1章 さらなる始まり
朗らかな日曜日の昼下がりのこと。
とある市街を、「それでさー」「まじかよー」というような、いわゆるチャラい言葉を使う、格好もチャラい二人の若い男が歩いていた。
互いの呼び名はジョニーとジャック。
もちろん本名ではない。
ここは日本で、彼らはれっきとした日本人。
外国人のような呼び名は、ただの痛々しいあだ名だ。
どちらも高校生であり、勉学や部活などには一切囚われない自堕落で薔薇色ともいうべき青春を、日々余すことなく謳歌していた。
「お、飯でも食ってくか」
「いいね」
そんな彼らがファミレスに入ると、思わず「ヒュー」と感嘆してしまうような美少女が目に留まった。
黒髪の美しい少女。
年の頃は同じ高校生であろうか。
テレビに映るアイドルのような――いやアイドルにも負けていないと自信を持って言えるほどの美少女だ。
なお、その黒髪の美少女と同席しているのは二人。
一人は黒髪の美少女の隣に座る、ニット帽にサングラスをした、あからさまに怪しい少女。
もう一人は、黒い髪……ではなく、色つやからしてカツラを被っている、他の二人よりも幼く見える少女。黒髪の美少女の向かいの席に座っている。
ジョニーとジャックは顔を見合わせると頷き合い、その三人の少女がいる机に近寄った。
「ねえ、君たちどこの学校?」
まず先手をとったのはジョニー。
会心のスマイルで声をかけた。
もちろん、目当てはアイドル顔負けの黒髪の美少女である。
だがこれに対する黒髪の美少女の反応は芳しいものではない。
彼女は、ひっ、という小さな悲鳴を漏らして、長椅子の隅に後ずさった。
ジョニーは胸中で舌打ちする。
初見で怖がられた場合、ナンパの成功率はぐんと下がるのだ。
「いや、俺こんな格好してるけど、マジ、中身はすげえ真面目だから! だから怖がることないって!」
ジョニーの必死のあがき。
撤退しようかどうしようか迷ったが、早々に諦めるには目の前の黒髪の美少女はあまりに上玉すぎた。
すると返事は別のところからやってくる。
『ちょっとサヤカが恐がってるでしょ。どっかいってくれない』
サングラスの少女の言葉。
日本語ではなかったことにジョニーは驚きを隠せない。
内心では、まさか外人だったとは、とビビっていた。
唐突に外国人から道を訊かれるような心境、と言えばわかりやすいだろうか。
なにせジョニーの偏差値は28。
ジョニーなんてグローバルな名前を名乗っているが、知っている英語といえば、じすいずあぺん、あいあむあすちゅーでんと、くらいなものである。
(どうしようか。さっさと退散するべきか)
ジョニーは頬に一筋の汗を垂らしながら考えた。
黒髪の美少女はこちらを避けるように、長椅子の端で顔を伏している。
はっきりいってもう望みはないといっていい。
視界の端を見てみれば、相方のジャックはもう一人の方にちょっかいをかけていた。
あいつはロリコンのけがあるので、かつらを被った幼顔の少女はストライクなんだろうな、とジョニーは思った。
ならば、俺ももうちょっと粘ってみるか。
そう決心した瞬間である。
『さっさと消えろって言ってんのよ! このタコ!』
またしてもサングラスの女。
訳がわからない言葉であったが、感覚的に悪口を言われているということだけはわかった。
だが、へこたれない。
こうなれば意地だと思い、サングラスの女を無視して、ジョニーは黒髪の美少女へと話しかける。
「ね、ねえ、そんなに怖がらないでよ。どこの高校? 今日がダメなら、また落ち着いた時でいいからさ、ケー番かメアド教えてよ。そうすればいなくなるから――」
『紗香が怖がってるのがわからないの! どうでもいいから、消えろって言ってんのよ!』
パンッという音がした。
またもや邪魔したサングラスの糞女。
しかも今度は頬を叩かれた。
ジョニーは気の長い方ではない。
だが、今この時に限っては、怒りは微塵もなかったといっていいだろう。
逆に、これで退散の理由ができた、と安堵の思いがジョニーの胸にはあった。
世の中はきっかけだ。
たとえば、店員が止めに来たらさっさとナンパはやめていた。
スタートがあればゴールがあり、何かをやめるには、それなりのアクシデントがいるのだ。
だから、ナンパをさっさとやめるためにジョニーはこう言った。
「うるせえ、このブス!」
はい、これで終わり。
あとは、「ちっ、無駄な時間を過ごしちまった」とでも言って去るのみ。
ところが――。
「いで、いででででで! いてえっ、ギブギブ! ちょっマジいてえからっっ!!」
その声は隣から聞こえてきた。
横を見てみれば、幼顔の少女が相方の前腕を掴んでいる。
ジャックは尋常ではない痛がりようだ。
どれだけの力で掴めば、それほど痛がるのか想像もつかない。
振りほどくことすら、できないようである。
するとジャックは、痛みに耐えかねて、もう片方の腕を幼顔の少女に振るった。
女に暴力を振るうことは腐った行為だ。
されど、あっという間の出来事で止める暇もなかった。
ジョニーはその拳が幼顔の少女の顔に突き刺さる未来を幻視する。
だがそうはならない。
相方ジャックが振るったもう一方の腕も、幼顔の少女に容易く掴まえられたのだ。
その一連の様子に、ジョニーは目をこれでもかと見開いた。
普通じゃない。何かがおかしい。
そんな焦燥にも似た不安が、ジョニーの胸の中に渦巻き始めていた。
なんにせよ、相方のピンチだ。
止めなければならない。
「おい、やめ――」
やめろ! とジョニーが言おうとした時である。
肩に手が置かれた。
ジョニーはこれが救いの手だと思った。
いよいよ店員でもやって来たのだろうと。
もちろん、そんなわけはないのだが。
「僕の妹がブスだって?」
背後から怒りのこもった声が聞こえ、ミシリと肩が悲鳴を上げた。
◆◇
『まったく、タケオは来るのが遅いんだから。おかげで、“ふぁみれす”から出るはめになったじゃない』
『ごめんごめん、トイレが混んでたんだよ。それに食事は済ませていたんだから、いいじゃないか』
ぷんすかと怒りながら通りを歩くサングラスの女――ジルと、その斜め前を行くタケオ。
「私は、武雄さんが物語の王子様のように、私を助けにきてくれただけで十分です」
タケオの後ろ、すなわちジルの隣。
申しわけなさげにタケオの上着の裾を摘まみながら、守られるように歩くのは紗香。
「は、はは……」と苦笑いを浮かべるタケオの隣では、『ほえー』と黒のカツラを被ったラコが、市街の様子を珍しそうにキョロキョロとしていた。
さて、タケオと紗香はともかくとして、何故ジルとラコがここにいるのか。
それについて説明しなければならないだろう。
こことは違う世界にある都市においては、所属する国家《コエンザ王国》の領土防衛戦争が終わってしばらく経ち、それなりに落ち着きを取り戻していた。
しかしタケオが開く学校《カシス全民校》が依然として再開していないのは、いまだ出ていった亜人たちが戻ってきていないからである。
そのため同学校に通っていたジルとラコは暇にしており、日本に遊びに来ては、新しく知り合った紗香がその遊び相手となっていた。
ジルもラコも、成長したとはいえ、まだまだ好奇心旺盛な年頃。
加えて、自分たちが住んでいた場所よりも、はるかに文明の発展したこの日本。
テレビ画面を前にワクワクするだけでは満足できなくなり、遂には外に出てみたいとタケオにわがままを言い始めた。
これにタケオは悩んだ。
二人の姿は明らかに目立つ。
とはいえ、願いは叶えさせてやりたいし、二人には自分が育ったところを見てもらいたい。
そこで『まあ、変装させればいいか』という安易な考えのもと、タケオはジルとラコを連れて市街を案内することにしたのだ。
言うまでもないことであるが、鮫島には見つからないように、細心の注意を払ってマンションを出てきている。
また、当然のように紗香もついてきた。
午前中は映画館に行き、ファミレスで昼食をとった。
そして今に至るというわけである。
『ねえ、お兄ちゃん! 次はどこに連れていってくれるの!』
『じゃあ次は……お、あれなんかどうだろうか』
タケオが指差した先。
棒と球が描かれた看板が掛けられた大きな建物からは、カーン、キーン、という甲高い音が聞こえてくる。
そこはバットにてボールを打つという、つまり野球のバッティングを行う遊技場――バッティングセンターであった。
ぞろぞろとバッティングセンターに足を踏み入れるタケオたち。
奥に進むと、幅広の廊下が真っすぐに延びて、片側には観覧用のベンチ、もう片側にはバッティングボックスへと繋がる扉が並ぶ。
窓ガラス越しに見えるバッターボックスでは、ピッチングマシーンから投げ込まれる球を、なんとか打ち返そうとしている若者たちが見えた。
「へー」「うわぁ」と興味深そうに辺りを窺うジルとラコ。
その眼は、面白そうなオモチャを見つけた子どものようにキラキラと輝いている。
『わかったわ、向こうからくる球を棒でぶったたく遊びね! おそらく、そうね……場所によって球の速度が違うはずだわ!』
『ご名答だ、ジル』
『さっすがジルお姉ちゃん!』
見たままのことを、さも素晴らしいものを発見したように言うジルに、それを褒め称えるタケオとラコ。
仲のいい者たちというものは、たわいのないことで盛り上がれるものである。
こういったやり取りも、タケオたちが非常に良好な関係を築いている証左であろう。
『じゃあ一番速いのはどこかしら』
品定めするようにウロウロとするジル。
球速が書いてある文字はわからなかったが、現在遊戯している者の、球の速さは見ればわかった。
奥に行けば行くほどに、速くなっている。
つまり、一番奥が一番速いのだろうと当たりをつけた。
あっという間にたどり着いた一番奥のバッターボックス前。
うずうずわくわく、そんな表情を顔に浮かべて、ジルは扉に手をかけた。
と、そこに声をかけた者がある。
「おい、そこは160キロの特級品だ。素人が入るんじゃねえぜ。看板が見えねえのか? 『素人お断り』って書いてあるだろう」
廊下の奥の用具室から出てきたエプロンを着た中年の男性。ネームプレートに店長と書かれているとおり、このバッティングセンターのオーナー兼店長である。
若い頃は野球をやっていたスポーツマンであったが、今の恰幅のいい体格にその面影はない。
『……?』
自分に向けられた言葉であるということは察したが、しかしジルは日本語がわからない。
そのためタケオの方へと振り向いた。
『ああ、うん、ここは球が速いから、慣れてない人は危ないって』
負けん気の強いジルである。
タケオは店長の言葉を伝えようかどうしようか迷ったが、結局そのまま伝えることにした。
『ふーん、面白いじゃない。ま、見てなさいよ』
「お、おい!」
店長の制止を聞かずに、バッターボックスに入っていくジル。
端に差さっていたバットを手に取って、構えた。
しかし幾ら待てども球は来ない。
『ちょっと、どうやったら球が出るのよ!』
タケオはやれやれと百円硬貨を渡して、そこに入れるんだよと、バッターボックスの端に設置されたお金を入れる機械を指差す。
間もなくチャリンと硬貨の音がして、ジルが再び構えた。
◆◇
「ち、知らねえぞ」と、店長は不機嫌な面持ちで腕を組んでいた。
その場に留まっていたのは、別にジルが打つというのを期待したわけではない。
己のいうことを聞かなかった相手が、どんな滑稽な姿をさらすのか、笑ってやろうというのだ。
まあ、ただの退屈しのぎであった。
だが、ジルが構えると、「へえ」と店長は片眉を上げた。
野球の打者の構えとは少し違うが、女の癖に様になっている、と思ったのである。
「剣道でもやっていたのか?」
ジルたちのグループで一番年長で日本人でもあるタケオに呟いたつもりであったが、それはラコの『お姉ちゃんがんばれー!』という声にかき消される。
結果としてタケオに無視されるという恰好になり、店長は顔をわずかに朱に染めた。
なんにしろ、ジルの構えはどこか剣道を想起させた。
もっとも店長自身、剣道なんてやったこともないが。
だがまあそれだけだ。
様にはなっていたが、所詮は女。
女子スポーツの一流選手が、プロ野球の始球式で女の子投げを披露することなどよくある話。
(この女も何かやっていたようだが、野球は他とは違う。身の程を知るがいい)
店長は嘲るようにニヤリと笑った。
ところが、である。
ビュッと160キロの球が放たれた瞬間、カキーンという快音が轟いたのだ。
そしてジルから放たれた、余裕しゃくしゃくのこの一言。
『ふん、簡単すぎてあくびが出るわ』
なお、言葉に反して、ジルの顔は楽しげにニヤついていたことをここに記しておく。
続いてカキーン、カキーンと快音が鳴り、タケオが「あのパネルを狙うんだよ」と当てると景品がもらえるラッキーパネルを指差すと、三球調整を済ませたあと、見事に打球でパネルを打ち抜いて見せた。
そこからは全球ホームランパネルに当てた。
「う、嘘だろ……」
店長は目を丸くし、その声は知らず知らずのうちに震えていた。
プロ野球選手もビックリのバッティングである。
今すぐにメジャーでも通用するのではないか、まさに女版の大●君だと心底驚嘆していた。
『お姉ちゃんボクも!』
続いて、ラコ。
その小ささに店長は、「無謀はやめろ」と言いそうになったが、その言葉は喉元まで出かかったところで飲み込んだ。
先ほどの、ジルという前例がそうさせたのである。
――それは正しかった。
ラコは一球目でバットに当て、二球目からは快音を響かせた。
ラッキーパネルには一度も当たらなかったが、今度もまたプロ野球選手も真っ青の鋭い打球ばかりである。
「ば、馬鹿な……」
店長は目の前の光景に、もう開いた口が塞がらなかった。
だが信じるしかない。
というか、凄すぎる。
ならもう一人も。
その視線を向けられたのは、タケオではなく紗香。
これはジルとラコが、女だったからに他ならない。
また、店長の視線に誘われるように、皆の視線が紗香に集まっていく。
いたたまれなかったのか、それともタケオにいいところを見せたかったのか。
紗香は特に何も言われていなかったのに、「や、やります!」と口にしてバッターボックスに入っていった。
そして――。
「きゃあ」
紗香の運動神経は悪いほうではない。
しかし、紗香はバットなんて振ったことのないお嬢様。
どてーんと尻餅をついて、「そうそう、これが見たかったんだ」と店長は満足そうに頷いた。