3章 高崎紗香 1―1
夕方のホームルームが終わり、武雄のクラスでは生徒達のはしゃぐような声が上がっている。
武雄は、そんな喧騒を背に教室を後にした。
「さっぶ」
校舎の外へ出ると身を刺すような寒さが武雄を襲う。
高崎紗香という少女が行方不明だという話を武雄が聞いてから二ヶ月と少し。日本においては十二月も半ばとなり、本格的な冬が到来していた。
――しかし、未だその少女は見つかっていない。
武雄はマンションに戻ると、黒い水溜まりを潜りあちらの世界へと移動する。
潜った先はタケダ商会の屋敷の一室。
そして武田武雄は商人服に着替えて、奴隷商人タケオ・タケダとなる。
◆◇
「お帰りなさいませ、タケオ様」
「ただいま、ミリア」
執務室に入り書類作業をしているミリアと挨拶を交わし、タケオは己の席に着く。
「異常はないかな?」
「奴隷達の売却先が全て決まりました。
このまま何も起こらなければ、数日のうちに地下牢は空になるでしょう」
現在、タケダ商会は新たな奴隷取引を行っていた。
今回は前回より人数が少ないことも手伝って、アルカト行きの者はいないようである。
そんなミリアの報告をタケオはウンウンと満足そうに頷きながら聞き終えると、次に奴隷の夕食に立ち合うため席を立とうとした。
「それから」
しかし、ミリアの報告には続きがあった。
「ベント商会より書状が届いております。内容は条件の少女をベルスニアで見つけたとのこと」
――条件の少女
タケオは浮かした腰を再び椅子に沈め、その表情を真剣なものへと変える。
高崎紗香の情報を知って以来、タケオは捜索対象者を言葉の通じぬ黒髪黒目の少女という条件に限定し、タケダ商会の者達に捜させていた。
さらに繋がりのある商会に対しては、その条件の少女を見つけた場合、商品取引において何らかの便宜を図ると通達を出していたのだ。
そしてベント商会がベルスニアにて件の少女を見つけたという。
ベルスニアとは、コエンザ王国の西に隣接する国である。
カシスを中心にコエンザ王国のみで活動してるタケダ商会と違い、ベント商会はノースシティから王都に本拠を移し、その本拠を中心に他国にまで手を伸ばし始めていた。
それ故に、ベント商会がベルスニアで件の少女を発見というのも頷ける話であった。
「……そうか、生きていてくれたか」
感慨深げに呟くタケオ。その言葉からは安堵の心がにじみ出ていた。
しかし、それも当然と言えよう。
大陸は広い。人が立ち入ったことがない場所さえあるほどに広いのだ。
山や谷、砂漠に果ては遺跡まで、危険な場所は数知れず凶暴な動物や毒を持った昆虫なども多いこの大陸で、命が無事であるということは何よりも喜ぶべきことであった。
「詳細を頼む」
「はい、少女はベルスニアで奴隷として売られており、それをベント商会の者が買い、現在は王都の本店に住まわせているそうです。
……既に多くの者の手を渡っており言葉も話せなかったので、安値だったと」
ミリアの一瞬の躊躇と共に発せられた言葉に、タケオは反応を示さなかった。
タケオ自身が元奴隷であり、さらに今は奴隷商人として多くの不幸な者を見ているのだ。
少女が誰かの奴隷になっていたことも予想の範疇であり、タケオは仕方のないことだと思っていた。
「ベント商会はなんと言っている?」
「他国で売るための白の陶器を卸してほしいと言っております。質、量は問わないとのこと」
「……その奴隷に会って決めよう」
先程は安堵したものの、本人かどうかは会ってみないとわからない。
タケオは早く少女に会って確認したいのを我慢しつつ、時間の辻褄を合わせるため、四日後に伺う旨をベント商会に伝えておくようにとミリアに頼んだ。
――そして四日後の昼。
日本では土曜日であり、タケオが通う公立高校は休みである。
前日からタケダ商会に泊まり込んでいたタケオは、黒い水溜まりを潜って王都にある支店の一室へと移動した。
タケダ商会は高級品を扱い、その取引相手は貴族か商人である。
タケダ商会支店とは王都での身分の高い者をもてなすための屋敷であった。
「これはタケオ様、いつこちらに」
タケオが移動してきた部屋を出ると、都合悪く屋敷を管理している者に出会ってしまう。
仕方がないので、タケオは抜き打ちの査察だと偽って屋敷を見て回ることにした。
「なかなか管理が行き届いているようだ」
タケオが満足そうに頷き、管理者もホッとしたように息を吐く。
そして話も程々に、タケオはベント商会へと向かった。
◇◆
――ベント商会。
王都は古くから栄えた場所であるため昔からの縁が続いており、老舗と呼ばれる商会達が大きく幅を利かせていた。
そんなしがらみの多い地で、瞬く間に一流商会の仲間入りを果たしたのがベント商会である。
ベント商会は、ペットボトル売買を足掛かりに王政府の中枢に人脈を作り、品物の安さにて既存の商会が持つ王政利権を切り崩していった。
なにせ相手は古き誼に胡座をかいていた、商人と呼ぶのもおこがましい連中である。
価格競争にあっさりと勝利したベント商会は、忽ちにその牙城の一角を切り崩し、王軍は一個大隊の補給品を取り扱うまでになったのだ。
――これがベント商会の王都での成り立ちである。
そんなベント商会の前で、タケオは衛兵に用向きを伝え屋敷の中へと通された。
その屋敷はかつてノースシティにあった頃のように通りに面した市民相手の店ではなく、タケダ商会の支店同様に貴族との取引のためのもの。
加えて、王軍の補給品を取り扱うための大型の倉庫があるその屋敷は、タケダ商会支店など歯牙にもかけぬほどに大きかった。
「これはこれはタケオ会長」
通された客間でタケオが紅茶を飲み終わろうという頃、ようやくその扉が開かれる。
そこにいたのは、年々若返っているのではないかと疑うほどに活力をみなぎらせた壮年の男――初めて会った時と変わらぬ格好で現れたベントであった。
「ベント会長、お久しぶりです」
昔と違い、今のタケオはタケダ商会の主である。
タケオとベント、互いが商会の主同士。そこに、かつての無礼な口ぶりは存在しない。
「早速で悪いのですが、その黒い髪の奴隷に会わせてもらえませんか?」
「ええ、いいですとも。ではこちらへ」
ベントはタケオを黒い髪の奴隷がいる部屋の前へと連れていった。
「この中に件の奴隷はいます。
特に反抗する様子も見られないため檻に入れたり、鎖に繋いだりはしておりません」
こちらへの配慮か、ベントは奴隷に対する当然ともいえる処置をとっていないと言う。
「ただ……いえ、会ってみればわかるでしょう」
その先の言葉をベントは濁した。
何を言いたかったのかはわからないが、目と鼻の先に目的の者はいるのだ。
ベントの言うとおり会えばわかることである。
タケオは懐から取り出した白い仮面を被ると、その扉を開けた。
そこは殺風景な部屋であった。
あるのは一台のベッドに机と椅子が一脚ずつ。そしてその椅子には少女が座っていた。
清潔そうな服に身を包んだ黒髪の少女、年の頃は十代半ばといったところであろうか。
少女は椅子に座りながら、虚ろな黒い目をタケオに向ける。
その顔を正面から見た瞬間、間違いないとタケオは思った。
目の前の少女こそ写真で見た高崎紗香であったのだ。
タケオが部屋へと入る。
すると少女は立ち上がりふらふらとタケオの下へと近寄ってきた。
しかし、それはベントが許さない。
「おい!」
ベントが少女に制止の声を上げ、さらにベント商会の兵士がタケオと少女の間に割って入る。
すると少女はビクリと震え、その場に立ち尽くした。
タケオの存在はベント商会にとってもはや珠玉に等しい存在である。ペットボトル以外にも数々の品を卸して貰っているのだ。
そのため、何かあっては困ると危惧しての対応であった。
「私のことはお気になさらず、こう見えてもそれなりに鍛練は積んでおります」
タケオがそう言うと、兵士はベントの指示で後ろへと下がる。それにより、少女はタケオとその背後にいるベントの間を視線でさ迷わせた後、またタケオの下へと歩き出した。
ほんの数歩にてタケオの前まで行き、少女は膝をつく。
そして少女はタケオのズボンへと手をかけた。
「タケオ会長……?」
ベントが困惑した様子で呼び掛ける。
少女の行動にタケオがなんの反応も示さないのだ。このままでは、色々と公開プレイが始まってしまうことだろう。
するとタケオは振り向くことなく答えた。
「ベント会長、少し二人だけにしてもらえませんか」
タケオはこれから奴隷と二人きりでエロエロするつもりなのだ。
――と、普通の者は考えるかもしれないが、ベントはタケオの人となりをよく知っていた。
「……わかりました、何かありましたら外の兵を呼んでください」
ベントはそう言うと、隣でにやけている兵士の頭に拳骨を落として部屋の外に出る。
そうこうしているうちにもタケオのズボンは少女によって下ろされており、既にその手はタケオのパンツにかかっていた。
『……』
しかし、そこで少女の手は止まっている。
その手はわずかに震え、先ほどまで何の感情も映していなかったその目には驚きがあった。
それは何故か。
その視線の先にはタケオのパンツがあった。
タケオの履いているパンツはあちらの世界のもの。派手派手とした模様に、ところどころ英語のプリントが入ったトランクスだったのだ。
『珍しいか? 僕のパンツが』
『え……?』
あんまりな発言ではあるが、タケオが口にしたのは日本語である。
それを聞いた少女は疑うように顔を上げた。
『日本語……わかるんだろう?』
『あ……、ああぁ……ッ!』
言葉にならない声を出し、少女はぽろぽろと涙を流す。
それだけでわかった。目の前の少女がこの三ヶ月どれだけ悲惨な目に遭ってきたかが。
『辛かったな……もう大丈夫だ』
『わたしっ…………わたしはっ…………!』
それから少女はタケオにすがるように抱きつき、大声で泣き始めた。
タケオもまた少女を抱き返した。
タケオは思う。
こんなに感情を揺り動かされるのは何故なのか、と。
奴隷商人として多くの奴隷を見てきた。酷い目に合わされていた者など幾らでも知っている。
それに同情はすれども、悲しむことはなかった。
だからこそ、己は奴隷商人として悪役を演じてこれたのだ。
今回もまた同じ。
同郷の者だから助けてやりたいと思った。
それは、少しばかりの自己満足。
――だというのに、涙は止まらない。
何も不自由のない平和な世界でただ何となく学生生活を送っていた。それが突然、聞いたことも見たこともない、言葉すらも通じない世界に飛ばされ奴隷となった。
死にたくとも、死ぬ勇気すらない。
日々を恐怖に震えながら、ただすがる。ここに来た時と同じ奇跡が起こるのを。
(――あの平和な世界では想像すらできなかった酷い仕打ち。
それを毎日受けながら、僕“達”はただ奇跡にすがっていたんだ)
目の前の少女に忘れかけていたかつての自分を重ね合わせ、タケオは少女を抱きしめ続けた。
一方、部屋の外にいたベントと兵士であるが、部屋の中からの突然の泣き喚く声に何事かと兵士が突入し、さらにベントがその後に続く。
そして部屋の中では、ズボンを下ろしたパンツ男と、奴隷少女が泣きながら抱きしめ合っていた。
どうしていいのかわからずに立ち尽くす兵士。
そんな兵士の肩をベントがポンと叩き、二人仲良くまた部屋の外へ出るのだった。
やがて泣き疲れて眠ってしまった少女をベッドへと運び、部屋から出るタケオ。
外にいた兵士に見張りを頼み、ベントが待っているという客間へと移動する。
「どうでしたかタケオ会長」
客間でのベントの第一声がこれであった。
いやらしい言葉に聞こえるかもしれないが、そうではない。
ベントは目当ての人物であったのかを聞いているのだ。
決して、性的な意味で具合はどうだったか、という意味ではない。
「探していた者に違いありません。そちらが提示されていた条件で彼女を買わせていただきます」
「それはよかった」
ベントはにっこりと笑った。
「日も陰っております。彼女を連れて今日はもう帰りたいのですが」
「その様子では司祭は必要無さそうですな。わかりました、後はタケオ会長のお好なように」
ありがとうございます、とタケオは感謝を込めてベントに一礼する。
「ああ、契約に関しては此方からカシスの方へ赴きます。ミリア殿はカシスから離れられないでしょうから」
「わざわざすみません」
それからタケオはベントに別れの挨拶を告げると、眠ったままの少女をベントが用意した馬車に乗せて王都の支店へと戻っていった。
そして支店の一室にてタケオは少女を腕に抱き、黒い水溜まりを潜る。
その間、少女が目を開けることはなかった。
地獄のような日々の中、だんだんと失われていく感情。
言葉の通じない世界で、少女はまるで機械のようにただ相手の望むことを行った。
それでもたまに思い出す時がある。
穏やかで暖かで、毎日が笑顔に溢れたあの頃を。
家族に囲まれ、友人に囲まれ、何不自由なく過ごしたあの懐かしい日々を。
ほんの数ヵ月前のことなのに、まるで遥か昔のように感じる思い出。
もう夢でしかない、それ。
しかし、少女は同じ言葉を話す相手に出会った。
その暖かなまどろみの中に浸っていたくて、少女は目を閉じる。
夢なら決して覚めぬようにと願って。
やがて体を揺すられていることに少女は気づいた。
それでも少女は必死に目を閉じる。
夢から覚めたくなかったから。
そしてあることに気づいた。
「きみ。大丈夫かい、きみ」
耳に聞こえる言葉は、かつて聞き慣れていた日本語だったのだ。
少女は恐る恐る目を開ける。
そこには見馴れぬ服を着た男性。
いや違う、その服には見覚えがあった。
「警……察……?」
まさか、と思って少女は辺りを見回した。
夜の闇の中、月の光に照らされている滑り台とブランコ。
そこは公園、日本の公園だったのだ。
「大丈夫かい? ここで女性が倒れていると通報があったんだが」
再び耳にしたその言葉。
(ああ……日本語だ……)
帰ってきたのだ。夢じゃない、今度は信じよう。
少女は大きな声でまた泣いた。
喜びをかみしめながら。
そしてそんな様子を物陰から覗いていたタケオは、もう大丈夫だと思い、黒い水溜まりを潜ってマンションへと帰っていった。
◆◇
――高崎紗香を日本に送ってから数日後。
今日も学校にて勉強に励み、それが終わると、もうあと数日で冬休みだなと何でもないことを考えながらタケオは家路につく。
そして帰ってきたマンションで私服に着替え、再び外へと出ていった。
タケオも学校が終わったら毎度毎度すぐに向こうの世界に行くわけではない。
今は奴隷もいなくなったばかりで、タケオが商会にいてもやることは殆どない時期である。
そういう時、タケオはこちらの世界の街へと繰り出していた。
それは、百円均一店や雑貨屋へ行ってアクセサリーや食器などを安価で買い漁るためである。
それらは向こうで飛ぶように売れるのだ。それも高値で。
その日タケオは、あちらの世界に存在しない白地の陶器を買い占めて帰途に就いた。
その手には大きな段ボールと、さらに腕には幾つものビニール袋が垂れ下がっている。
本当ならばかなりの重さなのだろうが、全身に魔力を流し体を強化しているため軽いものだ。
そしてアパートの前まで来ると、見覚えのあるセダンが停まっているのが見えた。
こちらを見つけたのか、ドアを開け車からスーツ姿の男が現れる。
やはりというべきか、その男は警察官の鮫島だった。
「重そうだな、手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です」
できうる限り嫌そうな顔をしながら断りの返事をして、タケオは部屋へと戻ろうとする。
「そう邪険にするなよ。キミに一つ報告をしに来ただけだからさ」
「ではその報告をどうぞ」
中身の入った段ボールやビニール袋を持ったままタケオは振り向き、用件を聞いた。
「荷物を置いてもらって、ゆっくり話したいんだがな」
「結構です」
「まあ、いいか。
前に話してた行方不明の高崎紗香が見つかったよ。五日前の夜のことだそうだ」
「そうですか、それで?」
「彼女が言うには日本語も英語もフランス語も通じない、全く聞いたことのない言語を使う国にいたそうだ。おまけに中世ヨーロッパのような世界観だったらしい。
つまり、君が行っていた場所と同じところだったと予想されるわけだ」
「……」
「驚かないんだな」
「……僕とその女の子、消えた経緯が同じだったんですから、同じ世界に行ったというのは今更でしょう」
「帰ってきたことには? 君は遺跡に潜って帰ってきたと言っていたが」
「それこそ僕が帰ってきたわけですから、その人が帰ってこれない道理なんてありませんよ」
「まあ、そうかもな。
だがその子の話には遺跡なんて言葉は出てこなかったそうだ。日本語を話す白い仮面をつけた男が助けてくれたんじゃないか、と話しているらしい」
「そうですか」
「見つかったのは、このすぐ近くの公園。ちなみに彼女の家は隣の県だ」
タケオが黒い水溜まりで移動できるのは知っている場所のみ。
行方不明の少女を抱えて歩くわけにもいかず、疑われても知らないを押し通せばいいやとの安易な考えから、タケオは近くの公園に少女を置くことにしたのだ。
またその際には、冬場であるため暑くなる程の毛布を少女に掛けている。
「……いい加減、荷物が重いんですが」
話が一段落ついたところで、こちらが無理して付き合っているということをアピールするタケオ。
それは話を早々打ち切るためのタケオ自慢のテクニックであった。
「ああ、悪かったな、引き留めて」
これにて鮫島との話は終了した。
(また勝ってしまった……)
タケオは一人恍惚感に浸りながら、二階の自分の部屋へと続く階段を昇る。
「武雄君! もしかしたら、高崎紗香の担当の者が来るかもしれない! 俺とは管轄が違うが、もし無礼を働くようなら俺に連絡してくれ!」
階段を昇るタケオの背に、それだけ伝えると鮫島は車に乗り込んだ。
(武雄君、手に持った荷物の重さに耐えられない奴はもっと前屈みになるか、仰け反るもんだぜ)
そんなことを考えながら鮫島は車を警察署へと走らせる。
(……それにしても、やはり別の世界はあったのか)
その目には強い光が宿っていた。