5章 高崎紗香 2―3
三人の不良が去ると、後に残されたのはタケオと高崎紗香だけであった。
「大丈夫か?」
タケオが声をかけるも、俯く高崎紗香からの返事はない。
それどころか、高崎紗香はこれまでに一度たりとも顔を上げておらず、ただ震えているだけ。
タケオを認識しているかどうかすら定かではなかった。
「武田武雄。名前くらい山野さんに聞いているだろう?」
タケオは自分の名前を高崎紗香に告げる。
すると彼女は、おずおずといった風に顔を上げた。
名前を聞き顔を上げたのだから、それはタケオを恐れていない証である。
当然だ、彼女はこれまでずっとタケオを追いかけており、今日のことも元を正せばそれが原因なのだから。
「あ……」
そして高崎紗香は、タケオの顔を見ると小さな声を上げてまた下を向いた。
これに対し、らちが明かないなと思ったタケオであるが、逃げられないだけマシというものである。
「家まで……はだめか。途中まで送るよ、また誰かに絡まれても困るだろう」
タケオは努めて優しく言う。
家まで送るよ、という言葉をのみ込んだのは、高崎紗香の家は隣県であるし、さすがにそこまで送るほど暇ではなかったからだ。
もっとも、隣県からわざわざ通っているとも思えなかったが。
タケオの提案に高崎紗香は小さく頷いた。
タケオもホッとひと安心だ。
そして、高崎紗香は歩き出し、タケオもその後をついていく。
しかし、少しばかり進んだところで問題が発生した。
(少女の後ろを男がずっとついていくというのはどうだろうか……)
不審者扱いされでもすれば、翌日には『○○県○○市に制服を着た二十代の男性が少女を付きまとう事案が発生』なんていう広報がされかねない。
そのためタケオは高崎紗香の横に並ぼうと歩く足を速めた。
すると、なんということか。
高崎紗香もまた、自身の足を速めてタケオに追いつかれないようにしたのである。
これでは追い付けない。タケオはさらに足を速めた。
するとやはり高崎紗香もまた、さらに歩く足を速める。
まさにデッドヒート。
ここに、オリンピックもかくやという競歩バトルが開始されたのであった――なんてことはなく、タケオはあっさりと速度を落とし、時折ちらちらと後ろを見る高崎紗香もまた速度を落とした。
(まあ、間違われたらそれまでか。
本当に付きまとっているなら兎も角、実際は彼女が僕に付きまとっているのだから、そこまでまずいことにはならないだろ)
通報されても説明すればどうにでもなる。
そんな覚悟をしつつも、やっぱり誤解されませんようにと祈りながら高崎紗香の後を歩くタケオであった。
やがて高崎紗香の足が止まった場所は、駅近くのホテルの前であった。
つまり彼女はここからタケオのマンションへと通っていたわけである。
「それじゃあ、僕はこれで帰るから」
何かしら事情を聴きたいとも思ったタケオであったが、これまでの彼女の態度を見るにそれは無理であろう。
タケオは、また監視される日々かと内心で嘆息しつつ、その場を去ろうと背を向けた。
しかし――
「あ、あの……っ!」
――彼女の声がそれを阻んだ。
高崎紗香から初めてかけられた声。
タケオは僅かな驚きと共に、立ち止まった。
振り向こうかとも思ったが、また顔を合わせてしまえば、彼女を怯えさせてしまうと思い、背は向けたままだ。
「ほ、ホテルの中に、れ、レストランがあるので、……そ、その……おは、お話を……」
どんどん小さくなっていく声。
最後の方は蚊の鳴くような、と形容するほどに今にも消えそうなものであった。
だがそれは勇気を振り絞ったことがよくわかる声でもあった。
「ああ、いいとも」
タケオは今度こそ振り返って、その誘いを笑って迎え入れた。
先行する高崎紗香の後に続き、タケオはレストランへと入る。
店内の客はまばら。
田舎のホテル故であろうか、そのレストランはホテル内部のものとはいえ格式張った感じはせず、タケオはファミリーレストランのチェーン店のような印象を受けた。
空いていた席にオドオドとした様子の高崎紗香が、この席でいいかという視線を投げかけてくる。
タケオは、苦笑いしながら頷いた。
二人が向かい合って席に着くと、すぐにウェイトレスがやって来て注文をとる。
夕食にはまだ早い。
タケオはオレンジジュースを頼み、高崎紗香もか細い声で同じものを注文した。
ウェイトレスが席を離れた後、先に口を開いたのは高崎紗香である。
「さ、先程は、あ、ありがとうございました」
彼女は顔を上げることなく言った。
これを失礼だ、などとタケオは思わない。
これまでのことを思えば大した進歩、称賛すべき行為であろう。
「気にしないで」
タケオがそう言うと、そこでまた会話は途切れて静寂が二人の間を支配した。
「オレンジジュースになります、ごゆっくりどうぞ」
注文したものが机に置かれても、高崎紗香は手を付けず黙ったままだ。
(無理もないか……)
タケオは、異世界から高崎紗香を助け出した時のことを思い出した。
あれからおよそ二月。
心を癒すには短すぎる時間である。
「山野さんから聞いたよ。君が僕を訪ねることがあったら力になってほしいって」
タケオの発した声に一瞬ビクリとする高崎紗香。
「――といっても、何をどう力になればいいのか僕にもわからないんだけど……」
残念ながらタケオはカウンセラーでもなんでもない。
ただ彼女と同じ体験をしたというだけだ。
「……」
「……」
それからまた長い沈黙が続いた。
時折、横を通るウェイトレスは何やってんだこいつらと思ったとか、思わないとか。
そしてその沈黙を破ったのは意外にも高崎紗香であった。
「あ、あの……」
「ん?」
「わ、私を助けてくれたのは、あ、貴方ですか……?」
高崎紗香が言っているのが、学校の前で三人組から助けたことならば答えはイエス。
しかし、それについては先ほど彼女から礼を言われており、済んだことである。
つまり高崎紗香が言わんとしているのは、タケオが彼女を異世界から助け出したことであった。
しかしそれを言うわけにはいかない。
それはタケオにとって秘するべきことなのだから。
というわけでタケオは、高崎紗香の質問に対し言葉を濁すことにした。
「ああ、確かにさっき君を助けたよ」
「あっ……ち、違います。その夢で……あちらの世界から……」
途切れ途切れで要領を得ない話である。
夢とはなんであろうかとタケオは思った。
だが、それだけではない。
彼女は確かに『あちらの世界』と言った。
だからタケオははっきりと答えた。
「違うよ」
タケオの言葉にビクリと大きく震える高崎紗香。
「君をあちらの世界から助けたのは僕じゃない」
彼女の瞳が大きく揺れた。
それは心の底から動揺している証拠であった。
タケオは知らぬことであったが、彼女がすがり付いていたものが、この時崩れ去ったのである。
やがて高崎紗香の顔からは驚きや悲しみの色すら抜け落ち、ブツブツと何かを呟き始めた。
その目は虚ろであり、何も映してはいない。
タケオは、高崎紗香の突然の変化にたじろいだ。
しかし、こればかりは譲れない。
タケオができることは、同じ境遇の者――高崎紗香の辛さを唯一わかってやれる者として、話を聞き励ますことくらいなのだ。
やがて、彼女の中で何らかの結論が出たのか、揺らいでいるばかりであった目がタケオを捉えた。
「じゃあ……なんでそんなに貴方は平気な顔をしていられるんですか……?」
高崎紗香の口から放たれたのは、またも要領を得ない質問である。
タケオは首を捻った。
「質問の意図が掴めないんだけど」
「なんで私と同じ目に遭って平気な顔をしていられるんですかっ!」
高崎紗香は怒るように言った。
その目には涙を浮かべている。
それは八つ当たりであった。
自分の望む結果が得られなかったことへの八つ当たり。同じ境遇でありながら平気な顔をしている目の前の男への八つ当たり。
いや違う、それだけではない。
高崎紗香はまだ僅かな希望を持っていた。
自分と同じ目に遭って平気でいられる者、それはやはり仮面の男なのだと。私を救ってくれた方なのだと。
突然の叫び声に、客やウェイトレスがなんだなんだとタケオ達の――特に発声者と思われる高崎紗香の方へ視線を向けている。
しかし、この時ばかりは真っ直ぐにタケオを見据える高崎紗香であった。
「僕が帰ってきたのは三年近くも前。君と僕とでは状況が違うよ」
高崎紗香からの反応はない。
「そうだね、僕があちらの世界でどんな目に遭ったのか話してあげよう」
せめて立ち直るための一助になれば――そう思い、タケオは今から八年前、あちらの世界へと連れていかれてからこちらに帰ってくるまでの五年間のことを話し始めるのだった。
「――というわけだ」
全てを話し終えると、タケオはオレンジジュースで喉を潤した。
その内容は警察に説明したものとほぼ同じであり、特殊な能力に関わることなど、肝心なことは話していない。
しかし、ただ一つ、己も奴隷になったことだけはしっかりと告白していた。
彼女がどんな目に遭っていたかは想像できる。
だからせめて、同じ境遇の者がいるということを知って慰めにでもなればと、タケオは思ったのだ。
途中、横を通ったウェイトレスが、なに話してんだこいつら、という、まるで痛い人間でも見るような顔をしていたが、それは気にしてはいけない。
タケオの舌を通ったオレンジジュース。
それは果汁百パーセントであるためか、甘さよりも酸っぱさが強く舌に残った。
「……」
「考える時間がいるだろう、今日はこれまでにしよう」
高崎紗香は話の途中から下を向いてしまっている。
彼女は、淀みなく話すタケオの様子に、『助けたのは僕じゃない』という言葉が嘘ではないと判断してしまったのだ。
タケオはレシートを手に取ると、高崎紗香が何か反応を返す前に席を立った。
「千二百円になります」
レジに立つウェイトレスに二人分の料金を支払って、タケオは店を出る。
ホテルの外は冬の夜風がとても冷たい。
タケオは、一杯六百円のオレンジジュースにしては不味かったな、と今さらながら不満に思いつつ、己がマンションへと足を進めた。
◇◆
私は呆としたままホテル内を歩いていた。
頭の中は、武田武雄さんがあの方ではないことを認めることも理解することもしたくなくて、どうにかなってしまいそうだった。
やがて、宿泊している部屋の前に辿り着くと、私はルームキーを取り出して扉を開けた。
「お帰りなさいませ」
部屋にいた使用人のかよ子さんが声をかけてくるが、私はそれを無視してベッドに倒れ込む。
そして、もぞりと布団を手繰り寄せ、それにくるまった。
布団で覆い隠したのは体、でも本当に覆い隠したかったのは心。
私の身体の内側は嵐のように荒れ狂っていた。
私は心の中で叫ぶ。
なんで、なんで、なんで、と。
なんで武田武雄さんが、私を救ったあの方じゃないのか。
夢の中で見たあの方の素顔は間違いなく武田武雄さんだったはずである。
それなのに、なんで……。
『違うよ、僕じゃない』
その言葉が私に重くのしかかる。
『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』
やめて……。
『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』
やめて! そんなの聞きたくない!
『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』『違うよ』
『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』『僕じゃない』
私のやめてという願いはどこかへ消えて、あの人の声だけがこだまする。
――違うよ。君を助けたのは、僕じゃない――
それは刃物のように私の心臓を貫いた。
ああそうか、と私は思った。
全ては私の幻想だったのだ。
そもそも私を救った仮面の男なんて存在してはいない。
それは私が私を救うための夢物語。
そう、私が勝手に空想した都合のいい人形劇。
より現実的に見せるため、私は無意識に知っている人の顔を当てはめたのだ。
本当は最初からわかっていたはずなのに、それでも私はそれを拠り所としたのである。
いずれ弾ける泡沫の夢。
それが今弾けただけのことであった。
――なのに、私は何を期待していたのだろう。
彼をずっと見ているうちに、一緒に学校に通ううちに、私は……。
ああ……まぶたが重い……。
夢の中、きっともうあの方には会えないだろう。
眠りに落ちる中で、私にはそんな予感があった。
――そこは地獄だった。
決して這い上がれぬ釜の底。
今日も男達の世話をするために、私は部屋の中で椅子に座りながらその時が来るのを待っていた。
すると扉を開けてやって来たのは不思議な男。
男は白い仮面を被り、どこか怪しげであった。
私はその男に近寄った。
たとえ、どんな相手であろうとやることは変わらないからだ。
それなのに――。
『辛かったな。もう大丈夫だ』
言葉が通じぬはずの世界で、その男の言葉だけは通じた。
初めて聞いたその声は、どこか聞き覚えがあるようであった。
ああ、そうだ。
なぜ忘れていたのか。
仮面の男は本当にいたのだ。
そしてその声を。
私は確かにあちらの世界で聞いた。
たとえ顔が仮面に隠されていようとも、その人の声だけは知っている。
私はゆっくりと仮面に手を添えてそれを外した。
私に優しく微笑みかける顔。
――それは紛れもなく武田武雄さんの顔であった。
ああ……っ! あああ……っ!
間違ってなかった……っ!
やはり、私を救ったのは武田武雄さんであったのだ……っ!
心の高ぶりが、感動が、私の鼻の奥を刺激して涙がこぼれ落ちる。
ならば私は二度と忘れないようにしよう。
この目も、この鼻も、この口も、この耳も、この髪も、この声も。
全てを心に刻み付けるんだ。
この夢が覚めても、決して忘れないように。
「……様、お嬢様」
ベッドの上、私はかよ子さんに身体を揺すられて目を覚ました。
「お夕食をとらないと駄目ですよ。これ以上、痩せたらどうするんですか」
呆としたまま、かよ子さんの声を聞き流す。
察するに寝ていたのは少しの間で、まだ日にちは変わっていないのだろう。
そして私はポツリと呟いた。
「……武雄さん」
私は全てを思い出した。
それは、私がこの世界に戻ってくる前にあった、あの方との本当の出会い。
臆病な私が何もかもを忘れようとして封印した記憶であり、そして、決して忘れてはいけなかったもの。
あの方の素顔はわからない。
でもその声だけは私ははっきりと覚えている。
『辛かったな。もう大丈夫だ』
私を救った人の声は確かにこの心に刻まれていた。
――私はもう迷わない。
「お嬢様……?」
かよ子さんが私に声をかける。
そういえば夕食の話だったなと思って、なんとなく視線を下に向けてみれば、そこにあったのは痩せ細った私の手。
おそらく、この手同様に顔も体も痩せこけているのだろう。
私は、そんなみすぼらしい姿であの方と会っていたのかと思わず自省する。
「かよ子さん、お食事をいただけますか」
私がそう言うと、かよ子さんは驚いた様子で「は、はいっ!」と返事をした。
その声はどこか弾んでいるようでもあった。
◇◆
タケオが高崎紗香と話し合いを行ってから数日が過ぎた。
あれ以降、彼女が付きまとうことはなくなり、タケオは平穏な生活を取り戻している。
そして今日は、週末の休みを終えた後の月曜日であった。
「なんというか、いなくなったらいなくなったで寂しい気もするな」
学校を終えて帰宅している途中で、ポツリと呟くタケオ。
高崎紗香の行為にはそれなりに辟易していたというのに、その事をどこかに置き忘れてしまったような発言である。
まさに喉元過ぎれば暑さを忘れる、というやつであった。
やがてタケオはマンションへと到着する。
するとその時のこと。
「むっ……」
階段を上り自分の部屋の前までやって来ると、タケオはふと何か違和感を覚えた。
それは視線を感じるというわけではなく、あくまで違和感である。
タケオは、はてなんだろうか、と考えを巡らすが、答えは出ない。
されど、その違和感がとても大事なことであるように思えて、それがなんなのか確かめずにはいられなかった。
タケオはマンションの階段を下りようと身を翻した。
もう一度マンションに来てからの行動をやり直せば、何か気づくのではと考えたからだ。
ところが、タケオは階段を下りる必要はなかった。
タケオの住む二○二号室から階段に辿り着くまでにあるたった一つの部屋、二○一号室。
その部屋の前を通るまさに今、タケオは心を悩ませていた違和感の正体に気づいたからである。
それは部屋の居住者の名前が書いてあるプレートにあった。
「た、高崎、さ、紗香……!?」
そこに書かれていたのは、なんと高崎紗香の名前であったのだ。
タケオの頭の中で、ジャーン! ジャーン! という銅鑼の音が鳴り響く。
それは恐るべき衝撃だったからに他ならない。
「いやいや……え? なんで?
いやいや……え? なんで?」
タケオは困惑して、疑問の声を壊れたスピーカーのように連続させた。
タケオの記憶が確かなら、本来その名札には須田という名前がかかっているはずである。
しかし、その疑問に答えてくれる者は一人もいな――いや、いた。
タケオが立ちすくんでいるところに、ガチャリと二○一号室のドアが開いたのである。
そこから現れたのは――。
「た、高崎……紗香……!?」
タケオがまたも驚きの声を上げる。
それは黒髪の美少女、紛れもない高崎紗香であった。
「今度隣に引っ越してきた高崎紗香と言います。どうかよろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる高崎紗香。
話す言葉はハッキリとしており、ちょっと前の姿が嘘のようだ。
心なしか肉付きもふっくらとしたように感じられる。
「え、ああ……た、武田武雄です……よ、よろぴく」
高崎紗香のあまりの変わりようと、隣に引っ越してきたという理解の追い付かない現実。
その混乱と動揺から、昔のアイドルが使っていた凍えるようにお寒い挨拶をしてしまうタケオであった。