珈琲男と紅茶女
恋人と別れ話をした場所など、二度と足を運びたくないものだ。
しかし私はあの場所に、もう一度行ってみようかと考えた。
窓の外に見える銀杏の木が、黄色く染まりはじめた。そんな秋の頃である。
孝史とは別れるだろうなと予感はあった。
つきあい始めて8年目。デートの数が週1回から月1回になり、とうとう三ヶ月に1回になった頃である。
会話は減って笑顔が消えて、手を握ることもなくなり、やがて電話もメールも途絶えた。同時にかすかに匂っていた、結婚の話も立ち消えた。
次に会うことがあれば、別れ話だろう。そんな予感はお互いにあったはずだ。
口火を切ったのは孝史から。仕事帰りに会おう。なんて久々にメールが届いた。昼休みにそのメールを見た私は、一度だけ目を閉じた。
寂しさからではない。悔しさでもない。ちょっとした空しさが、身体の芯を冷やしたのだ。
しかしそんな空しさも退社時間には消えていた。待ち合わせはいつも通り、お互いの会社の中間地点、裁判所の正門あたり。
ちょうど夏祭りの時期だった。どこかでお囃子の練習をする音だけが響いていた。
こんなオフィス街にもお囃子の練習場所があるのだな、なんて私は呑気にそんなことを考えていた。
出会っても私達は無言だ。お互い、軽く片手をあげただけである。
そして無言のまま、目的地もなくくねくねと路地を進む。
初デートの場所は思い出に残るが、それと同じくらい別れた場所も記憶に残る。
いつも行く店、お気に入りの店を別れの場所に選びたくない。孝史の思いは痛いほどよくわかった。
しかし別れの言葉など一瞬で終わる。極端な話、歩いている間に済ませてしまってもいいのだ。
なのに二人は意地みたいに喫茶店を探した。
男女の別れは喫茶店であるべきだ。何故か二人とも、そんな風に思っていた。古くさい映画に、そんなシーンがあったのかもしれない。
結局行き着いたのは路地の奥にある古びた喫茶店。町の風景に埋没しきった扉を開くと、涼やかな鈴の音が響く。
年の入ったマスターは一人、カウンターの内側でカップを磨いていた。彼の前に置かれたラジオからは、たった今始まったばかりの野球中継が流れている。
彼は急な来客に驚いたように目を丸め、慌てて音量を絞った。悪いことをしたと申し訳なくなるほどである。
ただ私達はここに別れ話をしにきただけなのに。そんな目的に使ってしまって、本当ごめんなさい。
「いらっしゃい」
煙草焼けのような渋い声を聞きながら、孝史と私は自然とテーブル席を選ぶ。客は誰もいない。
カウンターでマスターの顔を見ながら別れ話など、いかにも気まずいからだ。
席に座ると水が出る。おしぼりが出る。
「ホット2つ」
ここに来て、孝史がはじめて声を出した。真夏なのだからアイスコーヒーでいいじゃないか。そもそも私は紅茶党で、コーヒーは苦手だ。
ただ、ホットという響きが孝史は好きなのだ。通っぽく聞こえるから、それだけだ。
人の意見を聞かないその姿勢も態度も、つきあい始めた最初は男らしく感じたものだ。別れの今、ああくだらないプライドだ。なんて思う。つくづく私も身勝手だ。
「はいよ」
マスターはおおよそ喫茶店らしくない応対をしてカウンターへ戻っていく。
彼がコーヒーを淹れ始めるより早く、孝史が顔をあげた。
「……別れよう、俺たち」
本日二回目の言葉は想像通りの言葉である。しかしタイミングを掴み損ねた私は、水の入ったコップを口に付けたまま固まった。
しかし何とか体裁を整えて頷く。それで終わりだ。8年という年月の終止符は、一瞬で終わった。
……問題は、ここからだ。
来店直後に別れ話をするのなら、喫茶店の外で言ったって良かったのだ。どうしても喫茶店に拘るのなら、せめてコーヒーが出てくるまで待つべきだ。
孝史には、繊細さがない。久々に、私は孝史に対して腹を立てた。
コーヒーを注文した以上、席を立つことはできない。泣きながら席を立ってもいいが、三十路を越えた女がやるには痛すぎる。そもそもそんなアグレッシブさなんて、持ち合わせていない。
つまり私達は暇を持てあました。
これ以上孝史と話すことなどなにもない。携帯を開くのもいやらしい。顔を見合わせるのもどうかと思う。
結局二人は、同時に俯いた。
コーヒーの到着は、予想よりもずっと遅かった。
くみ置きのコーヒーをカップに注いで出すだけだと思いきや、マスターは丁寧に湯を注いでいるようだ。
甘いような苦いような、コーヒーの香りがエアコンの風に乗って届く。
それは想像以上にいい香りである。
マスターは私達の言葉が聞こえなかったのだろう。ごく小さな音でラジオを流しつつ、ゆったりとコーヒーに湯を注ぐ。誰かがホームランを打ったのか、わっと声援が響いた。
たっぷりの時間をかけて届けられたのは、白いカップに注がれた濃厚なコーヒーだ。届いたからには飲むしかない。
私の舌はコーヒーの味が分からない残念舌だ。喫茶店のコーヒーもインスタントも缶コーヒーも全部同じ味に感じられる。
……しかし、そのコーヒーは驚くほどに、美味しかった。
早く飲んでしまおうと口を付けると、その考えは吹き飛んだ。もっと味わいたい。すぐに飲んでしまうのは勿体ない。
会話もない。何もすることがない。コーヒーの味に注目することしか、やることがない。そのせいで余計に美味しく感じたのかもしれない。
かつてコーヒーは薬だったと聞く。確かに、これなら納得だ。身体全部に滋養が行き渡るような、優しい美味しさだった。
「……」
こんなに美味しいのなら、紅茶党から珈琲党に乗り換えてもいいなあ。そんな軽口を言いかけ、顔をあげた私は慌てて俯いた。
孝史もコーヒーの味について言及しかけたのだろう。お互い、同時に顔をあげたのである。
そしてまた、お互いに俯いた。
野球はどちらかのチームに点が入ったらしい。そのチームを贔屓にしていると思われるマスターが、よし。と小さく拳を固めるのが見える。
お囃子の音と野球の音、そしてコーヒーの味が私と孝史、別れの思い出となった。
そんな喫茶店にもう一度行こうなんて思ったのは、たまたまだ。
季節は秋が巡って、昼でも冷たい風が吹くようになった。会社から出て、ひやっとした風を感じた瞬間、ふとあのコーヒーが飲みたくなった。
いつもなら川沿いにある紅茶の専門店へ行くところだ。それは商業ビルの一角を占める古い紅茶専門店。大きな白磁のポットで紅茶が飲める。クラシックの流れるこの店を私は気に入っていた。
しかし何故か今日はコーヒーを飲みたくなった。あの、別れのコーヒーを。
「いらっしゃい」
煙草焼けのマスターは健在であった。
店も、苦労せずに見つけ出すことができた。中に入ると今回はテーブル席が満席で、カウンター席も半分ほど埋まった状態である。
よく考えたら地方裁判所の真後ろにある喫茶店だ。色々な意味で混み合うのだろう。
私は神経質そうなサラリーマンの隣に遠慮がちに腰掛け、
「ホット」
と、通ぶって言う。マスターは、はいよ。とまた言った。癖なのかもしれない。
耳を澄ませば、今日は野球の音はしない。あたりまえだ、シーズンは先日終わった。優勝したのがマスター贔屓のチームなのか違うのか、野球に疎い私には分からない。
それを聞こうにも、マスターは忙しそうだ。皆がコーヒーを頼んでいる。お代わりをしている人もいる。やはり、美味しいのである。
良く見れば上にクリームが載ったものや、ミルクの入ったもの。色々とメニューも豊富である。しかし私はこの店で、ホット以外を注文するのは嫌だな。と思う。
「はいよ」
壁にかけられたカップを眺めていると、やがて目の前にコーヒーが届いた。前回はテーブル席だったので、コーヒーの滴がソーサーに落ちていた。
それさえもったいないと思ったものだが、今日のコーヒーは一滴も漏れることなくしっかりカップに収まっている。
「……」
陶器の淵に唇を寄せて、飲む。熱い。鼻に香りが立ち上る。
「そういえばこないだのね、お相手さんね」
世間話のように、マスターが言った。私は危うくコーヒーを取り落としそうになる。
「来てますよ、週に何回か」
はあ。としか私には言えない。その瞬間、急に肩の荷が下りた気がした。孝史の存在が、想像以上に遠くなっている事に気がついたのである。
思い出をかき集めるつもりでここへ足を運んだわけじゃない。思い出をかき集めたいと自分が思っているんじゃないか。そう思って私は私のためにここへ来たのだ。
……とんだ、自分孝行である。
ぼんやりと私は机の上の染みをみていた。足下がじわりと冷える。そろそろ、季節は秋から冬へ変わる頃。
気がつけば私のカップも空っぽだ。店内に残った客は私だけ。この店は止まり木のように、一瞬だけ休息していくのがよく似合う。
立ち上がり会計をしていると、ふとマスターが呟いた。
「あの時のお連れさんね、ここへ来るたびにあなたが来てないか。って聞くんですよ」
店内に低く、静かに流れるのは相変わらずクラシック。マスターの声は、枯れたクラリネットのようで心地いい。
私は、にこりと笑ってみせた。
「……今回、お好きなチームは勝ちました?」
「いやあ、だめですね。あれは弱くて」
突然話題を替えても、マスターは気にすることなく付いてくる。
しわしわの手からおつりを受け取る。コーヒーは一杯350円。この値段でやっていけるのかな、などと余計な心配をした。
「でもねえ、あの弱いところが好きでしてね。ついつい毎年応援しちゃって、もう8年目」
マスターの声は慈愛に満ちている。思えば私も、孝史の弱いところが好きだった。プライドが高いくせに弱い。そんな孝史を好きでいる自分が好きだった。
私はおつりを財布に流し込み、笑顔を作る。
「彼、また来たら、私は来なかったって言ってください」
はいよ、とマスターはまたいつもの調子でいった。古いコーヒー店、こんな色恋沙汰、飽きるほど経験しているのかもしれない。
外に出ると銀杏が香った。いい香り、とはとてもいえない。
足下を枯れ葉が音をたてて転がっていく。 空はもう真っ暗だ。とはいえ、都会の夜は明るい。
激しい音と光をたてる車の波と、その間を抜ける秋の風。排気ガスと銀杏の香りと、そして鼻の奥に残るコーヒーの香り。
やっぱり明日から紅茶党にもどろう。私はそう誓って、アスファルトを一度だけ蹴飛ばした。