気がつくとそこは森の中だった。
その中を私はどうしてだか歩いていた。
意識が霧に包まれているかのようにはっきりしない。
何も考えずただただ歩く。
暗い暗い森の中を。
音が死に絶えた森の中を。
音のない森。それは明らかに異常な場所だった。
けれど、今の私にはそのことに気づくだけの思考力がなかった。
そういえば、靴を履いていたような気がするのに、いつの間にか私は裸足になっていた。
足の裏に直接伝わる、柔らかくねっとりとした感触。
――ペチャ
――クチャ
――ペチャ
――クチャ
何かを潰すような感触もある。
――ネチャ
――グチャ
――ネチャ
――グチャ
更に、何か固いものを踏み砕く感触もあった。
――パキッ
――ポキッ
――パキッ
――ポキッ
音はない。
しかし、感触から連想する音が頭の中で響き渡る。
まるで、実際にそれらの音が聞こえているかのように。
幻聴に過ぎないのだろう。
だがそれは、あまりにもリアルで、鮮明だった。
果たして、本当に音は存在しないのだろうか――
自分の足音も、虫達の鳴く声も、風にそよぐ梢の音も――
どれだけ耳を澄ませても、それらは全く聞こえない。
――自分は何の上を歩いているのだろうか……
ふと思う。
気にしない方がいい。
そう思いつつも下を見る。けれど、暗くて膝の辺りまでしか見えない。
――あれ? それじゃあ、どうして私は森の中にいるということがわかったのだろうか……
浮かび上がる疑問。
聞こえないはずの音を聞き、見えないはずの風景を知る。
不思議で不可解で理解不能。
――やめておこう……
私は気にしないよう努めた。どこに向かっているのか、全くわからないにもかかわらず歩くことに専念する。
でもそれとは裏腹に、ぼんやりとしていた意識がはっきりし始めていた。
少しずつ、少しずつ、
焦らすように。
じわり、じわり、
追い詰めるように。
意識の外に追い出そうとするほど、より強く意識してしまう。
突然、私は体を舐め回されたかのような感触に見舞われた。
あまりの気持ち悪さに総毛立つ。力が抜け、膝が震える。
無意識に体を両手で抱きしめる。
私の体を舐め回したもの――それは風だった。
生暖かくて、まとわりつくような、陰湿な風。
まるで悪魔の吐息のよう。
思わず歩みが止まる。
知らぬ間に、心臓が悲鳴を上げていた。
そして息も弾んでいた。
私は酸素を求めてぜぇぜぇと喘ぐ。
額を、背中を、冷たい嫌な汗が流れる。
不吉な予感がした。
なにか、よくないことが起ころうとしている。それを、本能が理解した。
闇が動いた。
そう表現する以外、思いつかなかった。
何かの気配を感じた。
近くに何かがいる。
――ごくり。
唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
本当は音なんてしていないのに。
何もいないのに何かがいるかのように感じる。
これも音と同じように、想像と現実の区別がついていないだけではないのか――
そう思いたかった。
そうであって欲しかった。
されど、その淡い期待は脆くも崩れ去った。
ぽん、と肩に手を乗せられたかのような軽い衝撃。
――いやっ……
心臓がとびきり強く脈打った。
今すぐにでも振り払って駆け出したい衝動に駆られた。
なのに、体は自分のものではなくなったみたいに動いてくれなかった。
気配は自分の真後ろ。
うなじに生暖かい空気が緩やかに、規則的に吹いているのを感じる。
そう、それはまるで呼吸のように――
――後ろに何が……
意を決してゆっくりと振り返る。
すると、
そこには自分のよく知る顔があった。
――お、お姉ちゃん。どうしてお姉ちゃんが……
それは昨年事故で亡くなった姉だった。
大好きな姉。優しくて、格好よくて、いつも憧れていた人。
くい、と腕を優しく引かれた。
その手は暖かくて、とても死者のそれとは思えなかった。
――ついて来いってことなのかな……
どうすればいいのか途方に暮れていた私は、姉に導かれるがまま歩き始めた。
足の裏に伝わる、柔らかくねっとりとした感触。
――ペチャ
――クチャ
――ペチャ
――クチャ
何かを潰すような感触。
――ネチャ
――グチャ
――ネチャ
――グチャ
何か固いものを踏み砕く感触。
――パキッ
――ポキッ
――パキッ
――ポキッ
頭の中で聞こえる音も倍になった。
やがて、視界がまばゆい光で白一色に染まった。
――う、そ。だって、そんな……
半球の、ドーム状に広がる黒。出入り口の見当たらない、閉じた世界。
その中はなぜか明るかった。
いや、問題はそこではない。
私は手で口を押さえて、よろよろと後退りした。
足元を踏むごとに聞こえてくる、何か柔らかくて、みずみずしいものを踏んだような、踏み潰したような音。
音が生き返っていた。違う、そこじゃない。
胃の中のものが逆流し、口の中に酸っぱいものが広がる。
目を見開いたまま、閉じることもできずにそれを凝視する。
ほんの少し前を私の手を引きながら歩いていたはずの、姉の姿を。
人体模型。そうとしか言いようのない姿を。
カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ
そいつは歯を鳴らして、嗤っていた。
それに呼応するかのように、周囲からも同じ音が一斉に響き渡った。
――なんなのよ、これ……
周囲にあるものを見て、さらに背筋が寒くなる。
それは木だった。
肉と脂の塊でできた幹に、骨の枝。それらに絡みつく蔦のような腸。葉の代わりには無数の舌。
そして枝の先端に、実の代わりとしてなのか、串刺しにされている――人の生首。
カタカタと笑っていたのは、その生首たちだった。
――ああ……
足下へと視線を落とす。
さっきまでは何も感じなかったのに、途端に猛烈な、むせ返るような臭気が辺りを満たした。
私は堪え切らなくなって、吐いた……。
視界に映る足元は、赤い沼と化していた。
脳漿や血や肉に脂に臓物、そして骨などがぐちゃぐちゃに混ぜ合わっていた。
そこへ混ざる、吐しゃ物。
まるで混沌のような地面。真っ暗な空。闇に覆われているのに明るい空間。
そして、人間の木。
幾本もの人間の木。私がいるのは人間の木の森。地面だと思っていたものは、余った材料にして肥料。私が歩いていたのは、そんなところだった。
もう、わけがわからなかった。
顔を上げると、そこには……満面の笑みを浮かべた人体模型。
そいつの口が動く。
――……ア・ナ・タ・モ・ワ・タ・シ・ト・イ・ッ・シ・ョ・ニ……――
――いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……
―――――――――――――……
――――――――――――――――――……
そして私は解体された。
私は“姉妹”仲良く一つの木へと姿を変えた……。
がばっと、勢いよく身を起こす。
全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
――ゆ、夢か……
布団から抜け出た私は水を飲みに台所へ向かった。
――それにしても、ひどい夢だったな……
歩いた後の床。そこには赤黒い足跡がついていたことに、私は気づかなかった……
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