二十話目
母さんがこの世を去ってから、もう数年が経っている。
当然、家事は僕と父さんで分担してやることになった。
洗濯物カゴに入れておけば、次の日には綺麗になってた服。
夕方遊びから帰れば、出来ていたご飯。
全部自分でやらなければいけなかった。
始めは大変だったけど、慣れればなんとか大丈夫。
「寂しくないの?」と聞かれれば、もちろん寂しい。ううん、寂しいんじゃない、悲しいんだ。
独りだったわけじゃないし、今は葉月さんや五月ちゃんもいる。それに、伊織も。
だけど、それでも。
「寂しい?」と聞かれれば、やっぱり寂しい。
遊び疲れ、クタクタの体で玄関のドアを開ければ、夕御飯の香り。
目一杯の声で出した「ただいま」に、優しい声で答えてくれた「おかえり」。
あの「おかえり」は、もう、僕の記憶の中だけだから。
………。
開け放しの窓から風が入り、付けたレースのカーテンが揺れている。カーテンが揺れることで出来た隙間から、自然光が部屋に漏れ込んだ。
朝の少し冷たい風が、僕の髪を小さく靡かせる。
二・三度瞬きをしてから目を大きく開く。
頭元にある目覚まし時計と、携帯のアラーム機能をオフにしてから上半身だけ起こした。
……。
今日はやけに目覚めがいい。
目覚まし時計と携帯が騒ぎだす前に起きれたのだから。
でも、ある意味悪いのかもしれない。
久しぶりに、母さんの夢を見たから。
昔の幸せを見たから。
窓から外を見れば、空はとても青い。
「今日もいい天気だな…」
ちょっと年寄り臭いかな、なんて思い一人で小さく笑っているところに、ココンッと小さめのノックがした。
次いですぐ、
「起きているか、朝だぞ」という声。
声からして伊織かな。
ま、この家には僕と伊織しか居ないのだから、声からしても何もないのだけど。。
ドア向こうから届く声は、ノック同様普段より小さいめ。
たぶん態となんだろうな。敢えて返事をしないでみようか。
「む、まだ寝てるのか。仕方がない、私が起こしてあげるとするか。これも妻としての役目だからな」
なんですか、妻って。
相変わらず僕の斜め先を行くね。
「入るぞ」
やっぱり声は小さいめ。ドアを開けるのもゆっくりで、音を立てないようにしている。
本当に起こす気あるの?
「おい、起きる時間だぞ」
だから声が小さいって。
開けたドアの隙間から、少しずつ顔を出して来た。
「おはよう」
伊織よりも先手を打って、こっちから朝の挨拶。
「む。なんだ、起きているではないか。それなら返事くらいしても良いだろう」
あ、ちょっと怒ってる?
「ごめんね、でもちょうど起きたところだったんだ」
なんて言い訳。
ちょうど起きたというのは嘘じゃないけど、返事をしなかったのは故意だ。
「そうか。ところでだな」
あまり気にする様子も見せず、すぐに話を切り替えてきた。
「何、どうかした?」
「なぜ泣いているのだ?」
「え?」
言われて目元に手を当ててみる。
濡れていた。
いつのまに…。
「なんだ、恐い夢でも見たのか?それなら私が一緒に寝てあげたのに」
「ちっ、違うよ!別に恐い夢を見たんじゃないって」
「ほぅ、ならどんな夢を見たんだ?」
「そ、それは…」
あれ、僕ハメられた?
誘導尋問ってヤツじゃないですか、これ。
「それは、何だ?」
「恐い夢です…」
母さんのことを言えば、また余計な心配をさせるだろうし。
それなら僕が恥をかけば十分なこと。
「ほらみろ、やはりそうではないか」
フフンッと鼻を鳴らして、ちょっと勝ち誇った様子。
「呼べばいつでも一緒に寝るからな、安心するといいぞ。もっとも、呼ばなくても行くかもしれないがな」
真顔で言われると、寧ろ不安で仕方ないんですけど…。
「まぁ兎に角だ、起きているなら早く支度をした方が良いぞ」
「あ、うん、そうだね」
ベッドから足を出して立ち上がり、そのままクローゼットへと向かい制服とワイシャツを取り出す。
「あの…」
「なんだ?私のことなら気にするな」
「気にするなって…、着替えたいんだけど…」
「あぁ、そうか、私は出た方が良いか。残念だ」
残念ってちょっと。
「それじゃあ、先に朝食の準備をしておくぞ」
「うん、お願い」
今日の朝食メニューは、昨日のように端折らずちゃんと作った。白米や味噌汁等々で、日本の朝ご飯といった形。
朝食はやっぱりこうでないとね。
「ところでだ、泰斗」
「ん、何?美穂ちゃん」
泰斗、美穂、と名前で呼ぶように決めたのは昨晩のこと。
流石にいつまでも、たっくんとみーちゃんじゃあアレだから。
伊織としてはみーちゃんよりも『美穂』で呼んで貰う方が嬉しかったらしく、互いに呼び方を決めた後なんて僕は、美穂と何度も呼ばさせられた。
百回は確実に呼んだね、うん。その後は例の如く。
歓喜でハジけた伊織は僕に抱き、僕は伊織の絡めた腕が首に決まり別世界逝き。
母さんに会った気がする。
気が付いて伊織に文句を言おうとしたけど、不気味な含み笑いが恐くて何も言えず、文句はおろか落ちてた僕に何をしたのかすら聞けなかった。
そんな始末。
「…よい…か?む、泰斗、聞いているか?」
「あ、あぁ、ごめん。もう一度言って貰っていい?」
「まったく…。だからだな、昨日の朝言っていたではないか、一緒の登校はまずいから間隔を開けて学校へ行った方が良い、と」
……。
あー、言ったねぇ、そんなこと。パニック状態だったからあんまりハッキリとは覚えてないけど。
「そうするのであれば、私はそろそろ出ないといけない」
「あー、やっぱりいいよ。普通に一緒に行こう」
「そうだな、なら私は先に…」
あ、固まった。
椅子から腰を浮かした姿のまま、カクカクと僕の方へ首を動かす伊織。
「今なんと言った?」
小さく、けれど深い声。
「いや、だから一緒に行こうって…」
バンッッ!
突然テーブルを強く叩き、勢い良く立ち上がる。
立ち上がった拍子に、椅子はガタンと音を立てて倒れた。
「ひゃわあっ。どどど、どうしたの、美穂ちゃん?や、やっぱり一緒に行かない方がいい?そうだよね、一緒に行ったら騒がれちゃうもんね――ってあれ?」
目の前にいたはずの伊織がいない。
「あれ?美穂ちゃ――
「泰斗遅い、早く行くぞっ!」後ろを振り向くと、いつの間にか玄関に移動していた伊織。既に靴も履いている上に、ドアも開けて待ち構えてる。
俊敏性が半端じゃない。
「行く気満々だね…」
ハハハと一人小さく笑いながら、鞄を取り伊織の後を追った。
洗い物は、帰って来てからかな。
家を出てからは、思ったよりスムーズに移動が出来た。僕はまたてっきり伊織が「手を繋ごう」とか、「腕を組むぞ」だなんて言ってくるかと思ってたんだけど…
「ねぇ、美穂ちゃん」
「ん、なんだ?」
「あのさ、て…」
いや、待てっ。
ここで「手を繋ごうとか言わないの?」なんて聞いたら、逆に僕が催促してるみたいだし、忘れてるなら言わずにこのままでいれば、危険な橋は渡らずに済む。
「て、がどうしたんだ?あぁ、そういえば――」ヤバイッ。
「あーあのさっ、昨日言ったこと大丈夫だよね?」
「む、大丈夫に決まっている。流石に私もそこまで馬鹿ではないぞ」
「そ、そうだよね」
「私と泰斗の、『らぶらぶ同棲生活』のことを、皆には秘密ということだろう」
……。
斜めどころか、将棋の桂馬の様に飛んだ発想をしてるんだね。
というか、伊織の口から『らぶらぶ』って単語が出るとは思わなかったよ。
「安心しろ、もう誰にも言わん。これ以上泰斗に迷惑をかけて、追い出される訳にもいかないからな」
「べっ、別に追い出したりなんてしないってば」
「ふふ…」
横を歩いていた伊織が急に立ち止まる。
それに合わせて僕も立ち止まり、言葉の続きを待つ。
「たっくんは昔から優しいからな、自分より相手のことを考える。だから自分が辛くても、進んで他人を優先させる」
「買い被りすぎだよ…」
「そんなことはない。少なくとも、私の中の堅城泰斗はそういう人間だ」
買い被りすぎだ。
手や腕ぐらいのことで勘繰っていたのだから。
「ほら、行くぞ泰斗。遅刻してはまずいのだろう?」
既に歩き出していた伊織。僕の数歩先で止まって待ってくれている。
弱いなぁ、僕は。「うん、美穂ちゃん」
うつ向いていた顔を上げて、走って後を追う。
「急ごう、遅刻しちゃマズイもんね」
僕は走ったまま伊織の手を握り、そのまま前へと引っ張る。
「わっ」と言い驚いてはいたけど、すぐに隣に並んで走りだした。
こうやって手を繋いで走るのなんて、何年ぶりだろう。
ふと伊織を見ると、いつになく嬉しそうに笑っている。
やっぱり僕は、伊織の笑顔が好きだ。
「ほら泰斗、早くしないと本当に遅刻するぞ」
「はぁはぁ…ちょ、ちょっと、まって…よ…」
並んで走っていたはずだったのに、少しずつ伊織が前に出て僕が引きずられる形になっていた。
息もきれてギリギリな僕に対して、全然余裕そうな伊織。
…弱いなぁ、僕。 |