ある一報が届いたのは……忘れもしない億劫な雨の日だった。
祖母に連れられ、屋敷で住み込み始めて、ようやく仕事にも慣れてきた頃の事件だ。
一本の電話が、少年と少女の未来を変えた。
屋敷の使用人達にも慕われていた主人。母のように優しくしてくれた奥方。やりがいのある仕事を教えてくれた祖母の訃報である。
ただタイミングが悪かっただけのこと、雨が降っていなければ、日程を早める事がなければ……どれだけ思おうとも時間が巻き戻る事はない。
悲しんでいる暇もない。葬儀が終われば日常が変わる。全てが変わってしまう。
この屋敷の思い出も、敬愛してやまない少年の未来も、全てが数日でガラリと変貌を遂げる。
ならば、するべき事をしなければ……。少年を。屋敷を。使用人達を。いつもの日常を……。
思い返せば愚かな事だ。既に歯車は狂っていたというのに、まだ直せると思っていた自分は愚か以外の何者でもなかった。
愛する人達がいなくなってから、どれほどの月日が過ぎ去った頃だろうか。
残された使用人達は少年を守り続け、そして、これからも変わることはないと思っていた。
――あの男が来るまでは……。
あの日は、肌が焼けそうなほどの熱い陽射しが降り注いでいた。
そんな炎天下の中、三十代前半のスーツ姿の男が屋敷に訪れたのだ。
「……ここに、幸太君はいるかな?」
第一声がそれ。ただ普通に、まるで世間話でもするかのように男は切り出したのだ。
「あっ、ごめんごめん。私はこういう者なんだけどね」
男は一枚の名刺を差し出してきた。応対にでた少女は怪訝な顔をしながらも受け取る。
そして、頬が引き攣った。少女でなくとも驚くだろう。それがどんな人間であってもだ。
先代の主人が重役を勤めていた企業の会長。若くして様々な事業を展開し、成功を収めた実業家。
まだ三十代前半だというのに、世界経済を操ると言われているほど。
――佐倉源治郎。
世界で最も忙しい男。たった一秒、こうして無言で突っ立っているだけで、十億の損失がでると呼ばれているほどの人物である。
それが、今はこうして自分の目の前にいる。意味がわからない。
混乱する少女を尻目に佐倉源治郎は辺りを見回していた。
「えーと、それで幸太君はどこかな?」
問われて少女は我に返り、ふと気づいた。
なぜ、幸太に用があるのだろうかと……。
「……主人に何用でしょうか?」
睨みつけてくる少女に、源治郎は苦笑する。
「いや、そんなに警戒しなくていいよ」
安心させるような笑み。しかし、次に発せられた言葉に驚愕する。
「彼の遺言でね。幸太君を引き取りに来たんだ」
「っ!?」
源治郎は首を小さく傾げた。
「あれ聞いてなかったかな……」
少し考え込むように顔を伏せて、思い出したかのように手を叩く。
「これが遺言書なんだけど……あー執筆鑑定とかしてもらってもいいよ。本物だからね」
疑いの眼差しを向けつつ、少女は渡された高級紙を広げて字を読み進めていく。
間違いなく先代の主人の文字だ。でも、巧妙に真似をしている可能性も捨てきれない。
しかし……なんのメリットもない。偽の遺言書など用意しても、源治郎にはなんの得にもならないのだ。
ならば、源治郎の偽者という線を考えてみるが……世界的に有名な人物である。テレビを点ければ彼の顔が映っている。だから見間違うはずもない。
それに三十代前半の若さながら、この落ち着きと風格。
発せられる言葉一つこそ呑気そうなものだが、言葉の端には威厳が満ちている。
もう疑う要素はない。だが、
「わかりました。あなたが佐倉源治郎氏という事は納得致しましょう。しかし、会わせることはできません、主人の心は癒えてませんから。それに、主人を引き取る? 笑わせるなよクソ野郎」
最後の暴言――メイドとしてあるまじき発言である。
しかも、この男に逆らったら地球で生きていくのは難しい。と、言われた源治郎に向かってである。
さすがの源治郎も絶句するしかない。
「…………」
「なにボーッとしてんのかな? さっさと出て行けこのショタコン野郎!」
まるで変態を見るような眼である。きっと源治郎が相手でなかったなら、泣いてしまうだろう凶悪な顔だ。
「いや……あのね」
しかし、若くして世界を掌握した男である。生半可な暴言では揺らぐはずがない。
「うるさいなぁ……さっさと出て行きなよ。調子乗ってると死んじゃうよ~?」
源治郎の顔を下から覗き込むようにして睨みつける。まるでカツアゲしている不良のようだ。
「話を聞いてくれ……親友の忘れ形見をぐぼぉ――」
「あっ、ごめんね。ちょっとごちゃごちゃうるさい変態がいたから」
床に突っ伏して悶絶する源治郎を見下ろしながら、少女は不敵な笑みを作り上げる。
「でも、これって不法侵入になるのかな? 変態が血迷って侵入したって事にしてもいいのかな? つか、殺しちゃっていいのかなぁ」
「おふっ、まっ――待て!」
なぜ殴られなければいけないのか。源治郎は豹変した少女を苦しげな表情で見上げる。
「あっ、覗き」
ひらりと長いスカートの裾が揺れる。
「ちがっ!? がふっ!?」
顎を蹴り上げられて吹き飛ぶ源治郎。
だが、若くして世界を掌握した男である。並大抵の攻撃では気を失うことはない。
次に繰り出された蹴りを片手で受け止めて、源治郎は飛び跳ねて起き上がる。
「いやー……いきなり攻撃されるなんて思わなかった。これほどSPを連れてこなかった事を後悔したことはない」
顎をさすりながら笑みを浮かべる源治郎。全く効いていない。そう思わせるかのような余裕の態度である。
しかし、対する少女は鼻で笑った。
「少しだけ驚いたかな……でも、それだけ足が震えていたら、やせ我慢ってすぐわかるかな」
タラリと汗が源治郎の頬を伝う。自分よりも遙かに若い少女に圧倒されてた。
どれだけの修羅場をくぐろうとも、まずお目にはかかれない悪魔が目の前にいる。
少女の瞳に映っている源治郎は虫けら……はたまたゴミである。
「桜坂メイド隊メイド長……及び桜坂技術研究所所長――獅子童ヒメ。主人に全てを捧げ。主人に全身全霊をもって仕える最後の砦。いざ参るかな」
どこからだしたか、その右手には牛刀。更に左手に牛刀。
さすが世界の源治郎の顔も青ざめた。
「泣かせず仕留めてあげよう源治郎」
ブゥオオン――と風を凄まじい勢いで斬って、刃が床に突き刺さった。
間一髪避けた源治郎だったが、その顔は殺人者を見たそれだった。
「あの……私が誰だかわかってる?」
ちょっと確認。その返答は笑みだった。
「ゴミの顔など知らないかなッ!」
ゴウッ――と刃が迫り源治郎がしゃがみ、頭上を通過していった。
斬る。避ける。斬る。避ける。薙ぐ。跳ぶ。突く。幾度となく繰り返される攻防。
いつの間にか屋敷の使用人達――メイドが集まり、玄関が騒がしくなってくる。
永遠に続くかと思われる戦いでも、いつかは終わりが来るものだ。
それが――どのような形であれ……。
「幸太ちゃーーーん。幸お姉ちゃんが遊びに来ちゃったわよ~!」
重厚な扉が開け放たれて、一人の女性が慌ただしく入ってくる。
争っている二人には目もくれず、源治郎の頭に跳び蹴りをいれてから走り去っていった。
「あのクソアマ! 主人には触れさせない!」
倒れた源治郎など既に敵ではなく、新たな敵の出現に獅子童ヒメは駆け出した。
そう、これは一人の少年と、一人の少女の物語である。
「でねでね。クソアマを退治した後、主人がこうヒメに抱きついてきて、むちゅーって!」
壇上で妙にハイテンションな技術メイド隊、所長の獅子童ヒメ。
その近くに立っているのは、ヴェールを被った白衣のメイド――ラウラ。
しかし、話には興味ないのか隣に座っている幸太に視線を注いでいる。
そんな三人から離れた場所に、いくつものイスが並んでいて前列にメイド候補生の五名が座っていた。
「……あの女、なんか変なクスリでもやってんのか?」
夜菜は終始ハイテンションなヒメにげっそりとして、
「目が疲れてきました……」
深くため息をつく雨季。
「世界の源治郎って鍛冶屋みたいね」
「うん。名刀を作りそうだね」
富美の言葉に、珍しく清音が首肯する。
「……むふふふ、幸太様の貞操は頂きましたよ~……むにゅあん」
香月は幸せそうな夢を見ていた。
そんな五人から視線をはずして、幸太はヒメに目を向ける。
「……なんか途中から変わってないか?」
「あの人はバカですから見てはいけませんよ」
聖母のごとく笑顔で副所長のラウラは、幸太の頬に手を添えて顔を自分に向ける。
「いや……」
いきなり視線を合わされても戸惑うことしかできない。そもそも、なぜわざわざラウラを見なければいけないのか……全く意味がわからない。
でも――、
「ああ……ヒメ。君はなんて美しいんだ。オレと遊覧飛行にでも行かないか!」
一人妄想の世界に入っているヒメは、誰も信じてくれていない事に気づいてはいなかった。
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