5章 父
遅くなって申し訳ありません
次話は早めに投稿します
――かつて高崎紗香は父を拒絶した。
――しかしその父は、拒絶されてもなお娘を愛していた。
――彼が拒絶されて以後、娘に会おうとしなかったのは、ひとえに娘を深く愛してるがゆえ。
――彼は、娘から父として扱われないのことが何よりも辛かったのだ。
――他の男と変わらぬ扱いであることが辛かったのだ。
二月の中旬、時間的には高崎紗香がとあるマンションへと引っ越してから数日後の夜のこと。
日本は都心の高級住宅地にある大きな屋敷の書斎にて、その家の使用人であるかよ子が一人の男に報告を行っていた。
男は机に両肘をつけて手を組みながら座っており、歳は四十代半ば。
椅子に座ってもなお高さを感じさせる背丈は、立ち上がったなら百八十センチは優に超えるであろう。
眼光は鋭く、寄せてもいない眉間の皺は彼の人生が決して楽ではなかったことが窺える。
その男、名前を高崎郷三郎。
一企業の長にして、高崎紗香の父親にあたる者である。
「――以上になります」
かよ子による長い報告が終わった。
内容は、かよ子が知りうる紗香が武田武雄なる者と出会ってからこれまでのこと。
そしてその全てを聞き終えた郷三郎は、「そうか」と呟くだけであった。
「……」
「……」
二人しかいない書斎に、沈黙が流れる。
郷三郎は今行われた報告に対し、何かしら考え込んでいるのであろう。
しかし一方のかよ子は、話が終わったのだから早く出ていきたいんですが、という心持ちであった。
かよ子は別に超一流の使用人だとか、裏では高崎家に仇なす者を抹殺しているだとか、そんな映画染みた人間ではない。
どこにでもいる一般人であり、ただの雇われの使用人である。
それゆえ、妙に迫力のある郷三郎との対面はどうにも居心地が悪かった。
おまけに主と使用人という立場もよくない。
だって、閉じられた空間に主と二人っきりとか淫らな要求をされかねないし。
無論、郷三郎にそんなやましい気持ちは一欠片もない。
だがそんなことは露知らず、かよ子は平静を装いつつも、脳内ではピンクな思考を飛躍させていたのである。
「紗香は……紗香は、幸せそうであったか?」
やがて郷三郎がかよ子に問うた。
既にかよ子は、先程の説明で紗香がどのように変わっていったのかを伝えている。
だからこれは確認。
郷三郎が自身へ念押しするための確認であった。
「はい」
女性特有の高い声が鳴る。
紗香が幸せであることを肯定したのは、別段なんの特徴もない至って普通なはずのかよ子の声。
されどその声は、今ばかりは弦楽器のような美しい響きを奏でた。
夜の静けさがそう錯覚させたのか、あるいは聞く者の心情によるものか。
郷三郎はなにも言わず目を閉じる。
そして再び目を開いた時には、とても穏やかな表情になっていた。
「よくわかった。これからも紗香を頼むぞ。下がっていい」
「失礼します」
かよ子が一礼をして退室する。
扉の閉まる静かな音がすると、郷三郎は机の上にある武田武雄についての資料に目を落とした。
それは、かよ子のような素人によるものではなく、その道のプロともいうべき者に調べさせたものだ。
そこには武田武雄の出生から現在に至るまでの記録、家族構成から交遊関係にいたるまで、ありとあらゆるものが克明に記されてあった。
しかし、書かれていないこともある。
それは、武田武雄が学校の授業中に突然行方不明となり、その五年後に見つかるまでの不在期間について。
郷三郎は大企業の社長だ。当然、国の権力を握る人間達とも繋がりを持っている。
そして郷三郎は、既にその伝を使って武田武雄の不在期間についての情報を得ていた。
「異世界……か」
それは箝口令が出ている情報であり、証拠を残さぬために口頭でのみの説明であった。
聞かされたのは、紗香が警察にただ一度口にしたものと同じ話。
――異世界。
郷三郎は娘の話が戯れ言だと思っていた。
誘拐され酷い目に遭ったせいで、荒唐無稽な話を口にするほど心が壊れてしまったのだと思った。
郷三郎は娘を信じてやれなかったのだ。
異世界に行っていたなど常識では考えられないこと、だから仕方がない――そんなものは言い訳にはならない。
信じてやっていれば、少しでも力になってやれたかもしれない。何かやれることがあったかもしれない。
そんな後悔が今、郷三郎の心を縛りあげていたのである。
◆◇
二月の末日、それは高崎紗香がタケオの住む部屋の隣に引っ越してから十日ほど過ぎてからのことだ。
タケオの通う学校の前には、高級そうな黒塗りの車が一台停まっており、さらにその横にはビジネススーツを着こなした女性が立っていた。
何事かと注がれるのは、帰宅する生徒達の視線。
そして、その中にはタケオの視線もあった。
(あれは……)
タケオにはその女性には見覚えがあった。
高崎紗香とたまに話しているところを見かける――
(――かよ子さん、か)
タケオとかよ子。
互いに自己紹介をしたことはなく、挨拶がわりにお辞儀をした程度の仲。
かよ子という名前をタケオが知っていたのは、紗香がそう呼んでいるのをたまたま耳にしたからである。
そんな間柄であったが、タケオが今までに見たことがあるかよ子の姿はカジュアルな服装ばかり。
そのため、今現在のかよ子のスーツ姿というのは初めてのことで、タケオはなにやら言い知れぬ不安を感じた。
タケオは視線を少しずらして、車の方を見る。
車には運転手と思われる男性が乗っているだけで、他には誰もいないようだ。
(高崎さんはいないのか……)
高崎紗香が乗っていようが乗っていまいが、用があるのはタケオであるのは間違いない。
そうこうしていると、かよ子もタケオの方に気づいたようで、その場で一礼する。
タケオは、下校中の生徒達の疎らな注目を浴びながらかよ子の下へ向かい、話を聞いた。
「紗香お嬢様のお父様が武田さんとお会いになりたいそうです」
正直、ええっ!? という内容である。
しかしタケオは、どんな用件で僕と会いたいのですか? とは聞けなかった。
なんてったって娘がいきなり引っ越したのだ。
その原因であろうタケオに対し、疑惑の目を向けるのは親として必然のことといえた。
かくして高級車はタケオを乗せて動き出す。
タケオが上等なシートに腰掛けながら行き先を訪ねると、助手席に座るかよ子が料亭であると教えてくれた。
乗車して一時間あまりで、車は目的地へと到着する。
タケオが車を降りると、水平にある太陽がタケオの瞼を照らした。
手で日陰を作り、細めた目を開けるとそこは道の端まで延びる屋根のついた塀と、風格のある門構えをした日本屋敷。
門の上部には大きな看板が備わっており、いかにも高級である、といった風な料亭であった。
「どうぞ中へ」
タケオはかよ子に促されて門を潜り、本邸へと続く石畳を歩く。
途中目にした庭園は、素人目からしても素晴らしいものといえた。
タケオはかよ子の後ろに続いて建物の中へと入り、出迎える中居達の横を抜けて、奥へと向かう。
そしてある襖部屋の前でかよ子の足が止まった。
「旦那様、武田武雄様を連れて参りました」
「入ってもらえ」
部屋の奥より聞こえてきた声に従い、かよ子が襖を開ける。
すると、タケオの視界に広がったのは和を感じさせる空間であった。
二十五畳の広々とした部屋には、一畳ほどの黒漆の机がポツンと置かれており、床の間には盆栽が飾られ、その壁には鶴が描かれた掛軸が掛けられている。
また部屋の隅には天井に灯りがあるにもかかわらず、ぼんやりと光る灯籠を模したランプがあった。
さらにその奥では、外の景色を遮る閉められた障子が、夕日に当てられて赤く染まっている。
それらは清浄さを感じさせ、加えてどこか心が引き締まる気がするのは、高級な部屋であるからか、それともタケオが和室に慣れていないせいか。
そして、部屋には一人の男がいた。
男は机を挟む二つの座椅子より立ち上がった。
厳格さを感じさせる容貌をしており、着ている服はスーツでありながらも、和の空気に違和感を感じさせない雰囲気があった。
タケオは、その男が高崎紗香の父親であると判断した。
さらに、あんまり似てないなと失礼なことも考えていた。
すると男はタケオに歩み寄って、顔に似た底力のある声を発した。
「初めまして、私は高崎郷三郎という」
声、顔、さらにタケオよりも十センチは高いであろう身長は中々な迫力である。
タケオは郷三郎より差し出された手を握った。
それは、タケオのようにゴツゴツとした硬い手ではなかったが、とても大きくどこか力強さを感じさせた。
「座ってくれ」
タケオは言われるがまま、郷三郎の対面に腰を下ろした。
ふと入口を見てみれば、かよ子は居らず襖は閉まっている。
そして間を測ったかのように「失礼します」という声がして、襖が開けられた。
姿を現したのは料亭の中居。
中居は注文を取りに来たようで、タケオと郷三郎にお品書きを渡した。
「無論、支払いは私持ちだ。どれでも好きなものを頼みたまえ」
郷三郎の発言に、その前に色々と事情を説明してほしかったと思うタケオであったが、まあいいかとお品書きに目をやった。
そこには値段の書いていない料理の名前がずらりと並んでいた。
こういった場で遠慮というのは逆に失礼に当たるだろう。
タケオは一番高そうなセットメニューを選んだ。
「私も同じものを頼む、全てまとめて持ってきてくれ。酒は純米大吟醸だ」
タケオに対し、飲めるんだろう? と郷三郎の目が言外に語っている。
仲居は「かしこまりました」と恭しく承って部屋を出ていった。
「すまなかったね、アポイントメントもなしに」
「いえ」
「本来ならもう少し後に、きちんとした形で会うつもりだったんだが、急に時間ができてしまってね。
居てもたってもいられなかったんだ」
ハハハと悪びれもなく言う郷三郎。
「わざわざ来てもらったことについても重ね重ねすまない。
なにせ私もそれなりに立場のある身だ。こちらから出向くとなると、どこぞの輩からいらぬ勘繰りが入ってしまうからね」
「はい」
タケオ自身、若いながらも大商会の主たる男である。
郷三郎の言うことは重々承知していた。
あちらの世界では、貴族の突然の訪問なんて当たり前のことであったし、力ある者が何かをすれば余人が騒ぐのもこちらの世界と変わらぬことであった。
それからは学校はどうだという話になり、経済がなんたらとか、とりとめのない話が郷三郎主導のもと続いた。
やがて仲居数人が、盆にのせた料理を持ってやってくる。
彼女らはテキパキと配膳し終えると、「それでは失礼します」と最後に残った中居頭が礼をした。
他の中居は既に去った後だ。
そんな仲居頭に向けて郷三郎は言う。
「私達が部屋を出るまで立ち入らぬように」
仲居頭は「かしこまりました」と、ここでもやはり恭しく礼をして去っていった。
「さて、飲もうか」
郷三郎より差し出される徳利にお猪口を差し出し、またこちらも徳利を差し出した。
郷三郎は注がれた酒を一息に飲むと、今度は自ら己のお猪口に酒を注いだ。
「娘は異世界に拐われていたそうだ」
杯に注がれた酒を見ながら郷三郎がポツリと言った。
これまでとは打って変わった重々しい口振りである。
「私はそれを信じてやれなくてね。嘘などついたことのない、まっすぐで優しい娘だったというのに」
「はあ」
生返事をするタケオ。
郷三郎は己の杯からタケオへと視線を移した。
「君のことは調べさせてもらったよ。娘と同じ場所にいたということもね」
驚くことではない。
有名な企業の社長ならば、それくらいわけないだろうとタケオは思った。
郷三郎はグビリと杯を空けて言う。
「異世界とはどんなところなのか」
「……申し訳ありませんが、警察の方からはそういったことについて口外しないように、と言われていますので」
タケオが高崎紗香へ特別に話したのは、彼女もまた異世界へと渡った者であるからだ。
「そうか。
ならば異世界のことについて、話さなくてもいい。ただ紗香がどんな目に遭っていたのかを教えてくれないか。
君の推測でいい」
「それを聞いてどうするつもりですか?」
「わからない。だが一歩は進めるはずだ。
なにも知らなければ、何をしていいかもわからない。
そしてなにも知らぬからこそ一度は傷つけた」
娘を愛する父親なのだな、とタケオは思った。
タケオが箸に手をつけると、郷三郎も同様に箸を手にし会話はなくなった。
黙々と食事をする二人。
やがてタケオは箸を置いた。
まだ料理は半分近く残っている。
そんなタケオの様子に何かを感じ取り、郷三郎もまた箸を置いてタケオを見据えた。
――そしてタケオは話し出した。
魔法のことや、亜人達など、こちらと大きく違うことを省いて、異世界のことをタケオは話した。
さらに自分が奴隷になったことを話し、また女の奴隷がどんな目に遭うかも話した。
郷三郎はそれを我が事のように聞いた。
酒にも手をつけず真剣に聞いていた。
「――勿論、これらの事は一例にすぎず、高崎紗香さんがこのような目に遭ったとは限りません」
そんなわけはない。
高崎紗香のあの狂い様を見れば、どれだけ酷い目に遭ったかはわかりきっている。
それはタケオも郷三郎も、どちらもが思うことだった。
「君も奴隷にされたという話だが、何故君はそんなに平然としているのだね?」
どこかで聞いたような台詞である。
間違いなく高崎紗香は母親似であろうが、やはり目の前にいる男とも親子ということだろう。
タケオの中で郷三郎と紗香の姿が重なっていた。
すると、どこでどう間違えたのか、頭の中で重なった二人はグニャリグニャリと姿を変えて、できあがったのが郷三郎の顔をした高崎紗香である。
顔は厳つい郷三郎、身体は女らしい高崎紗香。
タケオは考えるのをやめた。
さて本題は、なぜタケオが平然としていられるかという郷三郎の質問である。
「……平然としていられるようになった、が正しいですね。
恩人が……父のような人が僕を救ってくれました」
言うまでもなく、救ってくれたというのはゴルドバのことであった。
しかし、タケオはその答えを言ってからハッとした。
何故、父という言葉を出したのか。
確かにゴルドバは、『父のような』といって間違いのない人である。
タケオはゴルドバに家族のような温かさを感じていた。いや、まさに家族であった。
だが、それをここで故意に口にしたのは何故か。
タケオはなんだか妙なしこりを感じた。
「そうか、君を救ったのは父親でも母親でもなく、父の“ような”人、か……」
タケオの両親では救えなかった。
ならば父親である自分では、やはり娘を救えないのだろうか――そんな思いが、哀愁となり郷三郎に影を落とした。
タケオはそれを見て、ああそうかと得心がいった。
それは嫉妬。
娘を想う親、タケオはそれに嫉妬していたのだ。
「そうだな、君の話を聞いてなお、私には娘とどう接すればいいかすらわからん。
だから――」
郷三郎は、言葉の途中で懐からやにわに封筒を取り出し、それを机の上に置いてタケオの方に差し出す。
その封筒には幾センチかの厚みがあった。
「――武雄君、キミにお願いする。
金などは、もしかしたらキミにも娘にも失礼に当たるかもしれない。しかし、今はこれ以外に誠意を表しようがない。
足らぬというのなら、幾らでも用意しよう。出来る限りの便宜を図ろう。
今、ただ一つ確かなこと。
それは娘がキミにだけ心を開いているということだ。
だから頼む。
君を救った恩人のように、父のようなといった人のように、娘を、娘の力になってやってくれ……!」
タケオの目の前では、あの威厳溢れた男が頭を下げていた。
既にタケオは、父親、いや家族とは決着をつけている。
だというのに、タケオの心は何故か苦しかった。
その後は酒を飲み交わしながら、郷三郎から娘の自慢話を聞かされ、やがて解散した。
タケオの乗った車がマンションの前に着く。
今度はかよ子の同乗はなく、乗客は己一人である。
「武田様、到着しました」
タケオは運転手の声を聞いて、開かれたドアから外に出ようとするが、どうにも体が重い。
原因はわかっている。
間違いなく札束が入った封筒のせいであろう。
タケオは、やはり貰うべきではなかったかと思いつつ、その封筒から福沢諭吉先生の肖像が書かれた一枚を取り出し、「ありがとうございました」と運転手に差し出した。
しかし、これを運転手は丁寧に断った。
既に料金を貰っていたからというのもあるが、その上でやましい心が働かなかったのは、高級ハイヤーの運転手として社の教育がなされていたからである。
しかしタケオは、チップですと言って一万円札をサイドブレーキの上に置くと、さっさと車外へ出ていった。
これでは運転手もどうしようもないだろう。
すると、大きな声でありがとうございます! というらしからぬ声がした後、車は去っていった。
特に渡す必要はなかった金。
あちらの世界ならともかく、タケオが日本でチップなど払ったことはない。
それは心の重みを少しでも誰かに渡したかった、ただそれだけのことだ。
タケオは音を鳴らさぬようひっそりと階段を昇る。
夜であるから近所迷惑を思ってのことで、別に他意はない。
タケオが階段を昇りきると、一番手前の部屋の扉が突然開いた。
そして、中から現れた美しい少女が、「おかえりなさい」とタケオを出迎えてくれたのであった。