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恐竜にはほど遠い


 どの時代であっても、生き延びるにはある程度の覚悟が必要で、そのためには他人の善意や好意、悪意や時に命でさえも全面的に踏みにじって生き続けなくてはならない。わたし達はそうやって太古の昔から生命のカノンを描き続けてきた。そんな普遍の真理なんて、今更語るほどでもないし、語ったところで誰かが聞いているわけではない。はいはいアカシックレコードアカシックレコード。

 午後十一時。
 星々だけが見下ろすことを許された、教室棟の屋上でわたしは中指ほどの長さの煙草に火をつけた。建物の外縁では、禁煙という決まりは適用されるのかどうか。これほどに下らない問いでも、明確な答えが欲しいかどうか、どれほどまで厳密性を担保するかの二点において、最適解は異なっている。
 明確で厳密であるなら教務主任の山路さんだろう。すべてを白と黒で塗り分けられる、七三分けの眼鏡が光りそうな五十路に突入しようとしている彼のあだ名は聞かないほうがいい。特に、わたしのコレクションたちからは耳をふさぎたくなるような言葉が出てくる。かわいそうに。
 とことん馬鹿な会話がしたいなら、鴫沢だろう。彼は女の深奥を燃え上がらせるような繊細さを所持している。身体が壊れそうな昼下がりに話しかけたい人物だ。きっと女生徒を何人か誑かしているような気がするが、山路さんには黙っておこう。もちろんコレクションに手を出したら殺す。絶対にだ。

 こんな深夜に授業をするわけでもないのだから、くたびれた白衣なんて着るべきではないのはわかっている。ましてわたしは化学専攻でもなければ保健体育の教師でもない。養護教諭? 盛りのついた男子生徒のダッチワイフなんてごめんだ。タンカーに山ほど積まれた重油のようなねばついた脂はすべて石鹸で消してしまいたいのだ。手が荒れるとかそういうことはどうでもいい。あれは夫だから許せるのであって、それ以外の男となんてどっちかといえば無理だし冷静に考えても無理だし控えめに言っても無理だ。

 煙を吐き出して思考を洗い流す。落ち着け。わたしの名前は何だ、言ってみろ。
 虚空に言葉が刻まれるのを耳で聞いて、思考が正常を取り戻す。浮き足立つのは身体でも心でもなく、脳だった。いや厳密に言えば身体だし神経なのだけれど。
 そういえば、今日は妙に興奮している。
 お気に入りと認識すべき、わたしのコレクションに新入りが入ったとでもいうべき状況だからかもしれない。我ながらわたしらしくない。この学園で働いているうちは鬱で、テンションが正の値に振り切れないように動いているはずだ。

 それは、はるか昔の出来事で。

 世界は常に同一で均等に流れているものだと錯覚していた過去のわたしは、自己の中にでたらめな空間が隠されていることに気づいた。それは、自律という秩序で統制されたものではなく、人間として持って生まれた脳の迷路の淀みに生まれた、わたしの中の本当の意味での野性だったのだろうと推察できる。
 結論から言えばわたしは彼女を殺した。彼女は現実世界で生き延びることができず、放置しておけるほど、わたしという存在に寛容でもなかったからだ。故に現在のわたしは統制されきっている。過去の未成熟な彼女とはおそらく、似ても似つかない存在と言えるだろう。未開の地が存在しなくなった、一億総機械化社会のようなありふれた仮説で塗り固められているだけのわたし。嘘や苦しみ、怠惰とそして悲しみをすべて引き受けて、今ここに立っているのは、わたしだけだ。

 あの日、彼女を背負って邁進する姿が原生林の恐竜にどう映っているだろうかなんて考えるのはきっと無駄なことだろうと悟っているけれど、はてさてなぜそれに固執する必要があるのだろうかと疑問に思った瞬間わたしと彼女の境界線はほどけて消えていった。彼女の温もりを感じるとともにその存在が徐々にとけ込んで消えていくのを感じ、生温い涙を流してただただ立っていた。幸いにもその日は雨が降っていて、なま暖かい滴が喪失感を希釈してくれていて、だからわたしは衝撃のあまり死ぬことがなかったのだろうと思う。

 口から吐き出された紫煙は、徐々に拡散して、学園の空気を汚していく。ここの学生だった頃は、煙草を吸う人間の気持ちがわからなかった
が、今となっては、その頃のわたしはまだまだ純粋で綺麗で、彼女に支配されつつあったのかもしれないなどと妄想を巡らせるのが精一杯である。わたしと彼女の関係は、ありふれた自意識の分裂などではない。ドラスティックに言ってしまえば宿敵のようなものだし、親友とも戦友とも少し違う、いつの日もこの胸に流れてるメロディ。強いて言うならたぶんそんな感じだ。

「いーけないんだ」

 背後から清廉な少女の声が急にしたので、わたしは思わず煙草を取り落としそうになった。
 すっきりと透き通るように白い肌、つんとすましたようなとがった鼻、飾り気のない一重まぶたがこちらを見ている。おお、いい女。
 側頭部で結ばれ緩い統一性を強いられた燃えるような赤い髪は、頭の固い人に注意されたりしないのだろうか、と注意する側の人間であるにもかかわらずどこかのどかな感想がこみあげた。校則に頭髪の色の指定はなかったはずなので、違反しているわけではないのだが。

「どこから入ってきたの?」

 喫煙している姿を見られながら、わたしは図々しくも仕事モードに戻った。まあ、社会人としてはさほど変なことではないだろうと思う。
「さあね」
 少女はふてぶてしく扉に寄りかかりながら、両手を頭の上で組んでいる。世界が自分を中心に回っていると信じて疑わないような顔だ。女の子ならばみんな、そういう年頃があるだろう。神々に祝福されつづけたあの時代を忘れることは容易にできない。わたしにも確かにあったはずだ。はっきりとは覚えていないけれど。
「夜も遅いのだから、もう寝たら?」
 わたしは非常に飽きっぽい。喫煙中ならなおさらだ。無理矢理入れた非常用電源のスイッチは、あっけなく数秒で落ちてしまった。
「冷たいねえ、それでも教師かよ」
 彼女は、そう言うと少しずつ歩いてわたしに近づいた。中途半端に磨かれた輝きが、彼女のまわりを取り囲んでいるように感じた。
 さっきまで考えていた、あの子の身体のラインは虚空に刻まれることなくあっけなく消えていった。コレクションの子同士を比べたいなんて欲求はないが、すべてを平等に愛そうという公務員的博愛精神には欠如する部分があるのを毎日身体のどこかで感じている。それ故に鼓動の音は嫌いだったりするのだ。
「時間外に話しかける貴女が悪いのよ」
「へえ、意外と気障なんだな」
 彼女はにんまりと満足そうに笑った。本当にこれで満ち足りるなら、安すぎる。もう少し付加価値をつけてやりたい。無論、わたしが。

 ああ、いやだいやだ。
 こんな小生意気な娘相手に性欲をひけらかしそうになった。社会に生きる大人としては最低の行為だろう。危うく捕まるところだ。社会に生きる以上は、自分の身体(脳も含む)はすべて自分で制御しなくてはならないのだ。とんでもなく難しいことを与えられているようでいて、ルールはシンプルなのだからたちが悪い。

「そもそも、あんた教師なんだから、あたしをみて不思議だと思わないのかよ?」
 その試すような目線は、少し懐かしい。わたしをこの道へと導くことになった、あの女教師に似ている。
「どういうこと?」
「この頭目立つじゃん。そりゃうちに髪の色を統一するような校則ないけどさ」
「まあ、確かに」
「反応薄いな!」
「別に髪の色なんか気にしたことないし」
 女の子なんてかわいければなんでもいいし、そもそもわたしは髪の色にこだわらない理由もある。
 彼女は見事な呆れ顔で静止して、
「あんた、ほんと変な教師だな」
 とつぶやいた。
「悪かったね。そういう主義なんだ」
 そうでもしないといつか壊れてしまうから、などという科白はあまりにも気障すぎて、紫煙と一緒に丁寧に拡散させた。
 そこでわたしはふと考えた。確かに、彼女を学園で見たことはない。授業中はまだしも、全学が一つの建物群に集中しているような学園なのに、記憶にないのはおかしな話だ。
「確かに、見かけたことない顔だけど……何年何組だっけ?」
 原生林を歩き回る恐竜の王者が、獲物を見つけたみたいな意地の悪そうな笑みをにんまりと浮かべ、彼女は笑った。これが絵になるから不思議だ。
「さあ、何組だろうね?」
 恐竜の王者は教えない。髪の色といい、いい度胸をしている。
「そんなこと、どうでもいいじゃん。あたしもセンセイも、同じだよ」
 いつのまにひったくったのだろう、彼女はわたしの煙草をわたしのライターで火をつけた。
 はあ、と口元が緩まり、煙が吐き出される姿を、わたしはただただぼうっと見つめる。
「貴女、名前は?」
 思わず気になって、わたしは聞いた。単なる所有欲や性欲というようなわかりやすい感情ではなく、もっと、必要に迫られたというべきか、まるで太古の昔からこの場面が一つの芝居のなかの脚本に組み込まれているかのように、当然に、必然に言葉として現れた。
 彼女はもはや、おきまりになりつつある意地の悪い笑みを浮かべ、意味ありげに視線を星空へ向けて、こう言った。

「そう言えば、なんて名前だったっけ?」

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