3章 高崎紗香 1―2
十二月に高崎紗香が発見されてから、幾ばくかの時が過ぎた。
日本は新年を迎え、皆が思い思いの正月を過ごし、やがて松の内が終わる頃には元の忙しない日々へと戻っていく。
しかし、高崎紗香の時間は止まったままであった。
「高崎さーん」
その日、病院に入院している高崎紗香の個室を、一人の女性が訪ねた。
黒いショートカットの髪に薄い化粧、パンツスーツを着こなして、飾り物は一切身に付けていないという如何にもな出で立ち。
高崎紗香発見後、その担当を任された警察官の山野瑞希である。
「開けるわよー」
中にいるであろう紗香に呼び掛けつつ扉を叩くも、返事は一向に返ってこない。
しかし、それにもかかわらず山野は、何ら臆することなく扉を開けた。
部屋に入ってはダメならそう言うべきだ、というのが山野瑞希的論理武装である。
そしてその部屋には、美しい黒髪の少女が一人。
少女――高崎紗香は、部屋の中央に置かれたベッドにて上半身を起こし、ぼうっと外を眺めていた。
(うっ……、いつものことながら絵になるなぁ)
まるで深窓の令嬢を思わせるその姿に、山野は思わず見惚れてしまう。
次に、もし仮にベッドの上にいるのが自分だったならどうかと考え、すぐに首を振った。
目の前の少女とのあまりの格差に、互いを比べても自分が惨めになるだけだと悟ったからだ。
「高崎さん? また、お話を聞かせてくれるかしら?」
山野が紗香へと声をかけた。
しかし、それを無視して窓の外を眺め続ける紗香。
「貴女が話してくれた異世界についてなんだけど」
――異世界。
その言葉に、紗香は突然震え出す。そして、山野の方に怯えた目を向けた。
「い、……いやです。もう話すことなんてありません。思い出したくないんです、帰ってください!」
異世界及びそれを連想させる言葉や映像は、紗香にとって禁忌であった。
紗香が事情を説明したのは最初の一度きり。
それも震えながら助けを懇願する形で、だ。
もしかしたら、またあちらへ連れていかれるのではないかという恐怖が話をさせたのだろう。
その心が落ち着けば、悲惨な目に遭ったことを思い出したくないと考えるのは当然である。
(今日もまた無理、か)
紗香の様子を見れば、一目瞭然であった。しかしそれは予想していたことであったため、山野に気落ちはない。
加えて、その日の目的は行方不明の件を聞くことではなかった。
「まあ、その話は次の機会でいいか。今日はもう一つの方が本題なんだよね」
「……」
異世界に関することでなければ一切の無視を貫く紗香である。
紗香はその瞳を再び窓の外に向けた。
「武田武雄……知らないかな?」
「……」
「かなりの秘匿事項でね。今こうしてここで話すのも……ってそれは別に禁じられてはいないか。
というかそもそも個人の情報を漏らすことが禁じられてるわけで……まあ、いっか。
――武田武雄。彼、高崎さんと同じらしいよ、聞いた話だけど」
――同じ。
紗香の心と体がブルリと震える。
何が同じなのか。
それを想像するだけで、紗香は恐怖に襲われたのだ。
「これ、彼の住所。あ、他の人には言わないでね? 私が怒られちゃうから」
ベッドの横の台の上に置かれる、折り畳まれたメモ用紙。しかし紗香は、それを見ようともしない。
「それじゃ、今日のところは帰るから。また、よろしくね」
山野は別れを告げると、用は済んだとばかりに部屋を去っていく。
後に残されたのは、外の景色を眺め続ける紗香とメモ用紙のみ。
やがて紗香は、台の上の折り畳まれたメモ用紙に顔を向ける。
それを見つめること数分、震える手がメモ用紙へと伸びた。
そして紗香が怯えた様子でそれを開く。
そこには『武田武雄』という名前とその住所が記されていた。
「武田……武雄……。私と、同じ……」
その小さく消えゆくような声は、何故か紗香自身の心に深く残った。
◆◇
「さて、武田武雄か」
山野が病院の駐車場に停めていた黒のセダンに乗り込み呟いた。
――武田武雄。
七年前の行方不明から、二年前の春に突如帰ってきた青年。
その際、異世界に行っていたという荒唐無稽な話をした模様。
そしてその後、再び失踪するも、また帰ってくる。
山野は武田武雄の情報を頭の中で反芻すると、車を発進させた。
行き先は、隣の県にある武田武雄の住むマンション。
(二度の失踪という事実を考えれば異世界云々は間違いなく狂言……のはずなんだけど、関係者には箝口令が敷かれてるんだよなぁ)
山野は当初、異世界の話は被害者達の幻覚か何かではないかと疑っていた。
もし本当に異世界転移なんてものがあったとしても、そんなことが同じ人間に二度も起こるか、という話である。
しかし、武田武雄の情報が警察内において規制されているという事実。それに加え、高崎紗香が持っていた金貨のこともある。
今では山野も、これはもしかするともしかするかもしれない、と考えるようになっていた。
余談ではあるが、山野が武田武雄の情報を知ったのには理由がある。
山野が高崎紗香の担当になる前、つまり高崎紗香行方不明事件が起こった頃、山野の所属する警察署に事件のことを根掘り葉掘り聞きに来た隣県の警察官がいたのだ。
当時事件を担当していた男性警察官からその話を聞いた山野は、知り合いの伝を頼ってその県警の行方不明者情報を漁った。
そして出てきたのが武田武雄である。
情報規制が敷かれたのは、武雄の持ち込んだ品が地球に存在しない物であると判明してからのこと。そのため武雄のことを知っている者は多く、山野の情報収集は容易であったと言えた。
「というわけで、やって来ました武田君のおうち」
高速道路を使ったおおよそ三時間の一人旅。独り言が多くなるのも仕方のない事と言えよう。
山野は武雄の住むマンションの前に車を停めると、キョロキョロ辺りを窺った。
情報規制が敷かれるほどの相手である。
その周囲を警察官が固めていても不思議ではないのだ。
そしてもしその警察官に、所属の違う己の存在が知られれば、どんなお叱りがあるかわからない。
「とりあえず、回りに怪しい人物はなし、と」
次に山野は二階にある武雄の部屋の前に行き、インターホンを鳴らす。
しかし返事はない。
まだ学校かな? と考えながらドアノブを回し、鍵がかけられていることを確認する。
「いない、か。じゃあ、学校から帰ってくるまで車の中で待たせてもらいましょうかね」
時刻は午後の三時過ぎ。山野は車に戻ると、道中のコンビニで買ったカレーパンと牛乳に手をつけた。
「やっぱり相性抜群だわ、カレーパンと牛乳」
カレーパンをかじり、次いで牛乳を口に含んだ山野がその旨さに舌鼓を打った。
あんパンと牛乳が最強の組み合わせとか言う奴がいるけど、甘ったるいあんパンと乳糖の入ったどちらかと言えば甘い部類に入る牛乳って全く合ってないだろ――というのが山野の持論である。
甘い食べ物には苦い、若しくは渋い飲み物が鉄則だし、甘い飲み物には、辛い食べ物が鉄則だ。
お互いを引き立たせる組み合わせこそ至高なのだ。
そんなことを得意満面の顔で考えながら、山野は既に一個目のカレーパンを腹の中に収め、二個目のカレーパンを食べようとしていた。
ほどなくして食事を終えると、パンと一緒に買った週刊誌を取り出し、それを読み始める。
「あぁー、やっぱりか。
アイドルなんて言っても結局は女よね。いい男がいればそりゃあ、我慢できないわ」
ペラリと雑誌のページを捲る。
「えぇー! この人、結婚!?
うわー、ショックだわー、裏切られた気分だわー!
相手の男性は……青年実業家かぁ。所詮は金目かぁ」
ペラリと雑誌のページを捲る。
「ぷっ! 離婚! りこん! り! こ! ん! ざまあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
この女、『三十過ぎても結婚できない人って……』とか言っておいて、離婚してたら意味ないじゃん!
意 味 な い じ ゃ ん !!
私はまだ二年あるし! 超余裕だし! この三十路糞女は負け組! 私勝ち組!」
そして山野はパタンと雑誌を閉じた。
「…………結婚かぁ」
「……したいなぁ結婚」
「……どこかにいい男落ちてないかなぁ」
「むさ苦しいとかじゃなくて、太ってたりしてなくて、おまけに強い自慢とか本当に勘弁してくださいよ、もう……」
「警察官……失敗したかなぁ。仕事はやりがいあるんだけどなぁ……」
こぼれ落ちる愚痴の数々。
それは嘆きであった。
高校や大学の同級生、警察学校の同期、皆が結婚していく中でただ一人残される自分。
親は連絡を取るたびに、それとなく話題を振ってくる。
はっきりと言わないその気遣いが、山野の心を打ちのめすのだ。
山野自身、結婚願望はある。それはもう、とんでもないくらいに。
しかし、選り好みが過ぎるせいか運命の男性には未だに出会えず仕舞いであった。
「はああぁぁ〜」
車の中で山野は盛大にため息を吐く。
するとその時、マンションの方へ歩いてくる者がいた。
「っと、やっと来たか」
それは学校指定のコートに身を包んだ青年――武田武雄であった。
山野は今一度写真を確かめ、扉を開けて外に出る。そして武雄に話しかけた。
「武田武雄君だよね?」
「……そうですが、貴女は?」
「一応、警察官なんだけど……まあ警察としてじゃなくて、ちょっと話を聞きに来たみたいな」
「そうですか。では、話す義理もありませんね」
武雄はそれだけ言うと、山野を素通りして部屋に帰ろうとする。
「待って! じゃあ、警察官としてきました! これでいい!?」
「……警察の方には、それこそ全部話してるんですが。ちょっと担当だった警察の方に連絡してもいいですか?」
そう言って、今度は携帯電話を取り出す武雄。
「待って、お願い待って! ほら警察手帳! ここに写ってるの私だから! ほら!」
山野は警察手帳を出し、さらに中の顔写真を見せる。しかし、武雄には通用しない。
「……慌てるところが怪しいですね。やっぱり連絡します」
「ほんとに待って! 管轄が違うから不味いの! こんなところで勝手に捜査じみたことをしてたら怒られちゃうから!」
山野は武雄の腕をつかみ懇願する。
それは、あまりにも必死な訴えであった。
「はぁ……それでなんの用ですか?」
武雄は根負けしたようにため息をひとつ吐くと、携帯電話をしまった。
「ありがとう、ほんとありがとね。ここじゃあれだから、お詫びもかねてなんか奢るわ」
最悪の事態を避けられた嬉しさから、思わず涙ぐむ山野。
それに対し武雄は、まるでこちらが悪いことをしてしまったかのような心境である。
かくして山野と武雄はラーメン屋へと向かった。
ズルズルと麺をすする武雄。
やがてそれも食べ終わり、本題へと入った。
「貴方と同じ境遇の女の子がいるの」
その発言に、武雄は眉間にシワを寄せる。
「向こうの世界で酷い目にあったみたいで、ずっと入院してるわ」
山野は武雄を見つめる。異世界の存在の有無、その真偽を見極めようとしているのだ。
「あの子はこちらに帰ってきて以来、誰にも心を開こうとしない。
私はね、警察官だからとか仕事だからとかじゃなくて、ただ純粋にあの子を助けてあげたいの。だからお願い、あちらの世界のことを私に教えて。
あちらの世界のことを知れば、あの子に少しは近づけるだろうから」
――助ける。それは難しいんじゃないかと武雄は思った。
(僕を救ったのは、ゴルドバだ。
あちらの世界の悲劇を救うのは、やはりあちらの世界の者じゃないだろうか)
何の根拠もない考え。しかしそれはどこか信仰のようなものにまで昇華されていた。
武雄が恩人ゴルドバをどこまでも敬愛するが故のことだった。
「そんなにあちらの世界のことを知りたいのなら、その子に聞けばいいんじゃないですか?」
その提案に、山野は首を横に振る。
「話してくれないのよ。それどころか異世界に関することには、全て拒否反応を示すわ」
「なら、僕が話すことはないですね」
「――っ! なんでよっ!」
思わずいきり立った山野。それに対し、武雄はどこまでも冷静である。
「あの苦しみは味わった者にしかわからない、ということですよ」
しかし、冷静なことと頭がいいことはイコールではない。
「……ってことは、貴方にはわかるわけね?」
しまった、と武雄は思った。
相手が別の誰かを心配していたことにほだされたせいか、自分の要らぬことまで喋ってしまったのだ。
普段は当たり障りのない言葉でのらりくらりとかわすか、無視するだけだというのに。
「そんなことは言ってません」
「いいえ、言いましたー。私聞きましたー。『あの苦しみは俺達にしかわからない……ッ!』みたいな感じでしたー」
子供かよ、と武雄は思った。
(というか僕の一人称は俺じゃない!)
馬鹿にされているのかと疑うほど全く似ていない山野の物真似に、武雄は憤慨の心持ちである。
「帰ります。ごちそうさまでした」
これ以上この場に留まっては、またいつ失言するかわかったものではない。
なので、武雄はさっさと撤収することにした。
「ま、待って、お願い! お願いします! あの子を助けてやって!」
ガンッという音が鳴った。
武雄が振り返ってみれば、山野が机に両手をつき、さらに頭までつけている。
「あの子には、貴方の住所を教えました! もし、あの子が貴方を訪ねてくることがあれば、話を聞いてあげて! 助けになってあげて!」
再びガンッという机に頭がぶつかる音がする。
足部が地面に固定されていない机だったなら、大惨事になっていたことだろう。
そしてそんな山野の様子に対し、武雄はなんの反応も取れずにいた。
武雄自身、向こうの世界では頭を下げられたことは何度もあった。しかし、こちらの世界でここまで下げられたのは初めてである。
それ故、武雄はあっけにとられていたのだ。
「おい、兄ちゃん」
その時、声がかかった。
武雄がそちらを見れば、禿げ上がった頭にねじり鉢巻をした店主がカウンターの向こうから顔を覗かせている。
「助けてやんなよ。
女があんだけ必死こいて頼んでんだ。金以外のことなら助けてやるべきだぜ、男としてな」
顔も体格も、禿げた頭以外何一つゴルドバとは似ていない店主。
――もちろん、その姿に武雄がゴルドバを幻視することはなかった。
とはいえ、言っていることは、かっこいい上に何故か納得させられたので、武雄もつい山野に言ってしまう。
「仕方ないですね、その子が来たときだけですよ」
そして今度こそ武雄は去っていった。
――その翌日。
武雄が学校より帰ると、マンションの前に黒髪の女性はいた。
「やあ、武雄君!」
山野である。
「……なんでまたいるんですか」
「確かにあの子が君の下へ来た時には助けてあげてと頼んだわ」
でもね、と得意気に山野が微笑む。
「私は、まだ私自身があの子を助けることを諦めてないのよ!
だから、あちらの世界のことを教えてくれるまでしつこくやって来るからね、私は」
武雄は開いた口が塞がらなかった。
いや、あきれて物も言えないというべきか。
横暴、自己中、豪胆――まさに女豪傑と呼ぶにふさわしい女性がそこにいたのだ。
「……勘弁してくださいよ」
その切実なる願いは山野には届かずに、冬の寒空へと消えていった。