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第三章~彼の秘密、彼女の想い
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 二度目の口づけは長かったのか短かったのか。それを理解する余裕もないまま、そっと触れただけの唇が離れていってから、アルレイシアは自分のとった行動に混乱していた。ぎゅっと閉じたままの瞼に力を入れる。襲ってくる羞恥心に到底目を開けることなど出来そうになかった。
 そんなアルレイシアの心情に気づいているのかいないのか。アルレイシアの唇から離れたアストラスの唇は、そのまま彼女の頬やきつく閉ざされている瞼、そしてそのために皺の寄っている眉間や額へと悪戯に触れていく。湧き上がる羞恥に頬が熱を持って来るのを感じ、アルレイシアは思わず顔を俯けようとしたが、それは頬に触れた手で止められてしまった。
「ア、アスト……」
 腕に力を入れて体を離そうと試みるが、静止を込めて呼んだ名は逆効果だった。彼女を抱きしめている青年は、まるでその自らの名を呼ぶ声に誘われるように口づけを止めることはなかった。閉ざしたままの瞳では見ることはなかったが、再び唇に触れた柔らかな感触に口づけられたことを知る。
 その唇は今度は触れるだけには留まらず、そっとアルレイシアの唇を食んだ。確かめるように舌で弄られて、生まれて初めての事態にアルレイシアはますます混乱してしっかりと唇を引き結ぶ。体を離そうと力を入れていた手は縋りつくようにきつく服を握り締め、混乱と羞恥に閉じたままの瞼が熱を持ち始めた。
 腕の中で硬くなった体に気づいたのだろう、アストラスはようやく口づけを止めて顔を離した。頬を捉えていた指がそっと優しくその輪郭を辿る。その仕種に限界まで高まっていた羞恥と、そして唇の感触が離れた安堵に、アルレイシアの閉じたままの瞼からぽろりと雫が零れ落ちた。
 頬を滑り落ちていくその雫を見てアストラスがどう感じたのか。強ばった腕の感触にアルレイシアは慌てて自らの指でその雫を拭った。そうして一瞬の間を置くうちに覚悟を決めると、ゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
 眩しいほどの月明かりが差し込むガラス張りの温室内は夜というのにとても明るかったが、それでも見上げる青年の顔は逆光で良く見えなかった。それでもまるで宝石のように輝いているその瞳に、傷ついたような彩を見つけて無意識に指を伸ばす。
 精悍な輪郭をなぞるように頬に触れながら、アルレイシアは自身の想いを確かめるように胸の内で先ほどの行為を思い返していた。堪えきれないような羞恥を感じたけれど、嫌悪は一切なかった。まるでそうするのが当たり前のように、自分から目を閉じて受け入れたのだ。思わず拒んでしまったのも羞恥心と混乱からで、嫌だったわけではない。
(私は……この人を愛しているの?)
 自分自身のことなのに、見極めるのはとても難しい。それほどに、それはアルレイシアにとって馴染みのない感情だったのだ。
 消えてしまいそうな儚さに、止めたくて腕を伸ばした。痛いほどの抱擁にも、感じたのは安堵だ。口づけもどれほど考えても全く嫌悪などなく、触れた唇の温もりと感触はとても心地良いものだった。ただ、どうしようもなく恥ずかしかっただけで。
 この感情が恋や愛なのかは分からなかったが、目の前で傷ついた瞳をしている青年にきちんと伝えなければならないと思った。そしてまだ、何よりも伝えなければならないことを伝えていない。アストラスとの約束もあったが、今日はそれを伝えるために来たのだから。
 そう心を決めると、アルレイシアは僅かに強ばる頬に意識して微笑みを浮かべた。両手を伸ばしてアストラスの頬を包みこむと、爪先立つようにしてそっと額を寄せた。
 逆光でもここまで近づけば相手の表情も分かる。アルレイシアの行動に驚いたようなアストラスの表情に、今度は自然な笑顔を向けることが出来た。それから一瞬だけ言葉を探すように瞳を伏せて、羞恥にはにかみながら彩の違う二粒の瞳を真っ直ぐと見つめる。
「あの……嫌だったわけでは、ないの」
 アルレイシアの拙い言葉に何を言われたのか咄嗟には理解できなかったアストラスが目を瞬かせるのを見て、僅かに困ったように眉を下げたが、すぐに気を取り直して再び口を開いた。尤も、今度はアストラスを見つめることが出来ずに、瞳は僅かに逸らされて宙を彷徨ってしまったが。
「その……口づけが、嫌だったわけでは……なくて」
 はっきりと表情を窺えないながらも、アストラスが驚いたであろうことが空気から伝わってきた。それでも今彼の方を見ては、最後まで言えなくなりそうで、アルレイシアは瞳を逸らしたまま一息に言い切った。
「嫌ではなくて、ただ恥ずかしかっただけなの。こんなこと……初めてで、どうしたら良いか分からなくて」
「アルレイシア姫……」
「だから、その……誤解をさせてしまったら、ごめんなさい――――あっ」
 最後まで言い終わるや否や、再び逞しい両腕に攫われるように体を抱きすくめられた。重なり合った胸元から衣服越しに少し早い鼓動が伝わってきて、アルレイシアの胸もつられるように早鐘を打ち始める。
「愛しています」
 深い声音に告げられた言葉に、アルレイシアの体も心も熱を帯びて染め上げられていくようだった。それでも、今ここで流されてはいけないと、自分自身を戒める。伝えなければならないことも、決着をつけなければならいこともあるのだ。きちんと話をしなければ、と彼女の体をしっかりと捕らえている腕を柔らかく叩いた。
 アルレイシアの意図が伝わったのだろう、アストラスはしばしの間の後、きつく抱きしめていた彼女の体をそっと離す。至近で見詰め合ったアストラスの瞳に、アルレイシアは優しく微笑みかけた。
「お話を、聞いてくださる?」
「……貴女の言葉ならば、どんなことでも」
 一瞬だけ怪訝そうに柳眉を寄せたアストラスだったが、すぐにそれを解いて首肯した。そしてしばし考えてから、温室内に設えられた椅子にアルレイシアを誘った。
「お茶でも用意しておけば良かったのですが」
「いいえ、大丈夫」
 微笑んで首を振ったアルレイシアにアストラスも柔らかく微笑んで、彼も隣の椅子に腰を下ろした。
「それで、お話とは?」
 静かに促す声に、アルレイシアはゆっくりと一つ深呼吸をする。そして覚悟を決めると、口を開いた。
「話とは、ティティ――――ユースティティアのことなの」
「ユースティティア姫?」
 全く予想外の言葉だったのだろう。アストラスの表情に驚きが浮かんだ。そして訝しげにその名を口にする。そんなアストラスの様子をしっかりと見つめながら、アルレイシアははっきりと頷いて見せた。
「ええ。私の妹の、ユースティティアよ」
「――――」
 一瞬だけ何事か言おうとしたアストラスだったが、結局言葉を発しないまま口を閉ざした。その代わりにゆっくりと頷くことでアルレイシアに続きを促す。
「貴方と初めてお逢いした舞踏会で、貴方はティティのパートナーだったわ。貴方はティティとの関係をただ話をするだけの知り合いだと言っていたけれど、ティティは違うようなの」
「……違う?」
 はっきりとその表情に怪訝な彩を浮かべて僅かに首を傾げたアストラスに、アルレイシアははっきりと頷き返した。じっと彩の違う二つの瞳を真っ直ぐに見つめる。その続きを言葉にするのには、覚悟が必要だった。
「ティティは、貴方を愛しているのです」
 震えそうになる声を叱咤して告げた言葉は、静かな温室に恐ろしいほどはっきりと響き渡った。女性にしては少し低めのアルレイシアの声だが、それでもしっかりと耳に届いたはずのアストラスは咄嗟にその言葉の意味が理解できなかったのか、ゆっくりと目を瞬いていた。
「………え?」
 柳眉を寄せて顔を顰めたまま、ようやくアストラスの唇から出た言葉は、困惑に満ちていた。戸惑いに揺れるその宝石のような瞳がアルレイシアを見つめて、その表情を確かめる。どこまでも真剣な彼女の表情にアストラスはますます困惑するように眉根を寄せた。
「ユースティティア姫が、私を、ですか。それは、何かの間違いではなく?」
 アストラスの言葉にアルレイシアはゆっくりと首を振る。その青紫の瞳は目の前の青年の反応を一つすら見落とすまいとでもするように、真摯に逸れることがなかった。困惑しながらもそんなアルレイシアの眼差しを真っ直ぐに受け止めて、アストラスは言葉を探すように暫し考え込んだ。
「ユースティティア姫がなぜそのような事を仰っているかは分かりかねますが、私とユースティティア姫の関わりなど、時々国の政策について姫のご意見を伺うことがある程度です。ユースティティア姫は政治などにも興味があるらしく、なかなか斬新な意見をお持ちですから。尤も、それもただの世間話の域を出ないものかと」
 考えながらも淀みなく話していたアストラスの眼差しが、アルレイシアの瞳を捕らえた。そしてゆるりと薄い唇に僅かに笑みを刷く。
「後は、時々姫のお話を伺う程度です。私が姫の論文を読んだきっかけは、ユースティティア姫から貴女の話を聞いたのがきっかけでしたから」
「それは……」
 確かにアストラスの話を聞く限りでは、ユースティティアとの関わりなど大したものではないように感じられた。けれど、アルレイシアにはあの真っ直ぐに自分を見つめてきた妹の瞳が、嘘を言っているようには感じられなかったのだ。
「それに……ユースティティア姫は……」
 アストラスが何かを考えるように独り言のような言葉を口にして、けれどすぐに口を噤んでしまった。そんなアストラスの反応に、アルレイシアは眉を顰める。
「ティティが、どうかなさいました?」
「……いえ、確証のあることではないですから」
 首を振ったアストラスの言葉が引っ掛かったが、彼の表情からそれ以上言うつもりがないだろうことを察して、アルレイシアは追求を諦めた。そして自分の話を続けるべく口を開く。
「あの、それで……」
 アルレイシアの声にアストラスの瞳はすぐに彼女を映した。その瞳を見つめ返して、アルレイシアは先ほども感じた気持ちが胸に甦る。見つめてくれる瞳を、向けられる想いを、かけがえのないものだと感じる。だからこそ、言わなければならないと決めたのだ。
「アスト、私は、」
「私は貴女を諦めるつもりはございません」
 アルレイシアが最後まで言い切るより早く、アストラスの声が被さるように響いた。その声は静かながら、毅然とした力に満ちていて、アルレイシアは驚きに目を見開く。そんなアルレイシアの反応をどう感じたのか、アストラスの手が伸びてしっかりと彼女の左手を握り締めた。
「例え誰が何を言おうと、私の気持ちには変わりはありません。どのような理由があろうとも、貴女を諦めるつもりは」
「ち、違うの!」
 言い募られた言葉から、とんでもない誤解をさせてしまったことに気づいて、アルレイシアは慌てて否定した。痛いほど強く左手を握り締めているアストラスの右手に自身のもう片方の手を重ねて、宥めるようにそっと手の甲を撫でる。そんなアルレイシアに僅かに握り締める手が緩んだが、それでもアストラスはまだ緊張した面持ちで彼女を見つめていた。
「そういうつもりではなかったのです」
 緊張を帯びた青年の顔をしっかりと見つめて、アルレイシアははっきりと否定の言葉を口にした。それから一瞬だけどう告げるべきか考えたが、上手い言葉など思いつくはずもないと言う事に気づいて、そのまま告げることにした。
「私の気持ちは正直に言って、まだ貴方の気持ちにつりあうほどのものではないと思うわ。けれど……貴方が私で良いと言ってくださるなら、私はその気持ちに応えたいと思っています」
 そう言ってからそっと自身の両手でアストラスの手を握り締めた。切れ長の瞳の眦が裂けそうなほど、驚きに目を見開いている青年に笑顔を向ける。
「でも、私はティティの気持ちを無下にはしたくない。だから、きちんとあの子と決着をつけなければと思っているの。それまで……待ってもらえますか?」
 驚愕に近い驚きの表情でいるアストラスの姿を、アルレイシアは少しだけ不安げに窺った。それでも、それがどん底まで落ち込んで、悩みながら考えて出した結論だった。
 まだアストラスのように胸を張って愛しているなどと言葉には出来ないけれど。確かに彼女の胸の内には彼が撒いた種が芽吹き始めているのだ。だからどうか、拒まないで欲しいと、祈るような心地で思った。
「それは――――私を選んでくださると、そういう意味だと思ってよろしいのですか?」
 僅かに震えを帯びた声での問いに、アルレイシアは思わず目を瞬いて。それから、はにかむように微笑んで頷いた。
 その途端、長い腕が伸びてきて、体ごと攫われた。
「きゃっ……」
 短い悲鳴が唇から零れたが、それすら包み込むようにしっかりと抱きしめられる。気が付けば、アルレイシアの体はアストラスの膝の上に乗せられていた。
「ア、アスト……」
 アストラスの顔がアルレイシアの首元に埋められていて、彼女は初めてアストラスの頭を見下ろしていた。短めに整えられた射干玉の黒髪は、その硬質な印象に反して柔らかかった。躊躇いながらも、そっとその髪に指を絡めるようにして彼の頭を抱きしめた。
「愛しています、アルレイシア」
 伸ばされた指が彼女の頬から顎を辿り、ゆっくりと顔が寄せられた。
「あの……」
 まだ戸惑いながらも、はにかんでアルレイシアはそっと願いを唇に乗せる。
「私のことは……シア、と」
「――――シア」
 愛おしげに呼ばれた名に、微笑んで。誘われるようにそっと、再び瞼を伏せた。
 ゆっくりと重なり合った二人の影を、明るい月の光が照らしていたのだった。
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