佐倉幸太が屋敷の二階の廊下、自室へと続く道を歩いていると、前方から一人のメイドが姿を現した。
少し首を傾げて「珍しいな……」と、幸太は呟く。
そのメイドとは双子メイド、少し危ない料理を作るメイド。幸太は一度も食べたことはないが破壊力は抜群だと聞いている。
菅波富美、これでも一応佐倉家メイド隊の料理長である。
こちらに気づいたのか少し足早に近づいてきて。
「あら、幸太様じゃないですか。遭難でもしたんですか?」
幸太の顔が引き攣る。いきなりそんな事を言われるとは思わなかった。
「自分の家で遭難なんて、するわけないだろう?」
「え、幸太様は遭難したことないんですか? あっ、えと、私も遭難したことないですよ?」
なぜか、あたふた慌て始めた。なぜか眼を合わせようともしない、瞳を泳がせて落ち着かないのかエプロンの端を掴んでイジイジし始めた。
……これは遭難したことあるな。
と、丸わかりだった。
「そうなのか、遭難するやつなんていないよな。屋敷で遭難ってメイドとして失格だしな」
と、イタズラ心で言ってみたのだが、ズガーンと雷でも落ちてきたかのように直立不動になった富美は口をパクパクさせて。
「そっ、そんなのいるは、は……はずないじゃないですか」
最後まで言い切ったのはいいのだが、なぜか包丁を取り出したのを見て、幸太は背筋に寒気が奔った。
変な圧力を感じて息苦しくなってきた。
――富美さん……どうしてそんなに呼吸が荒いのですか?
「ハッハッ……フゥフゥ」なにやら危険な感じがする。まるで腹を空かせたライオンに見えてきた。なぜか眼もギラつき始めたし。
「そ、それで富美。どこに行こうとしてたんだ?」
話題をすり替えようとしたが、
「ハッ? …………」
なんだろうさっきよりも空気が重く感じる。富美は顔を俯かせてこちらを見ようともしない。カタカタと震える包丁を見て、幸太は寒気と同時に冷や汗も掻き始めた。
「こ、ここここ、こけ、幸太様。おん、おんな、女の子には秘密があるんです。そ、それは殿方にも言えないような、ひっ、秘密が」
……あの、ごめんなさい。そんな何かの中毒者のような顔で言われても、怖いだけです。
今すぐ病院にいったほうがいい。なんとなく普通の治療では治らない気が……。
「そうなのか。聞いて悪かったな……」
内心ビクビクだが、富美に悟られないように小さく笑んだ。
「ひえっ、いいんでふよ? そ、遭難なんてしてないですから……」
「…………」
「…………」
――遭難してたのか……。
幸太は後退る。
なぜか「しまった」と後悔に顔を染めた富美がジリジリと距離を詰め始めたからだ。
包丁がフラフラと揺れてるもんだから、しかも、それを持って近づいてくるもんだから、後ろに下がるのも自然なことで。逃げたいと思うのも人間として当たり前で。
「富美……えとな、オレ耳が悪いんだ。何も聞こえなかったんだ」
勿論嘘である。こんなすぐバレるような嘘しか言えない自分が腹立たしくも感じるが、今は生死に関わる事態なので反省するのは後だ。
「耳が悪いなら耳鼻科に行かないと……私が連れて行って差し上げますね」
ニッコリとメイドっぽく微笑んではいるが……。
――目が死んでる……。眼科行ったほうがいいぞ。
なんてことが言える訳もなく。
連れていかれるのは耳鼻科じゃないないだろう? あの世だろう?
「ははッ」と渇いた笑いと共に思いながら。
幸太は富美の後ろを指差して。
「あー! 試食売り場だ!」
と叫んだ。
「…………」
「…………」
自分で言っておきながら、少し寒くなった幸太は身震いした。
富美はというと、やはりご主人様が相手だからか、失笑することもなく死んだ眼のまま。
「屋敷にそんなのあるわけないじゃないですか。それにあったとしても、今は最上級の食材が――目の前に」
――料理されちゃうのか?
引っかかるとも思わなかったが、自分が食材として見られてるなんて夢にも思わなかった。
正直なところ逃げ切ることは叶わないだろう。背中を見せた途端飛びついてきそうだし、そもそもこれでも訓練されたメイド。引きこもりといってもいいほど出不精な幸太に、このメイド(ライオン)さんから逃げられるはずもなく。
「ここは話し合おう、な?」
「私の秘密を知られたら……生かしておくわけにはいきません。それが例えご主人様である、幸太様でもです。大丈夫です。安心してください、幸太様のご遺体は私が冷凍保存して永遠に管理させて頂きますから、誰にも触れさせません」
頬を赤く染めて身体をくねらせた富美を見て、幸太はまた違った意味で寒気を感じた。
「歳をとることもありませんし、私が毎日手入れをさせて頂くので幸太様の美しい身体は保たれたまま。マグロになったとでも思えばいいのです」
「そもそも死んだら思うこともできないし……それに、マグロにはなりたくはないかな」
クルクル包丁を器用に回し始めた富美を見て、幸太は腰が引けていた。
「では、マンモスにでもなったと思えば……」
「そういう問題でもない気がするんだ。そもそも冷凍されたくないしさ」
背中に冷たい壁がぶつかる。いつの間にか壁際にまで追い詰められていたらしい。さすがはメイド、人の動きすらも操るのか。などと幸太は意外と冷静に分析した。
「方向音痴なんて気にすることないさ。誰だって欠点の一つや二つあるだろ?」
と説得を試みた幸太。バカである。感情を逆撫でする言葉を選んだ時点でバカである。
余計な一言さえなければ、説得は成功したのかもしれない。目の前にいるのは幸太のメイドであるからして、説得を誤らなければ大丈夫だったであろう。
しかし、幸太は最初の一言で殺してくれと言ったようなもんである。
「オフッ、コウタサマ。ワタシハ、ホウコウオンチ、デハアリマセン」
カタカタと身体全体を揺らし始めた富美、学校の理科室にある骸骨の標本でさえ、ここまでの動きはできないだろう。やはり生身の人がするからこそなのか。
「トンダ、ゴカイデス」
片言に喋り始めた富美、これが腹話術かなにかであったならば拍手を送りたい。
幸太は言葉を発しようと口を開けるがでてこない。そもそも、なにを言ったらいいのかもわからない。
――でも、何か言わないと殺される……。
パニックになった頭では何も思いつかない、恐怖ばかりが先行する。嫌な想像ばかりがかき立てられる。
今まさに幸太がマグロ冷凍されるであろう――瞬間。
「姉さん何してるの?」
声がした方向に、富美と幸太は同時に顔を向けた。
目が血走ってる富美、なぜか顔が真っ青な幸太を見た佐倉家メイド隊副料理長の双子の妹、菅波清音は「ひえっ」と悲鳴をあげた。
――救世主だ……救世主が現れた!
幸太は思わず涙ぐむ。待ち望んでいた勇者があらわれた村人Aの気持ち。
妹に見られた富美も諦めたのか、包丁をすぐさまエプロンのポケットに仕舞った。
「なんでもないわよ。ちょっと幸太様とお話をしてたの」
「ふーん。てっきり方向音痴がバレて、幸太様を亡き者にしようとする場面だと思ったけどね」
……おお、さすが妹。姉の行動は全てお見通しだ。千里眼という称号を与えたい。
などと幸太はキラキラと瞳を輝かせて清音を見つめていた。
これが恋愛ゲームなら好感度九十%UPである。
そんな熱烈な視線に気づいた清音は、照れたのか幸太から顔を逸らした。
――なんとイジらしい……。救世主は純情な心の持ち主のようだ。
「あの、幸太様。少し恥ずかしいです……」
「…………」
すっかり蚊帳の外に放り出された富美は、少しムッとする。秘密がバレたことなど既に忘れて、嫉妬深く妹を睨みつけていた。
それにも気づいた清音が。
「姉さん、睨まないでくれるかな? 今それどころじゃないんだ」
と勝ち誇った顔をしたかと思うと「ふっ」と鼻で笑ったのだった。
「い、妹のくせにいい度胸してんじゃない……私はいつでも一人っ子になる準備はできてるのよ?」
「こっちの台詞だよ。ボクだっていつでも姉になる準備はできてるんだ」
富美と違って姉と妹の立場を代えただけ、それでも少しばかり良心があると思うべきか。
救世主(清音)とライオン(富美)の争いが始まった頃には、幸太の姿はなく無事逃亡していたのだった。
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