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6章 行方3+1

すみません遅くなりました_(._.)_

次回はできるだけ早めに投稿します

 坂手が連れていかれてしばらくのこと。

 生徒達が閉じ込められている大部屋の中は、ぼんやりと光っていた床の紋様は既に光を失い、辺りを照らすのは端々に点々と置かれる篝火のみである。

 携帯電話は圏外の文字を表示し、唯一の出口といっていい扉は堅く閉ざされていた。

 窓と呼ぶのも烏滸がましい通気を目的とした開口部が天井近くに幾つもあったが、とてもじゃないが届く高さではない。


 生徒達の行動は、この広く薄暗い部屋を探索する者、自分達と共にやってきた椅子に座る者、そのまま地べたに腰を下ろす者等々、様々であった。


 すると扉の方から、ギギギという音と共に一筋の光が射し込んだ。

 その光は段々と広がっていく。

 それは扉が再び開いたことを意味していた。


 ――現れるのはまたあの騎士達だろうか。


 生徒達は恐々として、現れる者の決して正面に立たぬよう、両端の壁に張り付いた。

 もしかしたら坂手が帰ってきたのではないかという、僅かばかりの期待をもって。


 だが、現れたのは騎士でも坂手でもない。

 それはメイド服を着た見目麗しい女達であった。


 これは完全に予想していなかった事態である。

 生徒達は呆気にとられた。


 大部屋へと入室する総勢五人の美女。

 何に使うのか、そのいずれもが人の胴ほどの大きな壺を持っている。


 メイド達は部屋の右奥へと進み、そこに五つの壺を並べた。


 生徒達はその一挙手一踏足に注目する。

 大部屋の左奥で、学ランに包まれた千鶴の遺体を眺めていた由利子と良美も、この時ばかりはメイド達に視線を移していた。


 何をしに来たのか、その壺は一体なんなのか。

 それが生徒達共通の思いであった。


 するとおもむろに、メイドの女の一人が壺にまたがった。

 そしてシャーッという、音が部屋中に響く。

 何の音だろうと、誰もが思った。


 気づいた女子は、すぐに顔を赤くした。

 気づいた男子は、女子の前でどんな顔をすればいいかわからなかった。

 例外といえば、江口憲――通称エロ犬とあだ名されていた変態生徒が、鼻の穴を膨らませていたことだけ。


 まるでホースの口先をすぼめて勢いを増した水が、壁に当たるかのような音。

 そう、メイドの女は皆の前で、あろうことか小便を垂れたのだ。


 小便の実演。それは言葉の通じない相手に対して、これ以上ない壺の用途説明だった。


 事をし終えると、メイド達は何かを探すように顔を巡らせる。

 そして目的のものを見つけたのか、足を進めた。

 その行き先は由利子達の方である。


 由利子と良美は先程の“壺の使い方”のこともあり、その思考は動揺の渦中にあった。

 しかし、それも束の間のこと。


「近寄らないで!」


 良美はメイド達の目的が千鶴だとわかり、両手を広げて立ち塞がった。

 しかし、その一方で由利子は良美に一歩遅れて立ち止まってしまう。

 それは、良美の勇気ある行動に度肝を抜かれたせいであった。

 良美の行動は、普段の彼女からは考えられない、まるで千鶴が乗り移ったかのような勇気ある行動であったからだ。


 そして良美は、メイドが伸ばした手に引き寄せられ、一瞬にして羽交い締めにされた。


「良美!」


 由利子が良美を助けようと、メイドの腕にしがみつく。

 加えて良美も、がむしゃらに手足をばたつかせて逃げ出そうとするが、メイドは全く動じないほどの力強さである。


 そうこうしている間に一人のメイドが、学ランの下から露にした千鶴の遺体を肩に担ぐ。


 すると良美も力尽きたのか抵抗がなくなって、メイドが良美を解放した。

 力を使い果たし、座り込む良美。


「千鶴をどうするんですか」


 由利子は勇気を振り絞って尋ねたが、メイド達は見向きもしない。

 言葉が通じないせいなのか、そもそも由利子達に関心がないのか。


 メイド達は千鶴を担いだまま、外へ出た。

 そして扉は再び閉じられる。

 部屋中に広がっていた光が段々と狭まり、やがて一筋の線となると、次の瞬間にはまた薄暗い部屋があるだけであった。


 誰にいわれることもなく壁際から中央へと集まる、由利子と良美を除いた生徒達。

 一連のやり取りの間、彼らが開け放たれた扉の外に希望を見出すことはできなかったのは、外に騎士が立っていたからである。

 そして現在、元の薄暗い部屋の中で生徒達は、ぼんやりと再び閉じられた扉を見つめていた。


「おい、壺を運ぶぞ」


「え?」


 やがて松村が隣にいた男子生徒に壺の運搬を提案するが、男子生徒はよくわかってないようである。


「あの壺が便所だってんなら、男女別にしねえと問題があるだろうが」


「あ、ああ」


 男子生徒はようやく理解して、松村の後に続く形で、壺がある場所へいく。

 壺は木の蓋がなされたものが四つと、もう一つが植物の葉が一杯に詰め込まれた壺が一つ。


「葉っぱは紙の代わりか。

 いよいよ、ここは俺達の知ってる世界じゃねえってことかもな」


 松村が呟き、そして壺の蓋を開ける。

 当然、その壺は先程、メイドが致した壺とは別のものだ。


 松村は壺の中に半分ほど葉を詰めると、その壺を担ぎ上げた。


「結構重いな、十キロくらいか?」


 両腕で抱えた壺は、結構な重さがあった。

 運ぶ距離が短ければ苦でもないが、距離が長ければかなりキツいだろう。

 特に女の腕力ならば尚更だ。


 松村は、メイドが千鶴――人間一体を易々と担いだ姿を思いだし、内心で舌を巻いた。


「よっ、とと」


「おい、大丈夫か?」


 松村が、身長が劣るためか持ちづらそうにしている男子生徒に声をかける。


「だ、大丈夫だから」


「割れたらトイレが一つ減ることになるんだから、無理すんなよ」


 その言葉に、男子生徒の体が僅かに震える。

 松村は、本当に大丈夫かよと心配になった。


 二人はそのまま反対の側――由利子達がいる方へ運んだ。

 そして由利子と良美が力が抜けたように見つめる中、松村は葉の中身を取り出し壺を設置する。


「ほら、今からここは男子便所だ。

 今から小便するんだから、さっさと消えな」


「え? え?」


 由利子は松村の言うことがすぐには理解できなかった。

 そうしている間にも、松村は壺の蓋を取り、ズボンのジッパーを開ける。


「ちょっ、松村!」


 由利子は叫び声を上げるが、松村はなに食わぬ顔だ。


「ほら、早くいかねえと、お前らの前で小便しちまうぞ」


「良美、いこ!」


 由利子が良美の手を取り、走り去っていく。

 その後ろではジョボジョボと水が注がれるような音がした。


「ほら、お前もしろよ。せっかく壺が二つもあるんだ」


 松村が、壺に向かってホースから放水しながら、男子生徒に言う。

 男子生徒は、松村が悪い奴ではないことをこの時はじめて知った。

 皆の前で小便するという、恥ずかしい行為を率先してすることで、今後皆の羞恥を和らげようというのだ。

 ならばと、男子生徒もまた己がホースで壺を濡らすのであった。


 二人が事をし終えると、松村は学ランの束の中から己のものを手に取った。


「学ラン、無駄になっちまったな」


 右手に学ランを握りしめ、松村が悲しげに呟いた。

 クラスにおいて松村は、坂手以外との接点などほとんどなく、水島千鶴との思い出などごく僅かであった。

 だが、それでもクラスメイト。

 不良である松村に動じることなく、最低限の言葉を交わした千鶴を思い出して、松村は「ちっ」と舌打ちをする。

 そして血塗られていた学ランを、気にも止めずに着た。

 さらに残りの学ランも手に取り、生徒達の方へと戻っていく。


「夜は寒いかもしれねえ、着るも着ないもお前らの自由だ」


 血がついているから――。

 そんなことを思う者は誰もいなかった。





 それから一時間ほどが経ち、またも扉が開いた。

 現れたのは先程と同じくメイド達であり、その手には食べ物を持っている。

 パンの入ったバスケット、スープの入った大釜、肉の薫製が載った大皿、水瓶に食器。

 それらがメイドの手によって、床に並べられた。


 この時、相変わらずというべきか、扉の外にはやはり騎士が立っており、生徒達に外へ出るという選択肢はなかった。

 そしてメイド達は配膳を終えると、これまたなにも言わずに去っていく。


「飯が出るってことは、とりあえず俺達を生かしておくってことか」


 松村は皿を一枚とり、そこにスープとパン、肉をよそって、自分の椅子と机に座り、食べ始めた。

 すると他の男子生徒も松村の後に続くように、食事をよそい始める。

 そして、男子生徒の全員が食事を手にする頃には、既に松村は食事をペロリと平らげてしまっていた。


 松村が食べ終わった食器を戻しにくると、そこにいたのは料理を眺めているだけの女子。

 女子は誰一人として手をつけていないようであった。


「お前ら食わねえのか?」


 すると何人かが恥ずかしそうに頬を赤らめたり、視線を逸らしたりする。

 これに松村は首を捻った。


「毒なんて入ってなかったぞ」


 松村がそう言ってみるものの、女子達はどうもモゾモゾとしている。

 食べたいのに食べれない。そんな感じだ。

 松村は少し考えて、そして合点がいった。


「んだよ、糞の心配か」


 食べれば出る、それは心理である。

 女子生徒達は頬を赤く染めた。


「ちょっと、言い方ってものがあるでしょ!」


 こういう時、一番に文句を言うのはクラスのムードメーカー的存在である良美だ。

 その目には涙の痕があるが、誰かに心配されるのは真っ平ごめん。

 良美は、誰にも気を使わせまいと元気そうに振る舞った。


 そして、それに続くように、そうよそうよ! と女子生徒が騒ぎだす。

 ここにきて、皆が元気を取り戻したようであった。


「あのなあ、ずっと食わないままなんて無理だろ。

 第一、今食べねえと次いつ食べられるかだってわかりゃあしねえ」


「で、でも女の子には……」


 良美がなにか言わんとしているが、ゴニョゴニョとして聞き取れない。

 すると松村が言う。


「空腹が過ぎると下痢になるって言うぜ」


「……」


 結局、松村の本当か嘘かわからない情報に踊らされて、女子生徒達は無言で食事をよそい始める。

 そして、銘々が思い思いの場所で食事をとり、少しの間であったが生徒達の心に平穏が戻った。


 それから時が過ぎ、夕方になるとまたメイド達が食事を運んできた。

 食事の心配は要らなそうだ、というのが生徒達の見解である。


 夜になると、皆が怯えながら身を寄せあって眠った。

 そして何事もなく朝を迎え、また昨日と変わらぬ日を繰り返した。


 そうやって一日、一日が過ぎていく。

 日々やって来るメイド達は食事の運搬に限らず、篝火の割り木の補充や壺の交換などを行った。

 何度かコンタクトをとろうと話しかける者もいたが、これまでのところ全て無視されている。


 また、生徒達の中で就寝後に大きい方をするのが慣例となった。

 誰かが席を立った際は、皆知らぬふりをするのが暗黙の了解である。


 そして一週間も経つとある程度、今の生活には慣れたが、ひとつ問題が発生していた。

 気温は暖かく、風呂にも入れない。

 つまり体臭が無視できない程にまでなっていたのである。


 特に女子はそれを気にしており、現在、男子との接触はほぼ皆無となっている。

 生徒達のいる場所が大部屋であり、互いが互いのスペースで暮らせるほどの広さがあったことは僥幸といえよう。


 そしてここに来てから一週間と二日が過ぎたある日の朝、扉が開いた。

 メイドが食事を運んできたのではない。

 なんと、そこにいたのは坂手であった。


「坂手!」

「坂手くん!」


 男子生徒が駆け寄り、女子は良美だけが駆け寄った。

 他の女子も坂手に駆け寄るものと思っていた良美は、皆がいないことに気づき、そして何故いないかをすぐに理解して坂手から後ずさった。


「鈴村さん?」


「わ、わたし、今臭いから、だから……ごめんっ!」


 鈴村良美は女子生徒達の下に退却した。

 そんな良美の元気そうな様子をみて、坂手は顔を綻ばす。


「サカテ」


 扉の奥から騎士が、何かを催促するよう坂手の名を呼んだ。

 坂手は体をそちらに向けて答える。


『ハイ、セツメイシマス』


 生徒達はどよめき、松村が驚いた顔で尋ねる。


「お前、その言葉」


「付け焼き刃だけどね、必死に覚えたよ。

 とりあえず皆をここから出してもらうように頼んだんだ。

 ただ注意してほしい。決して彼らに逆らわないこと。

 俺達は囚われの身だということを理解してくれ」


「……ここがどこだかわかったのかよ」


「……ジルギスタン大陸、というらしい……異世界だろう」


 坂手の答えに皆が絶望的な顔になった。


「チッ、お前の話は当たってたって訳か」


「だが、悲観することはない。必ず元の世界に帰してもらえるよう、かけあってみせる。

 そのためにも今は耐えてくれ」


「で、その首のものは……?」


「……奴隷の首輪だ。命令に従わないとこれが絞まる」


 ヒッと声ならぬ悲鳴が、生徒達から上がった。


「だから、従順であってくれ。彼らは、俺達が歯向かわない限りは何もしないと言っていた。それに……いや、なんでもない。

 とにかく今からここを移動する。

 荷物があるのならすぐに準備してくれ。教科書とかも暇潰しにはなるだろう」


 色々と聞きたいことがあったが、『すぐに』と言われてはそうする他ない。

 生徒達はすぐに行動に移した。


 坂手の目の前では、生徒達がてきぱきとした動きで鞄に教科書やらを詰め込んでいる。

 そんな様子を眺めながら、坂手は考える。

 先ほど濁した言葉の先、それは――


(どうも俺達に対して、奴等は警戒が過剰な気がする)


 ――というものだった。


 坂手は、何故無力な己にこんな首輪をつけるのかわからなかった。

 向こうには生徒達という人質までいる上、対する坂手には味方となるものなど何一つない。

 にもかかわらず、必要以上の人数の騎士で囲み、なぜこれほどまでに警戒しているのか。


(予想はある。

 俺達にある何かを恐れ、またその何かを利用しようとしているのだろう)


 その何かは今はまだ知るよしもないが、それを必ずや己の物として事を優位に運ぶ。

 それが坂手の考えだった。





 準備が終わり、生徒達はとうとう扉の向こう側へと行くことになる。


「うっ」


 由利子が久しぶりの光を前に、手で日陰を作りながら外へ出る。

 大部屋の外は、少しばかりの広場、そしてそれを囲う木々。

 そこは鬱蒼と繁る林であった。


 生徒達は列を作って、坂手の先導の下、林を貫く道を歩く。

 武器を持った幾人もの騎士が生徒達を取り囲み、その列は物々しくあった。


 由利子はちらりと振り返り、自分達がいた場所の外観を捉えた。

 四角い一部屋だけの石造建築物。

 緑の木々に囲まれ、ただひとつ存在するそれは、幾らか幻想的なものに見えた。


 林を抜けると、そこには見事な庭園が広がっている。

 石畳の道、花壇、貯水池。

 水平、対称、直角を規範として作られた庭園だ。

 それは、自然を根幹とする和の庭園とは真逆の美しさであった。


 そして宮殿。

 由利子は宮殿など名前だけでしか知らなかったが、これが宮殿なのだと一目でわかった。


 コの字の開いた部分が正面となる巨大な建物。

 柱や彫像で余白なく装飾され、各所の彫りも深く、それが宮殿としての華麗さを際立たせている。

 日の光に照らされて、まるで黄金のように輝くそれ。


 由利子は、いや生徒達はその巨大な美に圧倒されていた。

 しかしこれで終わりではない。


 外観もさるものながら、中もまた絢爛として華やか。

 繊細できらびやかな美が生徒達を取り囲んだ。

 生徒達はそれらに心を奪われたかのように、キョロキョロと落ち着きなく周囲を見回していた。


 そして一行は三階のある一室に到着する。


「ここが女子の部屋、隣が男子の部屋だ」


 中に入ると、そこは学校の教室ほどの広さであった。

 白く曇っていて外が望めない窓ガラスが張られ、部屋にはベッドが幾つも並び、その上には畳まれた衣服が並んでいる。


「ベッドの上にあるのが皆の着替え。もちろん男子の部屋にも用意してある。

 水と布もあるからそれで身体を拭いてから着替えてくれ」


 さらに坂手は部屋の一角を指差した。

 そこには空間を仕切るように板が何枚か立っている。


「奥のパーテーションで囲っているのがトイレだ」


 途端に女子の頬が紅潮した。

 他の男子ならいざ知らず、未だ自らの恥を披露していない坂手が相手では、それも当然といえよう。


「部屋の外にはちゃんとしたトイレがあるんだが、外に出ることは許可されていない。

 だから急遽、簡易なトイレスペースを作ってもらった」


 それは少し前に利用していた解放感溢れるトイレよりもはるかにマシなものであり、乙女な少女達は心の中で嬉し涙を流した。


「あの……」


 一人の女子生徒がおずおずと坂手に声をかける。


「お、お風呂とかは……」


「ああ、それも頼んである。毎日は無理だが、週に一度か二度くらいは入浴できるようになるだろう。

 それまでは、布と水を用意するからそれで我慢してくれ」


 それを聞くと、女子らは皆、顔に喜色を浮かべた。


 その後、坂手は禁止事項を説明すると、男子を連れて去っていった。

 色々、聞きたいことはあったが、坂手自身忙しいらしく、もう行かなければならないとのこと。


 女子だけになった部屋で、皆は早速身体を拭いて服を着替えた。



 夜。

 部屋には燭台などはなく、明かりといえば窓から注ぐ僅かな月の光のみ。

 皆はすることもなく、ベッドに潜り、隣の者と囁きあう。


「ねえ」


「ん?」


 並んだベッドに横になりながら、良美は小さな声で由利子に話しかけた。


「その……由利子のお兄ちゃんのことなんだけどさ……」


「……」


 言いづらそうに、言葉を発する良美。

 それもそのはず、その内容はこの世界に来る直前に由利子を不機嫌にさせた、由利子の兄の話であったからだ。


「帰ってきたんだよね……?」


「うん、帰ってきた」


 由利子ははっきりと答えた。

 いずれ聞かれるだろうとは思っていたし、異世界から生還を果たした兄の存在は、自分達の心を勇気づけるのにこの上ないことだからだ。


「ここと同じ世界だったのかな」


「ごめん、兄貴とは一度も話してない。全部、親から聞いた話で、詳しくないんだ」


「そうなんだ」


「……うん」


「でも異世界に行って帰ってきたんだよね」


「それは間違いないと思う」


「そっか、じゃあ望みはあるってわけだ」


「ねえ、お兄さんってどんな人だったの?」


 由利子は考える。

 兄、武田武雄。共に過ごしたのは由利子が小学校低学年の時までで、その記憶は無いに等しい。

 しかし、いざ思い出そうとすれば、陽炎のようにゆらめく武雄の姿が脳裏に浮かぶ。

 妹の手を繋いで歩く兄。

 それは何処へいくかも、何を話したかもわからない映像。


「……あんまりしゃべんない人だった……と思う」


「なによそれ」


「昔の話だからね、でも優しく笑ってた気がする」


「そっか……優しいお兄さんだったんだね」


「そう、だったのかな」


「そうだよ。きっとそう」


「……うん、そうだね」


「日本に帰ったらさ」


「うん」


「由利子のお兄さんを紹介してよ」


「え?」


「あ、変な意味じゃないよ?

 親友のお兄さんで、同じ目に遭った者同士だもん。話をしてみたいかなって」


「でも――」


 ――まだ仲直りもしてないし。

 そんな言葉を見透かしたように、良美は続ける。


「本当は仲直りしたいんでしょ?」


「……」


「わたしも一緒に謝るよ。だからさ……絶対、絶対帰ろうね」


 暗闇でよく見えなかったが、由利子には良美が微笑んだように思えた。


「そうだね、絶対帰ろう」


 由利子もまた微笑み返す。

 誰かが誰かを勇気づける、そうすることで彼ら彼女らは正気を保っていたのであった。


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