四十四話目
「痛ってえな、ちくしょう。少しは手加減しろってんだ、えぇ?生徒会長」
腰を擦り、伊織を睨むようにして文句を言うのは緋ちゃんだ。
「何言ってんだヤス、年上を蹴り飛ばすなんて言語道断。そんな道義から外れた事、やって良い訳ないだろうが」
「いや、軽く人を殺しかけた人が言う台詞じゃないでしょ…」
僕がそう言うと、緋ちゃんは言葉に詰まり黙ってそっぽを向いてしまった。
いつもは見せることのないその反応が、ちょっと楽しい。
僕と伊織は今、保健室に居る。
つい数分前にここで、命の危険に曝された訳だけどこうして無事生きているから、まあ良しとしよう。
…良くないか。
「来ないな」
「うん、来ないね」
保健室に着いたものの、ドアを叩いても声を掛けても返事はなかった。
開けて覗いてみれば、中は蛻の殻。
とりあえず熱だけ測ろうと思ってたけど、肝心の保健医が居なければどうしようもない。
仕方ないから帰って来るのを待っているのだけれど。
「そろそろ十五分経つな。保健医の人は何をしているんだ」
保健医の先生は一向に戻って来る気配がなく、僕と伊織は待ちぼうけをくらっている。
「んー…しょうがない、家に帰って測ろうか」
そう言って、椅子から腰を上げたその時だ。
「待て、泰斗。廊下の方から声がする。帰って来たのかもしれん」
言われてみれば確かに声が聞こえる。
耳を澄まして聞くと、その声は何か歌っているみたいだ。
徐々に大きくなる歌声。
…この歌は。
「ドラえもん…だよね」
「ドラえもん…だな」
なぜドラえもん?しかも上手い。
声は部屋の前で止まった。
「――飛びたいな〜♪」
と聞こえた直後。入口のドアが音を起てて開く。
「はい、たけこぷたぁー」
声真似(これまた上手い)しながら入って来たのは、保健医こと神谷緋先生――通称緋ちゃん――だった。
数秒固まっていた僕らだけれど、突如隣から「ブファ」と吹き出す様な…てか、吹き出した音。
言わずもがな、発生源は伊織だ。
「み、みほちゃん、わらっちゃわるいよ…」
「くく…そう言う泰斗こそ、声が震えているぞ…。くくく、駄目だ、堪えられん…」
僕の前じゃいつも蓮っ葉な態度の緋ちゃんが、ドラえもんを…これが笑わずにいらいでか。
伊織にしても、大人な保健医の先生がドラえもんを熱唱していた…のだか、ら、これは…。
ダメだ、僕も耐えられない。口が歪む。
そしてその緋ちゃんはと言うと。
「ななななななな!?」
もう酷いことになってる。
顔は真っ赤だし、こっちを指差す手はかなり震えている。
それでも逆の手に持ったビニール袋だけは、落とさずにいられたみたいだ。
「…よし、お前ら。少し待て」
軽く息を吐き、突然冷静になるとそう言って、机の上に持っていたビニール袋を置いた。
そして戸棚へと移動し、中からペットボトル程大きさのある瓶を取り出す。
「待たせたな。一思いにやってやるから安心しろ」
手に持つそれにはラベルが貼ってあり、そこには『HCl』の三文字。
えいち、しー、える?
って、それは!
僕よりも早く伊織は気付いていたらしく、既に横の方へ動いている。
引き攣った笑顔で。
「おお、そうか、ヤスからいくか。まあ私とヤスの仲だ、気負いする必要はないぞ」
「ちょちょちょ、待った、気負いとかじゃなくてっ、それ塩酸!危な過ぎるでしょ!っていうか、なんで保健室にそんな物があるのさ!?」
「はっは、これは私の趣味だ。因みにだ、アルカリでも肌が溶けて危険なんだぞ」
ダメだ、完全に暴走してる。無駄に化学知識語りだすし。
保健医なのに。
じりじりと寄り来る危険人物。
背はベッドにぶつかっていて、もう後がない。
伊織は何時の間にか緋ちゃんの背後へ回り、安全圏に脱している。ズルい。
――と。
ドロップキックだ。伊織が、緋ちゃんに。
そう思った時には緋ちゃんの体が僕の方へと突っ込んできていて、そのままベッドの上に背中を強か打ち付けた。
もちろん、緋ちゃんは僕の上に落下。
危うくお昼ご飯を巻き戻すところだった。痛がる前に、僕は逆流を抑える事で必死だ。
っていうか病人、暴れちゃダメだって。
「…おい」
いつもより低めの声が、上から降ってきた。
緋ちゃんは僕の脇辺りで腕を伸ばし、体を支えている。
こんな緋ちゃんに近づいたのは初めてだ。当たり前だけど。
緋ちゃんから香る匂いが、鼻を擽る。
そして鮮やかな濃青色の長い髪は、僕の鎖骨辺りで揺れ動く。……序でに、大きな胸も。
「いつまでそうしているつもりだ、テメェは?」
「いつまでって、先に緋ちゃんが退いてくれないと僕も動けないんだけど」
寧ろ、何で降りないの?この近さが、恥ずかしくなってきた。
「ほー、その割には積極的じゃねぇか」
ニヤニヤと笑う緋ちゃんは、左手一本で体を支え空いた右手背中の方へ動かす。
それと同時に、左腕に掴まれたような感触が。
……あ。
僕の両腕は緋ちゃんの腰に回していて、ホールド状態になっていた。
「ごめん、気付かなかった。はい、腕どけたよ。もう退けるでしょ」
「それですぐ退けってのも、侘びしいだろーが…」
これだけ近距離なのに、聞こえない程の声量で喋る。
「何て言ったの?」と聞き返そうとしたら。
「泰斗!」
部屋に声が響くと、次に圧し掛かる重量が急激に加わった。
「グハッ」と、僕と緋ちゃんの息を吐き出す音が重なる。
伊織が、僕らの上へとダイブしたのだ。
「私というものがありながら、何でこんなことをしているのだ」
いやいや、伊織が蹴ったからこうなったんだよ。
僕の上には、緋ちゃんと伊織が乗っかっている。
二人の体重がいくつかは知らない――聞いても教えてはくれないだろう――けど、合わせれば多くても百キロ近くはあると思う。
ってことで、今僕は百キロの重しに押し潰されていることになる。
「み…みほちゃ、おも…」
僕の声を聞いていないのか、とにかく一方的に話し続ける伊織。
「確かに最近忙しくてすれ違ってはいたが…」
何その結婚二年目の共働き夫婦みたいなのは。
伊織が乗ったことで、お腹も圧迫されてかなり苦しくなった。緋ちゃんの肩が喉近くに当たって息もしずらい。
序でに言えば、その緋ちゃんから時折含み笑いみたいのが聞こえて恐いし。
「あんなにも愛し合った夜を、忘れてしまったのか?」
またベタベタな台詞を。そもそも、そんな夜はないって。
言ってる自分でも恥ずかしいんでしょ、伊織。顔がちょっと赤いよ。
ツッコミを入れるべく僕が動くその前に、
「いい加減にしろやっ!」と今度は緋ちゃんの叫び声が部屋に響き渡る。
無理やり立ち上がった緋ちゃんは、伊織ではなくなぜか、なぜか僕をベッドから蹴り落とした。
伊織は普通に床へ着地している。
……痛い。
そこから転じて、何とか事態が収拾した。
「で、結局お前らは何しに来たんだ?」
いつも通り緋ちゃんは、不遜に椅子へと座り脚を組んでいる。
右手の肘を机上に付き、その上に顎を乗せた。半眼なところを見ると、あまり機嫌がよくなさそう。
「そうだった。ちょっと熱を測りたいんだけど」
「ちっ、そんなことかよ。てかヤス、お前熱あんのか?馬鹿なのに」
「それは風邪でしょ。違うよ緋ちゃん、測るのは僕じゃなくて、み――会長」
危うく美穂ちゃんって言うとこだった。緋ちゃんの視線が、僕から伊織に移る。
そして「ふーん…」と呟き、机の引き出しから旧式の体温計を取り出すと、伊織へと放った。
伊織はそれを受け取ると、軽く頭を下げ体温計を脇へと挟んだ。
「ところでヤスよぉ、お前いつの間に生徒会長様なんかと仲良くなったんだよ」
生徒会長様、ってまた揶揄するような言い方を。ああ、そういえば権威のある人とか嫌いだったっけ。
「ま、僕も一応生徒会メンバーだからね」
それ以外にも繋がりはあるけど。
「はぁ?なんだそれ。ちゃんちゃらおかしいな」
態とらしく両手を広げ、笑ってみせる。
僕自身おかしいと思ってるし、反論するつもりもない。実際、僕は生徒会の仕事をまともにやっていないし。
「…二人は仲が良いな」
話しの途中、伊織が口を尖らせそう言った。
体温計を手に持っているところを見ると、検温は終わったみたいだ。
「まあな、私とヤスは『あっちゃん、たっちゃん』で呼び合う程ツーカーの仲だからな」
いつそんな呼び方をしたのさ、一回も呼ばれたことないよ。名乗ったその場で「お前はヤスだ!」とか勝手に決めたくせに。
ってか今、僕のこと普通にヤスって言ったじゃん。
「なっ、なら私たちは、みーちゃんたっくんで呼び合っているぞ!」
どうせウソなんだから、張り合わなくて良いって。
「んだと!?だったらこっちは、あー坊たー坊だ!」
二人合わせて…も何もならないね。天気予報もしない。
それに対して伊織がまた、言い返そうと口を開く。
「じゃあ私は――」
じゃあ、っておかしいでしょ。…いい加減止めるか。
「二人共、もう良いでしょ。スッゴい無意味だと思「「五月蝿い!」」うぶへっ」
女性二人の声が重なる。
そして僕は顔の左右へ同時に平手打ちを受け、思わず椅子から転げ落ちた。
「これは女の戦いだ、男が横から口出しすんじゃねえよっ、ぶん殴るぞ!」
「そうだぞ泰斗、今は私とこの人で真剣勝負の真っ最中だ。邪魔するなら泰斗でも容赦はないぞ」
もう主旨が違うとか、病気がどうこうというのも置いておこう。
ただ一つ、ベタだけど…言わせて欲しい。
もう殴ってる。
「それじゃあ、ありがとうございましたぁー」
頭も下げず、目線すら相手に向けることなく、僕はテキトーに言い放った。
宛ら、ふて腐れた子供だ。
「だから殴ったのは悪かったって。だから、そう怒るなよ」
まったく、謝っているのかいないのか。それでも謝ってはいるつもりなんだろう。
「…まぁいいですけどね」
二人の力が凄かったのか、「元気ですかー!」のあの人に負けず劣らず強力なビンタだった。
おかげで両頬は真っ赤に腫れていて、触るだけで痛い。
帰ったら冷やそ。
伊織は一人先に下駄箱へ向かってた。
緋ちゃん同様、気まずさがあるのかも。
「んー…本当に怒ってねぇか?」
「怒ってないよ」
実際本当に怒ってはいないけど、多少語調が素っ気なくなっちゃうのは仕方がない。
けど緋ちゃんはそれを怒っていると取ったらしく、妙に焦った感じで喋り出した。
「あぁっと、そうだな、ならまた今度来い。いや、来てくれ。その時詫びをするから、な?」
「いや、良いよこれぐらい」
「そんなこと言うなって、頼むから。あ、ならこれ、奢るからよ」
緋ちゃんはさっき机の上に置いたビニール袋を手に取り、中にあった箱を取り出す。
そっ、それは…!
「ヤス、お前甘いもん好きだったろ?ほらこれ、ケーキだ」
甘味好きなら誰でも知ってる、あの有名店の限定ケーキ!
地元に本店があるから僕も買いに行くのだけど、それだけはいつも売り切れていて買えないんだ。
でも、それを何で緋ちゃんが?
「舎弟…じゃなかった、知り合いがそこの店長でな、頼んで分けて貰ったんだ」
僕が聞く前に説明してくれた。それだけ分かり易い顔をしてたんだろう。
「これで…来てくれるか?」
もう言葉が出るはずもなく、勢い良く首を何度も縦に振った。
「おぉっ、良かった!あ、けどよ…」
「やっぱり食べれないの?」
今僕の顔は、物凄く落ち込んでると思う。
沈んでるどころか、溶ける程に。
「大丈夫、大丈夫だからそんな顔すんなって!」
「ホントに!?」
「あ、あぁ、ただこれは夢キチの分だからよ、二・三日待ってくれ」
浮上した僕は、またしても頷き答える。
ヤバい、めちゃくちゃ嬉し過ぎる。
甘い物に目がないと言うどころか、甘い物が目みたいな僕としては、これ程楽しみなことはない。
緋ちゃんに抱き付いて、キスまでしたいぐらいだ。
「それじゃあ、そろそろ行くから!」
「おう、手に入ったらケータイに連絡すっから」
片手を上げる緋ちゃんに、僕はブンブンと手を振り返す。
「分かった、次会うのを楽しみにしてるよ!」
「…おう」
保健室のドアを閉め、伊織の待つ下駄箱へと向かった。
スキップで。
伊織にも怒ってないかと聞かれたけど、ケーキの事でハイテンションの僕は笑って許した。
それどころか、帰り道伊織と腕まで組んで帰ってしまったのだ。
家に着き冷静になった時には、身悶えてベッドの上を転げ回った。
恥ずかし過ぎる…。
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