カブトムシの恩返し
夕方6時、電車のドアが開いてホームへ降りる。
前の人が降りた瞬間、スコーンという音が響いた。何の音かはわからなかったが、歩いて階段のそばにたどり着いたらその正体があった。ひっくり返ったカブトムシ。多分蹴られたんだろう、少しゆっくりと回転している哀れな腹をそっと指で挟んで持ち上げて、しばし見つめる。
ホームでのんきに散歩でもしていたのか、少し間抜けなカブトムシを連れて帰った理由はきっと、今ひどくセンチメンタルな気分だったからなんだと思う。壁にぶつかって少し弱っている雰囲気のカブトムシを手に持って、川沿いの暗い道をブラブラ歩いて帰る。
帰宅して、まずこいつの部屋を用意してやらなくてはと思ったが、あいにく家に虫かごなどはない。水槽もない。しかたないので、使っていない洗面器の中にとりあえず入ってもらう。すると横で母親が飛びまわったりしないかと文句を言ってきた。ゴキブリじゃないんだからいいだろう。そう言うと不満そうな顔で、ラップか何かでフタをしておいてくれ、と注文をつけてきた。
それよりも、洗面器にただポイと置いただけではあんまりだな、と。これでは独房のようで気の毒だ。庭に出て、土を掘り返して中に入れる。小さな石と、木の枝も一本折って入れてやった。最後に大きいサイズのラップをかけて、ボールペンを突き刺して穴をところどころに開けてやって、これでいいかなと納得。
ラップ越しに、カブトムシの様子を見つめる。
カブトムシを飼ったことなど、今までにない。大体、普通一匹買うとしたらオスだろう。洗面器の中でじっとしているのは、角のないメスのカブトムシだ。弱って死んでしまわないだろうかと心配して見ていると、ゆっくりと足を動かして新居の確認を始めた。それにほっとして、とりあえず夕食を食べに台所へと移動する。
缶ビールとデザートに用意されていたスイカを二切れ、そして酒のつまみに、何もなかったので仕方なく小学生の弟用と思われるキャラクターの箱に入った魚肉ソーセージを持って部屋に戻った。
カブトムシといえばスイカだろう。小さく切った赤い三角形をラップを外して中に入れ、サービスでカブトムシをそばに移動させてやって、自分はビールの蓋を開ける。
本日もたらされた吉報。
親友の結婚式への案内状。高校の時からずっと仲良くやってきた、あいつと俺と、そして彼女。ずっと好きだったあの娘と、あいつはめでたく結ばれるんだそうだ。
ベッドの前に座り込んで、うなだれたり、反り返ってみたり。
「俺たち、付き合うことになったんだ」
高校二年の時にそう言われてからずっと、終わりの報告を待っていた。女々しい俺には、自分も好きなんだって彼女に告げる勇気がなかった。いつかあいつとの終わりが来たら、その時がチャンスなんだって、そんな消極的な気持ちのまま、ずっと変われないままいつの間にか八年も過ぎていた。二人は順調に愛をはぐくんで、自分は何も変わらない臆病なままの人生。だって仕方がない。あんなに素晴らしい女の子は彼女以外にいないから。世界は広くて、女は星の数ほどいるって言われても、彼女以上の子なんて出会ったことがないんだから。
だけどそんな日々はもう終わりにしなくてはいけない。二人が離婚するまで待つなんて、そんなバカなことを考えながら生きるなんて情けなさすぎる。今日が最後だ。もう、終わりにしよう。
「なあ、スイカ、うまいか?」
気を紛らわせようと、洗面器の中に声をかける。小さなメスのカブトムシは、いつの間にかちゃっかりスイカに乗っかっていて、それを見て少し安心してソーセージの包装をはがしてかじった。酒のつまみには少々物足りない味。優しすぎて、なんだか物悲しい。
「あの二人、結婚するんだって」
ビールを飲んで、カブトムシとお話。なんて寂しい。だけど、今夜だけは許してもらいたい。長い長い片思いに、とうとう決着がついた日なんだから。
「親友って、ご祝儀の相場いくらだっけ」
もちろんカブトムシは答えない。だけど今の気持ちを吐き出すにはきっと世界で一番ふさわしい相手だ。このために俺たちはホームで出会ったのかもしれない。
「いいよな。家に帰ったら、毎日彼女がいるなんてさ。幸せだよな……」
ビール飲んで、魚肉ソーセージ。やっぱり、合わない。そのせいか、涙が出てきた。
手の甲で一度目元を拭って、ソーセージにかかっているビニールを全部はがした。そして、ラップを取ってそっと土の上に置いてやる。
「お前も食えよ」
ビールを一気に空にして、悲しい気分で眠った。
夢を見た。
長い髪の女の子が立っている。
ぼんやりとして、顔は見えない。
「助けてくれてありがとう」
彼女は小さく呟く。
「いつか必ず、お礼に参ります」
それだけ言うと、振り返って去っていった。
足元には黒い点々。
なんだろう……?
カーテンの隙間から差し込む朝日の中で目を覚まして、ぼんやりとした頭で立ち上がる。ふと気がつくと、洗面器の中は空だった。いや、土も枝も、食べかけのスイカもソーセージもあるけれど、部屋の主がいない。
お前も食えよ、の時にラップをはがして、かけなおさなかった。部屋の中を見渡したけど、カブトムシは見当たらない。
あの夢、もしかして、あのカブトムシだったのかな。
鶴の恩返しみたいに、人間になってやってくるのかもしれない。
通勤電車に揺られながら、ふっと笑う。そんなこと、あるわけないじゃないか。馬鹿馬鹿しい。そう思った。
「今日から入る、桑方 詩織君だ。君の下につくから、指導を頼むよ」
会社につくなりいきなり登場した美しい新入社員に息を呑んだ。ストレートの長い、美しい髪。優しそうに下がった眉、大きくて少し垂れた可愛い瞳、小さくて控え目な、さくらんぼ色の唇。
「桑方です。よろしくお願いします」
声も可愛い。
「あ、はい。よろしく」
あの夢は正夢だったのかもしれない。ぼんやりとして見えなかったシルエット。彼女と、よく似た形。
「桑方さんっていうの」
「ハイ。よく、オオクワガタとか、そんなあだ名で呼ばれちゃうんです」
ちょっと困った感じで下を向いて、てへっと笑った顔は剛速球のストライク。おいおいカブトムシよ、なんで「クワガタ」なんだ。もしかして、照れ隠しか。可愛い奴め!
その日から、一気に会社勤めが楽しくなった。もともと仕事は好きだったが、ハリが違う。俺が教えて、彼女が頷く。俺がボケて、彼女が笑う。嬉しくて恥ずかしくて、楽しい日々。仕事にも力が入ったし、親友の結婚式が近づいてきても、もう心が疼くことはない。自分が幸せなら、他人のことも素直に祝福できるらしい。
ちょっとリッチな風呂敷包みのご祝儀袋を用意して、銀行から出る。備え付けの袋には新札が三枚。三千円じゃなくて、もちろん三万円だ。幸せな会社生活が始まって三ヶ月目の昼休み。
一歩銀行から足を踏み出したところに広がる光景。桑方 詩織と、俺の同僚。同期の中じゃ一番できるエースと彼女は嬉しそうに腕なんか組んで歩いていた。
当たり前だ。
そんなうまい話があるか。
カブトムシがホームで蹴り飛ばされて、可哀想にと家に連れて帰られてスイカもらったくらいで、美女に転生して恩返しにくる。
アホか! バカか! そんな夢見てるのはどこの間抜けだ! 俺だ!
しばらく、力が抜けて動けなかった。木曜、金曜と仕事を休んだ。
落ち込んで落ち込んで、最後に笑った。
良かったよ。あの時のカブトムシだろ、お前、すっごく可愛かったんだな――とかなんとか言って交際を申し込む前で。そんなことを口走っていたら、きっと社内で噂になっただろう。どうやらあぶない奴だったらしいぞって。
気を取り直して、月曜にまた通勤電車に揺られた。
「おはよう。どうした、調子が悪かったのか?」
会社に入ったところで、声をかけられた。上司の優しい一言に、大丈夫です、と答え……、そして、その後ろの影に気がつく。
「桑方君がちょっと、異動することになってな。新しくこの子が入るから、また指導を頼むよ」
あの時見た夢とよく似たシルエット。ただし、大きい。
「株戸 駅子です」
長いストレートの、まるで竹箒のような髪。隆々と盛り上がった逞しすぎるボディ。鋭い、ハンターのような瞳はしかし、優しい眼差しで俺を見ている。顔? 顔は、曙に似てる。
そして、着ているTシャツだ。前面全体に大きく描かれたスイカ。なんのつもりかわからないが、黒い点が刺繍されてところどころについている。あ、これ、種か!? スイカの種か!
もうひとつ言っていいだろうか。手に持ってる、ソーセージだ。魚肉の。うっすいピンクのソーセージ。一口かじってある。なんでそんなものを握り締めているんだ。そんな社会人、いるか? 少なくとも俺は初めて見たよ。
その摩訶不思議な全体像を確認して最後に、駅子と目が合った。
彼女は少し恥ずかしそうにうつむいて、こう言った。
「来ちゃった」
恩返しのために人間に生まれ変わるのに、どうやら三ケ月かかったらしい。
嬉しいような、哀しいような、面白いような、腹立たしいような。最終的には妙に愉快な気分で五分ほど見つめ合って最後にこう、答えた。
「ありがとう」
二人がどうなったかって?
それは、なんていうか。
ご想像にお任せします。