6章 前夜
(ああ、やはり……)
タケオの手にある白い仮面。
それを見た瞬間、紗香の心に染み込んできたのは、焦がれていたものに漸く出会えたかのような感動であった。
(タケオさんがを私を救ってくれた方……仮面の方だったんだ)
知っていた、わかっていた。
けれども所詮それは、紗香一人が信じていたものである。
しかし今、タケオが真実を語った。
すると先程、心の髄にまで染み込んだ感動が言葉では言い表せないものにまで昇華して、紗香の身体中へと広がっていく。
そして、紗香の瞳からはポロポロと涙が流れた。
「嘘をついていてすまない」
目をつむり、頭を一つ分下げて謝るタケオ。
違う、謝る必要なんてない。
そう思い、紗香は否定するように首を振る。
そして、へたりこんだ体に力を入れて立ち上がった。
(だって私は――)
紗香の脳裏にかつての光景――白い仮面を被ったタケオの姿が甦る。
「――貴方に救われたから」
紗香はタケオを真っ直ぐに見据えて、そう言った。
「気づいてました、貴方が私を救ってくれたって。
だから、ずっと言いたかったんです――」
紗香は涙を拭った。
お礼を言うのに涙は必要ないから。
お礼を言うときは笑顔で、そう紗香は決めていたから。
「――ありがとうって」
紗香は今できる精一杯の顔で微笑んだ。
「……そうか」
その時、タケオの胸にまた一つ熱いものがともった。
『何を話してるのよ!』
いつまでも終わらぬタケオと紗香の本当の再会。それを焦れったく思って、つい邪魔をしてしまったのはジルである。
『もう少し待ってくれ。今から彼女に事情を説明するから』
タケオは、ジルに宥めるように言った。
何せここからが本題であるのだから。
「それで、高崎さん」
「はい」
タケオの呼びかけに、ハッキリとした返事をする紗香。そこに先程までの涙の面影はない。
「僕が戻るまでの間、この三人の面倒をお願いできないか」
「わかりました、任せてください!」
紗香はタケオのお願いを、特に考えた様子もなく快活な声をもって引き受けた。
そのあまりの即答ぶりに、少し面食らうのはタケオである。
「えっ、と、頼んでおいてなんだけど、そんな安請け合いして大丈夫?」
「はい、大丈夫です! むしろタケオさんに少しでも恩返しがしたいので、是非やらせてください!」
紗香の顔と声からは、タケオが首を傾げるくらい、やる気が満ち満ちていた。
ならばと、タケオは一冊のノートを紗香に渡す。
「これは……?」
紗香が手渡されたノートを開く。
そこには日本語と、全く知らない文字が書かれていた。
「それは向こうの文字を覚えるために作った一覧表だよ。
まぁ、身に付かなくて途中で投げ出しちゃったんだけどね」
ハハハと恥ずかしそうにタケオは言う。
「意味だけじゃなくて、読み方も片仮名で書いてあるから、向こうの言葉を知らなくてもある程度の発音ができると思う」
言葉が通じずに行うコミュニケーションはとても難しい。
せめてその一助になればとタケオは思い、触らなくなって久しいかつての語学用のノートを持ち出してきたのであった。
「それからこれを」
タケオはクローゼットを開け、中から大きな布袋を取り出した。
それを紗香の前まで持っていき、袋の口を開ける。
そこにあったのは大量の金貨であった。
「もし僕が帰ってこなかったら、彼女達がこちらで自立できるまでこれを使ってほしい」
「帰って、こなかったら……?」
不穏な言葉である。なぜそんな言葉が出てくるのか、紗香には理解できなかった。
「ああ。
僕はあちらの世界でやらなければならないことがある。
それはとても危険なことなんだ」
「そんな……」
「まだ妹も連れ戻していないんだ、きっと帰ってくるさ」
絶対帰ってくる、そう言わなかったタケオに、紗香は漠然とした不安を覚えた。
「でも、もし帰ってこれなかったら……。
そう、一ヶ月が過ぎても僕が帰ってこなかったら……君は、君のお父さんと協力して全てを世界に公表してほしい。
異世界の存在。いなくなった生徒達が異世界に連れ去られたという事実。そして、ここにいる三人の存在。
全てを話して、そして世界中に伝えてくれ。
今もどこかで誰かが、異世界に拐われているかもしれないということを」
タケオは真剣な瞳で紗香に訴える。
そしてそれを終えた後も、その瞳は揺らぐことなく紗香を見つめていた。
紗香の答えを、タケオは待っているのだ。
「わ、わかりました……」
紗香にはそれだけしか言えなかった。
(私が救われたように、また誰かを救おうとしているんだ……)
紗香自身、タケオに救われた存在である。
そのことが、タケオの行動を止めようとする言葉を喉元で詰まらせていたのであった。
『さて、待たせちゃったね。
ここでの生活は、この子が面倒を見てくれる』
体を紗香から別の方へと向け、紗香の知らぬ言葉で話すタケオ。
『わたしはまだ認めてないわよ!』
『ボクも!』
タケオの視線の先ではジルが、タケオの懐からはラコが、タケオに対し否の言葉を放った。
既に二人の涙は止まっている。
これまでの時間が二人の心を落ち着かせて、さらに何とかしてタケオを引き留めようと、その心を燃やすまでになっていたのである。
だがそこに、今まで鳴らなかった音が鳴った。
『私は――』
それは、これまでずっと黙っているばかりだったミリアのもの。
ジルとラコは、ミリアならばタケオを説得してくれると、期待の視線を送った。
『――私は、貴方を信じます』
いつもの冷淡とした調子でミリアは言う。
そのタケオを見つめる顔も、普段と変わらぬ颯然としたものであった。
『え?』
『ミリアお姉ちゃん……?』
ジルとラコは、ミリアの言葉に耳を疑った。
ミリアが自分達と同じ考えであると、言わずとも思っていたからである。
『貴方が、私達を必ず迎えに来てくれると信じます』
それは、タケオの意思を尊重するものであり、またジルとラコに非情に告げるものであった。
『なんで、なんでよ!』
『うぅー……』
ミリアの言葉が聞き間違いではないとわかり、ジルは憤り、ラコはミリアを睨み付けた。
何故なのか、私達は家族じゃなかったのか。
そんな怨嗟の念が二人の心に渦巻いていく。
――だが、ミリアが次の言葉を発した時、その考えは改まることになる。
『――だから、必ず私達の下に帰ってきてくださいね?』
長い睫毛を濡らし、雪のような白い肌を温かな滴が伝う。
ミリアは感情をあまり表に出すことのない女性であった。
しかしその時、ミリアは確かに泣いていた。
そして、それでもなお笑っていたのである。
『あ、あぁ……』
『お姉ちゃん……っ』
そんなミリアの姿を見たジルとラコの両目からは、ブワリと、再び止めどない涙が溢れ出す。
もうどうしようもないことをミリアは知っていた。
ならばあとは信じようと、健気に堪えていたのである。
『ああ……絶対に帰ってくる、絶対に帰ってくるさ』
タケオもまた泣きながら笑って見せた。
既にラコがいたタケオの胸に、ミリアがまず寄り添い、それに遅れてジルも飛び込んでいく。
タケオが三人を抱き締め、三人もタケオを抱き締めた。
窓からは日の光が射し込み、小さな部屋を照らし出している。
黒い髪の青年、獣の耳を生やした茶色い髪の少女、白い髪の少女、長い耳をした金色の髪の女性。
抱き締め合う四人を、キラキラとした光が包んでいた。
「きれい……」
知らず知らずの内に口に出していた声、それは紗香のものだ。
紗香は目の前の光景に見惚れていた。
こんな美しいものがこの世にあったのかと、目を奪われていたのである。
それはどんな絵画よりも、どんな映画のワンシーンよりも美しい情景であった。
そして何よりも尊く、神聖なもののように思えた。
すると、ぽとりと滴が垂れた音がして、紗香は自分の頬を撫でる。
一度は止んだ涙。しかし、自然とまた涙を流していたことに気がついた。
言葉は通じずとも伝わってきた四人の愛、それに感動したのか。
それともあそこに己がいないことに悲しんだのか。
それは紗香にすらわからない。
やがて、タケオは黒い水溜まりの中に消えた。
しかし今度は、誰も止めようとはしなかった。
あとはその帰りを、ただ信じて待つだけである。
◇◆
エグレット伯爵、兵千二百。
シュルツオール子爵、兵五百。
オルジデント公爵、兵六千。
パンコッタ子爵、兵三百。
ダデバッグス侯爵、兵三千。
これがアルカトに到着した諸侯の全てである。
結局のところ集まったのは僅か五諸侯。
しかしそのいずれもが、王に忠誠を誓った信義篤き者といえよう。
彼らはウジワールに膝をつくことをよしとせず、自領で一人戦っても勝てはせぬと、自領の守りを捨ててまでこの場に集まってきた者達であった。
こうしてコエンザ軍は、近衛騎士団含めておよそ一万二千。
さらに亜人の部族も続々と集まっており、最終的には一万三千がコエンザ軍の総数になると予想された。
「足りん!」
苛立ちを隠そうともせず、コエンザ王が机を大きく叩いた。
不機嫌の原因は、数でいえばかつての王軍に遥かに及ばぬ兵にある。
なにせウジワールには、少し前に二万の王軍で惨敗を喫したのだ。
計一万三千の兵でどうしようというのか、と考えるのは仕方がないことであった。
「これはやはり、カシスの援軍を諦めてでも籠城するしかありませんな。
時を稼いで、他国の援軍を待つのです」
近衛騎士団長が現在の状況を鑑みて意見を述べた。
これにベントは黙したまま語らず、近衛騎士団長はさらに言葉を加えていく。
「我らがもし敗れるようなことがあれば、次はどこが狙われるか。それは諸国の王達も重々承知しているはずです。
時間さえ稼げば、諸国の王達は必ずや我らの戦いに呼応しましょうぞ」
その場にいた五諸侯とその将軍らもまた、近衛騎士団長に異論を挟まずに黙って聞いていた。
――と、そこに。
「――よろしいですか」
近衛騎士団長の話の合間を見て発言の許可を求めたのは、少し前にアルカトへと戻ってきたタケオである。
王はタケオの発言を許可し、頷いた。
「私は野戦にて、敵の先鋒であろう奴隷兵を破るべきだと思います」
タケオは、前にベントが示したカシス候を動かすために野戦にて奴隷兵を破る、という策を推した。
すると当然、先ほど籠城案を提示した近衛騎士団長が牙を剥く。
「馬鹿な! ゲンメルス様率いる二万の王軍ですら歯が立たなかったのだぞ!」
「それは存じております」
「ならば――」
「いいえ」
タケオが騎士団長の次の言葉を予見し、それに被せるよう反論した。
「敵の戦術は聞きました。槍のように尖らせた魚鱗の陣にて我が軍を貫きせしめたと。
中でも先の先。一番先にいた、亜人達に一人紛れる人間兵は、とてつもない強さであったと」
「その通りだ」
タケオの言葉に、近衛騎士団長が不機嫌そうな態度で同意する。
「思いますに、その人間兵こそが敵軍の要。
先端にいる人間兵が強固な我が軍に穴を作り、そこに他の奴隷兵がなだれ込んで押し広げるのが、この陣が最強である証。
魚鱗の弱点である後方を攻めようにも、人間兵の貫通力はそれに勝るのですから、後方を狙うのは作戦倒れになりましょう」
「そんなことはわかっている。しかし、どうしろと言うのだ。
情けない話だが、その人間兵に正面からかかっては誰も敵わん。おまけにその後ろは、亜人の奴隷兵どもが固く守っている。
まさに鉄壁の布陣だ」
近衛騎士団長の声の調子を落としたのは、恥を忍んで自分達の弱さを認めてのことである。
それに対し、タケオは事も無げに言葉を返した。
「簡単です。その人間兵より強い者を当てればいいのですよ」
「だから、そのような者はいないと言っておろう!」
押し問答のような議論を煩わしく思い、近衛騎士団長は怒鳴った。
しかし、その放った言葉は実に正しい。
音に聞こえたゲンメルス。
かの者は、まさしくコエンザ軍最強の戦士であった。
それが敗れたとなれば、コエンザ軍にはもはや、己が武に自惚れる者すらいなかったのである。
だが、あくまでもそれはコエンザ軍の兵士の話であり――
「私です」
「……は?」
「私が一騎にてその男を倒して見せましょう」
――この時、タケオをコエンザ軍の兵士に数えるかどうかは、皆が疑うところであった。
「……く、……くふ、……くふふ、……くはぁーーはははっ!!
なにを言っているんだ、商人風情がぁっ!!」
近衛騎士団長はまず笑い、そして今にも食いかからんとする勢いで叫んだ。
たかが商人がゲンメルスすら及ばぬ強者に勝つ、それがどんなにふざけたことか。
近衛騎士団長は、戦いを馬鹿にされ、さらに騎士を愚弄された気がしたのだ。
しかしどんな剣幕に曝されようとも、タケオは臆さない。
「これでも元探索者です。私に勝てるという者がいるのなら、目の前に連れてきてください」
「……たとえアルカトの統治者とはいえ、吐いた言葉は飲み込めんぞ」
近衛騎士団長が今度は抜き身の刃のように目をギラつかせて、低く唸るような声でタケオを威圧する。
されどタケオは、「望むところです」と依然として涼しげな顔を保っていた。
「王陛下」
タケオへ向けた暴力的な視線のまま、近衛騎士団長がコエンザ王に試合の許しを乞う。
「ん? んん……、タケダよ、ほんとに良いのだな」
「はい、私の力を認めていただくいい機会かと」
王としては気が進まぬことであったが、両者が合意しているのならば認めないわけにはいかなかった。
ここで認めねば、隠れて試合が行われることも考えられ、結果、取り返しのつかない事態になるかもしれないからだ。
「……わかった。その手合わせ、認めよう」
コエンザ王は、はぁとため息を一つ吐いた。
アルカトは大広場。
王に諸候ら、さらに兵士達や亜人達が観衆となる中でそれは行われた。
広場の中央で向かい合う、木剣を構えた二人。
――タケオと近衛騎士団長である。
タケオは剣先を近衛騎士団長の喉へ向け、近衛騎士団長はやや上段気味に構えていた。
両者に言葉はない。
あとは試合開始の合図を待つだけであった。
「では、はじめ!」
騎士の一人が審判として、戦いの合図を告げた。
しかし、である。
想像を絶する話ではあるが、その合図が戦いの幕開けであり、また幕切れでもあった。
合図と同時に、ダンッという大地を蹴った音。
観衆の目の瞬き。
諸侯の一人が口にした、文章を構成する中の僅か一語の言葉。
それらがなされた時、既に勝負は決していたのである。
そこにはタケオの半身の姿勢から伸ばされた右腕の剣が、騎士団長の上段に構えた両腕の隙間を通り、その首へと添えられていた。
速きこと、この上無し。
その剣は騎士団長は元より、この場にいる者の誰もが反応できぬほどの恐るべき速さであった。
こうして、試合は決着した――かに見えた。
だが、まだ終わってはいない。
突然の決着。
それがあまりに突然すぎたがゆえに、騎士団長は敗けを認めぬまま体が反応してしまったのだ。
――上段の姿勢からの振り下ろし。
騎士団長の、予備動作のない最速の剣である。
しかしそれをタケオは、騎士団長の首に添えていた剣で、横っ面から叩いた。
刹那の間に、剣を抜いて振ったのだ。
恐るべき反射と、先程と変わらぬ恐るべき剣速であった。
そして近衛騎士団長は、自分の木剣が手から弾き飛ばされると、漸く自分が負けたことに気が付く。
「え、あ……」
あまりのことに喉が錆び付き、ろくな声すら出すことができない。
騎士団長は放心の中、剣の無くなった己の手とタケオの間で視線を行き来させるだけであった。
すると観衆から、ワッと喝采が沸き上がる。
「す、すげえ!」
「剣の動き、全然見えなかったぞ!」
コエンザ兵や亜人からの称賛と驚嘆の声。
兵士達ばかりではない、王や諸侯らも同様である。
「まさかタケダが勝つとは……」
「見えたか?」
「いえ……しかしこれならば、どんな相手にも――」
そして圧倒的強者の存在とは、士気を奮い立たせるものだ。
「さあ、他に誰か挑戦するものはいないか!」
興奮の渦の中、タケオは観衆に向かって叫ぶ。
誰よりも強い者がいる、そのことを知らしめるために。
コエンザ軍の作戦はここに決まり、その士気は最高潮に達した。
あとは戦いが始まるのを待つばかりである。
や、殺る気……