1章 予兆
日は落ちていたが、街中というものはなかなかどうして明るいものである。
蛍光灯によって照らし出される市街は、夜というものを感じさせないほどに、どこもかしこも眩しい。
そんな科学の光の下を歩く、二人の日本人と二人の異人。
タケオたちの一行だ。
『あー、おもしろかった!』
今日一日、現代日本を満喫したジルが、遊びつくしたとでもいうように全身を伸ばすようにして喜びを表現した。
すると、それに乗っかるようにラコも満足した笑顔を浮かべて言う。
『あの“ばっちんぐせんたー”が面白かった!』
『それを言うならバッティングセンターよ。でも、そうね。あの金属の棒と球が当たる瞬間の音と感触は最高に気持ちよかったわ』
『そうそう!』
日本語どころか、この世界にはどこにも存在しない言語が飛び交い、道行く人が視線を向けている。
しかし、彼女らの保護者ともいうべきタケオに焦りはなかった。
変装したジルとラコは、ただの外国人にしか見えない。
この世界の、言語を全て網羅している者なら、おや? とでも思うかもしれないが、そんな天才がこの片田舎にいるはずもないのだ。
(あとは夕飯を食べてから、より子さんに鮫島がいないかどうか、マンションの周辺を様子を探ってもらって、帰宅するだけか)
タケオが先の本日最後の予定を脳内で確認する。
“より子さん”とは、紗香の家の使用人のことだ。
現在は、タケオたちの住むマンションの一階に暮らしており、紗香の面倒をよく見ていた。
タケオの事情に踏み込んでくることは一切なく、タケオにとって、とても頼りになる隣人であるといえよう。
やがて一行は、巷で噂になっているカレー専門店へと到着する。
「ここがなかなか評判でね」などと、タケオが知ったかぶりを発揮しつつ、入口のドアを開けた。
――その瞬間。
タケオはこの店を選んだことを、骨髄まで後悔することになる。
「奇遇だなこんなところで、武雄君」
既にレジで会計するその姿は見えているが、もし姿が見えずとも、声だけでタケオが判別できる相手。
刑事の鮫島である。
タケオは眉間に皺をつくり、唇を歪ませ、顔じゅうで嫌悪を露わにした。
嫌な相手に会った。
そういうことだ。
「今からか。どうだい、席を一緒にしないか、奢るよ」
その言葉にタケオは「今、会計してただろ」と、ついつい口に出しそうになった。
いや、出してもよかったのだが、この人を食ったような態度の鮫島相手に我を見せるのは、なんとなく負けたような気がして、気が進まない。
だから武雄はこう言った。
「いえ、デートなんで」
デートの邪魔だから消えろということだ。
なお、この言葉に、えっ、と顔を赤らめたのは高崎紗香である。
異世界の法において、ジルとラコはタケオの義理の娘という立場であり、また互いの感覚的に言えば二人はタケオの妹という立ち位置。
ならばこの場にて、タケオの言うデートの相手としてふさわしいのは高崎彩香しかいないのだ。
「ふふ、つれないな」
どこか薔薇薔薇しい鮫島の発言。
だが次の瞬間、鮫島の手はジルの頭の帽子に向かっていた。
さて、このとき、油断も隙もないという言葉は、果たして“どちら”に向けてかける言葉であろうか。
というのも今日の昼、ラコがナンパ男にしたように、鮫島が不意を突いて伸ばした腕はあっさりとジルの手によって掴まれていたのである。
ジルの表情はサングラスによって判断しにくいが、口元や頬の筋肉からするに特に力を込めていないように思われる。
対して腕を掴まれた鮫島は平然を装っているが、顔はわずかにこわばっていた。
痛みを耐えているであろうことがうかがい知れる。
「ジル」
タケオの一言で、パッと手を放すジル。
解放された己の腕を抑えながら、鮫島は称賛するように言った。
「凄いものだな、魔法というのは。
他にはどんなことができるんだ? 火か水か?
――それとも異世界に行けるのかな?」
「……なんのことですか?」
タケオはしらばっくれた。
既に鮫島から怪しまれているのは承知している。
決定的な証拠さえなければ、こちらの勝ち。
いや、決定的な証拠があっても白を切るつもりであった。
魔法という証明できないものに対して、国が関わってきたとしても何ができようとは思われない。
「しらばっくれるなよ。そっちのニット帽とカツラの二人。異世界の人間なんだろ? 被り物の下にはなにがあるんだ? 角でも生えているのか?」
タケオと鮫島の視線がぶつかり、ピリピリと空気がにわかに緊張する。
タケオは、鮫島の常とは違う強硬な態度におかしいと思いつつも引くことはしなかった。
後ろを見せれば、何をされるかわからない。そんな気がしたからだ。
この状況がいつまで続くのか。
横で見ている店員は、ハラハラとしているばかりで何もしない。
すると現状を打開したのは意外な人物であった。
「お、お父さんに、れ、連絡しますよっ!」
紗香が、震える手で携帯電話を印籠のように掲げた。
極度の男性恐怖症な彼女であるから、鮫島に相対するという行為が、どれだけ勇気のいる行動であったかは説明するまでもないだろう。
全てはタケオのため。
紗香の情念は、全てタケオに傾けているといってよかった。
「それは困るな……どうやら、今日は日が悪いらしい」
鮫島はようやくあきらめたような顔をすると、ポケットに手を入れて二歩後退した。
紗香の父親は大手食品メーカーの社長。
政界にも顔が利き、またメディアにもスポンサーとして多額の金を出している。
たかが一人の刑事が、敵う相手ではない。
「帰ります」
そう言って、タケオはジルたちを連れて店を出る。
このとき、唇を噛みきり顎まで血を滴らせた鮫島が、凄まじい形相でタケオたちの背を睨み付けており、端で見ていた店員が心中でヒィと悲鳴を上げた。
しかし、このことはタケオが知り得るはずもないことである。
なお、このあとの道中でタケオが紗香にお礼を言うと、「彼女なら当たり前です」という言葉が返ってきて、タケオはいささか困惑したのだが、聞き間違えだろうと深く考えないようにした。
◆
日本中を震撼させた中学生集団失踪事件。
いまだ三名の学生が見つかっていなかったが、時というものは残酷だ。
事件は既に過去のこととなり、人々が口にすることもなくなった。
テレビのニュースでも公的機関からの続報がなければ、取り上げられることもない。
せいぜい、場末の週刊紙の一ページを賑わすぐらいが関の山だった。
しかし、知る者はいる。
――首相官邸二階、官房長官室。
中を覗けば、執務を行う席が奥にあり、部屋の左右には応接用の席、小会議をするための席が設置され、壁にはキンケラ・マルティンの絵が架けられている。
「そろそろか」
腕の時計を確認し、そう口にするのは、部屋の主である九鬼官房長官だ。
その日、官房長官室に訪れる者があった。
警察庁次長及び科学警察研究所所長、さらに初老の研究者。
そして最後に訪れたのは、九鬼にとって長年の盟友ともいうべき首相――現内閣総理大臣。
全員が集まると、Y県Y市のとある自然公園で見つかった異形の頭部についての検査結果の報告が行われた。
なお会議室を使わなかったり、首相が官房長官室を訪れるという形にしたのは、あくまでも雑談の体を取りたかったからである。
異形の頭部に関しては、それだけ極秘かつシビアな問題であるとされていたのだ。
報告をする研究者は、科学警察研究所においてヤドカリとあだ名された引きこもりの変人。ただし有能ではある。
スーツなどの一応の身なりは整えているものの、腕に時計がなかったり、髭の剃り残しがあったり、白と黒が混在した髪など、注目すれば見苦しさが目立つ姿だ。
ともすれば無礼ともとれる恰好について、首相が何かを言うことはない。
それゆえ九鬼も、『まあ研究者というものはこういうものなのだろう』と目を瞑った。
小会議をするための長机を囲んだ席で、それぞれに資料が渡され、それを見ながら話は進んでいく。
「――この地球上にこのような生物は存在しません。それどころか頭部を構成するほとんどの物質が、未知の物であるといっていいでしょう」
「信じられない、この世界とは別の生物だと」
話が一区切りしたところで、九鬼は疑問を口にした。
首相はどちらかと言えば寡黙な人間だ。
さらに自ら答えを導き出すというよりも、他人の意見から答えを探し出すということに長けていた。
だから秘書官もいない今日にあっては、このような役目は己の仕事だった。
「ですが事実です。この世には決して存在しない物質によって構成された頭部。
そしてこの生物は……そうですね、カテゴリー的には人間に類するものではないかと思われます」
「人間だと? 馬鹿も休み休み言いたまえ。先ほど君はこの世界には存在しない物質であると言ったではないか」
「いいえ、間違いなく人間です。脳と眼球は我々と似通って――いや、同じであると言っていい。さらに言わせていただくなら、この脳と眼球においてのみですが、我々日本人によくみられるゲノム――遺伝子情報を持っています」
「では何か? 日本の簡素な住宅街に突然現れたビックフットは元は日本人だったとでも? はは、面白い冗談だ」
「はい。あれは日本人が進化した可能性があると。私はそう思います」
自身なかなかボキャブラリーに飛んだ発言であったが、初老の研究者からは至極真面目に返された。
九鬼はスッと目を細める。
ここからは冗談では済まない、そういうことだ。
「……根拠はあるのだろうね」
「“異世界”ですよ。
突然、異世界から現れた。
私は詳細を知りませんがね。同日に発見された集団失踪事件の子どもたち、あれは異世界に行っていたというではありませんか。そしていまだ見つかっていない三名。彼らの内の誰かが、異世界でなんらかの事件事故に見舞われ、あのような形となって帰ってきた。そうは考えられませんか?」
「馬鹿な、あんなものを信じるというのか。あれは集団催眠だと報告が上がってきているぞ。異世界などという荒唐無稽ともいうべき話、あるわけがなかろう」
これは嘘だ。
九鬼も、異世界云々の報告を確認しており、眉唾ではあるがもしかしたら、という考えはあった。
「その荒唐無稽な物の一欠片が私のもとにあるのです。可能性を自ら狭めていては、答えなど決して見つかりませんよ」
初老の研究者の瞳からはギラギラと熱いものが見えた。
しかし、厄介は御免だと九鬼は思った。
未知の物質とやらも他に存在しないのだから技術転用は難しく、また異世界などというものがあったところで、そんな話を認めれば、一体どうなるか。
突然、異世界に誘拐されるのだ。
それがたとえ交通事故に巻き込まれるよりも、雷に打たれるよりも可能性が低いことであったとしても、国民は大いに恐怖し、政府に方策を求めるだろう。
そう、臭いものには蓋をしろとでもいうように、集団失踪事件の真相を集団催眠であるとしたかったのは、偏に世間を混乱させたくなかったからである。
解決が可能であるならばともかく、何の利益ももたらさず、混乱しか与えないものを認めるわけにはいかなかった。
「よろしいですか」
発言の許可を求めたのは、警察庁次長。
警察庁にあっては上から三番目。
しかし、役職的には地方にも力が及び、警視庁のみでしか力を発揮できない二番目の地位にある警視総監よりも、権限は上であるといっていいだろう。
九鬼も、この警察次長の男が優秀だとは聞いていた。次期警視庁長官はこの男であるとも。
何度か言葉を交わしたことがあるが、深い接点はない。
官房長官と警察次長では立場が大きく違うゆえだ。
「その見つかった学生たちの報告を読んだのですがね、少し面白いことが書いてありまして――」
首相が頷くことで発言の許可を出すと、警察庁次長が微笑を浮かべ、どこかリラックスした様子で語り始める。
優秀さの表れか、研究者もそうであったのだが、どうにも警察次長の態度が大きい気がしたのは、九鬼の勘違いではない。
だが注目すべきはそこではなかった。
九鬼が鼻についたという、余裕の笑みを湛えて警察次長が今から口にする言葉。
それは今日この日の核心ともいえる発言であったといっていいだろう。
「――学生たちは皆、魔法の存在を口にしているんですよ」
ハッと馬鹿にするように九鬼は嘲笑した。
魔法と来たか。
確かに異世界なんてものがあるのなら魔法もあるかもしれない。
だが――。
「それで? 誰か魔法を覚えて帰って来たのか?」
「いえ」
これには堪らず、九鬼は盛大に笑った。
しかし、話はそれで終わりではなかった。
「過去にあるんですよ。もう一件。異世界から帰って来たという人間が。
その者がですね、一度戻ってきて、また行方不明になったということがあったのです。
これの詳しいところは、Y県の科捜研にて件の人物が人の常識を超えた力を発揮して、腕の一振りで……いいですか? 腕のたった一振りで屈強な警察官二人を軽々とメートル単位で吹き飛し、そののちは煙のように消え去ったとのことです。
もっともこの件は、当該警察署が少々改ざんをして報告してますがね。逃亡の際には警察側が保管していた武器を奪われており、あんまりな失態でしたから。
ああ、その人物は再び帰ってきてますのであしからず」
もう笑うことはできなかった。
全国の警察に力が及ぶ警察次長であるからこそ知り得る情報だったのだ。
「つまり何か? 仮にその人並み外れた力を魔法と仮称するのなら、魔法を体現する者がいるということか」
「ええ。名前を武田武雄。今回失踪が起きた学校にかつて通っていた生徒です」
――利益。
魔法という利益が、提示された。
閉じられた蓋を開けるに足る、よく審議すべき事項だ。
「首相」
九鬼が顔を向けると、首相は神妙に頷いた。
この後、首相は新たな機関の調査機関の必要性を判断し、今度、創設される宇宙庁の中に「宇宙生物科学班」なる部署が新たにつくられることになる。
10/17の書籍発売に際しまして、活動報告にキャラクターのラフ絵を載せておきました。
また前回の活動報告には書影が載せてあります。
今回書籍のイラストを担当してくださったのは丘さんという方なのですが、どれも超かっこいいです。
是非ご覧になってください。