2章 奴隷商人になるまでの話 2―3
四方を背の低い塀に囲まれた、煙突つきの木造の家。
その玄関を開けると、正方形が二つ繋がったような縦に長い居間が広がり、手前には四角い机と四脚の椅子が、奥にはソファが一つ置かれていた。
そんな居間にあるのは家財ばかりではない。
居間には玄関以外の四つの扉があり、手前左側の扉は台所に、正面奥の扉は外に、右側の手前と奥に並ぶ扉は寝室へと繋がっている。
また、居間を含むそれぞれの部屋には木窓がついており、今は光が入るように開けられて、そこには布が下ろされていた。
そして居間の奥の扉を通り外に出ると、別段大きくもない庭が広がる。そこには家に寄り添うように厠が備え付けられていた。
「――と、大体こんな感じなんだけど」
現在武雄は、ジルとラコを引き連れてミリアに家の説明を行っている最中である。
しかしミリアは、それらを聞きながら別のことに思考を巡らしていた。
――ミリアは考える。
なぜ私が奴隷として買われたのか?
買った男は二人の少女に家庭教師をさせると言った。
私を買う金があるのだから、学校にでもやればいいだろう、と考えるのが普通だ。
しかし、その二人の少女を見て合点がいった。
奴隷の首輪。
二人は奴隷だったのだ。
なるほど、それでは学校にやれまい。
――ミリアは考える。
千金貨をポンと出せる資金力を考えれば、私を買った男は商いに関与する者だろう。
凡庸な家に住んでいるのは道楽のようなものか。
そして奴隷に教育を施す。なるほど、決して裏切らない部下か。
確かにそれは万金の価値があるものだ。
しかし、奴隷とて裏切る者は裏切る。
当然だ。
たとえ首輪をつけようとも、その心は決して思い通りにならないのだから。
ああ、だから子供か。
子供の時から己を裏切らないように調教するのか。
――ミリアは考える。
ああ、よくわかった。
正直気に入らない男だが、主としてはかなりマシであることが。
男は身体を求めず、その仕事ぶりだけを評価するのだろう。
つまり、これは好機だ。
私が這い上がるための。
無能が経営する商会に勤め、あろうことか多額の不渡りを全て私のせいにされて売られた私。
そんな私がもう一度這い上がるための好機。
私を売った金が予想以上に少なく、結局商会主自身も奴隷に落ちたことでそれなりに溜飲を下げていた。
しかし、だからといって己の人生を諦めたわけではない。
うまく取り入ろう。
この男はなかなかキレる。
私が成果を出し続け、信用させる。
成果に報酬はつきもの。信賞必罰、心を自由にできないのだから奴隷にも必ず恩賞を与える。
その時、奴隷解放を願うのだ。
とにかく、まずは信用を得ること。
……なのに。
「なんでこいつ、アンタと顔を合わせようとしないの?」
「……僕のことが嫌いだという以外に理由があると思うか?」
「……ないわね」
……あぁ、私の馬鹿。
◇◆
――ミリアが武雄の奴隷となって一週間と数日が過ぎた。
武雄の下での日々の時間割は概ね決まっており、ジルとラコが朝の訓練を終え昼食をとったならば、そこからは勉強の時間である。
今は庭にて、ミリアがジルとラコに今までに覚えた文字を一から順に書かせているところだ。
ジルとラコが木の棒で土にせっせと文字を書いていく。
そしてそれが終わるのを待ちながら、ミリアは何とはなしにこれまでの生活を振り返った。
頭の中に思い起こされるのは、未だに主である武雄とギクシャクとした関係を続けている自分。
ミリアは、はぁとため息を吐く。
(昔からそうだった。
引っ込みがつかなくなるというか、ズルズルと引きずるというか。
最初にとった態度を今更、どんな顔で取り下げればいいのだろうか)
自分の態度を反省しながらも、直すことができない葛藤がそこにはあった。
そして、ミリアは再びため息を吐く。
すると、ジルが文字を書いていた手を止めてミリアに話しかけた。
「ねえ」
「あ、はい、できましたか?」
「いやそうじゃなくて、ため息」
「え? すみません、つい……」
己の無意識のうちのため息を指摘され、人前で行うことでもないかと思い、素直に謝るミリア。
「ミリアお姉ちゃん、よくため息ついてるよね? 何かあったの?」
今度はラコが口を開いた。
一方のミリアは、気づかぬうちにそんなにしていたのかと思い再びため息を吐きそうになる。しかし、寸でのところでそれは耐えしのいだ。
「なんか、心配事があるなら、言いなさいよ。一応、ここでの生活はあんたより長いんだから」
「はい、すみません」
「で、なんなのよ?」
「は?」
「ため息の理由よ!
何かあったの? 奴隷だから虐められたとか? だったら私が言って、虐めた奴ぶっ飛ばしてやるわ。こう見えても私強いんだから」
「ボクもいく!」
「ラコは駄目よ。まだ剣だって握らせてもらってないじゃない」
「むーっ!」
ジルとラコの家庭教師として買われたミリアであったが、やることはそれだけではない。
炊事洗濯などの家事も行っている。当然、買い出しなどで一般の者とふれあう機会もあり、それをジル達は懸念したのだ。
とは言え、奴隷として白い目で見られることはあっても、何かされることはまずないと言っていい。
奴隷を買う者は金持ちのみ。
貴族ならば国から認められた権力、探索者ならばその金を得るほどの武力、商人ならば金を使って他の二つの力を利用する知力。
そんな者達の所有物に手を出そうなど誰が好き好んでやるか、という話である。
「で、理由は?」
ジルが尋ねる。
その質問に答えるべき悩みの種は一つしかない。
(どうしよう、聞いてもらおうかしら……)
ミリアは迷った。
目の前の二人に武雄との間を取り持ってもらい、その関係を良好にする。
悪くない考えではある。
しかし、相談する内容はまるで子供の駄々のようなもの。加えて、相談する相手は子供である。
恥ずかしいというか、プライドが許さないというか。
しかし、それでもミリアは己の恥と奴隷解放を天秤にかけ、そして――。
「その、タケ……いえ、やっぱりやめときます」
やっぱり話さなかった。
意を決して口を開いたものの、その途中でしり込みしたヘタレなミリアである。
「は? なんでよ!」
「その……あ、あんまり言いたくないといいますか……えっと、恥ずかしいと言いますか……こんなこと聞かせられる話でもないので……」
ミリアは目を合わせないように顔を伏せつつ答える。それは尻すぼみになる言葉と相まって、見る人が見れば、悲しんでいるようにも見えただろう。
そして、その態度にラコは首をかしげ、ジルは眉をつり上げた。
キーワードは『タケ』と『恥ずかしい』『聞かせられない』。
「……そう、そういうこと。
とうとうアイツが変態の本性を現したって訳ね」
「え?」
「ほんの少しだけもしかしたらいい奴かもとか、ちょっとは信頼してもいいかもとか考えてたけど、やっぱり!」
「え? え?」
「ミリアが奴隷だからって無理矢理、あんなことやこんなことをするなんて許せないわ!」
「えぇっ!?」
「私、ちょっと文句言ってくる!」
言うが早いか、ジルは飛び出していった。
恐るべき行動力である。
「ちょっまっ、待ってください!」
ミリアの制止の声がむなしく響き、ラコは話についていけずに頭に疑問符を浮かべるだけであった。
◇◆
ラコは店が建ち並ぶ大通りを駆けていた。
目的地は武雄が行き先を告げていたベント商会である。
「タケオはいる!?」
ジルはベント商会の入り口を潜ると、中にいた店員に向かって武雄の所在を問いただす。
「え? ああ、タケオ様んとこの嬢ちゃんか。タケオ様なら奥に来てるけど――」
ジルはベント商会の大体の者とは顔見知りである。
食料と奴隷以外は何でも売っている店なれば、まず武雄がジルとラコを連れて二人の服を買いに来たのもベント商会。その後のジルとラコの使い走りも、食材以外の買い物は全てベント商会で済ましていたからである。
「会わせてもらうわよ!」
「え? ちょっまっ、待って!」
言うが早いか、返答も待たずに店の奥へと突撃を敢行するジルに、店員はなすすべもなかった。
ジルが店の奥にある、店員以外立ち入り禁止の表示がされている扉を勢いよく開ける。
そこにいたのは武雄とベントの二人。
二人は突然開けられた扉に視線を向けた。
「ジル? なんでここに?」
「ちょっと、あんた酷いじゃないっ!」
「は?」
なんのことかわからない武雄。ベントについては静観の構えである。
「とぼけないで! 嫌がるミリアに無理矢理あんなことやこんなことをしておいて! あんたのこと信じてたのに!」
『ぶっ!?』
その時、武雄とベントが同時に噴き出した。
「いやいやいやいや、えぇー?」
全く身に覚えがなく、反応に困ってしまう武雄である。
「じ、ジル……」
「なによっ!」
ジルはその目に涙を溜めていた。
信じていたのだ、信頼していたのだ。
照れ隠しから普段は文句をつい言ってしまうが、自分達に居場所をくれた武雄のことをジルは好ましく思っていた。
それなのに――
「えぇーー……」
一方の武雄は寝耳に水状態である。おまけに『男ですから、仕方ありませんな』みたいなベントの同情の目が非常に心をえぐる。
「えっと、その話は誰から聞いたんだ?」
「ミリアからよっ! この変態っ!」
「ぐはっ!」
少女からの変態呼ばわりに、武雄はノックダウン寸前であった。
ちなみに、ジルが言っているようなことをミリアは一言も言っていない。
武雄の隣では『男は皆、変態ですから』と心の声を発しながら、ベントがウンウンと頷いていた。
◆◇
「僕は天地神明に誓ってそんなことはやっていない!」
「変態はみんなそう言うのよ!」
「ぐはっ!」
やったやらないの言い争いは平行線を辿っていた。
いい加減、鬱陶しく感じ始めたのは、この場で最も関係のないベントである。
「まあまあ、お待ちください」
彼も商会主という立場にある身。幸い急ぎの用事は入っていないが、だからといって時間を無駄にするほど暇でもなかった。
「ジルさん、タケオ様はここへ来る度に貴女とラコさんのことを、それは楽しげに話していきます。
そんなタケオ様が貴女達を裏切るような真似をするとは、私にはどうしても思えないのです」
「うっ……」
さすが歴戦の商人と言うべきか、相手をしっかりと見据えて放つベントの言葉には不思議な説得力があった。
そして何より、今ここに糾弾しに来た己よりもベントの方が武雄を信頼しているという事実がジルの心を打ちのめしていた。
ウンウンと頷きながら、武雄は感謝の意を込めてベントの方を見る。
するとベントは片目をバチリバチリとまばたきした――ウインクである。
それに対し、武雄は気持ち悪さを感じて顔をしかめた。
「まずは皆さんで話し合ってはいかがですかな? 当事者の方も含めて」
正直なところ、ベントは武雄が黒だと思っていた。
ミリアという者には会う機会はなかったが、武雄より話は聞いている。
女のエルフで奴隷、男なら間違いなく手を出すだろう。自分だったら間違いなくそうする。
しかし、そう考えていながらも武雄を擁護したのは、武雄が上客であり恩を売るためだ。
上客である武雄とその奴隷であるジル、どちらの肩を持つべきかは一目瞭然であった。
「た、確かに……一理あるわ」
ジルも、関係者全員で話し合うというベントの案に賛成のようである。
「では一度ご自宅に戻るといいでしょう。タケオ様と一緒に」
「……わかったわ、ミリアも交えて白黒つけようじゃないの」
そう言って、武雄を睨み付けるジル。
一方の武雄はホッとしていた。
少なくともこんなところで、性的な意味でやったやらないの話をするのは勘弁願いたかったのだ。
そもそも、完全に冤罪であるし。
しかしここで一縷の不安が武雄を襲った。
(本当に誤解だろうか……?)
ジルは真っ直ぐな性格であるし、ミリアもあのはっきりと物を申す様をみれば悪戯に嘘をつくとは思えない。
(もしかして、知らないうちに……僕が忘れてるだけなのか?)
まるで身に覚えがないのに、やったと錯覚してしまうのは、武雄が自分自身を信頼していないからか。それとも、やったと言い張る者達への信頼が厚いからか。
(とりあえず今はミリアから事情を聞くのが先か)
武雄はそう考えると、ベントへの挨拶もそれなりにジルと共に店を出るのだった。
武雄はジルと並んで帰り道を歩く。
途中までは会話は一切なかったが、店で賑わう通りを抜けて住宅街に入ると、ジルがその口を開いた。
「……あんた、本当になにもしてないの?」
「あ、ああ」
「何で口ごもるのよ! ……本当に本当?」
「ああ本当に本当だ」
「本当に本当に本当?」
「ああ、本当に本当に本当に本当のそのまた本当だ。
……というか、僕のことそんなに信用できないか?」
ジルが足を止めて下を向く。武雄も足を止めて、ジルの方に体を向けた。
「……そりゃあ、私だって信じたい……信じたいわよ! でもっ! だからって信じてまた裏切られたら! もうそんなの嫌なの!」
慟哭だった。
どんな時でも前を見ていたジルが、下を向いて叫んだその思い。
それは果たしてどれほどの物なのだろうか。
武雄はジルの過去を知らない。おそらくジルは、過去に信じていた人に裏切られたことがあったのだろう、と武雄は思った。
「そうか……そうだな」
人にはそれぞれ異なる事情がある。
武雄も、ジルとラコも、ミリアも、皆違う理由があって奴隷になったのだ。
武雄はゴルドバに助けられた。そして武雄はジルとラコを助けた。
(ジル達にとっての僕は、僕にとってのゴルドバ。だったら僕はゴルドバのように助けるだけだ)
武雄はそう思った。
「――まあ、君達が一人前になるまでは責任をもって面倒を見るよ」
「なによそれ……」
すると何を思ったか、武雄はジルに背を向けてその場に屈んだ。
「乗って」
「え、なによ急に」
「肩車だよ、肩車」
「何でそんなことしなくちゃいけないのよ、嫌よ恥ずかしい」
「えぇー、そこはなにも言わずに乗るところだろう」
梃子でも譲らないように、「ほら、ほら」と催促しながら屈んだ姿勢をとり続ける武雄。
そしてとうとうジルが折れた。
「し、仕方ないわね。ほら、これでいい?」
「ああ。よっと」
掛け声と共に、ジルを肩に乗せて武雄は立ち上がる。
「ちょっ、ゆらさないでよ」
「ごめんごめん、それでどうだい景色は」
ジルが視線を前へと移す。
高い位置からの景色。木を登って実を採ることなどしょっちゅうだったジルにとって、それはなんの珍しくもないモノである。
でも、その光景は何かが違った。
「……悪くないわね」
「そうか」
「でもいいの? 奴隷を肩車するなんて誰かに見つかったら、いい笑い者よ」
「気にもしないよ」
ジルを肩に乗せたまま、武雄は住宅街を歩きだす。
「僕の生まれたところじゃあ、父親が子供にこうしてやるんだよ」
武雄にとってゴルドバはまさに父のような存在であった。
何の心配もせず、ただ信頼して言われるがままに身を委ねる――そんな存在。
「私がガキだって言いたいわけ?」
「どちらかといえば年の離れた妹かなぁ」
ふと、武雄の脳裏に日本にいる妹の顔が浮かんだ。
「――それにまだ結婚もしてないのに子供は早い、って、あぁ結婚かぁ……気分はまだ中学生だけど実際は二十歳なんだよなあ」
「チュウガクセイ?」
「ああ、うーんと勉強を習う子供のこと……かな?」
「ふーん、じゃあ、ミリアから文字を習ってる私達もチュウガクセイになるのかしら」
「そうだな、ジルは中学生くらいかな。ラコは小学生か」
「今度は何? ショウガクセイ?」
「ふふ、ジルよりも小さいって意味さ」
「そう。
ふふ、ラコにはそれ絶対言っちゃダメよ。小さいって言うと怒るんだから」
「わかってるよ、ふふ」
『ははははは』
二人は笑い合う。
その時、既にジルの心は山の小川のように澄みきっていた。
そして二人は、仲良く己の家へと帰るのであった。
◇◆
晴れ渡る空の下、まるでそこだけ雷でも落ちているかのような怒鳴り声が響いているのはゴルドバの家である。
「はあっ!? じゃあアンタがタケオに無理矢理チョメチョメされたってのは嘘だったの!?」
「私は悪くありません。ジルさんが勝手に勘違いして飛び出していっただけです」
ジルの怒声に対し、顔をプイッと横に向けて反論するミリア。
「なによっ! 私が悪いって言うの!? そもそもアンタが――」
そんな二人の言い争いを聞きながら、武雄は「ははは」と乾いた笑いをこぼした。
その心中は、とりあえず疑いも晴れて一安心といったところである。
そしてその後ろでは、口を半開きにしてポカンと皆を眺めるラコがいた。
彼女には何が何やら最初から最後まで何一つ理解できなかったのだ。
しかしなんであれ、武雄もラコもこの騒がしいのが嫌いではなかった。