卸坂避子の冒険
今回のジャンル 冒険
今回のキーワード 本
私は本を読む人だ。
いや、日本の高校生でまさか本を読んだことがない人はいないと思うけれど、私は単なる読書好きってわけじゃなく、本を愛している。いわゆるビブロフィリアだ。本が好きでたまらない。本と結婚したい。本と本の間に挟まれたい。ページとページの間に挟まれたい。カバーと本体の間で一生を過ごしたい。
そんな私が考えるのは、本が好きだからと言って、活字を読むのが好きだってわけじゃないということだ。
もっとも、私が考えるよりも前にこれは当たり前のことなのだけれど、本を読みたい人が必ずしも文字を読みたいとは限らない。雑誌とか漫画とか、当然小説とか絵本とか。だから私はライトノベルや漫画を見下したりなんて決してしないし、ライトノベルや漫画を見下したりする人たちのことを快く思わない。電子書籍はちょっと微妙なラインかな。
それで、私は図書委員会というものに憧れを抱いていた。
高校二年生に至るまで現在、一度も図書委員になったことはない。それは私の異常なまでのジャンケンの弱さが原因で、憧れを憧れのままにしておこうなんて乙女チックな考えは、小学校四年生の頃に道端へ捨てた。
しかし私は本が好きなので、毎日学校の図書室に足を運んでいる。年末年始と盂蘭盆会、入学試験日等学校が完全に閉まっているとき以外は、本当に毎日通っている。
それを習慣だと思ったことはなく、いつもどおりに図書室管理の先生が私を迎えてくれようと、いつもどおりに図書委員が私を迎えてくれようと、いつもどおりに本が私を迎えてくれようと、私は新鮮な気持ちで本を愛する。
図書室を自習室だと勘違いしている人たちもいるようだけど、周りに本があって落ち着くという感覚は納得できるので、それほど嫌悪はない。実際、毎日図書室で勉強している、学年トップクラスの成績を有する男子と少しだけ仲良くなったし。
まあ、それはおいといて。
だから私は、図書室の空気が変わると敏感に気付くのだ。第二の自宅と言っても過言ではないこの図書室に、例えば新しい本が入ったとか、例えば本棚の配置が変わったとか、そういう変化が起これば間違いなく気付くのである。
◆
その日はたまたま日曜日だった。
いや、日曜日だからその日だったのか、判別がつきにくい。
日曜日の私は――私の日曜日は、まず職員室に鍵を取りに行くところから始まるのだが、そもそも今日という日曜日は鍵が置かれてなかった。
これではいつまでも私と日曜日が始まらない! なんて。
半ば不審に思って図書室へ行くと、珍しく私以外の誰かによって扉が開いていた。
恐る恐る中を覗いてみる。休日に学校の図書室へ来るような、そんな奇特な人がいったいどんな人なのか、好奇心と恐怖心が6:4ほどの割合で生まれていた。
男子生徒が一人、本を読みながら机に腰を掛けていた。……机に。
引き戸を開けて、中へと入る。注意しようと口を開いた瞬間、男子生徒は立ち上がって本を閉じた。私のほうを向き、彼は言う。
「こんにちは女子高校生。僕は本の精霊だよ」
なんか言い出した。
あれー、あれー、あれー? 何か私、間違ったことをしただろうか。もしかして、ドアをノックしてから入るべきだったのかな。
いやいやいやいや、間違っているのはこの男子生徒だって。
男子生徒。いたって普通の男子生徒だ。夏にもかかわらず学校指定の冬服を着ていること以外は、特に目立つところもない普通の男子。黒髪で、男子らしいショートカットで、背丈は当たり前のように私より高く、当たり前のように本棚よりも小さい。体型は痩せ型でも肥満型でもなく、絶妙なプロポーション。ちょっと羨ましくなるくらいだ。
…………なんと反応したものか。
……………………。
「こんにちは女子高校生。僕は本の精霊だよ」
「やり直すんだ」
やり直しても認めない。こんなの(さすがに失礼か?)が本の精霊だなんて、絶対に認めない。
自称本の精霊は、なぜかニヒルな笑いをこぼしながら私から目をそらす。
「いや、まあ、僕はただの図書委員だけどさ」
「そんな簡単に正体をバラすんだ」
私としては、展開が楽になるからいいけど。
自称図書委員は退屈そうに手を頭の後ろで組む。
「だって、反応ないし。冷たいなー、最近の女子高校生は雪虫のように冷たいなー」
「雪虫は別に冷たくないし」
雪でいいじゃん。
それに雪虫は、名前に反して冷たいわけではない。うざいけど。あれは雪のように見えるだけで、雪のように冷たくはないのだ。
「まあいいや。それより、僕は本の精霊なわけだ」
「あれ、その話終わったはずじゃ」
「終わらないよ。いつだって、僕たちの冒険はこれからだもん」
「打ち切り臭が漂ってる……」
少年漫画?
本は人生だけど、人生は本じゃないよ?
ていうか、何だこの人。本格的に痛い人か。
痛い人は嘲るように笑って(いったいなにを嘲っているのか)、また私に話を振ってくる。
「で、割と本気で困ってるからさ。助けてほしいんだよ」
「最近のライトノベルだと男女が逆な気がするけど」
「だって現実だし」
「現実なら自分を本の精霊とか言うな」
痛々しいにもほどがある。
というか、結構ウザい。雪虫のようにウザい。
とりあえず、手近な本を選んで着席する。
その後もまとわりついてきて、そのたびに私が適当にあしらっていると、ついにおかしな話題を持ってきた。
「じゃあ提案なんだけど、小説の主人公になりたいと思ったことはないかい?」
「はい?」
「だから、『小説家になろう』に掲載されているような、『文学』『歴史』『恋愛』『推理』『ファンタジー』『SF』『ホラー』『コメディ』『冒険』『学園』『戦記』『童話』『詩』『エッセイ』の中心人物になってみたいと思ったことはないのかって訊いてるんだよ」
「………………」
いや、私も健全な女子高校生だし、例えば恋愛小説的な人生を痛々しくも妄想したことくらい無きにしも非ずだけど。だけど、あるって答えるべきじゃないような気がする。
っていうか、『小説家になろう』って。
どう答えても、面倒になるような予感がする。
「答えないなら、いいや、無理矢理にでも君を主人公にしてみせる」
「え」
何言ってるの、この人。ほんとに、本当に何を言っているんですかこの変態さんは。痛々しいよ、痛々しいよ。真顔で、しかも私の手を握って、真摯にこちらを向いて、私を椅子から立ち上がらせて、本棚のほうに引っ張って……
「さあ、冒険の始まりだ!」
本棚に向かって、両腕を開きながら変態さんは言った。
「え」
いや、何がなんだかよくわからないけれど。
太陽が消失し、同時に世界中が停電したのかと思えるほどに、一気に世界が黒く染まって見えた。
私は、よくわからないままよくわからない感覚を味わっていた。
◆
信じられない話だし、信じたくない話だけれど、たぶん、私は頭がおかしくなったのだと思う。
寝る前に意識がふと落ちるような、暗い部屋に私が溶け込むようなあの感覚を味わった後、私は船に乗っていた。
船って言っても、かちかち山に出てくる泥舟でもなければ、近代的な豪華客船でもない。いたってシンプルに、ただの海賊船だ。
何故海賊船とわかるかというと、船が古びた木造で、黒い帆に白い髑髏のマークが描かれていて、サーベルを腰につけたおじさんたちがいて、所謂キャプテンハットを被った右腕がフックのひときわ偉そうなおじさんがいるからだ。
ちなみに、海は荒れていない。空は晴れている。地はそもそもない。
しかしこれ、完全に後世の人間(しかもたぶん、ろくに文献も調べなかった日本人)が押し付けたイメージそのものの海賊船だった。わかりやすいにもほどがある。
私の頭がおかしくなったのではないとし、さらに奇怪な技を使われたとして、時空間移動で中世に行きました、というわけではなさそうだ。
たぶん、本の中。
あの変態さんの言い方からして、たぶん本の中だ。
変態さんが変態的な行動を取って変なことになった。
すごい落ち着いて状況を分析している私だけど、いやいや、ただの女子高校生には荷が重い。
海賊っぽい人たち、こっちガン見してるし。
しかし、ビデオ再生を一時停止しているかのように固まっている。
固まった人の中に、私の後ろを見ている人もいた。
振り返ってみる。
「やあ、女子高校生。僕が相手だからって、何を思ってもいいわけじゃないんだぜ」
いたよ。
変態さんに背後を取られてたよ。
笑顔がまばゆい、変態さん。
よくよく考えたら、後ろには変態さん、前には海賊のおじさんたちって、非常に危険な感じがする。考えたくないけど、貞操的な意味で。
変態さんは私のほうを見て、にこにこ笑いながら言う。
「まあ、考えてることはわかるよ。でも大丈夫、図書室に置いてあった本だから。そりゃあ、当時の海賊船に乗った女子高校生くらいの女の子なんて、言い方は悪いけど慰み者にされただろうけどさ。ろくに文献も調べずに書かれた本だ。『異世界から主人公の女の子はなぜか慰み者にされず、奴隷にもされず、海賊の皆と仲良くやって財宝を見つけ、末永く楽しく暮らしました』わけだからさ、まあ気楽に主人公やってくれよ」
「私、末永く楽しく暮らすの!?」
帰れないんですか!?
私の驚愕をよそに、変態さんは楽しそうだ。
「こういうタイプって、作者が予定調和で生み出した作り物だからさ。……あー、つまり、リアリティに欠ける話なわけだから、たぶん物語が終わったら帰れるよ」
「たぶん!?」
「それじゃあ、頑張ってね。最後にこんな言葉を贈るよ。君たちの冒険はこれからだ! じゃあね」
キメ顔(うざい!)で海へ飛び込む変態さん。
置いてかれた。
振り返ると、一時停止した海賊さんたちが動き出していた。
私は大きく、ため息をつく。
夢じゃない。それはわかるけど、夢だと信じることにした。
私は本の中にいる、異世界から来た女の子。
主人公で、冒険者。
まずは、このむさくるしいおじさんたちの仲良くやっていかなければならない。
ただのビブロフィリアな女子高校生だった卸坂避子の冒険が始まる。