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5章 高崎紗香 2―1

 時間は少し遡り、タケオ達がノースシティに里帰りをする前のこと。


 その頃、東京はとある病院の病室にて、一人の少女が床に伏せていた。

 別に肉体的に何か異常があるわけではない。

 その病は心中、いわゆるPTSD(心的外傷)と呼ばれるものである。


 ある日、少女は学校の授業の最中に光と共に忽然と居なくなり、そして数ヵ月の後に隣県の公園にて発見された。


 少女は言った、私は異世界にいたのだと。

 荒唐無稽な話だ。そんな話、誰も信じるはずがない。


 しかし、そんなことは少女にとってどうでもよかった。

 少女はただ恐怖し、己の殻に閉じ籠るだけである。


 その少女、名前を高崎紗香といった。


◇◆


 病室のベッドの上で、私は夢を見る。


 そこは地獄だった。


 突然放り込まれた見も知らぬ世界で、私は男達に組み敷かれ泣き叫ぶ。

 それは一日が千日にも感じるほどの辛い日々。

 苦しみが心を摩耗させ、余分な感情は削られていく。


 やがて私は多くのものを諦めた。

 男達の慰みものにされる中、せめて殴られないように男達が望むことをただ人形のように行うのだ。


 死ぬ勇気はなかった。


 はるか昔のように感じる遠い日本での生活、あの暖かい思い出が私に死を恐怖させていたからだ。

 またいつかあの頃に戻れるのではないか。

 そんなありもしない願いが心の奥底にくすぶり、それを唯一の希望として私は生きていたのである。

 本当はそんな思いなんて無意味だと知りながら。


 しかしある時、仮面の男が私の前に現れる。

 すると私が囚われていた場所も、私の上で腰を振っていた男も何もかもが消えた。


 そこにいるのは私と仮面の男の二人だけ。

 仮面の男は私の手を取った。

 私は身体を起こされ、そのままその男に腕を引かれて真っ暗な闇の中を歩いた。

 暗闇の中なのに男の背中は不思議なほどはっきりと見える。

 やがて、まばゆい光が私の両目を襲った。

 そこは地獄というトンネルからの出口。

 奇跡はあったのだ。


 ――そして私は目を覚ました。


 腕を使い、ゆっくりと上体を起こして周りを確認する。

 そこは病室であった。

 白い壁に窓がひとつ、部屋の中にはベッドと床頭台があるだけで何もない。

 そう、昨日と変わらぬ病室。


 私はホッと息を吐く。


 目を開けた時、いつも不安になる。

 何が現実で何が夢か。

 そこは本当に日本なのか。

 もし今いる世界が夢で、私はまだあの世界にいるのだとしたら……。


 そう考えると途端に恐ろしくなる。

 身体は自然と震え、私はここが日本であると、あの世界ではないと、何度も何度も呪文のように唱えるのだ。


 今日もまた同じ。しかし違うこともある。

 私は床頭台の上に置いてある一枚の紙を手に取った。

 それは昨日、山野という警察官が置いていった物だ。

 そこには武田武雄という名前と、その人の住所が書かれている。


「武田武雄……私と同じ場所にいた人……」


 私はその紙をずっと見つめ続けた。




 それからまた幾ばくかの時が過ぎた。

 ずっと病室にいるせいか、時間の感覚がおかしくなっていて、詳しい日にちはよくわからない。

 わかるのは、帰ってきた時と同じく今もまだ冬だということだけ。


 寒い寒い冬。

 かつてあれほど望んでいた暖かな生活はここにはなく、私は病室で一人きり。


 その原因は私の心にあった。

 男という存在への恐怖とそれ以外の感情の欠落。


 私はこの世界に帰って来てすぐに父と再会し、そして拒絶したのだ。

 なぜなら父が男だったから。


 私は男である父に怯え、それでも触れようとした父に対し私は嘔吐物を撒き散らした。

 あの時の父の悲しい顔を私は決して忘れないだろう。

 そして、それ以後父とは一度も会っていない。


 また、母とは幾度も会っているものの、その頻度はどんどん低くなっている。何かと忙しい身の上だ、私ばかりに構ってはいられないのだろう。

 私はそれでいいと思った。

 どのみち話すことなどあまりない。

 暖かかったはずの家族との語らいは、今の私にはなぜか冷たさしか感じられなくなっていたのだから。


 そして私は、今日も今日とて武田武雄と書かれた紙を見つめている。


 果たして、武田武雄という人はどんな人なのであろうか。


 私と同じ目に遭った人。


 彼は私同様、今も苦しんでいるのだろうか。

 今も悩んでいるのだろうか。

 今も恐怖しているのだろうか。

 今も泣いているのだろうか。


 私はそんなことを考えながら、ただひたすらに名前と住所が書かれただけの紙を見つめ続けた。


 ――何日も何日も。


 そしてある日、ふと思い立った。


 会ってみようと。


 男は怖い。しかし、同じ苦しみを味わった彼とならば、私は何かを見つけられるかもしれない。

 それは傷を互いに舐め合うような行為。

 でも、私達以外にはこの苦しみや悲しみはわからないだろう。


 ――その日、私は退院することを決めた。




 退院の日、病院に迎えに来た母と少しだけ会話した。

 私が壊れたままであるとわかると、母は泣いてしまった。私が元に戻ったのだと期待していたのだろう。

 私は少し申し訳ない気持ちになった。

 でも、それだけだ。

 母の涙にもその程度しか心を動かされなかった私は、やはり壊れてしまっているのだろう。


 家に帰っても、父とは会わなかった。

 お互いのためにもそれがいいに違いない。




 翌日、私は使用人に頼んで車を出してもらう。

 勿論、その使用人は女性。年の頃は二十代半ばで、名前をかよ子さんといった。


 さて、車にて行く先は武田武雄さんの住んでいる場所である。

 隣県であり、その途中では多くの男性を目にすることだろう。

 しかし、それでも行かないわけにはいかなかった。

 会えば何かが変わると思ったから。

 もしかしたら、今の現状を私は良しとしていなかったのかもしれない。

 ただ、この世界にいるだけで幸せなことだというのに。


 そして、かよ子さんの運転する車に乗って数時間の後に目的地へと到着する。





「お嬢様、着きました」


 かよ子さんの到着の報告に、私はコクリと小さく頷いた。

 そこにあったのは二階建てのマンション。

 私はマンションの前に停めた車の中で武田武雄さんが部屋から出てくる、もしくは帰ってくるのを待った。


 部屋を訪ねる勇気はない。

 なぜなら、武田武雄さんのことで私が知っているのは名前と住所だけ。名前から男性だとはわかるが、その歳や為人などは何一つわからないからだ。

 頭の中でこそ自分なりの武田武雄さん像――脆弱な美少年の姿――を思い描いていたが、よくよく考えてみればそんなものは幻想である。


 しばらくすると、作業服姿の男が一人やって来た。

 男は肥満した身体を揺らしながら、手に持ったハンバーガーをむしゃむしゃと食べつつマンションへと向かっている。


 まさかと思った。


 男はマンションの一室へと入っていく。


 私は手に持っていたあの紙を強く握って、かよ子さんに言った。


「部屋の番号……二○二号室がどこにあるか見てきてもらえませんか」


 その声は自分でもわかるくらい恐怖で震えていた。

 すると、かよ子さんがわかりましたと言って車を出る。


 私は紙を胸元で抱き締めるようにして、かよ子さんが戻ってくるのを待った。

 目を瞑り、ただ祈るのだ。


 あの人じゃありませんように、と。


 やがて、がちゃりと車のドアの開く音がした。


「二○二号室は先程の方の部屋ではありませんでした」


 それを聞いて、私はホッと息を吐くと目を開いた。

 よかったと、心の底から思った。


「それで二○二号室はどの部屋でしたか?」


「はい、二階の右から二番目の部屋です」


 私が部屋の位置を尋ねると、かよ子さんが指を差して教えてくれる。

 私はその部屋を見た。次いで、手のひらの紙を見る。そしてまた部屋を見た。


「あそこが武田武雄さんの部屋……」


 私は、小さく呟く。

 外見は他の部屋のドアと変わらないのに、なぜかその部屋のドアだけは特別なもののように感じた。


 それから、またしばらく待った。すると今度は制服姿の男性が現れる。

 がっしりとした体つきをした男性。顔は大人びており、着ている制服とは非常にアンバランスに見える。


 私はぶるりと体を震わせた。

 大人の男を見ると、あの時の恐怖が蘇ってくるのだ。


 違う……違うはずだ……。


 私は自分に言い聞かせるように心の中で念じた。


 あの人は違う。武田武雄さんはもっとか弱い存在なのだ。


 そう、私と同じように。


 折れてしまいそうな華奢な身体の美少年、それが武田武雄さん。


 一人では決して立てない。私と支え合わなければならない存在、それが武田武雄さん。


 儚げでどこか影があり、すぐに消えてしまいそうな――。


「お嬢様、今の方が二○二号室に入りましたが」


「……」


 現実とは非情である。


「あの、お嬢様?」


「かよ子さん、車を出してください」


 こうして私はまた病院のお世話になるのだった。


◆◇


 白い壁に囲まれた部屋。床頭台とベッドがある他には何もない病室。


 そこで私は夢を見た。


 それはいつもと変わらぬ夢。


 私の上にはいつものように男が覆い被さっている。

 私はただされるがまま、じっと堪えるだけ。

 涙は既に枯れていた。


 これを夢だとどこかでわかった私は、早く覚めてと祈った。

 しかしそれは叶わない。

 私はいまだあの世界に囚われているのだ。

 私は夢の中、あの地獄の日々をなぞった。

 一夜だけでは決して足りないはずの景色が、まるで無限のように駆け巡る。


 そして最後にまたあの男が現れた。

 白い仮面の男。

 すると周りの何もかもが消え去り、私と仮面の男だけがそこにあった。

 仮面の男は黒髪で背丈は私よりも頭ひとつ大きい。歳はわからないが露になっている口許を見る限り、年配というわけではなさそうだ。


 男は私の手を引き、この悪夢から連れ出してくれる。

 温かい手。この冷たい世界にあって、その手だけは温もりがあった。


 暗い闇の中を、私は仮面の男に腕を引かれながら歩く。

 その時、カランと音がした。

 見れば白い仮面が地面に落ちている。

 男は振り返った。

 すると優しく微笑みかける男の素顔が私の目に映る。

 私は、ふとその顔に見覚えがあるような気がした。


『あっ……』


 夢の中で私は気づいた。


 そう、その顔はあの時の――。



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