挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

紹介頂いた作品(現代)

ねぇ、何か軽口たたいてよ


「いい? 大抵の女の子は異性に対して幻想を抱いてるの。だからその幻想通りに振る舞えば、後は向こうが勝手に好きになるわ」

 二十代の頃にモデルをしていた母が、玄関で靴を履こうとしている僕に背後から語りかけた。まるでそれが最近発見された美徳かのように得々と、しかし何所か呆れたように。

 高校の入学式を翌週に控えた春休み。男友達の家に遊びに行こうとしていた僕は振り返り、眉根をひそめて母を見た。

「はぁ? 何言ってんの?」

 母は両肘を抱えてそこに立ち、口の端に微笑を(たた)え、挑むような目で僕を見ている。

 僕の父は、祖父の代から続く税理士事務所を地元で営んでいた。愛想はいいがデップリと太っている。四つ離れた兄は、父にそっくりだ。

 しかし幸いなことに僕は、スリムでお洒落で年齢を感じさせない母に似ていた。

 そのお陰で人生は楽勝だった。要領もよく、スポーツも得意で頭も悪くなかった。女子からの好意は自明の理のようにして注がれた。

 その為かもしれない。僕が今まで、女子に対して格別の興味を抱くことが出来なかったのは。

「私が中学を卒業した頃なんか、男の子をとっかえひっかえして遊び回ってたわよ。高校に入学したら入学したで、クラスの男の子を殆ど惚れさせたりね。全く、それなのにあんたときたら……。変なところだけ父親に似て」

 腰まで伸びたウェーブがかった長い髪をかき上げ、母は続ける。

「まぁ、さすがに私みたいには無理かもしれないけど……。高校では、恋人の一人も作りなさいね。男の子とばっかり遊んでないで」

 意地悪く笑うと踵を返し、母はその場から去った。


「……意味がわからん」


 呆然と呟いたその言葉は、虚飾のない本音だった。だが自分でもはっきりと分からない、沸々と煮えたぎるものが何処かで生まれているのを感じた。

 乱暴に靴に足を突っ込みながら考える。
 あの人は、僕がモテないとでも思ってるのか?

 確かに中学時代は一人の女の子も家に連れてきたことがなく、また甘いものが苦手だったので、バレンタインにチョコを受け取っても友達にあげてしまっていた。

文哉(ふみや)、あんたバレンタインにチョコレートもらった?』
『あ~~、貰ったけど友達にあげちゃった』

『ふ~ん……そうなの』

 クリスマスも家族と過ごすか、男連中とバカ騒ぎをしていた。告白されても面倒なので断っていたし、家で積極的に女の子の話もしなかった。電話やメールをするのも、大抵は仲の良い男友達ばかり。

『ねぇ、あんた誰かに告白されたりは……』
『ん? 面倒だから断った。ってゴメン! ヨシキから電話だ! おぅ何? 春休み? 暇だよ~、もう超暇だよ~! え? 男連中で遊びにいくの!? マジ!? いくいく!』

『はぁ……』

 今まで全く女っ気がない人生を過ごしてきたのも事実だ。そこまで考えると、母が僕をモテないと判断したことが、急にムカムカと腹立たしくなってきた。

 先程の言葉が脳裏を過る。


『高校に入学したら入学したで、クラスの男の子を殆ど惚れさせたり――』


 突如、僕の決意に火が灯った。生まれたばかりのそれは爆ぜる火の粉によって周囲に広がり、やがて大きな炎とって荒れ狂う。

 そうか……そんなに僕がモテないと思ってるなら、見せつけてやろうじゃないか。

 口角を片方だけ上げ、悪役めいた笑顔を張り付ける。そして母親が去った方向に向き直ると、僕は吐き捨てるようにして言った。


「分かったよ。なら僕がどれだけモテるか、高校に入ったら証明してあげるよ。クラスの女の子……全員を惚れさせてね」




♯ ♯ ♯ ♯ ♯




 そうして僕は高校に入学して以来、悔しいが言っていることは正しいので、母が言ったように思春期の少女が持つ異性への幻想を利用し、クラスの女の子を惚れさせまくった。

 その際には王子様の幻想を採用した。色々と考えたが、それが最も汎用性が高く、効果的な幻想像であると認識した為だ。

 自分で言うのも何だが、そのキャラは長身細身の僕にハマった。

 甘いマスクに浮かべる、優しげな微笑。
 品のいい言葉遣いに、育ちを感じさせる立ち振る舞い。

 学区内でもそこそこ偏差値の高い公立高校に進学した結果、中学時代につるんでいた、本当に仲の良い友人はいなかった。それはある意味都合がよく、僕の特殊な高校デビューは華々しい成功に飾られた。

「あ、あのっ……篠崎くん、その、LINEのID教えてもらってもいい?」
「え、僕のですか? ははっ、勿論ですよ」

 不細工も美人も対等に、誠意をもって僕は優しく接した。
 何故ならそれは、ゲームなのだから。

 するとクラスの女性徒は自分の中の幻想を現実の僕に転写し、後は母が言うようにその幻想を各々の中で加速させ、僕を勝手に好きになった。

「ねぇ篠崎くん。今度の週末、よかったらみんなで映画にいかない?」
「あ、はい。僕で宜しければ喜んで」

「「きゃ~~~!」」

 僕が自宅で名簿表を用いて、自分に明確な好意を寄せたと判断した女性徒の名前の横に「済」と、口の端を曲げながら、赤ペンで記入していることも知らずに。

 それはオセロでパーフェクトゲームを制すような、一種堪らない昂りを僕にもたらした。全てに「済」と記入した暁には、母にクラスの集合写真を差し出しながら、こう言うつもりでいた。

「そうそう。恋人だけど、どの娘がいい? よかったらその写真の好きな娘指定してよ。今度の休みにでも、連れてくるから」

 だが一枚だけ、僕の思い通りにならないチップが存在した。


 ――それが彼女。「結城(ゆうき)姫乃(ひめの)」だった。


 彼女はそれなりの進学校にも拘わらず、華があり垢抜けていた。目鼻立ちの整った顔は冗談のように小さく、身長は高いわけじゃないが手足が細長く、肌も白い。

 長いストレートな髪は僅かに赤みがかっていたが、陽光に照らされて光る時などには、思わず息を飲んで見とれてしまうくらいに美しかった。

 性格も明るく敵を作らないタイプで、気づけば女性徒の中心的な存在に……。
 そんな彼女はクラスの、いやひょっとすると学年男子全員の注目を集めていた。


「結城さんって、ひょっとしてモデルしてる? 雑誌で結城さんそっくりな人を見たんだけど」

 ある日、僕は彼女の自尊心をくすぐろうと爽やかに話しかけた。
 彼女は、え? と驚いてみせた後、

「バレちゃった? 実はスカウトされて読者モデルしてるの」

 ハスキーな声で、朗らかに笑って答えた。
 まさかそこに真実が含まれていると思わず、

「え? あ、あぁ……やっぱりそうなんだ、ははは」

 僕は木枯らしのように、乾いた笑い声を響かせた。
 すると彼女は僕を小馬鹿にしたように鼻から息を抜き、

「な〜んてね、嘘に決まってるでしょ」

 と言葉を返した。

「は…………?」

「篠崎くん、もうちょっと勉強した方がいいよ。私、他の娘みたいに甘くないから」

 それは上品な自負心だった。
 僕はその一言に、雷が落ちたかのような衝撃を受ける。

 ――まさか、見抜かれてる?

「じゃね」

 彼女が去っていくのを黙って見送る。

 僕を除いたクラスの男子生徒が、皆、彼女に惚れていると判明したのは数日後のことだった。

「まさか、これって……。は、はは。そうか、そういうことか!」

 全体的に無意味な、しかし僕と彼女のちっぽけなプライドを懸けた戦いの火蓋が切られた。




♯ ♯ ♯ ♯ ♯




「ねぇねぇ篠崎くん。リエってばあんなに可愛いのに彼氏がいないのよ。不思議じゃない?」

 あの日の会話が切っ掛けとなり、結城は僕に積極的に話しかけてくるようになった。僕はその魂胆を見抜き、利用してやろうと極上の笑みを張り付けてその問いに答える。


「そう? 僕には、結城さんに彼氏がいない方が不思議だけどな」


 結果――。


「はっ!」


 鼻で笑われた。
 僕が家に帰った後、ベッドを叩きながら「ちっくしょぉぉぉ!」と叫んだのは言うまでもない。


 そして翌々日。

「篠崎くんってクッキー好き? 家で焼いてきたから、よかったら食べてよ」
「本当? わざわざ有り難う」

 彼女から手作りのお菓子を差し出されれば、無邪気に喜んだ振りをして、


「うわぁ、まっず〜い」


 惚れさせるはずが、つい条件反射で悪意を叩きつけてしまった。
 後から聞いた話によると、その日の晩、彼女は怒りの形相でクッキーをゴミ箱にぶち込んだらしい。


 ――それ以降も、僕たちの滑稽なやり取りは続いた。


「結城さん、おはよう。ちょっとだけ髪切った?」
「あはは、そこ気づかれるのキモイ〜〜」

「はははは!」

「そういう篠崎くんも、パーマが似合ってるね」
「テンパーだよ。く・そ・ア・マ」

「きゃはは!」


「最近、篠崎くんと姫乃ちゃんって仲いいよね」
「悔し〜〜、でもあの二人なら納得かも」

 ともすればクラスメイトからは、仲のよい二人に見えたかもしれない。しかし二人の水面下では、こいつをどう落としてやろうかという熾烈な戦いが繰り広げられたいた。

 よく考えれば、そんな遣り取りをしていて、相手を惚れさせようなんて土台無理な話だ。だがお互いムキになっていたのだろう。そのことに僕らは、しばらく気づかなかった。


 その為……。


「男の子のネクタイ格好いいよね。私も着けてみたいから、一日借りても――」
「駄目に決まってるだろ。僕に代わりにリボンを着けろっていうのか?」

「だよね〜」


 とか、


「結城さんの肌って、凄いキメ細やかだよな。何かして――」
「女子高生なめんな。血の滲むような努力してんのよ」

「ですよね〜」


 そんな言葉の応酬を交わし、家に帰ってはその場で地団太を踏む日々を過ごした。


「ねぇ、あんた。そういえば恋人は――」
「うるさい! ちょっと待ってろ! 今にクラス一の、いや学年一の美女を連れてくるから!」

「は? あぁ……そうなの?」

 結局、僕らのその奇妙な攻防は三ヶ月も続いた。その段になると、僕らが付き合っているものと、勘違いしはじめるクラスメイトも出てきた。

 だが相も変わらず僕らは、


「花が咲いてると思ったら、なんだ結城だったのか」
「あはは。死ねよキザ野郎」


 とか、


「私、篠崎くんに会って”運命”って言葉の意味が分かったような気が――」
「ははっ。何人に同じこと言ってんだ、このバイタ」


 相も変わらず、心の籠っていない軽口を叩き合っていた。

 やがてこのゲームが決して終わらないことを悟った結城は、ある日の放課後、人気のない教室に僕をこっそりと呼んで提案を持ち掛けた。

「篠崎くん。もういい加減にお終いにしない?」
「は? それってどういう――」

「つまりは、私に惚れろって言ってんのよ!」
「あぁ、それ無理だから。結城は可愛いだけで、性格最低なの知ってるから」

「な、何よ!? 貴方だって同じ様なもんでしょ!? この唐変木!」
「なっ! うるさい、ぶりっ子!」

「格好つけ! ナルシスト!」
「尻軽! バカ女!」

 そうして僕たちは散々罵り合い、声を枯らし合った後、

「ぷっ、」「くっ」

「「あはははははは」」

 糸が切れたように、声を合わせて笑い出した。

 可笑しかったのだ。
 鏡映しを見るように、お互いがお互いに、余りにも似ているのが。

 僕たちはその時、初めて本当の自分を開いて対面した。着飾っていたキャラクターは、薄衣のようにすとんと落ちた。


「ねぇ、何であんなことしてたの?」
「は? あんなことって?」

 体育館脇の自動販売機前に場所を移した僕らは、紙パックのジュースを啜っていた。結城が苺ミルクをストローで吸い上げる口を休め、僕に尋ねる。

「決まってるじゃない。クラスの女の子をたぶらかしてたことよ」
「別にたぶらかしてた訳じゃ。まぁ、強いて言えば……僕、個人のプライドのためかな?」

「はぁ!? うっわ最低。ちょっと近寄らないでくれる」
「なっ、なら結城はどうなんだよ!」

「え? 私? そりゃ将来いい女になる為の――」
「って、お前だって同じようなもんじゃないか! 最低だな、男子高校生の純情を弄んで!」

「なっ!? あんたにだけは言われたくないわよ、この結婚詐欺師!」
「そこまでしてないだろこの腹黒女!」

「何よ、この女の敵! ペテン師!」
「この性悪女! アバズレ!」


 僕たちの罵詈雑言は、夕陽が家路を照らす頃まで続いた。



♯ ♯ ♯ ♯ ♯



 あの日を境にして、僕たちはゲームを止めた。

 だが一度定着してしまったキャラを突然崩すのは難しく、またお互いがクラスメイトに告白されたり、遊びに誘われたり、メールを返信したりするのが面倒だからという理由で、名目上は付き合うことにした。

「おい姫乃。お前、今日も可愛いな」
「あ〜はいはい、文哉(ふみや)も格好いいわよ」

 だが何故か軽口を叩き合う習慣だけは、残っていた。
 何処を探しても、恋心はなかったと思う。

 どちらかと言えば、お互いが気の合う同性の友達といったところだった。事実、僕らはびっくりする位によく似ていた。性格が歪んでいるところとか、要領だけはいいところとか、その他にもいろいろ。

 自分が女だったら姫乃になって、姫乃が男になったら僕になるようにも感じた。ちなみに母には彼女を恋人として紹介した。

「こんにちはお母様、結城姫乃と申します」
「えっと、キャラ作らなくて大丈夫よ」

「え? な、なんのことですか? あはは?」
「くっくくく。ほ〜〜らバレた! はい、来週の映画はお前の奢りな?」

「な!? あ、あんたが事前にバラしてたんじゃないの? このっ! このぉ!」
「おまっ、暴れんなよ! お前のキャラ作りが甘いんだってば!」

「はぁ……あなたたち、お似合いね」

 それ以降、母と姫乃は妙に打ち解けて、二人でお茶をするまでの仲になった。ある時などは、家に帰ると二人がリビングで紅茶片手にケーキを崩しながら――。

「いい? 言葉で娼婦を演じ、瞳で少女を演じ、心で女を演じるの。分かる?」
「うわぁ。バブルを生き抜いた人の言葉は違いますね。腹黒具合が半端じゃない!」

「だぁまれ小娘ぇ!」
「きゃ〜〜ミワさんだぁ!!」

 その光景を見た時などは、意識に紫色の憂鬱が覆いかぶさり、思わず姫乃の将来が心配になった。

 だが母は僕の思いとは裏腹に「結婚するなら姫乃ちゃんみたいな娘としなさいね。あの娘、私みたいに度量が大きいから」と、うんざりするようなことを言う。

 そんな彼女とは二年三年と同じクラスとなり、恋人らしく二人で出掛けたり、季節のイベントもちゃっかりと楽しんだ。僕から手をつなぐこともあれば、姫乃から腕に抱きついてくることもあった。

 喧嘩も、数え切れないくらいした。
 たくさん笑って。たくさん泣いた。

 つまりは僕たちは、いつからか恋を始めていた。
 事実が形を作るのではなく、僕らの場合は形が事実を作った。

 中には芸術品を作り上げるような崇高な念に打たれて、苦しくも甘い恋をする人がいることも知っている。でもそんな恋の仕方も、ある意味、僕たちらしかった。



♯ ♯ ♯ ♯ ♯



 そうして僕らは高校を卒業し、県内の私立大学に揃って進学した。

「そう言えばお前、将来どうするんだ?」
「私? 決まってるでしょ! 客室乗務員になってパイロットと逆玉一丁ってなもんよ!」

「お前って……本当、ブレないよな」
「まぁ文哉がお父様の税理士事務所を継ぐんなら、あんたとの結婚も考えてあげなくもないわよ」

「わ〜〜うれしいな。はらぐろよめをゲットだぜ」
「ちょっ!? 誰が腹黒よ、誰が!?」

 逆玉云々の話は抜きにして、姫乃には夢があった。
 幼いころからの夢。客室乗務員になって日本を駆け巡るという夢が。

 それが僕には眩しかった。
 でもただ漫然と、目を細めてばかりいる訳にもいかない。

 僕らは大学時代はひどく勤勉家になった。

 姫乃は将来的にファーストクラス勤務を志望するらしく、語学の他にも介護の資格勉強や、ワインの勉強を始めていた。

 僕も税理士の資格を得るため大学の他に専門学校に通い、ダブルスクールの日常に身を浸し、忙しくしていた。

 そんな事情故、勉強の合間のデートの時間はお互いぐったりしていた。

「こんなに努力するのって、ひょっとして私たち初めてのことじゃない?」
「ん? あぁ、まぁ確かにな。でも望む未来を手に入れる為だし、なぁなぁじゃいられないってことだろ」

「ふ〜〜ん。文哉もたまにはマトモなこと言うのね」
「うるせ」

 社会の入り口に立ち、難関試験を前にして気づく。高校時代に僕たちが”努力”と称していたものが、実は単なる”一時的な頑張り”に過ぎなかったことを。

 努力の本質とは、それが努力であると気づかないレベルにまで、それを日常に溶け込ませること。習慣のレベルを上げること。

 習慣が人を作るとは、古代ギリシャの哲学者の言葉だが、専門家を自称する大人たちが普段行っている努力の質の高さに僕は打ちひしがれた。

 つまりは自分を知った。
 今まで自分が、どれだけ適当な奴だったかということを。

 そして思う。少なくとも、そう思えるほどには自分は成長出来ているのだということを……。



♯ ♯ ♯ ♯ ♯



 大学での季節はあっという間に巡る。

 四年の春頃には姫乃は大手航空会社に就職することが決まり、僕も税理士試験の五科目中、既に三科目に合格し(これは生涯有効となる)、資格取得までの展望が開けていた。

「もうビックリしちゃったわよ。体力試験のマラソンの時も、健康診断の採血の時も笑顔でなくちゃいけないのよ。顔の筋肉が痙攣するっての!」

「ははっ、いいじゃないか。お前、昔から作り笑顔得意だったろ?」

「へっへ〜まぁねん。しかし文哉が税理士になれそうだなんて。……御実家の税理士事務所、ご臨終ね」

「お前、もの凄く失礼なこといってるからな!」

 そんな風に軽口を叩きながら、僕たちはある寂しさに決して目を向けないようにしていた。

 残された大学での時間を惜しむように、それから僕らは思い出を作った。二人だけで温泉旅行にも出かけたし、卒業旅行にも二人で赴いた。

 姫乃が航空会社に勤め始めた後も頻繁に連絡を取りあい、フライトの都合で彼女が地元の愛知に戻ってくる時などは、予定を合せて休暇を共に過ごした。大学を卒業して一年後には、僕は税理士の資格を取得した。

 夕日を見ながら、二人の影を延ばして家路を辿る時。
 図書館で試験勉強に疲れ、二人揃って顔を上げた時。

 彼女に会うと、高校時代のそんな時にふと感じた風のような、懐かしい感触が心の肌を撫でた。僕らは久々に出会うと、学生時代の僕らのままに軽口を叩きあった。

 そして大学を卒業して五年が経ち、僕が家とは別の税理士事務所勤めを終え、兄が継いだ実家の税理士事務所に戻ろうとしていた頃。

 朝、出社前に何気なく新聞を手にした僕は、一面に記載されている内容にうすら寒いものを覚えた。

 そこには報じられていた。
 姫乃が勤務していた大手航空会社の経営破綻が。




♯ ♯ ♯ ♯ ♯




 お互い忙しくしていた為、その邂逅は前回から三か月ばかりを挟んでいた。久しく顔を見ていなかった彼女は、今、目の下に化粧では隠しきれない隅を拵えている。

「マスコミが騒ぎすぎなのよね。両親からも『大丈夫なのか』って毎日連絡がくるし。うんざりしちゃう」

 その日、彼女はいつにも増して饒舌で、いつにも増してワインを傾けた。

「でもまぁ、これもいい機会かもって気がしてさ……それで」
「それで?」

 名古屋駅から徒歩五分ほどの距離にあるフレンチレストランの個室で、僕らは対面していた。

 僕は彼女の言葉の続きを促す。期待する気持ちと、恐れる気持ち。その双方を持て余しながら。

「勧められて、海外の航空会社の面接を受けてみたの。シンガポール航空。制服が可愛いの。そしたら……受かっちゃって……」

「え? それって……」

「海外勤めになっちゃうかな。勿論、日本への便だってあるわよ。でも……あんたとこうやって会うのが、以前より大変になるかも」

 誰もいない森で一本の樹が倒れる。心はそんな静寂感に襲われた。

「そう」

 ただそう応えるのに、ひどく時間を要した。

 それからも僕たちは何かを話した。でもその細部となると、まるで覚えがない。薄い硝子を重ねて行くような……そんな寒々とした会話だった気がする。

 そしてレストランを後にした僕は、姫乃と駅まで歩いた。二人の間には、この十年感じたことのない、何かが終わってしまった空気が漂っていた。

「ねぇ、ちょっと歩かない?」

 駅の改札口を前にすると、姫乃は物憂げな声と表情で僕を誘った。僕らは何かの名残に揺れるように、周辺をあてどもなく無言でさ迷う。

 今まで過ごしてきた彼女との日々が、次々に現れては消えていく。精神には寂しさが余すことなく溶け込み、飽和状態になっていた。そこには恐らく、もうどんな感情も溶け込むことはない。

 ただ静寂の中に横たわる、喪失感が耳に煩かった。

 彼女と付き合ってきた、十余年を思う。
 僕らはあの時、まだ何も知らない、幼い万能感に包まれた子供だった。

 それが今では、二人は幾度かの失敗も経験し、具体的な社会に立脚して万能感は削がれ、ただ日常をぶら下げる毎日を送っている。

 いいも悪いもない。それが大人になっていくということ。変化していくということ。それが無限に嬉しくもあり、寂しくもあった。

 だが僕は隣にいつも、姫乃の存在を感じていた。

 幼馴染や兄弟のように長い年月をかけて育まれた関係は、芯となり核となって、僕らに兆すであろう困難や危機に立ち向かう力を与えてくれる。

 そう思っていた。そう思っていたはずなのに……。

 小さな何かが音叉を鳴らすように、僕の心に響く。
 もう本当の言葉を人任せには出来ない。


 ――僕は彼女が、姫乃が……愛しかった。


 すると突然、隣を歩く彼女が声を上げた。

「ねぇ、高校生の頃にしてたゲームって覚えてる?」
「ゲーム?」

「ほらっ、クラスのみんなを惚れさせようとする」
「あぁ、懐かしいな。確かにそんな遊びしたもんな」

 思い出は鮮明に浮かび上がった。追憶の中、それはすぐ最近の出来事のようでありながらも、その実、途方もなく昔のことに思えた。

「あの時から私たち、二人で軽口叩き合ってたよね」
「ははっ、二人ともムキになってな」

 スイートピーの花が咲くように彼女は微笑む。
 僕もそれに応じて、片頬を窪ませて笑ってみせた。

「そもそもあんたが、私に惚れないから――」
「そりゃ……当時はとっくの昔に姫乃に惚れてたからな。意地にもなるさ」



「え?」



「ははっ、ば〜か。何信じてんだよ。らしくないぞ」
「だって嬉しくて……。私も一目見たときから、あんたのことが好きだったから」





「……え?」





「くふふ、馬鹿じゃないの? 嘘に決まってるでしょ」
「なっ、お前!」


 僕らはその後もしばらく、昔話に花を咲かせた。その時々に叩いた軽口を再現しては、二人でコロコロと笑い合っていた。

 だが暫くすると、彼女は線香花火が焼け落ちるように突然口を閉じた。
 そして言った。

「ねぇ、私が海外に行ったらしばらく……。こんな風にして、軽口を叩き合えなくなると思うの」

「あぁ」


「だから最後に……。ねぇ、何か軽口たたいてよ。とびっきりのヤツを」


 それは小さく淡い微笑みだった。風に吹かれれば消えてしまう火種のようで、何故だか無性に切なくて……淋しくて。

 またその言葉は、多くの含みを持って僕に渡されていた。
 二人の思いがぶつかり合い、空中にこだまする。


「僕は多分……君がいるから恋をしたんだ」
「三十点。全然、ダメね」


「姫乃と別れた後は、いつもまた、直ぐに会いたくなる」
「ダメ。物足りない」


「姫乃、僕は君にバカなんだ」
「ふふっ。今のはちょっと良かったかも、でもダメね」


「なら……」


 僕は決心し、バターを溶かしたような濃密な塊を飲み下した後、叩いた。
 自分の生涯で、もっとも重い軽口を。


















「なら。僕と結婚しようか」


















 姫乃は形の整った眉を上げ、目を見開く。口が驚きの形に開かれ、言葉が零れ落ちる。

「え……?」

「何処にも行くな。僕の傍にいてくれ」
「あんた、それ……」

「これが、今の僕が叩ける、精一杯の軽口だよ」

 僕たちはそうして、じっと沈黙に身を浸した。闇から来た車がまた一台、何所ともしれない闇の中に滑って行く。

「姫乃は僕のこと、どう思ってくれてる?」

 僕はかつてない真剣な表情で、姫乃の目を覗きこんでいた。彼女の中で様々な思いが運動していることが、その瞳の僅かな揺れ動きから推察された。


「わ、私は。あんたなんか、あんたなんか……」


 震える二条の感慨がゆっくり頬を伝うと、彼女は口を開き、軽口を叩いた。

















「あんたなんか……大好きよ」


















 その後、僕らがどうなったかを、ここに任意の一行としては残さない。ただ彼女は日本にいて、昔と同じように僕と軽口を叩き合っている。


 でもそれだけじゃ何だか味気ないから、最近彼女と叩いた軽口を一つ。


「ねぇ、男の子と女の子だったら、どっちがいい?」
「そりゃ男だろ」

「え? どうして」
「ふふっ、だって君に似て、直ぐに軽口を叩く子になったら困るからさ」


 すると彼女は言った。





















「それって、あんたに似ての間違いじゃない?」と。


















評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ