5章 高崎紗香 2―2
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――再入院して翌日の朝。
再び戻ってきた病室で私はまた一夜を明かした。
そこにあるのは、いつもと変わらぬ悪夢からの目覚め。
目蓋を開けると部屋は暗く、私は頭上にある照明のスイッチを押してから上体を起こした。
部屋に時計はないため時間はわからない。
カーテンの向こうから射し込む青白い光からして、ちょうど日の出の頃であろうか。
今が二月であることを考えれば午前六時半ばあたりだろう。
しかし、そんなことはどうでもいいことだ。
ここが日本であることが私を安心させる。
ただそれだけ。
ここがあの世界でないことが私を安心させる。
ただそれだけ。
私にとってこの平穏こそが全て。それ以上のことはなにも望まないし、なにも考えない。
それこそが私に相応しいこと。
だから私は、今日もただ静かに一日が過ぎるのを待つだけである。
……でも、そんな私の心は今、いつになくざわめいていた。
「仮面が……」
私はポツリと呟く。
心が揺れ動く原因、それは夢の中の仮面の男にあった。
今まで仮面に隠され続けていた彼の素顔が、とうとう露になったのである。
私を闇の中から救いだしてくれる人、それが仮面の男。
そんな彼が何者であるかなんて今まで考えもしなかった。
悪夢を思い出さないようにするので精一杯だったから。
神だとか天使だとか、そういった決して手の届かない存在だと思っていたから。
だけど彼は私に微笑んでくれた。
それはとても優しく、温かく、そしてなにより心地よかった。
必然、私はそれに囚われる。
私を地獄から救ってくれたあの微笑みを、もう一度。
私は目を閉じて、目蓋の裏に彼の顔を映し出す。
しかし考えども考えども、その顔は思い出せない。
顔を見たのは確かなのに、頭の中に浮かぶその顔には何故か霞がかかっていたのだ。
結局、唯一記憶にあったのは私に微笑みかけてくれたという事実だけ。
私はその顔を思い出そうと、その日は一日中頭を悩ませた。
再入院して三日目の朝。
昨日の夢でもまた仮面の男の素顔を見た。
しかし今日、目が覚めた時、やはりその顔は朧気にしか思い出せなかった。
でも一つだけ、仮面の男が優しく笑いかける口許だけは思い出すことができた。
再入院して四日目の朝。
またも仮面の男の素顔を見ることができた。
つまり彼は、これで三回連続仮面を落としたことになる。
仮面の男はドジなのだろうか、と考えるとちょっとおかしくなってしまう。
想像してクスリと笑ってしまった。
そういえば笑ったことなどいつ以来であろうか。
彼の凛々しい眉がとても印象的だった。
再入院して五日目の朝。
あの人はまた私に素顔を見せて笑ってくれた。
私は今日も一日中、あの人の顔を思い出すつもりだ。
その大きくも小さくもない鼻を私はよく覚えている。
再入院して六日目の朝。
昨日の夢でもあの方は優しく笑いかけてくれた。
目が覚めた後も、心はあの方の優しさに包まれているようだ。
私はとても嬉しくなって、思わず看護婦さんに挨拶をした。
すると看護婦さんは嬉しそうに挨拶を返してきたので、私はさらに挨拶をした。
あの方の暖かく見つめる目付きは、私の凍てついた心を溶かしてくれているのだろう。
再入院して七日目の朝。
今日はあの忌まわしい夢を見なかった。
あの方が私を、あの世界へと連れていかれる前に救ってくれたのだ。
そこからは、夢が覚めるまで私とあの方はずっと見つめあった。
私に勇気はなかったせいで話しかけることはできなかったけれど、あの方はずっと笑かけてくれていた。
この夢がずっと覚めなければいいのに。
私は、ただただそう思った。
短く切り揃えられたあの方の黒髪は誠実さの現れだろう。
再入院して八日目の朝。
今日も私とあの方はずっと一緒だった。
目が覚めた後、あの方に会うためにもう一度眠ろうとしたけど目が冴えて無理だった。
三日月のような素敵な耳。あの方は月のように私を照らしてくれているのかもしれない。
再入院して九日目の朝。
あの方は誰なのだろうか。
どこかで見覚えがある。
目、鼻、口、耳、髪。
そのお顔を、私は思い出しながら絵に描いてみる。
……もの凄い顔が出来上がってしまった。
どうやら私には絵心は無いらしい。
――そして再入院して十日目。
私は全てを思い出せた。今まで心に刻んだあの方の一つ一つが漸く重なったのである。
その顔は、少し前に一瞬だけ見た武田武雄さんのものだ。
そしてそれがわかったと同時に何故? という疑問が浮かんだ。
しかし、どれだけ考えても答えは出ない。
あの方が武田武雄さんだというのは勘違いなのか、記憶違いなのか。
確かめる方法はただひとつ。
――もう一度、彼に会うことだけだ。
◇◆
異世界では商人であるが、日本にあっては歳に似合わぬ高校生として、学校に通う日々を過ごしているタケオ。
それはダンカンとの会食から数日後のことだった。
「むっ……」
学校の授業が終わりマンションの前まで帰ってくると、タケオは不意にどこからか視線を感じた。
(監視……警察か)
その判断は早い。
視界内にこれといった人影はなく、タケオはすぐに警察による監視であると考えた。
これは過去に幾度も警察から見張られていたタケオからすれば、当然の帰結といえよう。
(変に刺激する必要もないな)
こちらが警戒する姿勢を見せれば、警察側はなにかあるのではと怪しむに違いない。
そう考えたタケオは平然を装い自室へと足を進めた。
どうせすぐいなくなるだろう、そんな安易な思惑がタケオにはあった。
しかし、翌日の朝。
「むっ……」
タケオは学校へ行こうとマンションを出た時に、またもや視線を感じた。
これで二日連続である。
タケオは眉を僅かにひそめたが、特にできることはない。
まあそういうこともあるだろうと知らない振りをしつつ学校に向かうだけであった。
されど授業中のこと。
タケオの頭に、ふと警察がなんの目的で監視しているのかという疑問がよぎった。
そしてそれは一度考え始めたら、もう止まらない。
思い当たることは幾らでもあるが、一番怪しいのが高崎紗香をこちらの世界に連れ戻したことだ。
高崎紗香の情報を寄越した鮫島からは、特に何かを指摘されたことはない。
だが、隣県に住所をもつ高崎紗香が、タケオの住むマンション近くの公園で見つかったとくれば、どう考えたって怪しいに決まっている。
とはいえ、あれからそれなりに時間が経っているが、その時から今に至るまで警察による監視はなかったはずである。
なぜ今さらなのか、それとも別の理由があるのか。
そんな考えが堂々巡りとなって、タケオの頭を悩ませていた。
(授業に集中できないな)
結局結論は出ず、授業にも集中できぬまま学校が終わった。
そしてタケオがマンションに戻ってくると、またもや己を監視するような視線を感じるのであった。
さらに次の日の朝。
「むっ……」
眠気眼でマンションのドアを開けると、再び視線を感じた。
これで三日目である。
(またか、勘弁してくれよ……)
タケオの性格は温厚といっていいだろう。
しかし、見られることに快感を覚えるような性癖などはないし、おまけに昨晩は寝つきが悪かったせいか体調は少々気だるげ。
要は、少しばかりイラついたのだ。
それにより、これまでの監視に対して一切の反応をしないという路線は既に忘却の彼方へと消えていた。
タケオは辺りを注意深く窺った。
とりうる手立ては鮫島に電話して文句を言ってやるというものであったが、しかしそれは監視者の顔を拝見してからでも遅くはないであろう。
(……いた)
マンションの二階という地の利もあり、目的の人物は簡単に見つかった。
その視線が留まったのは道に並ぶ電信柱の一本、その裏に隠れる一つの影。
タケオはじっとその場所を見つめる。
すると、その影はそこから僅かに顔を出しこちらを覗いた。
互いの視線がぶつかり、その人物は慌てて顔を隠した。
(あれは確か……)
タケオはその顔に見覚えがあった。
それは、かつてあちらの世界から助け出した少女――。
「――高崎紗香」
タケオは、その名を呟いた。
そしてタケオのイラつきは一瞬にして吹き飛んでいく。
タケオの怒りはあくまで警察の監視に対してであって、高崎紗香に対するものではなかったからだ。
(……そういえば山野さんが彼女の力になってやってくれと言っていたな)
警察官の山野の言葉。それを思い出し、タケオは合点がいった。
高崎紗香は相当に精神がまいっているという話だったので、直接訪ねることができず、こんなストーカーのような行為に及んだのだろう。
タケオの視線の先では、件の人物がそーっと電信柱から顔を出してはすぐに隠れ、また顔を出しては隠れといった動作を繰り返している。
まるで小さな巣穴からあたりを窺う小動物のごとし。
見る人が見れば、かわいらしいくほっこりしてしまう光景であろう。
(さて、どうしたものか)
タケオは高崎紗香のそんな面白かわいい姿を視界に捉えながら、彼女に対しどう応じるべきかを考えた。
しかし精々迷ったのはこれから学校があるな、ということくらい。
あとは流れる水のように、なるようになるかの精神でタケオは階段を降りて、高崎紗香の下へと近づいた。
すると彼女はまた顔を覗かせた後、一目散に逃げていく。
「ちょっ……」
タケオの『ちょっと待って』という声が最後まで紡ぐことができないほど、その逃げ足は素早い。
擬音を付けるならば、ぴゅーというのが相応しいだろうか。
タケオはその後ろ姿を呆然と見送った後、また次の機会があるかと思い、自分はおとなしく学校へと向かうのだった。
次の日もその次の日も高崎紗香はいた。
加えて、タケオが近づいても彼女は逃げてしまう。
すなわち、手詰まりであった。
追いかければすぐに追いつくであろうが、逃げる女と追う男という図は一般の人から見れば警察に通報すべき案件である。
それはちょっと勘弁してほしい。
そのためタケオは高崎紗香の存在をもう気にしないようにしていた。
しかし、タケオの内心はどうにも不安であった。
最初はマンション前でこちらを窺うだけだった高崎紗香は、今では学校にまでついてくるようになっていたのだ。
勿論、学校だけではない。
タケダ商会で取り扱う品を買うために街へと行く際にも、彼女はついてくる。
もはや高崎紗香は完全にストーカーと化していたのであった。
タケオは、今日も朝から己の後をついてくる高崎紗香を尻目に登校する。
学校で行われるのは、タケオにとって学ぶというよりも、もはや作業に近い授業。
それはタケオが日本での立場を維持するためだけのものである。
やがて終業のベルが鳴ると、皆が部活動に励む中、タケオは僅かな帰宅者達の波に混じり正門を出た。
そして少し歩いたところで辺りを見回せば、高崎紗香はすぐ見つかった。
ネズミ色のニット帽を被り、茶色のスタンドカラーコートにジーンズ、靴はスニーカーといった出で立ちの少女。
服に頓着しない性格なのか、毎日その服装である。
しかし今日の彼女のストーキングはいつもと少し事情が違うようだ。
高崎紗香の周りにいる三人の男子生徒。
どうも彼女は絡まれているらしい。
(まあ、美人だしなあ)
高崎紗香は、百人に聞けば百人が美しいと答えるであろう芸能人顔負けの容姿である。
少しばかり野暮ったい服装であったとしても、その美しい顔は色褪せることはない。
加えて、そんな美少女が電信柱の後ろでこそこそとしていれば、逆に生徒達の耳目を集め、声をかけられるのも当然といえた。
しかしそんな中、タケオには一つ見逃せないことがあった。
「なあ、いいじゃん。俺も名前教えたんだから、そっちも名前くらい教えてよ」
「つーか、かわいいんだからもっと顔見せてよ」
「まじ、さっき見たとき超かわいかったし」
「あ……いや……」
三人の男子生徒達の軽薄な声の下で、彼女は俯きながら両手を胸に震えていたのである。
何故いつものように逃げなかったのかとタケオは思ったが、その答えを出す暇はないであろう。
彼女とは素面で話したことこそないものの、知らない仲ではない。
タケオは高崎紗香の下へと向かった。
「ちょっといいですか?」
高崎紗香を囲む三人の男子は同じ学年では見たことのない生徒。
一年生か三年生かどちらかわからなかったので、タケオはとりあえず敬語で話しかけた。
「なんだあ?」
三人の男が振り返る。彼らの染めた髪と細い眉が柄の悪さを示していた。
「あっ、こいつ……!」
相手側の一人がタケオを知っているような声を出した。
驚くことではない。
年の離れた者が入学しているというなら噂にもなるであろう。
とはいえ、顔まで知られているというのなら、それは机を素手で割った件に違いないとタケオは予想した。
そしてその考えはまさしくその通りであった。
目の前の三人は一年生の不良であり、不良の先輩方よりタケオの噂を聞き、さらに実際にどんな奴か顔を確認したことがあったのである。
さらにいうなれば、三人の男子生徒にとって、タケオはあまり関わりあいになりたくない相手であった。
「彼女は僕の知り合いなので、そこまでにしてくれませんか?」
三人の心中など気にもせずに、タケオは言う。
対する三人はタケオを睨み付けた。
ただのナンパ目的で声をかけただけであったが、ここで『はい、そうですか』と引きさがるのはどうにも後味が悪い。
相手が馬鹿みたいに強いと噂される男であるからこそ、これまで何事にもツッパってきた不良としては引くに引けなかったのである。
無論、タケオも自分が悪いことをしてるわけではないので退くつもりはない。
となれば、あとはどちらが引くかの睨み合いバトルである。
しかし――
「お願いします」
いつまで続くかわからないと思われたその状況は、タケオが頭を下げたことであっさりと解消された。
「ちっ、行こうぜ」
三人組としては声をかけた女の反応は芳しくないどころか怯えていたし、相手側の知り合いだという話でもある。
こんな状態で長居して誰ぞに教師でも呼ばれては、面倒になること間違いなしであろう。
タケオが頭を下げたことで自分達の面子は保たれている。
三人がここにとどまる理由はもうなかったのだ。
彼らは最後にタケオに一睨みを利かせると、おとなしくその場を去っていった。
(『頭は重いのだから下げるのは当然。脳が詰まっている者ほど重さに負けてよく下げる』
これはまさに名言だな)
タケオは去っていく三人に目を向けることなく、かつてベントが口にした言葉を思い出して一人頷いた。