2章 プロローグ
武田武雄、二十三才。
家族構成は会社員の父、専業主婦の母、中学三年生の妹、そして武雄の四人家族であるが、武雄はマンションを借りて一人暮らしをしている。
家族仲はあまりよろしくない。それは武雄が家族と離れて一人暮らしをしていることからもわかることだろう。
そして武雄はこの日本において高校二年生――学生という身分である。
◇◆
時節は秋。屋外では小鳥がチュンチュンと囀ずって朝であることを知らせ、とあるマンションの一室では、ブルルと携帯電話の振動がベッドの枕元で今日の始まりを告げていた。
「ん、うんん……」
この部屋の主である武雄が眠気眼で携帯電話に手を伸ばし、バイブレーションを止めて画面を確認する。
時刻は七時五分。
七時ちょうどの一回目の目覚ましでは起きられず、二度寝をした結果の時刻である。
さすがにもう起きねばと思い、あくびをしながら布団から出る武雄。秋も半ばとなり、布団の外はブルリと震えるほど肌寒い。
武雄はテレビのチャンネルをつけると、まずはトイレへと向かった。
『――さんが行方不明になり今日で一ヶ月が経ちます。未だ何の手がかりもなく、県警は――』
トイレから戻ってくると、テレビから流れるニュースは事件・事故から芸能に変わるところであった。特に興味もないので、天気予報がやっている番組に変更し、それを見ながら武雄は朝食を取る。
朝の献立はシリアルに牛乳をかけた物とカロリーブロックだ。
武雄はそれらを特に味わうことなく腹に詰め込むと、次に学生服に着替え、歯を磨き、身だしなみを整える。
そして、教具の入ったバックを担ぎ、部屋の壁に架かった写真に「いってきます」と言って部屋を出た。
写真には、武雄と二人の少女、それに一人の女性が仲良く写っていた。
◇◆
マンションを出た武雄は徒歩で学校へと通学する。
武雄の通う学校は、武雄が住んでいるマンションのすぐ近くにある県立高校。学校偏差値はおおよそ中の下といったところだ。
武雄は他の生徒達が挨拶を交わすのを聞きながら校門を通り、そして教室に入る。
いかんせん、二十三という歳である。当然ともいうべきか、自分の教室に入室しても話しかける友達など武雄にはいない。
武雄とクラスメイト達との間にあるのは、必要最低限の会話だけだった。
しかし、これでもマシになったというものだ。
何分、武雄は一般高校生から見ればオッサンと見られかねない歳であり、高校生活の中ではいわば異物と言っていいだろう。
そのため、かつてはからかいの対象にされかけたこともあったのだ。
しかし、これに対して武雄が黙っている謂われもない。
ある時、頭の後ろにゴミを投げ当てられると、武雄はまず自分の机の中身を外に出した。
他の者達は、何をやっているのだろう? と思ったことだろう。
その理由はすぐにわかった。
中身を出し終えた机に向かって、武雄が思い切り拳を叩きつけたのである。
するとどうか。
凄まじい音が室内に響いた。武雄が振り下ろした拳は木の机を二つに割り、さらにその下の金属性の収納部に穴を開けたのだ。
恐るべきことである。
それにより、からかっていた者達は己のプライドを守るため武雄をいない者として扱い、その他の者もより一層武雄に近寄らなくなったのであった。
――そして今。ただ真面目に授業を受け、休み時間を利用して宿題を済ませ、何かあれば機械的に会話をし、特に事を荒立てることもない――そんな平穏な学校生活を武雄は送っていた。
◆◇
課業終了の鐘が鳴り、武雄は荷物をまとめて教室を出る。その日は特に寄るところもないので、そのまま真っ直ぐにマンションへと帰宅する。
そして部屋に帰ると、武雄は制服を脱いで下着姿になり、強く念じた。
思い描くのは、ここよりもはるかに広く豪華な部屋。
すると武雄の前に、床と垂直に浮かぶ黒い水溜まりが現れた。
武雄は下着姿のまま、その中へと入る。
やがて黒い水溜まりが武雄の身を全て隠すと、黒い水溜まりは消えて、そこには誰もいなくなっていた。
武雄が黒い水溜まりを潜り抜けると、その先にあったのは先程自身が思い描いた部屋であった。
そこには天蓋付きの大きなベッド、意匠の凝らした机や椅子、他にも美しい細工のなされた家具の数々があり、誰が見てもその部屋の主が相当の金持ちであることがわかるだろう。
下着姿の武雄は衣装棚より、服を取り出す。
黒の長ズボン、白のフリルの付いたカッターシャツ、黒のベストに赤茶色のコート。
それらを着て、最後に靴箱より取り出した革のブーツを履く。
こうして武田武雄は、奴隷商人タケオ・タケダへと変身するのである。
◆◇
奴隷商人タケオ・タケダ。
商業都市カシスで、最も大きいとされるタケダ商会の長である。
その取り扱う商品は奴隷商人の名が示す通り奴隷。しかし、それだけではない。
タケダ商会は他のどの商会でも売っていない珍品の数々を取り扱っており、それらはどんな好事家でも喉から手が出るほどに欲しがるものばかりであった。
中でも、タケダ商会がベント商会だけに卸している『ペットボトル』なる物は王族が好んで使っており、他に持っている者といえば一等貴族のみ、一般の貴族からは大変に羨まれる品である。
ちなみにタケオはカシス一の奴隷商人と呼ばれているが、実際にタケダ商会の奴隷を扱う規模はそう大きくはない。むしろ、中規模の奴隷商にも及ばない程度である。
ではなぜカシス一の奴隷商など呼ばれているのか?
そこには他の商人からの妬みがあった。
目にしたこともない希少な品々を取り扱い、発足からわずかな時間で大商会まで成長を果たしたタケダ商会である。同じ商人ならば、羨み嫉妬しない方がおかしいと言うものだ。
しかし、そんなタケダ商会にあって、唯一の汚点と言えるのが人を売り買いするという奴隷売買である。
奴隷商とはその羽振りのよさとは相反して、世の中からは嫌われる存在だ。
それも当然であろう。
同情や侮蔑など、人々の奴隷に対する感情は様々であるが、その根底には『もしも自分が奴隷になったら』という恐怖が存在するのだから。
そして、その感情に対する反抗心は、安全な場所にて奴隷を取り扱う奴隷商人へと向けられるのだから。
商人達はそこにつけ込んだ。
「所詮は奴隷商」「奴隷商だからあそこまで大きくなれたのだ」と喧伝し蔑むことで、商人達はその溜飲を下げていたのである。
しかしどれだけ貶めようとも、タケダ商会がどの国にもない珍品を売っていることは事実。そして、それは交易のみで栄えてきたカシスの初めての特産品でもあった。
カシス一帯を治めている領主もこれを大いに喜んでいる。
タケダ商会の地位はもはや磐石といえるものであったのだ。
◆◇
「異常はないかな?」
屋敷の自室より執務室へとやって来た武雄が、仕事をしているミリアへと尋ねた。
「はい、特になにも」
「うん、それは結構」
ミリアから異常無しの報告を聞き、己の席へと座るタケオ。
その口から語られるのは、いまだに買い手がつかずに余っている奴隷達のことである。
「残っているのはドワーフ、狼族、ダークエルフの三人。
ドワーフは本人の希望の通りアルカトに移送、他の二人はどうする?」
「あまり人口を増やしたくありませんが、買い手がつかないのですから、この際全員アルカト行きにするべきではありませんか?」
「うーん、そうだなあ……」
牢獄都市アルカト――カシス北西に位置する巨大な城壁に囲まれた街であり、世間からは奴隷の墓場などと言われ恐れられている場所でもある。
元は昔に捨てられた城塞都市だったが、それをタケオがカシス領主から捨て値で買い取って作ったのがアルカトという街であった。
そしてその住人は、タケオが買う前より城壁の中に住み着いていた者達。誰しもがコエンザ国に生きる場所のない者達で、タケオはその者達を全員奴隷にして住人とし、奴隷の街を作り上げたのである。
そんなアルカトであるが、その主な産業は農作である。
そこでは日本の作物が作られており、それを秘匿するために人の出入りをタケオは禁じていた。
そしておおよそ半年前に成果が出始め、タケダ商会がそれらを取り扱い、領主からはカシスに多大な富を与えることを期待されている。
ではなぜ、そんなアルカトに外から奴隷を入れたくないのか?
――以前、タケオは街を囲う壁の上からアルカトを見たことがある。
その時、タケオは思った。
アルカトは一つの国である、と。
限られた空間にて、人と人が交わり、子が生まれ、命が続いていく。
壁の外へ出なくとも、そこだけで完結しているのだ。
さらに飢えることがなくなったせいで、今後アルカトの人口は増加していくことだろう。
奴隷の街アルカトの人口は今はまだ僅か。しかしその人口が溢れ、壁の内に収まらなくなれば果たしてどうなるか。
住人の身分を考えれば、それは考えたくもないことである。
それ故、アルカトへの移住許可はごく限られた者だけに限定されているのだった。
◇◆
武雄は執務席にて考える。
ダークエルフと狼族の獣人、果たしてこれから彼らに買い手はつくのか、と。
その答えは否だ。
タケダ商会の奴隷売買は会員制をとっており、会員になる条件は奴隷に配慮を行う者かどうかであった。
そして、その代わりに客が求める奴隷の最低条件が、誠実で従順な心を持つことである。
あの二人が誠実で従順かどうか。
答えは間違いなく否。
ダークエルフは常に問題を起こしていたし、狼族の獣人も目の奥にはギラついたものが見えた。
タケダ商会は客を選ぶ。それ故に選ばれた顧客は何よりも大事であるし、向こうもこちらを信用してくれている。
実際に奴隷を見もせずに、こちらが提出した情報だけで買ってくれている者が多いのも、その信用故であった。
そんな顧客に、騙して売りつけることなどできはしない。
「……仕方がないか。他の二人もアルカト行きとする」
そうミリアに告げると、タケオは奴隷達の夕食に立ち会うために執務室を出ていった。