6章 戦いの前に
翌日より、アルカトは目まぐるしく動きだす。
「所用があり、少し席を外します」
タケオはそんな言葉を残してアルカトから消えた。
王都へと行き、暗殺の機を窺う生活に戻ったのである。
「いいか、柵で敵の動きを阻害し、城壁に張り付かれる前に矢で殺すんだ!」
アルカトの住人達は、合戦に備えて城壁の周りに柵を造っていく。
「見えたぞ! あれがアルカトだ!」
「おお……なんと雄大な……。あそこに王が……」
さらに後続の近衛騎士団、千名がアルカトに到着。
追撃を受けず、誰一人欠けることなく到着したことに、王は喜んだ。
城壁前で作業していた亜人達と一戦交えようとしたことは秘密である。
「陛下、カシスより使者が! 多量の物資が届けられております!」
「おおっ! カシス侯は余を見捨てなかったか!」
そしてさらに、数多の軍需物資がカシスから届いた。
アルカトでは不測の事態に備えて穀物こそ溜め込んではいたが、武器に関しては警備隊に配備されている物のみで無いに等しい。
そのため、これでどうにか戦えるというものだと、王以下の者はホッと心を安堵させた。
ところがこれには続きがある。
「それでカシスからの兵は如何程か?」
「……物資だけです」
「なに?」
「……カシスから送られてきたのは物資のみでございます」
王の顔が、みるみると鬼の形相へ変わっていき、報告した兵は思わず身をすくませた。
そう、カシスから送られてきたのは物資のみ。
援軍は来ず、それどころか物資を運んできた者すら帰ってしまい、残った者はカシスからの使者だけであった。
こうしてカシスからの使者との会談がアルカトで行われることになる。
「カシス領主は我がコエンザを裏切るつもりか!」
けたたましい王の怒声が、騎士達が並び立つ町長室に響いた。
その怒りを一身に受けるのは使者に選ばれた貴族――現在、王の前で膝をつきブルブルと体を震わしているゴッドン子爵である。
「そ、そのようなことはありません。
テオドルス殿は、準備が整い次第アルカトに軍を派遣するとおっしゃっておりました」
「何を抜かすっ!」
「ひぃっ!」
ゴッドン子爵が王の暴力的な視線と声に曝されて悲鳴を上げる。
そもそもこんな大任など、ゴッドン子爵自身も嫌であった。
しかし、かつてタケダ商会が取り扱う珍品をめぐって無礼を働いて以来、その身はテオドルスから便利屋のように扱われる次第である。
テオドルスが命じればそれに従う他なく、断ればどうなるかなど小心なゴッドン子爵は考えたくもなかった。
「戦いの情勢を見て、どちらにつくか決める腹なのであろうが!」
「ひっ!」
王がテオドルスの底意を読みとって、苛烈に糾弾する。
そして、その読みは当たっていた。
アルカトの城壁が恐るべき亜人軍団にどれほどもつか。
テオドルスは、それ次第ではウジワール教国側へ帰順する算段であったのだ。
だがこれは、何よりもカシスの繁栄のみを優先するテオドルスにとっては当然のことといえた。
「ぐっ、貴族としての矜持は……長年王国の禄を食みながら、なんたるなんたる……」
歯を食い縛り、拳を握りしめ、怒りと悔しさで言葉も満足に出てこないコエンザ王。
この場にいる他の騎士らも気持ちは同じである。
カシスの手助けなしにこの窮地を脱することは不可能――そう考えている者ばかりであるから、自分達の命がいよいよ風前の灯となったとわかり、その憤りをここにいないカシス領主へと向けた。
一方、ゴッドン子爵はさらに身体を震わせていた。
それはもう、産まれたての小鹿がかわいく見えるほど、ブルブルと。
なにせ、この場の者達の怒りの対象であるテオドルスはカシスにいるのだ。
ならば、その矛先はテオドルスの代理ともいうべきゴッドンに向くのは必至であった。
ゴッドンの脳裏に己が斬られる映像が浮かぶ。
自然、恐怖がさらに増し、便意を催すまでになった。
というか、はっきりいって、もう決壊寸前である。
前が? 後ろが?
ノンノン、ゴッドンの便意は両方であった。
「――お待ちください」
王達が怒りを燃やす中、またゴッドンが「あっ……くっ……!」と必死に何かと戦っている中、落ち着き払った声がした。
その声は、清涼な水滴となって雑音をはね除けるように波紋を広げる。
そして、ざわめきは止まっていた。
騎士が並ぶ列中にて一歩前に進みたるは、ベント商会の長ベントである。
「現状我々に勝ち目が薄い中で、カシス候は未だ我が方へ心を配っているのです。
その本音は王の下へすぐにでも馳せ参じたいということでしょう」
「そんなことはわかっている!
だが、たとえ勝てぬ戦であっても王のため、国のために忠義を尽くすのが貴族の務めではないか!」
近衛騎士団長が猛り狂ったかのように吼える。
するとベントは、なだめすかすように答えた。
「いいですか、どんなことがあろうともカシスを敵に回すことだけは避けねばなりません。
カシスが敵に回っては勝てる可能性はゼロ、無くなるのです。
テオドルス殿の代理ともいうべき使者殿の前でそういきり立たれては、まるでもうテオドルス殿が敵になってしまったようではありませんか」
これには「うっ……」と皆、口をつぐんだ。
この場に文官はいない。
何故ならその者達は、王都にて既に降伏しているからだ。
無論、戦いもせずに。
よって、この場において知を司る者は、有り体にいえばベントしかいないといえた。
いかな窮地であろうとも利を追求し、割りきった考え方ができるのが商人の強みである。
「さて、ゴッドン子爵」
「は、はい」
ベントがゴッドンに体を向けると、ゴッドンは怯えたように返事をする。
「テオドルス殿からは何か言われていませんか? 何でもいいのです」
「あ、と、その……か、観戦武官として、一時滞在するようにと」
「それはいつまでですかな? 戦いが終わるまで?」
「あ、亜人の奴隷兵との戦いの趨勢が決まるまで……と」
「ほう」
ベントは顎に手をやった。
おそらく、いや間違いなくウジワールの先陣を切ってくるのは奴隷兵だ。
その戦いを見てこいとテオドルスは命令したという。
「……王陛下、会談はもう十分であると思われます。
使者殿には戦いの時までごゆるりとしていただきましょう」
「む? そうか、わかった。
ゴッドン子爵、もうよいぞ。大儀であった」
ベントの発言を受けて、王は何かに気づいたかのように、ゴッドンに退室を命じる。
「は、はひ……」
ゴッドン子爵がおざなりな礼をして、ほうほうの体で部屋を出ていった。
それを見送ると、コエンザ王はベントに顔を向けた。
「ベント、申せ」
それにベントは「はっ」と返事をし、語りだす。
「どうやら、ウジワールの先鋒である奴隷兵を負かしたならば、カシス候は援軍を寄越すということでしょう」
「やはり、そうであるか」
「こちらの実情を知られてはなりません。
カシスの援軍を得る最低条件が、ウジワールの奴隷兵を下すこと。
それさえなせば、ありもしない話を用いてゴッドン子爵を欺き、カシス候に援軍を出させることも可能でしょう」
「うむ……」
歯切れの悪い王の返事である。
それは王軍二万を破った奴隷兵に対する懸念から来るものであった。
「ちょっと待て、我らは籠城するのだぞ。
先鋒の奴隷兵共が我らに手こずれば、その後に控える本隊も参戦するに決まっておろう」
騎士の一人がベントに意見する。
守勢側にとって籠城とは、短期ではなく長期の戦。
籠城によって奴隷兵を短期間に倒すことは土台無理な話であり、また奴隷兵が城を攻めあぐねれば、ウジワール本隊が加勢にくることは明白だ。
そしてウジワール全軍で攻めかかられたならば、奴隷兵だけを倒すなど夢のまた夢である。
「その通りです」
ベントは騎士の意見が正しいとした。
「ならば――」
「ですから我々は、野戦にて奴隷兵を打ち倒さねばなりません」
――え?
まるで時が止まったかのような静寂。
王を含め、ベント以外の全ての者が度肝を抜かれたのだ。
しかし、それも僅かのこと。
「ば、馬鹿な! 相手は我が王軍二万を正面から討ち果たした連中だぞ!
籠城せずになんとするのだ!」
一人の騎士の抗議の声を口火に、騎士達が反目の意思をもって騒ぎだす。
だが、それをベントは涼しげな顔で聞き流し、そして言う。
「私は専門家ではないのでよく知りませんが、籠城とは他に力を頼ることを目的として行われるのではないのですか」
「そ、それはそうだが……」
利にかなったベントの言。
騎士達は反論できず、声を小さくしていきやがて鎮まった。
すると近衛騎士団長が暫しの沈黙の後に口を開く。
「……ベントの言うことは確かに正しい。
しかし、他に頼らず籠城戦のみで相手を退かせた例もないわけではない」
「ふむ……では、カシス以外の地からどれだけの援軍が来るかどうかで、もう一度決めてはいかがでしょうか」
ベントの保留という結論。
それに異存はないようで、近衛騎士団長は頷いて王を見た。
「そうだな、今は各地の諸侯と我が同盟国を信じよう」
アルカトに最も近い地がカシスである。
他の地を治める者の行動を知るのはこれからのことであった。
◆◇
コエンザ王都より出陣するウジワール軍。
それをタケオが遠くから眺めることしかできないのは、その警戒が極めて厳しいものだったからである。
「駄目だったか……」
教皇暗殺はもはや不可能であり、そこには無念の表情があった。
タケオは沈痛の念を胸に、黒い水溜まりを出現させ、タケダ商会へと戻る。
その日、タケオはカシス全民校を訪れると、人間以外の種族の生徒を集めて、ウジワール教がこれから行おうとする全てを話した。
そして、人数分の金貨が詰まった袋を前に言った。
――逃げろ、と。
袋の中身は、生徒達が入学に際し支払った額の金銭である。
学校での事が終わると、タケオはジルとラコを連れてタケダ商会へと戻った。
この道中、ジルとラコは授業中であるにも関わらず連れていかれること、また、クラスメイトの亜人達がいなくなったことに疑問を呈したが、タケオは後で話すと言って取り合わない。
そしてタケオは執務室に入りミリアが居ることを確認すると、その場で黒い水溜まりを出した。
「入ってくれないか」
優しく静かな声でタケオは言った。
どこへ行くのか、とジルが尋ねたが、タケオはいいところだよ、と言うだけである。
まるで一家心中するような台詞にミリアは胡乱げな視線を見せたが、タケオは動じない。
とはいえ、タケオを信じないという考えはなかった。
せめて私が最初の犠牲にと、ミリアは黒い水溜まりへと足を踏み入れる。
「ここは……?」
ミリアは目を白黒とさせた。
そこは狭い部屋であった。
見たこともない物が並び、窓は透明だ。
しかしベッドがあり、机があり、棚や本がある。
異物はあるものの、見知った住居としての体をなしており、ミリアにはさほどの混乱はなかったといえよう。
ミリアが辺りに顔を巡らしていると、そこで「あっ」という声を出して視線を止めた。
視線の先にあるのは棚の上の一枚の絵。
そこにはタケオ、ミリア、ジル、ラコがまるで本物のように描かれていた。
それはタケオが、シャシンだと言っていたものであり、ミリア自身も己の部屋に飾っている物であった。
「ここは、タケオ様の部屋……あちらの世界の……?」
それに気づいた時、ちょうどジルとラコも黒い水溜まりから現れる。
そして最後にタケオがやって来て、黒の水溜まりは跡形もなく消えた。
「どこよ、ここ!?」
「うわー」
ジルが知らぬ物ばかりの異質な空間に驚きの声を出し、ラコは透明な窓から見える景色に感嘆の声を漏らしている。
そんな中、一人落ち着いた様子のタケオが言う。
「ここは僕が生まれ育った世界だよ」
「なんでそんなところに私達を連れてきたのよ!」
ジルによる、間髪入れずのもっともな質問である。
当たり前のことであるが、いきなりこんな場所に連れてこられて、理由を知りたがらない者はいないだろう。
だがミリアだけは何かを勘づいたのか、静かに佇んでいた。
「いいか、よく聞いてくれ――」
タケオはウジワール教国の野望とコエンザ王国の現状を語っていく。
すると、ジルとラコは段々と顔を憤然としたものに変えていった。
「何よそれ! 何の権限があって、ウジワール教は私達の国を奪おうって言うのよ!」
「そうだよ! 許せないよ!」
怒りに任せてやんややんやと騒ぐ二人。
これが夜だったなら、隣の二○三号室から壁ドンが飛んでくるところだ。
「王都は既に敵に滅ぼされた。
カシスは降伏を視野に入れている。その場合、人間以外の種族は見捨てるそうだ。
そして、エルフも亜人も奴隷にされ、死ぬまで戦わされる」
「な、なによそれ……」
「……」
ジルとラコの想像以上に事態は切迫したものであった。
「学校のみんなは……?」
ラコがサルヒや他の生徒達が心配になり尋ねる。
「学校の生徒で人間以外の者は、今日、金を渡して逃げるように言った」
「そ、それで私達はここに避難ってわけ?」
「ああそうだ……君達はここに避難していてくれ」
このタケオの返答に、これまで話を聞くだけであったミリアが眉をひそめた。
しかし、口は閉ざしたままである。
「そ、そう。まあ、あんたがいるんならいつでも帰れるし、別にずっといたって――」
ジルが喋っている途中に、その裾をラコが引いた。
なによ、とジルがラコを見る。
するとラコは首をブンブンと横に振った。
「ど、どうしたのよ、ラコ」
「違う……」
「違うって何がよ」
「お兄ちゃん、私達に避難してくれって、自分は入ってなかった……っ」
「――え?」
ジルは信じられないという風な顔でタケオを見た。
「……僕は、戦うよ」
タケオの心は既に決まっていたのだ。
「大丈夫、僕は誰よりも強いから」
ジルも、タケオが強いことは知っている。
でも――
「――味方はっ! 味方は全然いないんでしょっ!?」
その質問にタケオは優しく微笑むだけであった。
「私も戦う!」
「ボクも!」
「駄目だよ」
タケオは優しく言った。
「いやよ! 絶対にいくわ!」
「ボクも絶対にいく!」
「駄目だ」
タケオはやはり優しく言った。
「死んでもついていくから!」
「しがみついてく!」
「駄目」
タケオは首を横に振って、もう一度優しく言った。
「うるさい! 行くっていったら――」
「駄目って言ってるだろ!」
狭い部屋にタケオの叫び声が響いた。
タケオがジルとラコに声を荒げたのは初めてのことである。
二人はビクリとして、やがてジルは目に涙を溜め、ラコは完全に泣いていた。
「なんでよ、なんでそんなこと言うの?
ついていくのがダメなら、ずっとここにいてよ。
どこにもいかないでよ……」
懇願。
ジルはもう涙は抑えられなかった。
そんなことよりも、大事なことがあったから。
そしてラコが「いやだっ」とタケオに抱きついた。
「ごめんな。でも、僕がやらなくちゃいけないんだ。
だから、ごめん」
タケオはラコの頭をいとおしそうに撫でる。
ジルは涙を拭おうともせず、それを見た。
その顔はやっぱり優しく笑っていたけれど、でも苦痛に耐えるような辛く重い顔にも思えた。
(あぁ……)
ジルは、タケオが行ってしまうのだとわかってしまった。
「人を待たせているんだ。ちょっと呼んでくるよ」
タケオは自分にしがみついていたラコを退かす。
――が、なかなか退かないので、ラコを体に引っ付けたまま、外への扉を開けた。
「あ、あの――」
そこにいたのは高崎紗香であった。
紗香にとって、久しぶりのタケオ。
タケオから電話で連絡を貰い、頼みたいことがあるとのことで、紗香はうきうきワクワクな心持ちであった。
そして、(自分の部屋で)待っていてくれという言葉の通り、紗香がタケオの部屋の前で待っていると、ガチャリと扉が開いてそこからタケオが現れる。
すると、あら大変。
待っている間、いや、電話を貰った瞬間から色々と考えていたはずが、いざタケオを前にしたら何も言葉が出てこない。
タケオを目にした途端、頭の中が、とても暖かいものに満たされて、他の全てのことはどこかへ飛んでいってしまったのだ。
しかしそれでも紗香は、何かしら言おうとして――そして凍りつくように止まった。
タケオに抱きついている少女を見たからである。
紗香はスッと、何も感情も映さないような真顔になった。
「あの、部屋にいると思ったんだけど……」
タケオが予想外にも部屋の外にいた紗香を見て言った。
「隣から叫び声が聞こえてきたので、どうしたのかなって思って」
タケオの声を聞いて、紗香の顔がまた元の純情乙女なものに戻る。
しかし、すぐにまた能面のような顔に変化して言葉を続けた。
「その女の子、誰ですか?」
タケオはゾッとした。
ジル達のここでの生活を紗香に頼むつもりであったのに、これは人選ミスだったかと後悔した。
「ぎ、義理の娘です……」
「娘さんですか」
とても美しい笑顔を見せる紗香。
しかし、その目はなぜだか笑ってはいなかった。
「電話で話すのは失礼だと思って、用件を伝えなかった。
これから君に真実を伝えなくちゃならない。その上で僕を、僕達を助けてほしい」
真剣な眼差しで、タケオの口から紡がれる言葉達。
――助けてほしい。
それは天使達が唄う愛の調のよう。
(私はタケオさんに頼られている!)
紗香はもはや天にも昇る思いであった。
そして何を勘違いしたのか、真っ赤な顔で俯き、「はい、よろしくお願いします」なんて言う有り様である。
「とりあえず中に入ってくれ」
「失礼します」
紗香がタケオの後に続いて、ほんの数メートルほどの廊下を通り、奥のワンルームに入る。
だが、そこにいたのは――。
「あっ……あぁ……」
愕然とした。
部屋の中にいた二つの存在を見て、また二つの存在に見つめられて、紗香は力が抜けるようにその場にへたりこんだ。
長い耳。紗香はそれを知っている。
獣の耳。紗香はそれを知っている。
どちらも鉄格子の中で見たことがある存在だった。
そうだ、何故気づかなかったのか、と紗香は思う。
タケオに抱きついている少女。
白い髪なんて日本ではあり得ないはずであった。
「異世界……」
紗香はボソリと呟いた。
「今まで嘘を吐いていて、すまない。
君を異世界から助け出したのは僕だ」
タケオがいまだ立てない紗香に声をかけると、懐より白い仮面を取り出した。
紗香はその仮面に釘付けになった。