2章 牢獄都市アルカト 2
夜が明けて、空が赤から青に変わったばかりの早朝のこと、仮面の男は地下牢の奴隷達に向かってにこやかに言った。
「さあ、出立の時間だ!」
それは非常に元気のいい声であった。
奴隷達が地下牢から出て、アルカトへ向かう時がやって来たのである。
「手枷をはめる! 腕を出せ!」
仮面の男の命令に従い、三人の奴隷が格子から腕を出す。
すると、五人の兵士のうち仮面の男の護衛を除いた四人が、奴隷の運搬作業に取りかかった。
まずは一番手前の房にいるライナに手枷が付けられ、房の扉が開く。
ライナが房より出ると、その後ろには一人の兵士が付いた。
次に、同様の手順で狼族の男が房より出されて、その後ろに兵士一人が付き、さらに残り二人の兵士がドワーフの房へと向かう。
――その時だった。
一瞬の隙をついて、狼族の男が己の後ろにいた兵士の腰から剣を抜き取ったのだ。
狼族の男、その名をアルダル・ゾ・ウー。
狼族の中でも屈指の強さを誇る男であった。
そんなアルダルの動きはとてつもなく速い。
アルダルは剣を失った兵士の後ろへ素早く回り込むと、その首に剣を添えた。
「へへ、悪いな。
おい! こいつを殺されたくなかったら全員武器を置け!」
アルダルは、兵士全員を威圧するかのように叫んだ。それは、決して脅しではないと伝えるためである。
しかし、その場にいる兵士達は逆に剣を抜いた。
ドワーフの房はまだ開いていない。そのためアルダルは、仮面の男の護衛とライナに付いた兵士を除く二人の兵士と真向かうことになる。
「ちっ……」
舌打ちしつつも、アルダルはジリジリとにじり寄る兵士にどうするべきかと考える。
しかし、どうにもいい考えが浮かばない。
(俺の方に向かってきている兵士は二人、しかし……)
アルダルの頭を悩ましている問題は位置関係にあった。
地下牢の中程にいる兵士二人に、入り口にいる仮面の男とその護衛の兵士――その間にアルダルがいたからである。
にじり寄ってくる兵士二人を相手にすれば、後ろから護衛の兵士が向かってくるだろう。そして護衛のいなくなった仮面の男は、外へ増援を呼びにいくかもしれない。
逆もしかり、護衛の兵士へとアルダルが向かえば、途端に後ろから兵士二人が襲いかかってくるのは道理であった。
(こんなことなら、ドワーフが房を出てからにすれば良かった……)
トホホ、と今更ながらに後悔するアルダル。
もしドワーフが房の外に出ていたならば、それだけで自由に動ける兵士が一人減っていたからである。
しかし、こうなっては後の祭。加えて、ここからとれる手立ては一つしかなかった。
人質を捨て、入口側に活路を見出だすのだ。
(うまく突破できれば、後は自慢の脚で逃げるだけ。
たとえ突破できなくても、仮面の男を人質にできれば脱け出せるだろう)
アルダルはそう考えた。
そして、さあやるか、とアルダルが意を決した時である。
「待て!」
それは仮面の男の制止の声であった。
アルダルの敵、それも親玉であるはずの仮面の男が、待ったをかけたのだ。
「そいつの言う通りにしてやれ」
仮面の男は兵士達にそう告げた。
「し、しかし……」
「くどい」
一人の兵士が食い下がるも、仮面の男はそれを一言にて一蹴する。
兵士達は渋々といった風に剣を地に置くのだった。
一方のアルダルであるが、少しばかり驚いたものの、助かるならばどうでもよかったので、すぐさま次の行動に移った。
「ダークエルフの姉ちゃん、鍵を貰ってきな」
その指示に頷いたライナは、兵士より鍵を受け取るとアルダルの下へと近づく。
そして、アルダルが人質の首に剣を添えている状態のまま、その手枷を外した。
「ふぅ。それで、姉ちゃんはどうするんだ?」
「あたしもここを出る」
そう言うと、ライナは手に持った鍵で自らの手枷を外す。
実のところ、ライナもまた脱走を計画していた。
しかし、ドワーフが房から出たところで行動を起こすはずだったのが、アルダルの先走った行動によりその機を逃してしまったのである。
「おっさんはどうする!」
次にアルダルは、地下牢の中程の房にて事の様子を窺っているドワーフへと声を張り上げた。
「……」
しかし、ドワーフからの返答はない。
「おい、おっさん!」
「ワシのことは放っておけ」
「そうかよ、じゃあ、えーと……」
アルダルとしては別に脱走を無理強いするつもりもないので、ドワーフが行かないと言うならそれで構わなかった。
それよりも問題なのは、次にやることがまとまらなかったことだ。
今の状況は、かなり好ましいと言っていいだろう。
この状況でただ逃げるだけというのは、もったいないのではないか――アルダルはそう感じていた。
「お前とお前、着ている物を脱ぎな」
するとライナが、頭の回転の遅いアルダルに代わって兵士達に指示を出し始める。
ほぼ無計画のアルダルと違い、ライナは脱走までの道筋をしっかりと立案済みであったのだ。
「ほら、ズボンもだよ!」
そして、ライナに言われるがまま、パンツ一丁の二人の兵士が出来上がった。
床には、散乱する兵士の着衣。
ライナはそれをボロの上から着込んでいく。
シャツにズボン、その上に鎧を付け、最後に剣を取った――タケダ商会兵士の出来上がりである。
「ほら、交代だ」
「あ、ああ」
淀みなく脱走の手順を踏んでいくライナに少しばかり面食らいながらも、アルダルは己がやるべきことをやっていく。
そして服のサイズが合わずに、パッツンパッツンになったタケダ商会兵士が誕生した。
「よし、じゃあこんなところさっさとおさらばだ。全員、この牢に入りな」
その命令に従い、仮面の男と兵士達は指定された房に入った。
そして最後に、人質であった兵士を同じ房の中に入れて鍵を閉める。
こうしてライナ、アルダルの二人は、まんまと地下牢を脱出したのだった。
外に出ると、二人は何十日かぶりの朝日に目を細める。
本当ならば、天に青空が広がるその解放感に浸って体を芝生にでも投げ出したいところであろう。しかし、残念ながらそうはいかない。
「さあ、ぐずぐずしてる暇は無いよ、こっちだ」
「って、おい。どこいくんだよ」
「馬だよ、ここからは時間が勝負だ。ぐずぐずしてたらすぐに領主の兵がやってきちまうからね」
そう言って、走り出すライナ。
彼女の耳は、馬の嘶きをしっかりと捉えていた。
◆◇
人がざわめき始めたカシスの大通りを、馬を駆って進むライナとアルダル。
行き先は北の城門であった。
南門を目指さなかったのは、それより南は他国であり、門兵による検査はより厳しいと踏んだからだ。
「どけっ! どけぇ!」
馬の上から、ライナが道行く人々をどかすために叫び続ける。
タケダ商会の屋敷はカシスの中央にある高級住宅街に存在しているため、街の外へと繋がる城門までは相当の距離がある。
そのため既に時刻は早朝から朝へと変わっており、通りには人が増える一方であった。
やがて城門の近くにまでやって来ると、二人は速度を落とし、城門の前へと馬を進めた。
◇◆
ライナとアルダルは馬上にて、城門前に並んでいる列の後ろにつける。
「下馬せよ!」
すると門兵に見咎められ、二人はその指示に従って馬を降りた。
「(なんで突っ切らねえんだ?)」
アルダルがボソリとライナに尋ねる。
「(馬鹿だね、城門には常に馬が配備されている。直ぐに追っ手を差し出されるのがオチさ。
とりあえず、ここはあたしに任せときな)」
ライナの返答に、『なるほど、もっともだ』と納得し、アルダルは押し黙った。
そして、そう時を待たずに列は進み、二人は門兵に声をかけられる。
「どちらまで?」
尋ねたのは、先程の下馬の指示を出した黒髪の門兵であった。
「なに、王都まで言伝てを頼まれてね」
ライナ達が着ているのは、タケダ商会兵士の鎧である。
門兵がそれを知っているかどうかはわからないが、仮にタケダ商会の兵士だと認められてもおかしくない返答をライナはしたのだ。
この際、自分からタケダ商会と名乗らなかったのは、ライナがタケダ商会について詳しくないからである。
尋ねられれば答えはするが、藪をつついて蛇を出す必要はない。探索者とでも勘違いしてくれたなら儲けものである、とライナは考えていた。
さらに長い耳も隠すように頭を布で覆った。これでライナは人間にしか見えないだろう。
唯一の不安は狼の顔をしたアルダルであるが、力の強い獣人を兵士に雇うことも無いことはないので、そこまで心配はしていない。
逆に、アルダルのお陰で探索者だと思われる可能性だってある。
亜人が鎧を着ると言えば、第一に思い浮かぶのが遺跡探索であるからだ。
むしろ、それ以外の理由など殆どないと言ってよかった。
「ふむ、タケダ商会の方ですか」
「ああ、その通りだ」
一目でタケダ商会の鎧だと看破されても、素知らぬ顔で己を偽るライナ。
それに対し、門兵はにこやかに頷いた。
「そうですか……」
――いや、頷いたかに見えた。
「しかし、おかしいですな……私はそんな使いを出した覚えはないぞ!」
門兵の声の調子が突然変わったのだ。
それはライナの聞き覚えのある声――そう、仮面の男の声だったのである。
「なっ――ぐぅっ!」
驚きと同時に、ライナの鳩尾には強烈な拳が叩きつけられた。
そのまま前のめりに倒れ込むライナ。
それを他の門兵が抑え込む。
続いて黒髪の男は腰の剣を抜いて、アルダルに相対した。
「な、なんで、てめえがここにいるっ!?」
既に剣を抜いていた狼族の男が、黒髪の男に問いただす。
アルダルも気づいたのだ、目の前にいる男が仮面の男だということに。
「さあ、なんでだろうな」
それに対し答えるつもりもない黒髪の男。
――勝負は一瞬であった。
アルダルが一歩も動くことすらできずに、その眼前には剣が突きつけられていたのだ。
アルダルが動揺の中にあったとはいえ、黒髪の男の剣は恐るべき速さであったと言えるだろう。
「降伏しろ」
その一言によってアルダルは己の負けを悟る。
すると、自然に手からは力が抜けて、剣は音をたてて地へと落ちた。
やがて檻を引いた馬車がやって来ると、縛られた二人はそれに乗せられて、アルカトへと旅立つのであった。