表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

食べ物小説

珈琲男と紅茶女

 恋人と別れ話をした場所など、二度と足を運びたくないものだ。

 しかし私はあの場所に、もう一度行ってみようかと考えた。

 窓の外に見える銀杏の木が、黄色く染まりはじめた。そんな秋の頃である。


 孝史とは別れるだろうなと予感はあった。

 つきあい始めて8年目。デートの数が週1回から月1回になり、とうとう三ヶ月に1回になった頃である。

 会話は減って笑顔が消えて、手を握ることもなくなり、やがて電話もメールも途絶えた。同時にかすかに匂っていた、結婚の話も立ち消えた。

 次に会うことがあれば、別れ話だろう。そんな予感はお互いにあったはずだ。

 口火を切ったのは孝史から。仕事帰りに会おう。なんて久々にメールが届いた。昼休みにそのメールを見た私は、一度だけ目を閉じた。

 寂しさからではない。悔しさでもない。ちょっとした空しさが、身体の芯を冷やしたのだ。

 しかしそんな空しさも退社時間には消えていた。待ち合わせはいつも通り、お互いの会社の中間地点、裁判所の正門あたり。

 ちょうど夏祭りの時期だった。どこかでお囃子の練習をする音だけが響いていた。

 こんなオフィス街にもお囃子の練習場所があるのだな、なんて私は呑気にそんなことを考えていた。

 出会っても私達は無言だ。お互い、軽く片手をあげただけである。

 そして無言のまま、目的地もなくくねくねと路地を進む。

 初デートの場所は思い出に残るが、それと同じくらい別れた場所も記憶に残る。

 いつも行く店、お気に入りの店を別れの場所に選びたくない。孝史の思いは痛いほどよくわかった。

 しかし別れの言葉など一瞬で終わる。極端な話、歩いている間に済ませてしまってもいいのだ。

 なのに二人は意地みたいに喫茶店を探した。

 男女の別れは喫茶店であるべきだ。何故か二人とも、そんな風に思っていた。古くさい映画に、そんなシーンがあったのかもしれない。

 結局行き着いたのは路地の奥にある古びた喫茶店。町の風景に埋没しきった扉を開くと、涼やかな鈴の音が響く。

 年の入ったマスターは一人、カウンターの内側でカップを磨いていた。彼の前に置かれたラジオからは、たった今始まったばかりの野球中継が流れている。

 彼は急な来客に驚いたように目を丸め、慌てて音量を絞った。悪いことをしたと申し訳なくなるほどである。

 ただ私達はここに別れ話をしにきただけなのに。そんな目的に使ってしまって、本当ごめんなさい。

「いらっしゃい」

 煙草焼けのような渋い声を聞きながら、孝史と私は自然とテーブル席を選ぶ。客は誰もいない。

 カウンターでマスターの顔を見ながら別れ話など、いかにも気まずいからだ。

 席に座ると水が出る。おしぼりが出る。

「ホット2つ」

 ここに来て、孝史がはじめて声を出した。真夏なのだからアイスコーヒーでいいじゃないか。そもそも私は紅茶党で、コーヒーは苦手だ。

 ただ、ホットという響きが孝史は好きなのだ。通っぽく聞こえるから、それだけだ。

 人の意見を聞かないその姿勢も態度も、つきあい始めた最初は男らしく感じたものだ。別れの今、ああくだらないプライドだ。なんて思う。つくづく私も身勝手だ。

「はいよ」

 マスターはおおよそ喫茶店らしくない応対をしてカウンターへ戻っていく。

 彼がコーヒーを淹れ始めるより早く、孝史が顔をあげた。

「……別れよう、俺たち」

 本日二回目の言葉は想像通りの言葉である。しかしタイミングを掴み損ねた私は、水の入ったコップを口に付けたまま固まった。

 しかし何とか体裁を整えて頷く。それで終わりだ。8年という年月の終止符は、一瞬で終わった。

 ……問題は、ここからだ。

 来店直後に別れ話をするのなら、喫茶店の外で言ったって良かったのだ。どうしても喫茶店に拘るのなら、せめてコーヒーが出てくるまで待つべきだ。

 孝史には、繊細さがない。久々に、私は孝史に対して腹を立てた。

 コーヒーを注文した以上、席を立つことはできない。泣きながら席を立ってもいいが、三十路を越えた女がやるには痛すぎる。そもそもそんなアグレッシブさなんて、持ち合わせていない。

 つまり私達は暇を持てあました。

 これ以上孝史と話すことなどなにもない。携帯を開くのもいやらしい。顔を見合わせるのもどうかと思う。

 結局二人は、同時に俯いた。

 コーヒーの到着は、予想よりもずっと遅かった。

 くみ置きのコーヒーをカップに注いで出すだけだと思いきや、マスターは丁寧に湯を注いでいるようだ。

 甘いような苦いような、コーヒーの香りがエアコンの風に乗って届く。

 それは想像以上にいい香りである。

 マスターは私達の言葉が聞こえなかったのだろう。ごく小さな音でラジオを流しつつ、ゆったりとコーヒーに湯を注ぐ。誰かがホームランを打ったのか、わっと声援が響いた。

 たっぷりの時間をかけて届けられたのは、白いカップに注がれた濃厚なコーヒーだ。届いたからには飲むしかない。

 私の舌はコーヒーの味が分からない残念舌だ。喫茶店のコーヒーもインスタントも缶コーヒーも全部同じ味に感じられる。

 ……しかし、そのコーヒーは驚くほどに、美味しかった。

 早く飲んでしまおうと口を付けると、その考えは吹き飛んだ。もっと味わいたい。すぐに飲んでしまうのは勿体ない。 

 会話もない。何もすることがない。コーヒーの味に注目することしか、やることがない。そのせいで余計に美味しく感じたのかもしれない。

 かつてコーヒーは薬だったと聞く。確かに、これなら納得だ。身体全部に滋養が行き渡るような、優しい美味しさだった。

「……」

 こんなに美味しいのなら、紅茶党から珈琲党に乗り換えてもいいなあ。そんな軽口を言いかけ、顔をあげた私は慌てて俯いた。

 孝史もコーヒーの味について言及しかけたのだろう。お互い、同時に顔をあげたのである。

 そしてまた、お互いに俯いた。

 野球はどちらかのチームに点が入ったらしい。そのチームを贔屓にしていると思われるマスターが、よし。と小さく拳を固めるのが見える。

 お囃子の音と野球の音、そしてコーヒーの味が私と孝史、別れの思い出となった。



 そんな喫茶店にもう一度行こうなんて思ったのは、たまたまだ。

 季節は秋が巡って、昼でも冷たい風が吹くようになった。会社から出て、ひやっとした風を感じた瞬間、ふとあのコーヒーが飲みたくなった。

 いつもなら川沿いにある紅茶の専門店へ行くところだ。それは商業ビルの一角を占める古い紅茶専門店。大きな白磁のポットで紅茶が飲める。クラシックの流れるこの店を私は気に入っていた。

 しかし何故か今日はコーヒーを飲みたくなった。あの、別れのコーヒーを。

「いらっしゃい」 

 煙草焼けのマスターは健在であった。

 店も、苦労せずに見つけ出すことができた。中に入ると今回はテーブル席が満席で、カウンター席も半分ほど埋まった状態である。

 よく考えたら地方裁判所の真後ろにある喫茶店だ。色々な意味で混み合うのだろう。

 私は神経質そうなサラリーマンの隣に遠慮がちに腰掛け、

「ホット」

 と、通ぶって言う。マスターは、はいよ。とまた言った。癖なのかもしれない。

 耳を澄ませば、今日は野球の音はしない。あたりまえだ、シーズンは先日終わった。優勝したのがマスター贔屓のチームなのか違うのか、野球に疎い私には分からない。

 それを聞こうにも、マスターは忙しそうだ。皆がコーヒーを頼んでいる。お代わりをしている人もいる。やはり、美味しいのである。

 良く見れば上にクリームが載ったものや、ミルクの入ったもの。色々とメニューも豊富である。しかし私はこの店で、ホット以外を注文するのは嫌だな。と思う。

「はいよ」

 壁にかけられたカップを眺めていると、やがて目の前にコーヒーが届いた。前回はテーブル席だったので、コーヒーの滴がソーサーに落ちていた。

 それさえもったいないと思ったものだが、今日のコーヒーは一滴も漏れることなくしっかりカップに収まっている。

「……」

 陶器の淵に唇を寄せて、飲む。熱い。鼻に香りが立ち上る。

「そういえばこないだのね、お相手さんね」

 世間話のように、マスターが言った。私は危うくコーヒーを取り落としそうになる。

「来てますよ、週に何回か」

 はあ。としか私には言えない。その瞬間、急に肩の荷が下りた気がした。孝史の存在が、想像以上に遠くなっている事に気がついたのである。

 思い出をかき集めるつもりでここへ足を運んだわけじゃない。思い出をかき集めたいと自分が思っているんじゃないか。そう思って私は私のためにここへ来たのだ。

 ……とんだ、自分孝行である。

 ぼんやりと私は机の上の染みをみていた。足下がじわりと冷える。そろそろ、季節は秋から冬へ変わる頃。

 気がつけば私のカップも空っぽだ。店内に残った客は私だけ。この店は止まり木のように、一瞬だけ休息していくのがよく似合う。

 立ち上がり会計をしていると、ふとマスターが呟いた。

「あの時のお連れさんね、ここへ来るたびにあなたが来てないか。って聞くんですよ」

 店内に低く、静かに流れるのは相変わらずクラシック。マスターの声は、枯れたクラリネットのようで心地いい。

 私は、にこりと笑ってみせた。

「……今回、お好きなチームは勝ちました?」

「いやあ、だめですね。あれは弱くて」

 突然話題を替えても、マスターは気にすることなく付いてくる。

 しわしわの手からおつりを受け取る。コーヒーは一杯350円。この値段でやっていけるのかな、などと余計な心配をした。

「でもねえ、あの弱いところが好きでしてね。ついつい毎年応援しちゃって、もう8年目」

 マスターの声は慈愛に満ちている。思えば私も、孝史の弱いところが好きだった。プライドが高いくせに弱い。そんな孝史を好きでいる自分が好きだった。

 私はおつりを財布に流し込み、笑顔を作る。

「彼、また来たら、私は来なかったって言ってください」

 はいよ、とマスターはまたいつもの調子でいった。古いコーヒー店、こんな色恋沙汰、飽きるほど経験しているのかもしれない。


 外に出ると銀杏が香った。いい香り、とはとてもいえない。

 足下を枯れ葉が音をたてて転がっていく。 空はもう真っ暗だ。とはいえ、都会の夜は明るい。

 激しい音と光をたてる車の波と、その間を抜ける秋の風。排気ガスと銀杏の香りと、そして鼻の奥に残るコーヒーの香り。

 やっぱり明日から紅茶党にもどろう。私はそう誓って、アスファルトを一度だけ蹴飛ばした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] いい!文体も綺麗だし、するすると情景が浮かぶ、美しい文章。 いい!すき! [気になる点] もっとよみたいけどこの短さがいい! [一言] 才能がある!
2018/06/27 01:58 いちご大福
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ