6章 同郷の者
――コエンザ王国暦五百三十八年。
その日、アルカトの空を雨雲が覆い尽くし、大地に大粒の雨を落としていた。
雨は大地を叩き、無数の雨音となって外界に存在する数多の音を消していく。
しかし、消せないものもあった。
「きた……っ!?」
一人の獣人が、耳を震わせた。
その者は北側に放っていたアルカトの索敵兵。
そしてその耳が捉えたのは、四万を超すウジワールの大軍であった。
「ウオオオーーーーーーンッ!」
降りしきる雨にも負けず、ウジワール襲来を知らせる遠吠えが、狼煙のごとく天に上がる。
するとアルカトにまで配置した獣人らが次々に咆哮し、それらは線となってアルカトに届いた。
「来たか……」
雨に打たれながら、城壁の上にて一人呟いたのは、コエンザ王である。
その目は、未だに敵の見えない彼方を見つめていたが、やがて振り返り城内へと視線を移した。
既に手筈は整い、王の命を受けることなく、各々の隊はそれぞれの行動に移っている。
「まさか、国の存亡をかけた斯様な戦いがワシの代で起きるとはな」
この時、王が己を“余”と称さなかったのは、自らが大乱をおさめる王の器ではないと思ってのことだ。
そして王は、フフッと自嘲するように笑みをこぼす。
ここに至っては己にできることはなく、コエンザの命運は配下を信じるしかない。
そんな己の無力を、王は嘲笑ったのである。
しかしこれより始まるのは、王どころか、この大陸で誰も想像もし得なかった戦いであった。
国の命運、大陸の命運、種族の命運、宗教の命運。
あらゆるものをかけた戦いが、ここアルカトにて始まるのだ。
雨粒の向こうに姿を現したウジワール軍。
城攻めでありながら、寡兵の奴隷部隊のみを進軍させたのは、その強靭さゆえだけのことではない。
第一の理由を挙げるのならば、アルカトの強大な城壁の前にずらりと並んだコエンザ軍こそが、それであろう。
ウジワール軍は大軍で押し寄せて、コエンザ軍が城の中に隠れることを嫌ったのである。
「作戦の第一段階は成功か」
一軍にて進むウジワールの奴隷部隊を視界に捉えて、安堵の声を発したのは、コエンザ軍の先頭に立っていたタケオである。
タケオは振り返り、自軍に相対した。
その眼前にある自軍の陣容は、まず先頭に魚鱗の陣を組んだ亜人兵が一千と百、その少し下がったところに騎馬隊が二千五百、さらにその後ろに九千の歩兵が並ぶ、というものだ。
また、その他五百の兵とアルカト住人の中でも戦いに不向きな者達が、城壁に上って敵の攻城戦に備えている。
「亜人兵はこの場に待機せよ!」
タケオは、己が率いる亜人部隊に動かないことを命じると、悠然とした足取りで一人前に出た。
そして、おおよそ二百歩で足を止め、大きく息を吸い込んだ。
「コエンザ軍の最強の戦士はここにいるぞッッ!! 我こそはと思わん者は出てこいッッ!!」
雨雲を消し飛ばさんとするほどの激烈な叫びであった。
するとウジワールの奴隷部隊の進軍は次第に緩やかとなり、やがてタケオから二百歩の位置に止まった。
さらにその中から一人前に進み出たるは、先頭にいた人間――黒髪黒目の若い男である。
男は一人タケオへと近づいていき――十歩ほどの間から突如加速した。
だが、タケオに油断はない。
男がまるで素人のように大きく振りかぶったところで、自身も前に出るやいなや、右手に持った剣による横凪ぎの剣を振るった。
狙ったのは首である。
タケオは剣が男の首に届く瞬間、その首が落ちるのを幻視した。
だがタケオの必殺の剣は、仰け反った男の顎を掠めるにとどまった。
完全なるタイミングで、速度も申し分のない斬撃だったにもかかわらずに、だ。
タケオの剣を避けた男は、飛び込んできた勢いを一足のみで殺して後方に飛ぶ。
しかし、タケオが逃がさない。
タケオは男を追うように踏み込み、男の胴めがけて斬りつけた。
男の胴には鎧があったが、タケオにとってそんなものは、熱したナイフでバターを斬るのと大差ない。
ただ避けられにくいところを斬る、それだけであった。
そして聞こえたのは、鎧を断つ音でも肉を斬る音でもなく、ガキンという金属音。
タケオの瞳には驚愕の色が映った。
なんとタケオの剣は、目の前の男の剣に止められていたのである。
(馬鹿な……)
あらゆる魔物をほふってきた、驚異的な膂力を持つタケオの剣を止めた男。
その外観は、身長こそそう変わらぬ相手ではあるが、その体格はタケオよりも劣っている。
つまりこれは、男の魔力がタケオよりも上であることを示していた。
「ぐぅっ!」
タケオがどれだけ力を込めようとも、男の剣はびくともしない。
「ククク、ハーハハハハッ!!! イイゾ! オ前ハコレマデデ、一番ツエエ!」
命のかかった戦いにおいて、大口を開けて笑うほどに、余裕を見せる男。
「ホラモットチカラヲイレ――ッ!?」
瞬間、タケオは力を抜き男の剣を流した。
力の均衡が一気に崩れ、男はつんのめる。
タケオはそのまま独楽のように回ってその顔面を狙い、だがそれすらも、敵のよろけながらの剣に弾かれた。
尋常ではない反応、尋常ではない力。
タケオは仕切り直しとばかりに男から距離をとった。
「ツエエナァ、オマエ」
ニタリと笑みを浮かべながら男は言う。
しかしタケオとしては、それはこっちの台詞だ、という思いだ。
剣技はこちらが上、しかしそれを物ともしないのはやはり圧倒的魔力の差であろう。
(まさかこんな人間がいたとは……)
最難関と呼ばれた『死へと繋がる迷宮』を踏破したただ一人の探索者がタケオである。
自分より強い者はいないのではないかと、タケオはどこかで思っていた。
つまるところ自惚れていたのだ。
そして今、初めて目にする自分よりも強いかもしれない男。
「ドーシタア? ソレデ終ワリカア?」
男はニヤニヤとした笑みを浮かべ、剣を構えようとすらしない。
――とそこで、タケオはふとあることに気づいた。
男の訛り、それは訛りというよりも言語力の不十分さである気がした。
加えて、己同様の黒髪黒目。
黒髪黒目自体はこの世界でも別に珍しくはない。
だが、一つの裏付けるピースでもある。
最後に高い魔力。
これについては、以前、紗香を救出した際にミリアと話したことがあった。
向こうの人間は皆、魔力が高いのではないか、と。
タケオは、まさかと思った。
『……お前は日本人か』
タケオが発したもの、それは日本語である。
「――ハ?」
タケオの投じた思いがけない言葉。
男は間の抜けた声を漏らし、両者の間にあった戦いの空気が止まった。
「……オイオイ、マジカヨ、オイ!」
興奮。男は唇を大きくつり上げて――
『――どーりで、強いはずだ。同じ産地なんだからな』
――その口から発せられたのは、やはり日本語であった。
タケオは予想外の展開に、ゴクリと喉を鳴らして言う。
『僕は日本に帰る手段を知っている』
『……で? だーかーらぁッ!』
尋常ではない速さで男が飛び込んでくる。
それは間違いなくタケオよりも速い踏み込み、そして剣。
互いの剣が一合二合三合とぶつかり、やがてよろけたのは男の方であった。
『ちぃっ!』
男が舌打ちする中、タケオの繰り出した前蹴りが男を吹き飛ばす。
『糞がっ!』
悪態を吐きながら、男は後ろ手に付いた片腕の力だけで、一瞬にして跳ね上がり体勢を整えた。
タケオを警戒しての素早い立て直しである。
しかし、タケオは追撃しようともせず、男に語りかけた。
『お前の他にもこの世界に飛ばされた奴はいるのか』
『ああ?』
タケオを睨み付ける男。
『どうやってここに来た。何故、ウジワール教に与している。他にもウジワール教に日本人がいるのか』
タケオは矢継ぎ早に問いただす。
しかし、妹のことは聞けない。
それは自身の弱点になり得るからだ。
『ふんっ、俺“達”はみんなあの糞みたいな宗教の一員よ』
男は吐き捨てるように言う。
タケオは男が『俺達』と言ったのを聞き逃さなかった。
男の年は若くみえる、さらに男と同じ立場の者も複数いる。
(おそらくは、いや間違いなく妹のクラスメイト)
そして男は初めて剣を構えた。
それは油断の一切を捨てた証拠である。
『あくまでも敵対するつもりか。
……人質か?』
――人質。
男に首輪はない上、実力は恐ろしいものがある。
つまり、この目の前の男は逃げようと思えば、簡単に逃げることができるのだ。
では、なぜ逃げないのか。
逃げないのではない、逃げられない理由があるのだ。
こちらが提示した、日本に帰れるという条件を男が撥ね付けたことがそれを裏付けている。
日本への帰還を条件として、戦いに参加しているという可能性もあったが、それならば同じ日本人であるタケオからの提案に興味を示すはずだ。
ならば、クラスメイトという人質をとられ、仕方なく戦っているという考えに行き着くのは当然の帰結といえた。
『人質ぃ〜? はっ!』
だが、男は人質という言葉を笑い飛ばす。
『人質とか笑わせんなよ!
俺は好きで人をぶっ殺してるんだ!
お前だってわかるだろーが!
この世界には魔法がある! おまけに俺達地球産は魔力がここの奴等よりもブッちぎってるときたもんだ!
この世界はよ、最高なんだよ!』
そして、男はタケオに飛び込んできた。
タケオと男、互いに剣をぶつけながら、男が叫ぶ。
『日本じゃあ、俺みたいな不良の未来なんて明るくねえ! だがこの世界はどうだ!
俺は最強だ! 俺は英雄だ!
おまけに力さえあればなんでも手に入る!
教皇とかいう奴は、俺に国をくれると約束したぜ!
暴力が喜ばれる! 人を殺せば誉められる!
まさに理想郷ってやつだ!』
愉快そうに笑いながら剣を振るい続ける男。
それをいなし、かわし、そして自らも必殺の剣を放つタケオ。
斬り結んだ回数は数知れず、時間にすれば僅かのことであったが、その密度は異常なほど濃密であった。
もはや誰も入り込めない二人の世界。
雨粒が静止していると錯覚するような世界で、二人は刹那の時間を奪い合うのだ。
力では男が勝り、経験と技ではタケオが勝る。
互いに必殺の剣をぶつけ合うが、勝負はつかないでいた。
己の視線の先で行われている熾烈極まる戦い。それをライナが、食い入るように見つめていたのは仕方のないことであろう。
なぜならその一騎討ちは、まさに最強対最強の戦いと呼ぶに相応しいものであったからだ。
ライナは己があの場にいればどうなるか、と考える。
すると、剣を打ち合うことすらできずに、忽ちに己が首を刎ねられている姿しか頭に浮かばなかった。
「な、なあ、タケダの旦那が勝つよな……」
心配そうにライナへと声をかけるのは狼族の男、アルダル。
それに対しライナは、わからないとだけ答えた。
それだけ二人の実力は拮抗しているのだ。
「もし、もしもだぞ? 旦那が負けちまったら俺達はどうなるんだ……?」
ライナは近衛騎士団長との試合にて、タケオの力を目の当たりにし、決して負けるわけがないと高を括っていた。
だが蓋を開けてみればどうだ。
相手もまたタケオに並ぶ最強であった。
「……その時は、あたしらの敗けは確定だろうね」
命あっての物種。勝ち目がないのなら逃げるしかない。
だがどこへ?
奴等の目的が大陸の制覇であるならば、一体どこへ逃げればいいというのか。
ライナはタケオが敗けた際の方策を巡らしたが、結局はここで戦う他ないという答えに行き着いた。
するとその時、拮抗していたタケオと男、両者の形勢が僅かに崩れ始める。
――押し始めたのは、敵の男であった。
『くっ!』
苦しげな声がタケオの口から漏れる。
男の剣がタケオの頬を掠めたのだ。
いや頬だけではない。
鎧と籠手には既に大きな傷跡があり、さらに体の所々では服が破れ、そこから血が流れ出ていた。
タケオは明らかに押されていたのである。
『どうしたどうした!』
嘲るような強者の笑みを顔に張り付けて、男は剣を振るう。
力しかなかったはずのその男は、この戦いの中で経験と技を磨いていったのだ。
『もう、おしまいかぁ?』
その言葉の通り、タケオにとって絶体絶命といっていい状況。
もしかしたら次の瞬間には、死んでいるかもしれない事態であった。
――このままでは負ける。
タケオはそう思った。
だが、負けるわけにはいかない。
タケオには多くの者の運命がかかっているのだから。
何よりも漸く妹の、由利子の手がかりが見つかったのだ。
すると、タケオはポツリと言葉を漏らした。
『武田由利子』
すると、男は顔をしかめて距離をとる。
『……なんでお前がその名前を知っている』
『さあ、なんでだろうな』
『行き来できるようなことを言っていたな。テレビのニュースで観たのか?』
『……』
タケオは答えない。それどころか、その顔はこれまでにないほどに感情というものを無くしていた。
『いや、ならなんで武田なんだ? たまたま名前を覚えていたのが武田だったのか?』
ぶつぶつと自分に問いかけるように、またタケオに問うように男は言った。
――その時である。
タケオが正眼に構えていた剣から左手を離し、右手でもって下ろしたのだ。
なにを、と男は思ったであろう。
二人の戦いを見ていた者達も、戦いの最中に何故剣を下ろすのだと思った。
しかし違う。
右側面へゆっくりと下ろしたかに見えた剣ではあったが、それを持つ右腕の肘は、しかと屈折していた。
そしてタケオは、全力をもって剣を大地に突き立てたのである。
結果、勝負はあっさりと決した。
大地に突きたったはずの剣ではあったが、大地にはそんな痕跡は一切ない。
そう、その剣先は黒い水溜まりを介して、男の腹を抉っていたのであった。
『ガハッ』
大量の血を吐き出す男。
タケオの剣は鎧を容易く貫き、致命の重傷を与えていた。
それはタケオにとってまさに虎の子の一撃。本当の奥の手。
(危なかった……)
タケオの頬から、顔をしたたる雨の滴とは別に、一筋の水滴が垂れた。
それは雨によるものではなく、タケオの身体から出たもの――冷や汗である。
(先ほどの意識の外から放った剣。
もし胴でなく四肢や頭を狙っていたなら、避けられていた可能性があった)
あの超一瞬で男は反応せしめたのだ。
しかし、タケオの狙った箇所が胴という大きな的であること。
その胴が四肢の土台であること。
それらが、男に避けることを困難にさせていた。
加えて、身体をねじり避けようとしたことが男の事態を悪化させてしまう。
それがいけなかった。
避けきれずに刺さった剣は、己の避けようとする身体の動きによって、内臓をかき混ぜるように大きく傷つけたのである。
『ここまでだ。もう魔力は練れまい』
内臓がこぼれ落ちないよう腹を押さえる男に、タケオは告げた。
目にはもう力はなく、もはやいつ死んでもおかしくない状態。
男に今なお息があるのは、魔力が命を留めているにすぎなかった。
『兵を指揮していたのはお前か』
その質問に、男は静かに頷いた。
『お前が死んだら奴らはどうなる』
『い、いちば、ん……う、後ろの奴、が……ひきつぐ』
簡単な話だ。
教皇が前もって指揮者を決めて、その命を聞けとでも奴隷達に命令していたのだろう。
『お前の仲間、生徒達はどこにいる』
『コエンザの……し、城の、ち、地下……ひ、人質、に……』
『教皇は』
『し、城に……』
『城のどこかはわかるか?』
男は首を横に振る。
『なにか言い残すことはあるか』
『ひ、ひと、質のために……戦ってる奴が……い、いる』
半死半生、息も絶え絶えな様子であった。
だがそれでも男は必死に話した。
『そいつ、は俺とは、ち、ちがう……だから、た……すけて……やっ、やってくれ、たのむ……』
『それだけか』
『ああ……』
男は目を閉じた。死を待っているのだ。
『お前の名は』
『ま、まつ……むら、けんいち……』
タケオが剣を一閃する。
すると、くるくると首が舞って、その身体はドサリと大地に倒れた。
「ウオオオオォォォォーーーー!!!」
「大将がやりやがったぁっ!!」
背後から沸き上がる歓声。
それと同時に、ウジワールの奴隷部隊が群れをなして動き出した。
タケオは松村が使っていた剣を手に取ると、それをゴルドバの剣と天に向かって交差させて叫ぶ。
「全軍突撃ィ!!」
オオオッ! というけたたましい叫び声と共に、後方からも大地を踏みしめる轟音が鳴った。
両軍はタケオを目指してやってくる。
その僅かの間、タケオは松村のことを考えた。
松村は、助けてやってくれと、頼むと言っていた。
誰かのために願ったのだ。
最初、狂人かなにかだと思っていた。
だが松村は狂わざるを得なかったのではないか。
人質を救うために狂わざるを得なかったのではないか。
――そうタケオは思った。
前回の感想返しは明日します、ちょっと眠くて……
すいません_(._.)_