ブラッドムーン
「あと20分ほどで皆既月食がはじまります」
隼はバイト先のテレビが言っていた言葉を思い出して空を見上げた。
台風が過ぎたあとの雲ひとつない夜空に、レモン色の月が浮かんでいる。
その下半分が、黒い紗の布をかけたように丸くぼんやりと欠けていた。年に一度あるかないかの宇宙の神秘も、コンビニ弁当を下げて、一人暮らしのアパートに帰るだけの俺にはあまり関係がない。そう思いながら視線を戻すと前方に人影があった。
上体が不安定に揺れている。若い女性のようだ。少しずつ近づいてすれ違った間、足がもつれたのか女性の体が前のめりになった。隼は反射的に腕を伸ばして彼女の体を支えた。肌寒さを感じる季節には不似合いな、薄手のふわりとした黒いワンピースの感触。酔っているのかと思ったが、アルコールの匂いではなく、じゃ香のような息苦しいほどの濃密な香りが漂った。
隼は、淡い月の光に浮かび上がったその女性の、日本人離れした人工的な美しさに息を呑んだ。陶器のような真っ白で透明な肌、高く通った形のいい鼻筋、切れ長で強い光を放つ大きな瞳。
――嘘だろう
隼は思わず心の中で叫んだ。
「ありがとう」
女性は低くつぶやくように言った。
「だ、だいじょうぶ?」
「ええ、少しめまいがして…」
女性は隼から体を離し、歩きだそうとしてまたよろめいた。
「どこへ行くの」
「駅…電車の…」
隼が今歩いてきた道だ。隼の足で五分ほどだが、ここから駅までの道は、人通りが少ない。最近はおかしな人間が多いし、物騒な事件もあとを絶たない。こんなに美しい人が、一人でふらふら歩いていて、もしも変質者にでも狙われたらと思うと気が気ではなかった。
「あの…もしも迷惑じゃなかったら送って行くよ」
女性は隼の顔をじっと見つめた。顔が熱くなった。夜でよかったと隼は思った。赤くなった顔を彼女に見られずにすむ。
「あたしはミア」
そう言うとミアは隼に体を寄せてきた。おそるおそる肩を抱いてみる。
ミアはされるままに隼に体を預けた。「奇跡」という言葉が浮かんだ。
月が三日月ほどの細さになっている。
薄着のせいだろう。ミアの体はひどく冷たい。
「寒くないの」
隼が聞くと、ミアはかすかに首を振った。偶然こんな美女に出会って、肩を抱いて歩ける。またとないチャンスなのに、うまく言葉が出てこない自分を、隼は呪った。もうじき駅のホームが見える。
「こっちが近道だよ」
そう言いながら舗装してないわき道にミアを誘ったのは、もうしばらく人通りのないところを歩いていたいという、ささやかな下心。ミアは疑いもせずついてきた。
数歩歩いたところで、またミアがよろめいた。両腕で彼女の体を受け止めると、
二人は抱き合うような形になった。すぐ目の前に、ふっくらと艶やかなミアの唇がある。隼はたまらず唇を重ねた。ひやりとした感触。隼の首に、ミアの両腕が回される。そのままミアは隼の肩口に顔を埋めた。首筋にミアの唇が触れた。隼は、歓喜で頭の中が真っ白になって、思わず空を仰いだ。
月は今、まだらな黒い染みにおおわれた、ひどく暗い赤に変わった。隼が一度も見たことがない禍々しい色だった。
改札のところまでくると、ミアが隼の耳許でささやいた。
「サヨナラ」
呆然とする隼を残して、ミアはくるりと身をひるがえすと、軽やかな足取りでプラットホームへの階段を上っていった。構内の薄暗い蛍光灯の光に照らされて、ミアの足元に、本当ならできるはずの影がないような気がしたのは、隼の気のせいだったのだろう。
黒いワンピースの後姿は振り返ることもなく、隼の視界から消えた。
隼は重い足取りで、再び家路についた。
いつの間にか月は光を取り戻し、つかの間の天体ショーは終わろうとしていた。
季節はずれの蚊にでも刺されたのか、首筋がひどく痒い。指で触ると、ぽつ
りぽつりと腫れているのがわかる。隼はぽりぽりと首筋を掻いた。(了)




