂の成績は逆転していた。中学時代学業ではあまり目立たなかった生徒が、高校になって急に延びてくるという例はいくらでもあった。それは中学受験よりもシンドイ高校受験を経てきた公立の中学出身者が大勢入って来たせいもあろう。彼らの方が当然の如く最初は優秀なのだ。ところが彼らも三年間のうちに慣らされてしまい、大学で同じ思いをすることになる。付属校の宿命である。――久坂政道はしかし、成績が落ちただけでなく、高校一年の終わり頃から欠席がちになり、二年生の一学期には学校そのものに来なくなってしまった。僕らの学校のようなところにも、多かれ少なかれイジメはあった。しかし彼に対してそのようなことはなかったと思う。また、複雑な家庭の事情があったというようなことも聞かない。精神面だけでなく、肉体的にも何か変調があったらしいのだが、その頃になると僕はもう以前のように久坂を特別に意識することはなくなっていたし、たまたま僕のクラスには他にも二、三登校拒否気味の生徒がいたり、他校の生徒と問題を起こすのがいたりで、彼の不在は全く目立たなかったこともあり、僕もそれほど気にはしていなかったのだ。今にして思えば、それが大きな間違いだったのかも知れない。
 一度だけ、担任の先生から久坂のことを言われたことがあった。それは、何かの用事のついでに何気ない風を装って言われたのであったが、わざわざ僕を指名したのは、僕を見込んでのことだったのだろう。「ところで、久坂君のことな、どうも身体の調子が悪いらしいんだが、ときどき気をつけてやってくれないか」と。その先生は、今年定年退職したということなので、当時すでに五十代なかば。二松学舎大出の、古典と漢文を教えるいかにも老練な先生で、当時も短歌を詠んだりしていたが、若い頃は同人雑誌で評論や小説なども書いていたらしい。そんな文学青年が年取ってある種の境地に達したというような先生だったので、僕や久坂みたいな文学青年タイプの気難しい生徒の心情を理解していたのだろう。
 不良でも劣等生でもなく、非行に走ったりもしない、成績は優秀で、だからと言って、決して優等生とはいえない生徒。教師や学校、ひいては大人の社会に対する反抗を、解かりやすい形で表に出さないで、だが充分に辛辣で反抗的な生徒というのは、教師にとって最も扱いにくい筈なのだ。その先生はしかし、多くを語らずにそれらを見守っているという感があって、僕は、中学の時の担任のようには蔑んではいなかったし、ある程度敬意を払っていた。しかしその反面、不気味でもあり、疎ましくも思っていた。大人は判ってくれない、もっと理解して欲しい、と思うと同時に、大人なんかに理解されてたまるか、という心情が入り乱れている。これは大昔も今も変わらない《思春期》に共通する心情だろう。要するに素直になれないのだ。その先生は、僕が一年生だった時、昨今の高校生ではあまり読まないような文学作品を僕が読んでいるのを見ていて、ある日職員室に呼出し、「こういうの読んだことありますか? もしよかったら持っていってください」と言って、わざわざ家から持ってきたらしい数冊のぶ厚い蔵書を示した。「もう読んでしまったので、おそらくこれから先、そう長くはないので、ぼくはもう読めないだろうから」と。その時抱えて持ち帰った先生の年季の入った蔵書は、その後読んだものもあれば読まず終いのものもあるが、実はいまだに返していないし、たいした礼も述べずその感想を語ったこともない。もし大学でこの先生に出会っていたら、いろいろ話が出来たのになあと、今では残念に思っている。
 そんな先生だったから、久坂政道の内面の問題にはあえて触れなかった。そしてそれ以上そのことについては何も言わなかったが、僕はすぐに、先生が何を言いたいのか理解出来た。そしてそれに関しては素直に頷くことも出来た。にもかかわらず、僕は何も出来なかった。いや、正確に言うなら、何もしなかったと言う方が正しい。もっとも、僕なんかが余計な気をまわしたり、好奇心から近づくようなことがあれば、彼にとっても迷惑なことだったろう。だが、僕は何らかの鍵を握っていた筈なのだ。久坂が唯一親しくしていた成田倫太郎とは別な意味で。慢性的な神経衰弱とも、不安神経症からくるノイローゼとも、自閉症とも、欝病とも予測された久坂を、僕は結局、他のクラスメイトと同じくただ遠巻きに見ているだけだった。
 成田倫太郎に、久坂は一体どうなっちまったんだと訊くと、彼にもその実情はよく判らないらしかった。倫太郎と一緒にいる時は、以前とそれほど変わった様子はないというのだ。(久坂と成田は帰る方向が同じで、久坂がたまに登校してきた時などは、成田が付き添うように一緒に下校していた)。気質的には僕以上に久坂に近かった北原広志も、やはり彼のことは気に掛けていた。しかし北原も、何のリアクションも起こさなかった。起こしたところで、それはもちろん本質的には、どんな友人でも手を差し延べられないような問題なのであった。それはそうに違いない。でも、本当にそうだったのか? と今にして思えば思えてくる。やはり孤独だったのではないか? 孤独の深淵が口を開けていたのではないか? 例えば僕も北原も孤独を愛していたが、一方では心の通う友人がいて、いい意味で気持ちを引っ張られていたところがある。それをも拒絶していたというのか? そう見えていた、あるいはそう見せ掛けていただけではないのか、と。
 それでもともかく、久坂政道は、二年の終わりには出席日数の帳尻を合わせ、三年に進級した。高校最後の年になると、大学進学に備え、また一部他大学を受験する者のために、主要な学科でコース別に教室が分かれる。久坂と成田は上の大学の文系に進む普通のコースに入り、北原や僕は一応文系の進学コースに席を置き、さらに共通一次試験(懐かしい言葉だ)にも対応できるように物理などの補講にも出ていた。したがって、久坂と顔を合わせるのは体育やホームルーム(これも懐かしい言葉だ。感覚的にはほとんど忘却の彼方にあるような言葉だ)の時間くらいなものになってしまい、そもそもきょう彼が出席しているのか欠席しているのかも、特に注意することもなくなってしまった。
 その頃まで僕は、久坂とは別の意味で、《ドロップ・アウト》(この言葉に僕をどれだけ参っていたことか。一種のお呪いだった--)することばかり考えていて、実際にそれが難しいなら、留学試験を受けてニューヨークの大学に行こうと本気で思っていた時期があった。ニューヨークというのは、要するにグリニッチ・ヴィレッジに行きたいがためなのだが、実際に英検の一級を受けたり、英会話を勉強したりして、それなりの準備はしていたのだった。ところが、前年の暮れに、ジョン・レノンが撃たれ、その最大の目的が失われてしまった。そしてその直後、僕は百八十度方向転回し、「新右翼」と呼ばれるある団体にのめり込んでいくのだったが、そこで出会った大学生や元学生であるところの社会人などの影響と、憲法改正のためにはまず憲法を勉強しなければならないということで、共通一次用の補講からは早くに脱落してしまっていたが、私大の法学部に絞り、遅まきながら受験勉強を始めたのが夏頃からだった。
 そんな折、久坂政道も密かに受験勉強をしていて、日大の芸術学部の放送学科かなにかを狙っているらしいという話が伝わってきた。それを聞いて僕はほっとしたのだった。彼もふつうに受験し、ふつうの大学生になる。ほとんど憎しみをもってしか「ふつう」という言葉を思い起こせなかった僕ではあるが、その時はこれでいいのだと思った。彼も恢復(何からの? という疑問は残っているし、それが恢復といえるのかどうかは判らない。もっと言えば、それがいい事なのか悪い事なのか判らなかったが)、とにかく《ふつう》の意味で恢復に向かっているのだと思った。
 常に成績の良かった北原は別にして、ドロップ・アウト指向のうえ、学生運動まがいの事までやっていていい時と悪い時の差が激しかった僕も、生徒会の役員をやったり学外でもボランティア活動などをしていて学業の方は芳しくなかった成田も、そして久坂政道も、とりあえず高校を卒業し、大学に進んだ。
 結局、久坂は、他大学を受験しないで、内部推薦によってそのままS大の経済学部に入学した。経済学部というのは意外であったが、彼にはむしろその方がいいかも知れないと思えた。北原広志は、当初から、国立が駄目だったらS大に上がると決めていたようで、共通一次の結果、大学別の二次試験は受けずに、すんなりS大の文学部国文科に進み、成田倫太郎は、実家がお寺でもないのに、中学の頃からおれは坊主になると言っていて、はじめは冗談かと思っていたら、本当に大正大の仏教学部に入ってしまった。そして僕は、大学を選ぶ段になって、学部や学科よりもある大学の名前に固執するようになり、ほかを受けずに一年浪人した。だが、最初から一浪だけと決めていたので、結局その大学は受からなかったが、翌年、法政の法学部政治学科に入学した。
 久坂政道とは高校を卒業して以来一度も会っていなかった。昔なら稚児さん関係などと言われていたであろうほど、中学時代はいつも御神酒徳利のようにつるんでいた倫太郎とも、その頃から疎遠になりつつあった。逆に北原とは、それまでの付き合い方とはまた異なる、新たな付き合いが展開され始めていた。それまでは、書いたものを交換したりというようなことはあっても、ギターの音を合わせることによって無言のうちにコミュニケーションが量れていたので、ほとんど会話らしい会話をしたという記憶がないのだが、楽器をいじらなくなった代わりに、直接会話(議論といってもいい)をするようになった。お互い《成長》したということもあるだろうが、――もっともそれは《青年》になったということを指すのであって、《大人》になったということではないのだが――、高校二年の終わり頃から浪人中にかけて思想的な体験をしたことにより、僕もそれまでの感覚的な物言いから、論理的な物言いに変わってきたのだ。その北原から、学部が違うのでたまにしか遇うことはないが、久坂も元気に学校に来ているということを聞いて安心していた。だから、高校卒業二年目に、あのような事になろうとは思ってもみなかった。……

        *

 僕らを乗せたマイクロバスは、海老名のサービス・エリアに入った。ここまで特に渋滞もなく走ってきた。バスの中ですぐにでも宴会が始まるものと思っていたのだが、大型の観光バスとは違い、座席が相当に窮屈なのと、ガイドさんがいるわけでもないので、女気がまるでなく、このメンバーにしては静かな旅行になった。運転手への配慮もあったのだろう、めいめい罐ビールを二、三本空ける程度でここまで来た。
 サービス・エリアに降り立つと、まずみんなトイレに行く。それから売店を覗く。そしてすかさずソバをかき込む者がいる。また、必ず何か買ってくる者がいて、屋外のベンチに腰掛けて煙草をふかしていた僕も、御手洗団子のご相伴にあずかる。もう十二月に入っているので、小春日和とは言えないが、空は晴れ渡り清々しかった。まさにフジヤマという具合に富士山が聳えている。
 海老名SA。そうだ、十二年前のちょうど今頃、先に着いた僕と北原広志は、財津美耶子を乗せてやって来る成田倫太郎のスバル・レオーネを待っていたのだった。
 しかしここも大々的な改修工事が行われ、すっかり様変わりしてしまった。トイレの外壁に掛かっている大きな看板を、つい先頃会社を飛び出していった常務が手掛けていた頃は、うちの会社も少しは景気が良かったのだ。それは内部の照明がいろいろな色に変化するものだった。その看板を見ていると、十二年前の事ではなく、二年前の会社の旅行が思い出されてきた。
 それはさながら最期の晩餐のような旅行だった。給料の遅配が始まり、ボーナスなど望むべくもなく、その社員旅行を境に、一種の流行となっていたリストラと称して、何人もの社員が辞めさせられていった。今にして思えば、頭の悪い経営者ばかりが集まった、そして従業員も似たり寄ったりの、こんな碌でもない会社はさっさと辞めた方が正解だったのだ。会社だけの問題ではなく業界自体のレベルが低すぎる。まあもっとも、いい加減な会社だから、こんな僕でも営業マンとして一応勤まっているのだが……。それはともかく、その頃いた事務員の一人に、僕は仄かな好意を寄せていた。彼女は、もう一年半ほど前に、こんな会社いられませんと言って辞めていったのだが、僕よりちょうど十歳年下の彼女は、僕が今までに交際したり好きになった女性(そればかりか僕の生活半径にいたあらゆる女性)とは全くタイプの異なる「超」現代的な女の子で、大企業ならこの手の娘はいくらでもいたであろうが、うちのような会社には珍しかった。作業着姿の、それも年配の職人さんばかりが出入りする事務所に場違いな派手な格好をして、今時の女の子の特徴であるすらりと長い脚をにょきにょき出しながら事務所内を闊歩していた。いま僕は、思わず撫でてみたくなるような彼女の腰まで伸ばした栗色の髪と、彼女がいつもつけていた香水の匂いを生々しく思い出していた。それは間違っても財津美耶子の面影ではない。しかしなぜか二人が重なって見えた。
「おーい、おいてくぞ」という声で僕は我に返る。
 バスはまた走り出す。
 ディーゼル・エンジンの小気味良い振動に揺すられながら車窓を眺めていると、遠くの風景に再び久坂政道の肖像が立ち顕れてきた。

        *

 彼の尋常でない死を知ったのが、その直後であったなら、やはりそれなりの衝撃を受けていたであろう。しかし僕も北原も、実際にはそれほど親しくなかったので、人伝にその噂を聞いたのはもう一ト月以上もあとになってからだった。したがって葬儀にも出席していないし、その後も彼の自宅にお線香をあげに行ったり墓参りに行ったりもしていない。だから、黒枠で縁取られた彼の写真を実際には目にしていないのだ。それである種の現実感がないのかも知れない。僕は(おそらく北原も)それを冷静に受け止めていた。いや、それを深刻に受け止めるには僕らの生命力の方が勝っていたともいえる。
 その頃、僕らは充実した時間の中にいた。その年の春、めでたく大学に合格した僕は、本来ならある組織の正式な《同盟員》に昇格する筈であった。しかし、思想的な意見の食い違いや《運動》に対する基本的な考え方の相違もあったのだが、それよりも、前年の夏頃から幹部たちの人間性に疑問が生じるような出来事が相次ぎ、すでにその組織に嫌気が差していた僕は、同じ思いでいた早稲田の先輩に大学合格の報告をしたその足で、二人で脱退届けを提出してきたのだった。その日は先輩の下宿に泊まり、脱退記念と合格祝いで一晩中語り明かした。明くる朝一度家に帰った僕は、夕方再び街に出掛けて行き、それまでの自分と、自分の中に渦巻くいろいろなものを断ち切りたくて、生まれて初めて女を買った。(入学金を水増しして親に請求していたのだった)。――それはともかく、入学までの数週間、差し当たって何もすることの無くなってしまった僕は、気が抜けてしまい、惚けたように過ごしていたのだが、入学式も直前に迫ったある日、浪人中に知り合った武田行雄が高校時代の友人とライブをやるというので、僕はそれを観に行った。
 明治の文学部に入学することになっていた武田は、L学園で三人組のバンドを結成していた。武田の浪人が解けたということで、久し振りにライブをやろうというのだった。初めて聴く彼らの演奏に僕は最初から参ってしまった。定石を外れた武田のドラミングは個性的ではあるがさほど上手くはなかった。しかし、ギターの城山晃とベースの古川純一は抜群に上手かったし、同人誌で知り合ったという武田の五歳年上の恋人である大沢真弓さんの弾く、レスリースピーカーを通したハモンド・オルガンは絶妙な味を出していた。城山のアンプは、僕が憧れていたローランドのジャズコーラスの最上級モデルで、ドラマーの武田がリード・ヴォーカルというのもユニークだった。何よりも僕を唸らせたのは、演奏もそうだが曲自体の素晴らしさだった。僕の全身に深く染み込んでくる、それら全曲オリジナルの楽曲は、三人が中学から高校にかけて書いたというもので、どの曲も複雑なコード進行で構成され、リズムも変拍子が多用されていた。僕が北原などとやっていたバンドとはレベルが違う。僕はすっかり打ちのめされてしまった。
 しかしそれ以上に、その日は、僕らにとって新しいスタートの日になった。そのライブが行われた〈オアシス〉という会場は、元々ライブハウスではなく、普段は喫茶店なのだった。演奏が終わると機材が片づけられ通常の営業に戻る。僕らは一番大きなテーブルを占拠してひとまずシャンパンで乾杯し、バンドのメンバー以外は初対面だったので自己紹介をする。「俺、きのうで二十歳になったんだ」と武田行雄が言った。やはり十九と二十歳では大違いだ。同級生の中で誕生日が一番早い彼に注目が集まる。そして「実は俺たち」と真弓さんを指し、「きのう結婚したんだ」と言って、みんなを驚かせた。「市役所行って、婚姻届けとやらを出しただけで、それでおしまい。呆気ないぐらい簡単だった。結婚式も披露宴もパーティーもやるつもりないから。夫婦でライブが出来たからもういいよ。まあそいうわけですので、よろしく」と言うと、武田は煙草の煙りを吐き出した。城山晃の音頭でもう一度乾杯する。「そんなことより、ぼくらのライブどうでした?」と武田は僕に振ってきたので、ひとしきり音楽談義で盛り上がる。そして話は次第に別の方向に進んでいた。それがピークに達したのは、偶然その喫茶店に入ってきた北原広志と五島英二郎が加わってからだった。〈オアシス〉はS大の通学路にあったので、そんな大袈裟に言うほどの奇遇ではなかった。だが、この二人が揃ったのには何か運命的なものが作用していたとしか思えないのだった。
 真弓さんと、城山の彼女で、やはり三つ年上の安西佳子さん以外の七人はみな同級生であった。しかし、古川純一と石井宏美がL大の同期で、北原と五島がS大の弓道部員である他は、大学はみな異なり、専攻は全員みごとにバラバラだった。古川は社会学科、石井宏美は心理学科、北原は国文で、五島は理工学部、城山は東洋大の哲学科、まだ入学前ではあるが武田が明大文芸、僕が法政の法学部という具合に。さらに、真弓さんは演劇を専攻する大学院生で、佳子さんはこの春女子大の国文科を卒業していたが、郷里に帰ってデザイン学校に再入学するところであった。
 で、僕らは、人間の社会性というようなことを話していた。コミュニケーションとは何か、またどうあるべきかというようなこと。自我とか愛とかそんな言葉が飛び交っていた。古川と宏美は大学のサークルの有り方に失望していた。北原と五島も大学で初めて運動部に入った口で、やはりその有り方に疑問を持っていた。女子大の寮で苦い思いをしたことのある佳子さん、同人誌内の醜いごたごたに巻き込まれたことのある真弓さんや武田、つい数週間前に〈セクト〉を脱退してきたばかりの僕。僕らには、前の前の世代である団塊の世代や全共闘世代に対する批判があった。それと同時に、当時「新人類」という流行語を生み出した兄貴たちの世代にも反発があった。「私たちに出来ることはないかしら」と宏美は言い、「いや、複数形のわれわれというのじゃなくて、ひとりひとりが出来ること」と五島が言う。「やりたいことをやる時代はもう終わって、やるべきことをやる時期に来ているのではないか」と古川。そして僕らは、ひとりひとりの自主性と責任でもって運営し、サークルや《組織》というものの有り方自体を問い直しながら作るサークルを作ろうということで意見が纏まった。それは、インターサークルというようなものではなかった。アンチ・サークルと言えば言えるのだが、僕らはそう名乗ることはしなかった。なぜなら、アンチ・サークルと名乗った瞬間にアンチ・サークルというサークルになってしまうからだった。組織を否定した組織という矛盾にやはり無理があったことに僕らはのちに気づくことになるのだが、人間や社会の有り方を問うということは、とりもなおさず自分自身を問うということで、(古川は、社会学者の多くにはその点が欠如しているということを指摘し、文芸評論においても、自分を傷つけない批評はあり得ないと北原は言った)、サークル云々ということよりも、とどのつまり僕らは皆、おのおの自分自身の立つべき地平を求めていたのだろう。
 具体的に何をするか。とにかくひとりひとりが〈メディア〉になり、かつアンテナになろうということで、だから僕らが最初にやったことは、それぞれの文章を持ち寄って雑誌を作ることだった。雑誌といっても、レポート用紙に書いた手書きの原稿をそのままコピーして綴じただけのものである。当初は雑誌の表題も会の名前も刷らないことにしていたのだが、それでは具合が悪いということになって、五島が何かの折りに言った「雑木林」という言葉をそのまま採用して表題にした。団体という概念を廃していたのでサークル名は付けなかったし、いわゆる同人雑誌というのでもなかった。北原の自宅に集まり、佳子さんと城山のイラストを配した表紙に、僕が題字を書いたその第一号をホッチキスで綴じる作業が行われたのは、それから約二ヵ月後の一九八三年の六月十三日だった。
 その日付を覚えているのは、製本の作業をしながら武田と北原が太宰治の話をしていて、「そういえば、ちょうど今頃じゃなかったっけ? 太宰が愛人と玉川上水に飛び込んだのは」と、その舞台の地元に住む城山が横から言ったのを、「そうだ、ちょうどきょうだよ。えーと、三十五年前のきょうだ」と、武田が答えていたのが妙に印象に残っていたからであるが、久坂政道が「夢の吊り橋」から飛び込んだのはまさにその日だったのだ。
 ――もちろん、僕も北原もそんなことは知る由もない。雑誌が出来、次に僕らは夏の合宿を計画していた。前期試験もおおかた終わた七月下旬のある日、その最終打ち合わせのためにS大の空き教室に集まっていた。そこで、たまたま通り掛かった中学のクラスメイトから、久坂の自殺を初めて知らされたのだった。その友人も詳しいことは知らなかった。もう一ト月以上も前の話だと言う。僕と北原は顔を見合わせた。そしてその瞬間にすべてを理解したと思った。だからそれ以上詮索するつもりはなかったし、深刻に考えることもなかった。成田倫太郎なら詳しい事情を知っていた筈である。しかし彼にその真偽を問い合わせることすらしなかった。それよりも何よりも、自分たちが生きることに夢中だったのである。
 ところが、その半月後、一本の電話から事態は変わった。ちょうど、海水浴を兼ねて南房総で行われた『雑木林』の合宿から帰ってきた翌日、昼近くに起きた僕は、日焼けしすぎた躯をもてあましながらぼんやり蝉時雨に身を委ねていた。一種の虚脱状態にあった僕はまだ半分目覚めていなかった。そこへ突然電話が鳴った。家人は誰もいなかった。こんな時間に電話なんてきっとセールスか何かだろうと思って、最初は出なかった。しかしあまりにも長くコールが続くので仕方なしに受話器を取った。
「はい、もしもし」と名を名乗らずに。
「あのー、内野さんのお宅でしょうか? はじめまして、わたし、財津美耶子と申しますが、大介さんはいらっしゃいますでしょか」
 それは全く聞き覚えのない女の子からの電話だった。新手のセールスか、僕の名を語って軟派したやつでもいるのかと思って、(実際そういうことがあった)、
「ご用件はなんでしょう」と僕は警戒して言った。
「大介さんならご存知かと思うのですが、S学院で一緒のクラスだった久坂政道さんの事で、ちょっとお聞きしたいことがありましたものですから……、またお電話いたします」と、そのか細い声が緊張のためか震えながら言った。
「あ、ちょっと待って」電話が切れそうになったので僕は慌てて言った。「ごめんなさい、ぼくが内野大介です。最近へんな電話が多いものですから……。それで、今なんておっしゃいました。たしか久坂政道って言いましたよね。あなたは誰ですか?」
「あなたが内野さんですか、あーよかった」とにわかに声の感じが変わったが、すぐに沈鬱な声に戻ってこう言った。
「わたしは、おにいーちゃん、いえ、久坂さんとは家が隣で、妹のようなものです。一人っ子のわたしは、久坂さんを本当の兄のように慕っていました」
「へぇー、じゃあ幼馴染みというわけだ」
「ええ、残念ながら、それ以上でもそれ以下でもありませでしたが。……それで、このあいだ、あの人が、自殺したというのはご存知でしょうか?」
「うん、知っているといえば知ってるんだけど、友だちから噂で聞いただけで、詳しいことは何も知らないんだ。六月頃の話なんでしょ」
「六月十三日でした」
 最初に聞いた時は、その日にちに心当たりはなかった。彼の誕生日はまだの筈であった。それよりも、どうやって、というのが僕の最大の疑問であり、関心事であった。好奇の耳でそれを訊ねるわけにはいかない。しかし不謹慎にも、僕は内心わくわくしてくる気持ちを抑えることが出来なかった。恋人というのではないにしろ、久坂に彼を慕うこんな彼女が存在していたのかという、新たな興味も含めて。
「静岡県に、寸又峡という温泉の涌く渓谷があるんですが、内野さんはご存知ですか?」
「いや、知らない。聞いたことないな。山梨の昇仙峡なら知ってるけど」
「そこに吊り橋があるんです。下は深い渓谷です。その先はダムになっています」
 そこで彼女は言葉を切った。何を言いたいのかおおよその見当はついたが、僕は彼女の次の言葉を待った。沈黙がやけに長いように感じられた。
「政道さんは、そこから飛び降りたんです。六月十三日の早朝でした。即死だったそうです」そこまでは冷静に話していた彼女が、「でもね、可笑しいんですよ、その橋の名前。なんて云うと思います?」と急に明るい一オクターブ高い声になった。その声は笑っていた。しかしそれは涙声になるのを隠そうとして無理していることがありありと解かった。すでに嗚咽を含んだような笑い声だった。そして、「その橋、『夢の吊り橋』って云うんです」と言うと彼女はひゃっくりをあげて泣き出してしまった。
 僕はどう対処していいのか困った。確かに、彼女の言葉を聞いた瞬間は、僕も久坂を思ってやはり胸が詰まった。しかしそれと同時に、別の意味でやるせない気持ちになった。到底彼女と同じ痛みを分かち合うことは出来ないし、久坂の死を悲しむ気にはなれなかったからだ。
「ごめんなさい。取り乱してしまって」
「いや、それはいいんだけど、で、ぼくに電話してきたのは?」
 僕は単刀直入に訊いた。
「それで、最初は本当にショックで、しばらくは立ち直れませんでした。(今だって立ち直ったとは言えませんが……)。内輪だけの四十九日の法要も終わり、なるべく早く成仏させてやりたいというお母さんの意見で、納骨もその日のうちに済ませたんです。友人代表とういことで成田さん(知ってますよね)がいらっしゃていました。お坊さんと一緒に成田さんもお経をあげてくれました……。政道さんのお部屋は今もそのままになっているんですが、その時、お母さんが、いつまでもこのままというわけにはいかないわね、少しは整理しないとねと言って、成田さんに、形見の整理をお願いしているのを聞いて、わたしがその役をかって出たんです。中学生ぐらいまでほとんどわが家同然に出入りしていましたので、勝手知ったるなんとやらで。小さい頃なんか、わざわざ隣に行って、よく一緒にお風呂なんかにも入っていたんですよ。それでも……、やっぱり最初はなかなか手が付けられませんでした。何時間も座り込んでただぼうとしていました。だって、その部屋には政道さんの匂いが染みついているんですもの。でも、どこを捜しても彼はいなくて……、真夏だというのに、主の居ない部屋はこんなにも寒いものかと思いました。それでも、ひょっとしたらひょっこり帰ってくるかも知れないと思うと、部屋は二階なんですけど、階段を昇ってくる足音にドキッとしたりして、でもそれはたいてい夏樹ちゃん(妹さんです)だったり、お母さんがわたしを心配して様子を見に来たのだったり。……それに、片付けはじめると、いろいろなものが出てきてしまうんです。わたしの思い出と重なるものもたくさんあって、そういうのを見ていると、また物思いに耽ってしまって。エッチな本も出てきました。若い男性の部屋ですから当然ですよね。でもそんなものよりも、もっと内面的なもの、例えば日記だとかノートだとか、そういうものがたくさん出てきて、どうしてもそちらに目が向いてしまうんです。それは、いくら幼馴染みといえども、触れてはいけないものですよね。でも、どうしても触れずにはいられなかったんです。それで、それらを繙いているうちに、ますます謎が深まっていってしまったんです……」
「謎とは、自殺の動機ということ?」
「いえ、どう言ったらいいのかよく判りませんが、少し違うような気がします。政道さんはたしかに自殺しました。事故だと言って慰めてくれる人もいますが、あれはやはり自殺です。あの日は、太宰治が最期に本当に自殺した日でもあるんです。でも、そんなことはどうでもいいのです。自殺だろうと事故だろうと、わたしにとっては、おにーちゃんが死んでしまったということが問題なのですから。だから、どうして? ということではないんです。ただ……、あの人に少しでも近づきたい、あの人のことを少しでも理解したいと思っているんです。本当は、わたしにも何となく解かっているんです。でも、お友だちの意見というか、本当のところどうなのか、それが知りたいんです」
「ちょっと待ってよ。たしかに……クラスは六年間一緒だったけど、実のところ、ぼくはそんなに彼とは親しくなかったんだ。そういうことなら、成田の方がよく判っているんじゃないかなあ」
「成田さんにもいろいろお訊きしました。学校ではどうだったのかとか。でも、そういうことではないんです。……実は、政道さんのノートの中から、内野さんや北原さんがお書きになった詞の写しがいくつか出てきたんです。それから、自分で作ったらしい曲に混じって、内野さんたちがやってらっしゃったバンドの曲を、政道さんが勝手にアレンジして唄っているものなんかもカセットテープに録音されていました。もっとも、歌といっても、たいていはチューニングの狂ったギターを爪弾きながら、ほとんど呟いているようなものばかりで、とてもまともに聴けるようなものではないんですが……。そればかりか、あの人が最期に持っていたノートの中にも、それも死ぬ直前にメモしたと思われるところに、内野さんの文章らしい一節が書き留められていたんです。だから……」
「ちょっと待った。どうして僕らのバンドの曲だって分かったの?」
「それは、内野さんのバンドのテープもあったからです」
 それはあり得ることだった。小学生の頃から僕はよくカセットテープになんでもかんでも録音して遊んでいた。〈生録〉なんていうものが流行っていたりもした。中学でも北原や成田とそれで遊んでいた。それはバンドの演奏とは限らなかった。街の雑踏の音だとか、雨の音や虫の鳴き声だったり、授業中のお喋りをそのまま採ったものだったり。当初は演奏の方は目茶苦茶なものばかりだったが、中学の終わり頃からまともな曲を作るようになると、ちょうどその頃ステレオのラジカセが出たこともあり、ちゃんとしたデモ・テープを作ろうということになって、高校一年の夏から二年の秋にかけて、休みの日はほとんど連日のように僕の家に集まっては録音していた。その中からベスト・テイクを集めて編集したテープを五、六本ダビングして友人に配っていたのである。そのようなテープはあっちこっちで流通していた。なかには、わざわざ各バンドの代表曲を一曲づつ編集して持っている奴までいた。同じようなことはおそらく日本中の高校で行われていたであろう。L学園の武田たちは、ライブ活動だけでなく、本格的にスタジオで4チャンネル・ミキサーを使って録音していたのだった。その時のマスターテープは北原が持っている。そのベーシック・トラックは僕が保管しているが、ダビングしたテープは手元に一本しか残っていない。だから廻り巡って久坂の手にあっても不思議ではない。あるいは成田が渡したのかも知れない。
「ということは、君、聴いたんだ」
「はい。聴かせていただきました」彼女は笑った。
「参ったなァ……。いやーお恥ずかしい。でも、久坂がそんなことしていたなんて。彼も何かやっているというのは知っていたけど、まさか僕らの曲をコピーしていたなんて、それは初耳だ。それに、僕の文章って、たしかにノートを廻したり、頼まれて歌詞を書いたりしたこともあったけど、でも、それが何で……」
 僕は複雑な気持ちになった。それは、僕が何かしら彼に影響を与えていたということで、僕の虚栄心はおおいにくすぐられるものではあったが、そう言われても僕にはどうすることも出来ない。何とも厄介なことになってきたと思った。彼女はそのことで僕を糾弾しようとしているのか。そうは思えなかったが、それにしても一体、何が書かれてあったのか。しかし僕はそれをその場では訊けなかった。
「とにかく、電話じゃなんだね」
「そうですね。いろいろ見ていただきたいものもありますし」
 彼女は今すぐにでも会いたい風だったので、僕らは一時間後に待ち合わせすることにした。待ち合わせ場所を決めてしまってから、僕ははたと気づいて、「ところで、君、もしかして高校生?」と訊いた。高校生の女の子を誘い出すことに何となく躊躇いを覚えたからだ。僕はそういうことに馴れていなかった。それに、彼女の落ち着いた受け答えや声の印象はとても高校生とは思えなかった。久坂をおにーちゃんと呼んでいるのだから年下には違いないのだろうが……。彼女はすかさず、
「いえ、高校は今年の春卒業しました。劇団に入っていてあまり学校へは行っていないんですけど、一応C大の一年生です」と明るく答えた。
「何だ、じゃあ、同級生だ。僕は一浪したから」
 僕はほっとして、「学部は?」とさらに訊ねた。
「文学部の哲学科です」
「あっそう。何となく解かるような気がする」と僕は言った。
 何かトラブルが起こると、参ったなあと思いながら、妙にわくわくしてくるもので、電話を切ると、僕はすぐに着替え、髭を剃り、髪を梳かし、オーデコロンをつけて出掛けた。駅で立喰いソバをかき込み、一服する間も惜しんで電車に飛び乗った。僕の方が先に着いた。ひと通り周りを見渡してそれを確認すると、ひと息ついて、煙草に火を点けた。罐コーヒーを買ってきて、ソバの後味を消す。そしてまた新しい煙草に火を点ける。かなり暑い日だったが、空気が乾いて気持ちのいい夏の昼下がり。アスファルトの路面を日光が焼いていた。
 夏休みの繁華街は若い女の子で犇めいていた。その時になって、目印になるものを何も決めていなかったことに気づいた。しかし、遠目にも彼女であることがすぐに分かった。彼女も迷わず僕の方へ向かって来た。膝下まである黒いワンピースを翻して小走りに駆けてきた彼女。ウェーブした長い黒髪。靴もバッグも黒。全身黒尽くめの彼女は僕の想像以上だった。細身の身体。手足が長く見える。左手首に嵌めた金のブレスレットがワンポイントである。彼女は踵のないシューズを履いていた。近づくとなるほど長身であるのが分かる。美人に違いない。が、普通の女の子とは決定的に雰囲気が違う。彼女がどういう劇団に所属しているのか容易に想像出来た。
「はじめまして。すぐ分かったよ」と僕は言った。
「わたしも」と彼女が言った。
 考えてみたら、僕も黒尽くめだったのだ。黒いシャツに黒のジーンズ。スニーカーも黒だった。僕は二人を見回して、「お互いカラスみたいだね」と言った。
 とりあえず僕らは、静かに話の出来る喫茶店に入った。アイスコーヒーが運ばれてくるまでのあいだ、僕らはたいした会話を交わさなかった。一瞬僕は何のためにここへ来たのか忘れてしまいそうになった。何の因果か、冷房の効いた喫茶店で、初対面の、それも魅力的な女の子と向かい合って坐っていることの不思議。彼女の方も、いざ会ってみると何から切り出したらいいのか分からない風だった。電話の時の一種の興奮状態は冷めていた。
 彼女はアイスコーヒーをブラックで飲んだ。僕はガムシロップを底に沈ませ、ミルクを注いだ。それを掻き回さずに飲む。高いだけあって、ちゃんとした喫茶店のアイスコーヒーは美味かった。ひとまず喉を潤すと、ようやく人心地ついたというように、彼女はおもむろにショルダーバッグを開け、一冊のかなり遣い込んだと思われる大学ノートと、クレヨンで目茶苦茶に塗りたくられたラベルの挟まったカセットテープを一本取り出した。それをテーブルに重ねて置くと僕の方へ差し向けた。それが何であるかはもちろんすぐに分かった。それが久坂の最も大切な遺品であると思うと、僕はやはり戦慄せずにはいられなかった。それを軽々しく手に取ることは出来なかったし、触れることさえ何か憚られるような気がした。
「いや、その前に、詳しい事情というか状況を聞かせてもらえないかな」と僕は言った。「もちろん、差し障りがない範囲でいいんだけど」
 財津美耶子はひとつ深呼吸すると順を追って話し始めた。最初は途切れ途切れに、そんな事はどうでもいいという感じで。聞いている僕の方もだんだんかったるくなってきた。二人とも午後の倦怠感に落ち込んでしまったようだった。冷房が効き過ぎているせいかも知れない。しかし次第に彼女の話し方には熱が入ってきて、舌も滑らかになった。頬にも赤身が射してきた。血の巡りが良くなってきた僕もいつの間にか彼女の話に引き込まれていた。ケーキと紅茶を追加し、結局僕らは三時間はゆうにその喫茶店にいた。

 ――久坂がどういうわけで寸又峡に行ったのかは不明である。最初から自殺しようとしていたのか、それともたまたま旅行に行った先に吊り橋があり、発作的に自殺したのかは判らない。いろいろな状況から推測すれば、おそらく後者ではないかというのが美耶子の考えであった。久坂は自宅の近辺をよく散歩することはあっても、好んで旅行に出る質ではなかった。風光明媚な渓谷と久坂の取り合わせはどうもそぐわない。都市の空間においても、自然の中においても、久坂の肖像はしっくり馴染まない。大学一年目は学校へもちゃんと通っていた。精神科のカウンセリングも受けていたという。それが二年生になると登校しなくなった。春から初夏にかけて部屋に閉じ籠もっていることが多くなった。そして六月、ぷいと旅に出た。しばらく旅行してくると家族に言い残している。母親は、学校へも行かず部屋に閉じ籠もりきりになっているくらいなら外の空気を吸ってきた方がいいと、彼を快く送り出した。寸又峡までの足取りは判らない。六月十一日の昼頃、つまり亡くなる二日前、とにかく彼は寸又峡の温泉街にふらっと現れた。そして温泉街のほぼ真ん中にある旅館としては中堅のR旅館にその日から泊まっていた。暇な学生の独り旅ということで、最初は宿の者も不審には思わなかった。しかし元気がなさそうに見えても湯治とは思えず、かといって登山が目的でもなく、話し掛けてもあまり反応がない彼を何となく危ぶんではいたらしい。もっともこれはあとでは何とでも思えてくるだけで、実際は普通の旅行者とさして変わりなかった筈だ。二日目の早朝、まだ夜が明けないうちに彼は朝風呂に入り、散歩に出掛けた。朝食の準備に来た賄い婦が目撃している。まだ眠っている温泉街を抜け、寸又峡プロムナードと呼ばれるハイキングコースへ出る。そのメインが「夢の吊り橋」である。真夏でもひんやりとした(たぶんねと彼女は言った)薄暗いトンネルを潜ると二手に分かれており、右に行けば吊り橋、左へ行くとコンクリートの飛龍橋と云う立派な橋に出る。二つの道は展望台の手前で合流している。吊り橋は一方通行である。したがって左のルートを採った場合、帰りも同じ道を引き返してくることになる。右へ曲がると急な下り坂が続いていて、その先に「夢の吊り橋」がある。美耶子の細くて長いやや角張った指が、テーブルの上に広げられた観光マップの道筋を辿る。その数分前、おそらく朝日を背に浴びた久坂は、朝の新鮮な空気を吸いながら右のルートを歩いて行った筈である。吊り橋に立ち、彼が何を思ったかは知れない。吊り橋の上から黒い影が落ちていくのを監視員が目撃していた。この辺りは自然観測教育林になっていて、県の職員がその日最初の巡回に出るところだった。橋の上に人が立っているのを見ていたわけではない。目の端に何かがよぎり、見ると黒い物体が川面に落下していった。それは鳥ではないだろう。橋の下を流れる大間川は、その先で寸又川と合流し大間ダムに注いでいる。初動が早かったとはいえ、捜索は難航した。見間違いではないのか。もちろん小さな温泉郷は大騒ぎになっていた。駐在所の巡査が各旅館を廻った。R旅館の客の中に、朝食の時間を過ぎても姿を見せない独り旅の若者がいた。そして昼過ぎ。若い男性の遺体がダムの手前で揚がった。身元を示すものは何も身につけていない。R旅館の女将が引っ張り出され、それを確認した。
 財津美耶子はその日たまたま家にいた。学校をさぼって、家で芝居の稽古をしていたのだという。呼び鈴が鳴る。玄関を開けると、真っ青な顔をした久坂の母親が立っていた。「あの子が死んだ」とやけに冷静に母親は言った。しかし歯の根は合っていなかったし、目は虚ろだった。最初は何を言っているのか解からなかった。だが次の瞬間彼女の身体は全身凍り付いていた。枯れ枝がぽきっと折れるように母親が玄関の三和土に崩れる。美耶子の身体も折り重なって崩れる。どれくらいそうしていたか分からない、と彼女は言った。先に立ち上がったのは彼女の方で、父親の勤め先に電話したのも彼女なら、妹への書き置きを書いたのも彼女だった。そして取るものも取り敢えず二人は寸又峡に向かった。
「それからの事はお話するまでもないですよね」と美耶子は言った。「……とにかく大変でした、警察に行ったり、葬儀の事とか、気が狂いそうになりました、いえ、神経は切れていたんだと思います、どさくさに紛れていただけで。遺体(見るも無残でした……)は解剖され、静岡市で火葬されました。……わたしが最期に見たのは、ちょうど旅行に出掛ける時で、駅前の道で擦れ違ったんですけど、珍しく旅行鞄なんかぶら下げているものですから、からかい半分に声を掛けたのが最期でした。その時の、曖昧に頷いた笑顔はきっと一生忘れられないでしょう。軽く手を挙げて去っていったうしろ姿がやけに寂しそうに見えたのは、あとから思うことだからでしょうか」
 ――警察は自殺と断定した。他殺ということはまず考えられない。久坂が泊まっていた部屋は、起きがけに朝風呂に入り、朝飯前にちょっと散歩してくるといった風に残されていたという。テーブルの上には一冊の大学ノートが無造作に置かれてあったが、自殺を仄めかすようなことは書かれていなかった。ボストンバッグの中から遺書が出てきた。しかしそれは、中学一年の誕生日から久坂は誕生日ごとに遺言状のようなものを書いていて、それをいつも持ち歩いていた。日付が証明するように、それは一目見ただけでだいぶ前に書かれたものであることが分かるものであったらしい。だから足を滑らせて落ちたのではないかという見方も出来るのだが、立ち会った者は誰もが自殺だと思ったという。いずれにしろ警察が事件として取り上げなければならないようなものではなかったので、遺体の処理が行われた後すぐに東京に戻り、自宅で簡素な葬儀が営まれた。もちろん表向きは事故死ということになっている。
「そのノートの最後のページを見て下さい」と美耶子は言った。「内野さんなら何か判るんではないかと思いまして」

                    (後編へ続く)
『夢の吊り橋』西山正義
〔第一稿~第四稿105枚〕
起筆・平成八年一月六日
再起筆・平成八年十月三十日
擱筆・平成九年一月十五日
【初出】『日&月』第三号・一九九七 春(平成九年三月発行)

『車中での会話』執筆・平成九年六月二十五日
(『久坂葉子について――附・「夢の吊り橋」外伝』)
加筆訂正・平成九年七月二日
校正・平成九年七月十五日
【初出】『日&月』第四号・一九九七 秋(平成九年十月発行)

〔第五稿118枚〕
平成十年十二月二十一日/平成十一年一月八日~十日
【改稿版初出】ウエブサイト「西向の山」平成十四年四月
(C)1997 Nishiyama Masayoshi
+注意+
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