Guardians Days And Nights(守護者達の日常と不可触民ズ:utb 6th)
halさんから頂きましたイラストです
左がシナガワ君で、右が飽浦くんです
halさんのページはこちらですので、是非おたちよりクダサイ!
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福山陽士さんが書きました「王女と護衛×2と侍女の日常」とのコラボ作品です
王女と護衛×2と侍女の日常【連載版】 by 福山陽士
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王女と護衛×2と侍女の日常【おまけ】
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福山さんのページはこちら! 行ってみてね!!!
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「And then you sold your heart out, Heartless ?」(そして心を売ってしまったわけだ、ハートレス?)
あの時、僕はこう言ったものだった。そして、彼はこう言い返した。
「Yeah. I’ve sold up everything in this devil eat devil world, Darkheart.」(そうだ。俺は全てを売り払ってやった。この果てしない過当競争世界でな、ダークハート)
シナガワがやっぱりドアを蹴破った。
もう何も言うことはない。
壊れたドアノブが乾いた音をたて、足下まで転がってきた。鈍い銀色が余りにも物悲しい。小さな破片は夕立のように降り注ぐ。眼鏡に積もる白い粉塵。前が見えない。打上花火を爆発させてもこうはいかない。
イッツ・ア・ダイナマイト。そう言えば良いのだろうか?
眼鏡を拭くと、眼前に広がる荒れ果てた光景。破壊されたドアが横たわっている。存在することに疲れ、塵へと還りたいと主張しているようだ。僕は思った。
形有るモノはいつかは壊れる。
だが、それは壊す奴がいるからだ。
何度も壊された診察室のドア。何故だかドアのあるべき姿を考えたくなった。
ドアとは何か?
本来ドアとはどうあるべきものか?
僕は現実を逃避して、思索の宇宙に飛び込んだ。真理を求めて宇宙遊泳。考えることは大切だ。
人間は考える葦。
良い言葉だ。含蓄があり、語感がしっくりくる。
言った奴を誉めてやってもいい。
どんな奴が言ったのか知らないけれど、この僕が頭を撫でてやれば、きっと喉を鳴らせて喜ぶことだろう。
あっ、真理を発見。
見つけてしまった。また人類は先へと進めるだろう。自分で自分を褒めてやりたい。
シナガワは考えない葦。
なるほど、そういう事か。
納得しかけていると、シナガワが声をかけてきた。
「ヘイ、飽浦。精神科医の飽浦先生様よ」
「またかい。あのね、僕だって忙しいんだよ」
ドアは壊れてしまったが、今更何を言っても始まらない。自然災害のようなものだ。割り切ることにする。心は有意義に使うべきだ。些末なことに煩わせるのも馬鹿馬鹿しい。
おもむろに机の上に置いてあるPCを触ってみせた。キーボードを叩き、トラックパッドをタップする。僕の知性が奏でる音色。シナガワの耳にも届いたことだろう。
実際、シナガワに聞かせるために音をたてている。僕の貴重な時間を簡単に使ってもらっては困る。
PCを操作していると、美しい僕のプラチナ・ブロンドの髪が頬をくすぐる。白い糸絹の肌は麗しく、天使もため息をつくだろう。深い鼻梁の上にはシャープな印象を与える眼鏡。透き通った青瑠璃を思わせる瞳は神秘的。美の女神を遥かに凌ぐ美しさ。ビューティー・ビッグバン。僕を表現するなら、そうとしか言いようがない。
「おい、飽浦。PCなんか触って何をやってるんだ?」
「見て分からないかい?」
僕はネットの世界を探検している。ネットを通じて世界を見て回るのはとても楽しい。ここに居ながらにして地球の裏まで知ることができる。どうして誰も教えてくれなかったのか?
「また何を始めたのやら」
怪訝な顔をするシナガワ。画面を覗き込んでくる。相変わらずの無遠慮さ。
シナガワはアンダーグラウンドの住人。僕も東欧から来た時には世話になったものだ。戸籍を売ってもらったりだとか、精神科医のライセンスを偽造してもらったりだとか、まあ色々と。
シナガワの黒髪は爆発したかのように伸びていて、まるで荒野に野生したサボテン。切れ長な目は鋭く、僕のPCを凝視している。薄い唇は相変わらずに酷薄そうで、難しそうに結ばれていた。
また、面倒事を持ってきたに違いない。冗談ではない。僕は平和を愛する闇医者だ。トラブルを持ち込まれるのも嫌なので、先じて断りの言葉を入れておく。
「すまないね。僕は地球を救うので忙しい」
キーボードを叩く音が僕達の間を埋めてゆく。
シナガワは僕の硬い決意を思い知っただろうか?
しかし、ディスプレーに映ったシナガワの表情は微動だにしていない。彼は言った。
「そうか、それなら俺の方が大切だな」
僕は憐れむようにシナガワを眺める。
「嘆かわしい。この広告を一回クリックすると食料不足の国に食料が送られるんだ。邪魔をしないで欲しいよね」
「ワンクリック募金か?」
「そうだね。今、この国では食料が足りていないらしい。きっと子供達も悲鳴をあげている」
得意気にしている僕にシナガワが言った。
「以前、ハッカーに一億回ほどクリックさせた。そうすると、今度は広告企業が悲鳴をあげた」
「どうしてそんなことをするんだろうね。時々、理解に苦しむよ」
「今度、やっておいてやる。だから、まずは目の前に居る者を手助けしろ」
シナガワの後ろに並んだ連中が僕の前にやってきた。気付かないフリをして無視していたが、こうなるとどうしようもない。
「彼の名前は飽浦。精神科医をやっている。お前達の世界にそんな職業があるのかどうか知らないが、要するに病名を付けて、薬を売りつける仕事だ」
三人の人影。また、別の物語から来たようだ。かなりファンタジーな格好をしている。中世ヨーロッパを思わせる服装だった。
正面に居るのは青年。ロックでもやっているのだろうか。少し荒んで見えた。若ネギを思わせる緑色の髪は乱雑に伸びてる。キョロキョロと忙しく動く目は水色。
彼は自己紹介を始めた。
「よう。俺はマティウスってんだ。よろしくな。てか、汚ねえ部屋だなあ。タニヤもロクでもない薬をこさえるけど、こういう所で販売しているのか。胡散臭え」
初対面だというのに随分なお言葉を頂戴した。僕のこめかみに血管が浮かびかけるが、ここは我慢。僕は大人だ。
滅多なことで感情を荒げるものではない。年上である僕が大きく包んでやらなくては。
そうそう、マティウスは深緑のジャケットを着ている。デザインは良い。尖った中にもしっかりとしたラインが隠されている。
ただ、残念なことに着ているのはマティウス。言葉を選んで言わせてもらえば全てが台無し。
凡庸を絵にして額に入れた挙句、真っ黒なペンキで塗りたくれば、こんな感じになるだろう。
「ちょっと、初対面なんだから、マティウス君も言葉を慎みなさいよ」
そう言って言葉の端を押さえる女性。ハニー・ブロンドは甘い輝きを放っていた。
肌は白百合の色。ただずまいもすっきりとしている。いたずら好きそうな目は輝き、星をいくつも宿らせていた。桃色の唇には潤い。紡がれる言葉は渓流のように清々しい。
僕の機嫌は途端に直った。
「やあ、こんにちは。僕の名前は飽浦。君の名前は?」
「私の名前はタニヤです。よろしくお願いします。ほら、アレクも自己紹介しなくちゃ」
タニヤに促され、隣に居た青年が口を開いた。マティウスに比べて背は低い。
「オレの名前はアレク。よろしく」
中性的な澄んだ声。ザクロのような鮮やかな瞳は赤く、鼻筋も通っている。明星の輝きを見せる肌は白く、髪は漆を流したような豊かな黒さ。漂うミステリアスな雰囲気。
うむ。かなりの美男子。
この僕に対抗しようと言うのだろうか?
ベクトルが違うとは言え、これは看過できない。身の程知らずめ。本気を出さなくてはならないらしい。
しかし、昨夜は寝るのが遅かった。美肌力も落ちているかもしれない。
これはまずい。
どうしたものか考えていると、シナガワが言葉を挟んできた。
「彼女は槍術使いなんだそうだ。相当に強いらしい」
彼女?
そう思ってアレクを再び見る。右目から鱗。左目から鱗。更に眼鏡からも鱗。四倍増しで彼女が輝いて見える。
菖蒲のように真っ直ぐに伸びた背筋。凛とした涼しげな美しさ。
危ない所だった。もう少しで本気を出してしまう所だった。
シナガワの説明は続いた。
「こいつらはNGO団体の視察に来たらしい。自国に募金活動を根付かせようと勉強していたら、トラブルに巻き込まれた。戻してやらなくてはいけない」
三人は僕達とは異なる物語世界からやってきた。何をやらかしたのか知らないが、元の世界に戻すのを手伝えと。つまりはそういうこと。
シナガワとは長年の付き合い。彼の言おうとしていることも理解できる。僕の明敏な頭脳を使うまでもない。
はっきり言おう。
ウンザリだ。
どうせまた、闇の滴と無の滴だろう。彼らも早く自分の世界に戻りたいに違いない。さっさと済ませてしまおう。
簡単なことだ。僕とシナガワの血を、彼らの舌先に落とすだけ。
それで皆がハッピーになれる。
三人は自分達の世界に戻って賑やかな毎日を送る。募金活動も好きなだけやればいい。僕達は僕達で好きにやる。シナガワは高笑いをしながら悪事を繰り返し、僕はPCに向かって地球を救う。右の人差し指はいつになく絶好調。今なら地球三個分は救える気がする。
そう思って準備をしようとすると、シナガワが言葉を続けた。
「一人攫われてしまった。そいつを取り返さなくてはいけない」
「やっぱりそうなるんだ!」
先手を打つようにシナガワは言う。
「そう言うな。こいつらの国の王族なんだそうだ」
頷く三人。彼らの目は本気。なるほど、彼らの主人を助けなきゃならないらしい。見れば護衛と侍女という顔ぶれ。
だが、僕にすればどこの王族だろうが関係ない。
断ろうと口を開きかけると、タニヤが両手を組んで懇願した。瞳に住んだ星達が眩いばかりに輝いている。
「お願いです。どうか可愛い王女ティアラ様を助けてあげて下さい」
なるほど。
王女様。そして、可愛いのか。
僕は居ずまいを正して、咳払いをした。仕方がない。
そうだ。僕は大人だ。
年上として若者達を助けてやらなくてはならないだろう。
地球のことなど後回しだ。まずは目の前の者を助けなくてはならない。
「わかった。僕の所に来たからには安心していいよ」
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「ああっ、ティアラ! 無事で居てくれ!」
マティウスの大声に一同は驚く。ネギ色の髪を逆立てて、診察室にある鉢植えの所にフラフラと歩いてしゃがみ込んだ。何を思ったのか、ウツボカズラの蓋を開け閉めし始める。かなり気が動転しているようだ。
「マティウス君、落ち着きなさいよ」
タニヤは見ていられないとばかりに注意した。だが、マティウスは蓋の開け閉めを止めようとはしない。正直、止めて欲しい。ウツボカズラもきっと嫌がっている。
「これが落ち着いていられるかよ! 今頃、何をされているかわかったもんじゃねえよ!」
シナガワが言葉を挟んできた。
「いかがわしいNGO団体だしな」
彼の言葉は冷えていて、完全に他人事だった。
「ああっ、ティアラ! ティアラはカワイイからなあ! あんなことや、こんなことをされているに違いない! きっとそうだ。あんなことや、こんなことや、ひょっとしたら、そんなことも……」
マティウスの声が段々と小さくなっていった。どうやら、自分の妄想にダイビングを開始したようだ。
目が虚ろになり、しばらくすると、鼻の下がすごい勢いで伸びだした。頬を赤く染めている。
「また、妄想に入ったな。こうなると戻ってこないんだよな」
アレクの言葉にタニヤが頷いている。
「そのうち鼻血を噴き出すかもね。下がっておかなくちゃ」
どうやら深刻な状態らしい。幸い僕は精神科医。興奮した神経を落ち着かせるクスリを持っている。マティウスは明らかに充電中。その内、スプリンクラーみたいに鼻血を撒き散らすかもしれない。診察室を血まみれにはしたくない。
僕はマティウスにクスリを差し出した。
「ほら、マティウス君、落ち着いて。僕は精神科医だから心を休めるクスリを持っている。これを飲んだら気分はマシになるよ」
マティウスの手の平に錠剤を置く。彼は疑わしそうに錠剤を眺めた。
妄想を途中でストップされた為か、不満げな顔をしている。どうやら鼻血を出すまでがルーチンらしい。邪魔をしてしまったようだ。マティウスは鼻血を出すことに快感を感じている可能性がある。こうはなりたくないものだ。
「クスリとかいらねえ。タニヤに散々な目にあわせられてるし」
「何よう、それ? 私がいつも変なクスリ飲ませているみたいじゃない!」
マティウスは渡した錠剤をゴミ箱に捨てた。
「何てことするの! イケメンは正義なのよ! 悪いことしたりするわけがないじゃない!」
嬉しいことにタニヤが弁護してくれた。彼女の金髪が二倍増しで輝いて見えた。
だが、悲しいことに彼女は僕に対して誤った認識をしている。訂正しなくてはならないが、そうすると彼女を傷つけるかもしれない。聞こえないように小さく呟くだけにする。
「タニヤちゃん。僕はイケメンじゃない。美しいんだ」
大事なのはそこ。他はどうでもいい。イケメンという言葉は好きじゃない。軽い感じがするからだ。そこを誤って欲しくない。
僕の独り言とは関係なく、話は勝手に進む。アレクはマティウスを叱咤した。
「マティウス。人の好意を無にするものじゃない」
アレクも僕サイドについたようだ。僕は二人をとても気に入ってしまった。
「ありがとう。僕は気にしていないから」
錠剤が睡眠薬だったことは黙っておこう。
ニッコリ笑って見せると、彼女達は僕を良い人と認識したようだ。
「イケメンな発言だな。オレも見習わなくては」
「やっぱり、イケメンは言うことが違うわね。素敵だわ」
アレクは感嘆の声を漏らし、タニヤは頬に手をあててウットリとしている。
いいや。イケメンじゃない。美しいんだ。
抗議したいのをこらえていると、シナガワが割り込んでくる。
「ティアラを攫ったのはロシア・マフィアだ」
「どうしてそんなことになっているんだい! NGO団体って言ったら国際協力とかそんなのだろう!」
「国際協力とは言ってたな。乳幼児死亡率の高い地域に医療施設をつくる募金をしていた」
「良い話じゃないか!」
「そのNGO団体の正体はロシア・マフィアだ。募金で集めた金でマネーロンダリングをしている」
複雑な話になってきた。これ以上聞いてもわからない。僕は聞くのを止めたが、シナガワは勘弁してくれない。巻き込み作業が始まった。彼の口の中にあるウィンチが回り始めた。
「一般企業がこの募金へ寄付した場合、税金を減らすことができる。その仕組を使って裏金作りに使われたりもするんだよ。ティアラは色々と調べている内にそこに抵触しかけた」
どうでもいい。巻き込みは完了している。何を言っても変わらない。大人になろう。
「わかったよ。ロシア・マフィアか。また面倒な相手を選んだものだね。数が多そうだし、僕一人では辛いかもなあ」
「こいつらは腕が立つ。正面からだと面倒だが、急所を突けば簡単だ。これからロシア•マフィアの情報を取り出す。打ち合わせをしよう」
シナガワはそう言って、自分のスマートフォンを操作し始めた。
「ん? 何だ? 電波が入らないな」
「そうだね。ここは電波が悪いんだ。待合室だと電波が入るはずだよ」
「ちょっと行ってくる。適当に話しておいてくれ」
シナガワがそう言って出て行った。
仕方無く三人の方を見てみることにした。
確かにマティウスの体格は大きく筋肉質。中身はどうあれ使えそう。僕と同じぐらいの背の高さ。力も結構あるようだ。
「ティアラ! 待っていてくれよ!」
彼は拳を固く握っていた。目には炎が燃えている。かなり本気。その様子からみると、ティアラは彼の恋人のようだ。勇ましいのだが、やらかしそうな雰囲気を漂わせていた。
その後ろに美女が二人。彼女達を戦わせるのは心が引ける。レディーを戦場に立たせるものではない。
しかし、アレクは間違いなく筋が良い。姿勢にまったく隙がない。マティウスより強いのかも知れない。そう思って見ていたら、彼女は言った。
「姫様が助かるのなら、オレは何だってやってみせる」
流石は槍使い。真っ直ぐな意志は彼女の表情にも表れていた。手に覚えがあるらしい。こうなると、後ろで待っておけという方が残酷だ。
「私も! 私も! 姫様の為なら私も頑張っちゃうから!」
前へ前へ出てくるタニヤ。すっかりヤル気。小さな鼻から蒸気が出てきそう。彼女はポケットから小瓶を取り出した。
「こんな時の為にクスリを用意して正解だったわ!」
中の液体は濃いネズミ色をしており、どうにも胡散臭そう。
マティウスが大声で喚き始める。
「嫌な予感がするんだが! ていうか嫌な予感しかしないんだが!」
「何よう、さっきからマティウス君、酷いわねぇ!」
タニヤは明るい笑顔で小瓶を振っていた。明らかに誉めてもらいたがっている。迂闊なことは言えなさそう。一応、訊いてみることにした。
「タニヤちゃん、それ何の薬なの?」
「筋力増強剤。筋力が倍になるの。戦力を強化するのに使えるでしょ?」
小瓶の液体は汚水にしか見えない。マティウスがツッコミを入れた。
「ちょっと待て、タニヤ。これって絶対、何かあるだろ? 隠してることないか?」
「副作用としてマッチョになっちゃう。そして、薬が切れたら後遺症で筋肉痛がスゴいかもね。ネズミで実験したら二日は動けなくなってたわ」
「そういうことは先に言えよ! 問題の方が多いじゃねえか! 後だしの副作用とか後遺症とかタチ悪過ぎなんだよ!」
僕は冷静になって二人のやり取りを見ながら考えた。
マティウスは護衛で体格は良い。筋力増強は必要なさそうだ。
アレクとタニヤは女性。後遺症が出たりしたら問題。そして、僕はマッチョにはなりたくない。
そうなると消去法で一人が残ることになる。
シナガワ。
彼は華奢で、戦闘には向いていない。痩せ過ぎとまではいかないまでも線が細い。
しかし、この薬があるとなると話は別だ。
今回、彼には頑張ってもらおう。丁度いいタイミングでシナガワが待合室から帰ってきた。ロシア・マフィアの情報を引き出し終えたらしい。
「なんだ? お前達? どうして俺を見ているんだ?」
僕は優しくシナガワに語りかける。
「ここにクスリがあるんだよ」
日々の働きをねぎらう気持ちを込めてみた。邪悪な笑みを隠したつもりだが、尻尾がチラリと覗いていたかもしれない。
「何だこれは? 胡散臭いな?」
タニヤに目配せする。彼女なら僕の言わんとしていることをわかるはず。
タニヤは先程言っていた。イケメンは正義なのだと。
「これは筋力が倍になるクスリなんだ。ロシア・マフィアは手強いからね。万が一に備えて戦力を強化しておかないと。ねえ、タニヤちゃん」
タニヤは神妙な顔をして僕とシナガワの顔を交互に見比べている。どうやら、どちらが正義か比較しているらしい。シナガワは僕ほどではないが男前。僕が圧倒的に正義だと目で訴える。
診察室にある時計の秒針がやけに大きく聞こえた。シナガワは勘がいい。グズグズしていたら企みを察知するかもしれない。
タニヤは僕を見て頷いた。わかってくれればいい。作戦開始だ。
「変な色をしているな、このクスリ?」
シナガワは薬瓶をつまみ、片眉を下げ、顔をしかめていた。タニヤがシナガワに忍び寄る。
「これは私がつくったクスリなんですよ」
シナガワは疑っているらしい。切れ長な目は細められ、タニヤの目の中に真偽を探し始めた。
タニヤは言葉を続ける。
「副作用とか後遺症とかはありません。マッチョになったりだとか、筋肉痛になったりだとかしませんから。後、人によっては幻覚や幻聴があったりすることもありません」
まずい。
言わなくてもいいことまで言いだした。
それに幻覚や幻聴まで出てきた。僕も聞いていない。まだ隠しているコトがあるかもしれない。
だが、この際どうでもいい。クスリを飲むのは僕じゃない。
シナガワはただでさえ懐疑的思考をしている。タニヤの発言から何かを察知するかもしれない。僕は話に割り込むことにした。
「見てくれほど臭いは悪くないよ。僕もさっき嗅いでみたけれど」
「飽浦、ドラッグの類いじゃないだろうな?」
「うん。ドラッグではないね。龍涎香に近い香りがしたよ」
全くのデタラメ。
シナガワは香りにはコダワリがある。希少価値の高いアンバーグリスなら、意識をそちらへと向けるはず。
「臭いだけでも嗅いでみるか」
シナガワが小瓶の蓋をあけて鼻を近づける。
今だ! タニヤ!
「ちぇすとおおおおおおぉぉッ!」
タニヤが大きなかけ声をあげた。野獣の咆哮に近い。小瓶の先もろともクスリをシナガワの口に捩じ込んだ。
「!」
シナガワの口になだれ込むネズミ色の液体。彼は異常を感知したらしく、抵抗し始めた。僕は慌ててシナガワの元へと駆け寄った。鼻を摘んで、鳩尾を軽く殴る。作戦遂行の為には手段を選んでられない。
シナガワの喉仏が動き、床にバッタリ倒れた。手からスマートフォンが転がり落ちる。見ればマフィアの地図しか表示されていない。彼が起きたら打ち合わせを開始しよう。久しぶりのインドア戦だ。情報を徹底的に収集し、急所とやらを強襲すれば問題ない。
「ああっ! しまったわ!」
タニヤが大声をあげた。
しまっただって?
何も訊きたくないが、訊かないわけにもいかない。
「何をやっちゃったの?」
彼女はオレンジ色の液体が入っている瓶を取り出した。
「筋力増強剤はこっちなのよ! あれは忘却の異常状態を作るクスリ。頭の時間を戻して記憶喪失状態にさせるの」
マティウスが頭を抱えだした。
「よく似たクスリを見たことがあると思ったら! どうして、そういうクスリを作るんだよ! てか、何だよあのかけ声!」
「あれは勇気を振り絞るための声よ」
問題はそこではない。
一同が沈黙してタニヤに視線を向ける。皆が無表情で見つめていると、タニヤはニッコリ笑って、舌を出した。
「てへ」
かわいいな。
僕の頭の中で無数の蝶が乱舞する。ぐるぐる回って竜巻のようだ。もはや、蝶が竜巻を起こしているのか、竜巻に蝶が巻き込まれているのかわからない。
まあ、いいだろう。全ては事故が悪い。彼女は何も悪くない。
シナガワがムクリと起き上がった。目つきは相変わらずに鋭いが、目から暗さが消えている。開口一番、彼は言った。
「何だここは?」
彼の頭の時間が戻ったとして、どれぐらい戻ったのだろうか?
「僕が誰だかわかるかい?」
「いいや。わからないな」
僕のことを全く覚えていない。結構、頭の中が昔に戻っている。どうにも嫌な予感がした。
シナガワの得意分野について訊いてみる。
「マネーロンダリングってわかる?」
「何のことだ? 俺にはサッパリなんだが?」
かなりまずい。ロシア・マフィアの急所だとかは覚えているのだろうか?
「ええと、ロシア・マフィアって知ってるよね?」
「冗談だろう? 俺が知っているわけがない」
かなり昔に戻ってしまっている。キレイな頃のシナガワは、とても澄んだ目をしていた。心無しか良い人にも見えかねない。
シナガワはロンダリングをされてしまった。
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シナガワは記憶を失っていても無表情。仕方ないので、全てを彼に教え込む。後ろでタニヤが小さく呟いた。
「困ったものね」
「お前が言うなよ!」
タニヤにツッコミを入れたのはマティウスだった。済んだことを言っても仕方がない。シナガワのスマートフォンで得た情報を確認する。ロシア・マフィアは大きなビルにいるらしい。
「時間がない。姫様に何かあったらコトだ。オレは行くぞ」
アレクが支度を始めた。タニヤも小さな頭を頷かせて言った。
「幸いなことに私が持ってきたクスリはまだあるの」
彼女が別の薬を取り出そうとしていると、マティウスがまたもやツッコミを入れた。
「俺には幸いとは思えないんだが。むしろ、不幸なことのように思うんだが」
何故だかマティウスに全面同意したくなった。明らかにトラブル臭がしている。
彼女が取り出した薬瓶。真っ赤な液体は毒々しい。小さな稲妻が瓶の中で発光している。凶暴を液体にして、瓶に閉じ込めれば、こんな姿になるのかもしれない。
「さっきから失礼よね、マティウス君。このクスリを飲ませてしまうわよ」
「つうか、何のクスリだよ! そんな得体の知れないもん飲みたくねえ!」
「爆薬よ。空気に触れると爆発するの。スゴイでしょ?」
「それクスリじゃねえ! 色々スゲエけど、褒めたくねえ! お前が作るクスリは国で管理する必要があるな!」
スゴいのは認めるが、どうにも素直に喜べない。彼女がどこを目指しているのか訊いてみた。
「どうしてそんなの作ったの?」
タニヤの動機は実に明確。誇らしげに胸を張っていた。
「私が楽しければそれでいいのよ!」
「ええー!」
マティウスが驚きの声をあげた。彼らの世界がどんな世界だか知らないが、大変なことになっていそうだ。
シナガワがそれを見て、鼻で笑った。完全に他人事だ。
「何がしたいのやら」
「巻き込んだのは君だよ。名案はないかい?」
「電話すればいいじゃないか? ティアラを解放しろと」
「いやいやいや、冗談だよね? それより、ロシア•マフィアに急所があると言ってたね?」
「俺は知らない。言ったのか?」
「言ったんだよ! 君は覚えていないかもしれないけど」
「マフィアと話し合いをすればいい。彼らも人間だ。話せばわかる」
「そんな暢気な世界じゃないって、君が一番良く知っているじゃないか!」
「だから、俺は知らない」
頭が痛い。いつものシナガワからは想像できない。本気で話し合いで解決すると思っているらしい。どうしてこうなってしまったのか?
「時間がない、シナガワ。こうなれば強襲しなくちゃ」
「ちょっと待て、俺はアカワだぞ? シナガワって誰なんだ?」
「そこもかい! 君はアカワであることを止めたんだ。今の君はシナガワだよ」
アカワは彼が昔に捨てた名前。彼は色々あって本当の名前を捨てた。
「どうしてだ?」
シナガワが訊いてくるが、説明している時間が惜しい。ティアラの救助を優先させなくては。
「それはいいんだ。救助にあたって名案はないかい?」
「武力は良くない」
シナガワは得意そう言ってのける。何かが間違っている。
僕はタニヤに訊いてみた。
「タニヤちゃん。薬の効果は消せないの?」
「ないわね。姫様がどうなっているかわからないし、行きましょう」
僕達が急いで部屋を出ると、シナガワも付いてきた。好奇心は旺盛らしい。いつもの彼とは違い、どこか頼りなさそうだった。
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僕達はビルの屋内にある非常階段ホールを駆け上がった。ビルには非常階段専用区画がある。非常時に退避する階段は仕切られ、階段室になっているのだ。
僕達全員は水道局員の制服を着ている。
「水道管を止めてしまって、作業員として潜り込むとはね」
僕が呟くと、シナガワは吐き捨てるように言った。
「時間がないからな。本来、話し合いが一番なのだが」
まだ言っている。昔から強情だったらしい。
「ビルには侵入できたけど、不審者扱いされてしまったね」
「お前達、目立つ格好しているからな。俺ぐらいじゃないか、まともな水道局員に見えるのは」
水道局員の制服は地味でも、僕や三人組の髪や目の色は目立ちすぎる。
裏口からビルに入ろうとしたら、警備員が不審な顔をして僕達を呼び止めた。そして、電話をし始めたので、僕達は非常階段ホールへと逃げ込んだのだ。
「侵入できたのは、誰のおかげかしら? 水道管を爆破できたのは誰のおかげかしら?」
タニヤが無闇にグイグイ押してくる。
彼女の爆薬は盛大に炸裂した。イッツ・ア・ダイナマイトどころではない。
水道管は破壊され、ビルの給水は完全に止まった。
良い仕事なのだが、ここで褒めると、間違った方向に才能を伸ばしそう。
タニヤは言っていた。私が楽しければそれでいいのよ、と。
下手に褒めると快楽テロリストになりかねない。
何も言わずにいると、シナガワがタニヤを褒めた。
「素晴らしいな、タニヤ。お前のおかげで潜入できた」
「でしょ、でしょ、スゴイでしょ」
「ああ、確かにスゴい。これからも頑張ってくれ」
テロリストの卵が孵化する日は近そうだ。
ビルは高く、フロアーは二五階まである。三階まではショールーム。とりあえず四階に入ることにした。
階段を昇っていると踊り場に出た。壁にはドアが付いている。マティウスがドアノブに手をかけた。
「この辺りか?」
どのフロアーにティアラが居るのか誰も知らない。
「もう、開けちゃいなさいよ、マティウス君」
タニヤがけしかけ、アレクはそれに賛同した。
「いなければ次のフロアーに行けばいい」
女性の方がアグレッシブ。気迫に押され、マティウスが口ごもって答えた。
「そ、そうだな」
ドアを開けると、目の前の視界が広がった。床は黒の大理石。磨き上げられた表面には、ライトが眩しく反射している。廊下は真っ直ぐ延びており、先は十字路になっていた。
「誰もいないようだぞ」
マティウスが足を進めると大きな靴音がした。インドア戦では音たてないのが基本。そうしないと相手に気取られる。既に警備員に不審者扱いされており、警戒体制が引かれているかもしれない。僕は声を低くして、マティウスに語りかけた。
「マティウス君、音を出すんじゃない」
「何だって? 聞こえねえんだけど?」
「声を落とすんだ。相手に気付かれるよ」
「聞こえねえ。大きな声を出してくれよ」
彼の大きな声がフロアーに響き渡る。
まずい。それを聞きつけてか、十字路から声が聞こえてきた。言葉はロシア語。会話を聞き取ると、物音がするから確認しようと言っている。
「一旦、非常階段に引き返そう」
そう言っている間に、僕達の前にズラリとマフィアの面々が並んだ。彼らの体格は大きく、黒い背広を着こんでいた。
「うおっ! 何、ちょっとヤバいんじゃね?」
「オレに任せろ」
前に進むアレク。彼女は落ち着いていた。しかし、手には槍がない。完全な丸腰。
彼女はむんずとマティウスの作業服を掴んだ。
「えっ? 何? 何?」
アレクは無言でマティウスを投げつけた。槍のようにマフィアに真っ直ぐ飛んでゆく。
「うわあああああああああ」
悲鳴をあげるマティウスは一直線に飛んでゆき、マフィアの連中を蹴散らした。
ストライク!
思わず拍手を送る。なるほど、これは考えもしなかった。
僕は目を回しているマティウスを回収する。
再利用しなくては。僕は地球に優しい闇医者だ。
すると、フロアー中に非常ベルが鳴り響いた。耳が痛くなるほどだ。しばらくすると、ロシア語の構内放送が流れた。
『異常事態発生です。ビルに侵入者がありました』
アレクとタニヤはティアラを探して、フロアーのドアを開いて回っている。内容を説明しようとしたら、シナガワが無表情に言った。
「俺達が侵入者だとバレたみたいだ」
彼はロシア語もいけるらしかった。
「ここには姫様はいないわ」
タニヤが息急きを切らして報告をする。四階にはティアラはいない。僕達はベル音を背にして、非常階段ホールへと駆け込んだ。
「ティアラちゃんがどのフロアーにいるのかわからないかい?」
僕の質問に答えられる者はいない。シナガワも一緒になって頭を振っている。いつもなら、嬉しそうにハッカーに連絡し、その手の情報を集めてくるのだが。
そんな僕達を尻目にアレクはクールに過激なことを言った。
「こうなったら、片っ端から潰して回る。大丈夫だ。まだいける」
視線をマティウスへと移す。彼は壊れかけていたが、壊れきってはいない。なるほど、確かにまだいけそうだ。
僕は皆を誘導することにする。
「五階に移動しよう。時間も惜しい。通報されたら面倒なことになる」
僕達は慌てて階段を昇っていった。五階まで後少しだ。
後ろでシナガワが言葉を漏らした。
「いや、通報はしないはずだ」
「どうしてだい、シナガワ?」
「考えてもみろ。連中はティアラを監禁している。通報して調べられたら面倒になる」
階段の踊り場に着いた。シナガワの記憶が戻ったのだろうか?
「何だ? 記憶なら戻ってないぞ? それにしてもシナガワは止めてくれ。俺の名前はアカワだ」
僕達の会話を遮ったのはアレクだった。
「ドアを開けるぞ!」
彼女がそう言うと、階下のドアが開けられる音がした。
見ればマフィア達がぞくぞくと非常階段ホールに入ってくる。
「ちっ、追っ手がついたか」
アレクが呟き、ドアを開ける。すると、五階の廊下は背広で埋められていた。
まずい。前にもマフィア。後ろにもマフィア。僕達は挟まれた。
だが、手元にある武器はマティウスだけ。実弾が不足している。
そうだ!
閃きが舞い降りた。
指の骨をならし、シナガワへと歩み寄る。
実弾を増やしてしまえばいい。
だが、シナガワは言った。
「ここは俺に任せろ。お前達は先に進め。非常階段は俺一人でなんとかする」
「えっ? シナガワって腕力あったっけ?」
僕が疑問を差し込む。
「俺のことはいい。お前達は先を行け」
シナガワはフラットな声でそう言った。タニヤが感極まったように歓声をあげた。
「キャーー、格好良いわねえ。流石イケメンだわ」
アレクも感心している。
「イケメンだな。たいしたガッツだ」
シナガワはうっすら笑い、称賛の言葉を遮った。
「俺はイケメンじゃない。イケメンという言葉は好きじゃない」
僕が言おうとして、言えなかったことを!
悔しく思っていると彼は言葉を続けようとしている。
「男前と言ってく」
僕はドアを締めた。厚い戸板が彼の言葉を遮った。
振り返ると、皆が僕を無言で注視している。
「さあ、行こう。シナガワの犠牲を無駄にしてはいけない」
五階フロアーは激戦になった。アレクに疲れが見え始める。
額には玉汗が浮かんでいた。相当に鍛えてはいるが、続く戦闘に疲弊を隠せていない。
非常ベルが鳴り響く中で、彼女は息を荒らげていた。マフィアは数を増やし、雲霞のごとく押し寄せてくる。
僕はアレクに手を貸すことにした。
「僕が戦うよ。後は任せて。君には休息が必要だ」
アレクを後ろに下がらせ、マティウスの作業着を手に取る。マティウスは暴れたが、そんなことはどうでもいい。
大きく振りかぶってマティウスを放擲する。
「マジでかーーーーー」
マティウスは真っ直ぐに飛んでゆく。美しい軌跡に僕はうっとりしてしまう。マフィアは蹴散らされた。リサイクルの為にマティウスを拾いに行くと、うるさく鳴っていた非常ベルが止まった。
ようやく静かになった。胸を撫で下ろしていると、ロシア語の構内放送が流れた。
『侵入者は五階にいる。総員は五階に集合。侵入者を迎撃しろ』
シナガワの声だった。
僕達の居るフロアーが五階。ここにマフィアの大軍が訪れるだろう。
シナガワを野放しにしたのは失敗だった。彼を信用するものではない。キレイなシナガワもやっぱり油断ならない。
「シナガワの声だったみたいだが?」
アレクが不思議そうな顔をした。彼らがロシア語を聞き取れるわけもない。
「これからマフィアが殺到してくる! 二人とも気を付けて!」
「シナガワさんがさっきの放送で教えてくれたのね!」
そうじゃない。イケメンだって悪いことはする。特にシナガワは好んでする。
非常階段ホールからマフィアが出てきた。手元のマティウスは壊れかけ寸前。揺り動かしても首がガクガクするばかり。口はだらしなく開き、舌が振り子のように揺れていた。
このままではやられてしまう!
僕とマティウスマフィアに囲まれようとしていた。このままではタニヤとアレクも押し潰されてしまう。どうにかしなくては。
「飽浦さん、これを!」
タニヤの手から何かが放り投げられた。綺麗な放物線を描く物体を、僕はしっかり受け取った。見れば薬瓶。オレンジ色の液体が嬉しそうに波打っていた。
筋力増強剤!
グッジョブ、タニヤ!
僕は親指を立てて、タニヤの仕事に感謝した。さて、レディーの期待に応えなくては!
マティウスの口に薬瓶を放り込む。クスリを飲ませている時間はない。僕はマティウスの上顎と下顎をしっかり掴んで上下に動かし、そのまま瓶を噛み砕かせる。口の端からガラス片が溢れたが、そんなことに構ってられない。
筋力増強剤は即効性だった。マティウスが前後にガクガク揺れだした。骨の軋む音がする。
素晴らしい効き目。筋肉繊維が音をたてて太くなってゆく。
潰れかけていた体が、筋力で押し上げられ、風船のように膨れ上がった。それだけではない。表情筋までミッチリ太くなっている。彼の顔は筋肉でボコボコになり、まるで、ふやけたダンボール。何と言うか、筋肉人形。
タニヤとアレクも少しばかり顔が青ざめていた。
やはり、マッチョはどうかと思う。
マティウスの表情は筋肉に埋もれて判別不能。筋肉人形の口らしき穴がパクパク動いた。
「え? え? 何? 何? 何が起こっているの? 俺ってどうなっているの? 筋肉すげえんだけど? ハンパねえんだけど?」
「いくぞ! マティウス君!」
大きくなって破壊力はアップ。タニヤの狙い通り、戦力は強化された。
渾身の力を振り絞り、マフィアにマティウスを投げつけた。
僕達は勝てるはずだ!
ようやくマフィアを一掃した。一息つくとエレベーターの到着音が鳴り響いた。
緩みかけていた空気が引き締まる。到着を知らせるランプが点滅していた。まだ、油断できない。僕は逃げようとする筋肉人形のベルトを掴んだ。
エレベーターが開くと、そこにはシナガワとティアラが居た。
ティアラのピンクの髪は清流のように美しく、透き通る肌は雪原の雪よりまだ白い。彼女はシナガワの背に隠れながら、おずおずとこちらの様子を伺っている。細い輪郭はカゲロウのように繊細で儚げ。細い身体には危うげな美の均衡が保たれていた。
皆が可愛いと言うのも頷ける。
「アレク、タニヤ。来てくれたのね」
マティウスの名前は呼ばれなかった。筋肉人形は識別できなかったらしい。
二人の女性はティアラに駆け寄り抱擁をした。華やいだ声がフロアーに満ちる。
良いものだ。頑張った甲斐があった。
シナガワは賑わいを構いもせず、僕の所へやって来た。
「ご苦労だったな。戦力をお前達に集中させて、その隙をぬってティアラを救助していた」
終わりが良ければそれで良い。僕は笑いながら、シナガワに話かける。
「非常階段ではよく無事だったね」
「変な連中に脅されたと言った。お前達の髪や目の色は目立つからな。水道局員の制服もあるし、疑う奴もいなかった」
シナガワは口がうまい。昔からそうなのだろう。勝算のない勝負を、彼がするわけもなかった。
後は彼らを元の世界に戻すだけ。
マティウスを見れば、筋肉は萎み、ゴボウのようになっていた。全身が土気色をしている。細かく震えているのは、筋肉痛の為だろう。大した問題ではない。僕達はロシア・マフィアのビルから出ることにした。
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帰る道のりで四人は賑やかに談笑をしている。時折、マティウスが筋肉痛でよろめいていたが、ティアラが支えると、嬉しそうに喜んでいた。
そろそろ、彼らを戻さなくてはならない。ただ、ロシア・マフィアはそのまま。彼らを根絶したわけじゃない。
「募金が悪いことに使われるのは、どうしようもなかったんだね」
それを聞いてシナガワは短く息を吐いた。まだ記憶は戻ってないらしく、悔しそうにしている。昔の彼が正義感を持っていたというのは驚きだった。
「マネーロンダリングや、裏金作りまで暴いてしまうと、医療施設は建設されなくなる」
シナガワからチラチラ見える正義の炎を抑えるべく水を差す。
「理屈で解決できるほど、この世界は暢気な世界じゃないよ」
「ああ。だがな、飽浦、俺は納得できない。まだ良い方法があるはずだ」
シナガワがアンダーグラウンドに潜る前はこうだったのだろう。正義を信じて真っ直ぐに突き進もうとしていたらしい。
四人の背を見ていると、ティアラがこちらを振り向いた。そして、僕達の所へやってきた。プリンセスは頬を上気させ僕達に訊いた。
「これで赤ちゃんは病気で死んだりしなくて済むんですよね?」
どういう形であれ、医療施設はつくられる。裏の事情まで教えることもない。
ティアラは心配性らしい。心を痛ませるわけにもいかない。
「大丈夫だよ、ティアラちゃん。君の世界も平和になるといいね」
嬉しそうに笑った彼女の微笑みは眩しい。その輝きが彼女の国を照らすのを祈るばかりだ。
「ええ、今回学んだ募金活動を自国に持ち帰って、よりよい国を作ってみます」
「頑張れよ」
シナガワが嬉しそうに言った。まるで良いお兄さん風。僕の役割をとらないで欲しい。
しかし、シナガワの記憶は戻っていない。ずっとこの調子だと大変そうだ。正直に言うと、少しウザい。僕はタニヤに訊いてみた。
「ねえ、タニヤちゃん。あの薬っていつになったら効果が切れるの?」
「そうねえ。後数分じゃないかな。以前がそうだったのよね」
彼女が今後どんなクスリを作るのやら。できれば、新薬を発表する場にはいたくない。
マティウスがティアラの手を強く握った。まだ、筋肉痛が残っているのだろう。手足が震え、中毒患者のようにも見えた。
「ティアラ。もう帰ろうぜ。もう俺はお前を離したりしないからな」
「マティウス。皆見ているよ。恥ずかしい。ここではちょっと」
モジモジしはじめるティアラ。恥ずかしそうに周りを見ている。だが、マティウスは抑えきれないようだ。ティアラの体を引き寄せた。大きなマティウスの体がティアラを包み、全てから隠そうとしている。甘い空気が漂いはじめた。
タニヤとアレクの目が輝いた。
「帰りましょう、姫様。部屋でお休みにならなくちゃ。マティウス君はちゃんと見張りなさい。しっかりとヤるのよ」
タニヤの言葉の後にアレクが小さく呟いた。
「今日は燃え上がるだろうな。楽しみだ」
随分と騒がしい一日だったが、宴は必ず終わりがある。四人を世界に戻す為に僕達は指を切り、闇の滴と無の滴を彼らの舌へと落とした。
名も無き天使へと送る贖罪の滴。
奇跡を願うと、名も無き天使はその願いを叶えてくれる。
彼らは彼らの世界へ戻っていった。
誰もいなくなった僕達の世界。暗雲が空を覆っているらしく、星や月さえ隠されている。記憶を失ったシナガワは無垢な顔をして言った。
「なあ、飽浦。俺の記憶は戻るんだよな」
「……」
僕は何も言えなくなった。このまま何も思い出さない方が、彼にとっては幸せではないかと思ったからだ。
目の前にいるのは、心を失っていない頃のシナガワ。
「俺が本当の名前を捨て、シナガワと名乗った理由。それも思い出すんだろうな」
シナガワは果てしない過当競争の中で理想も思想も売り捨てた。ついには心を無くして冷酷と呼ばれ、本当の名前を捨てたのだ。
どう説明したものか考えていると、僕の顔に浮かんだ表情を読み取ったらしい。シナガワは言った。
「俺のことだ。何も問題はない」
思い出すと、シナガワはまた自分を壊そうとするだろう。
自分を破壊する天使の破片を求めて、シナガワは世界を回っている。未熟な欠片を見つけたらしいが、それはシナガワの話。詳しくは知らない。
シナガワは目をつぶった。その瞬間に見えた瞳はどこまでも澄んでいた。これから彼は罪を負い濁ってゆく。
彼は夜空を仰いだ。シャープな輪郭は繊細で、黒い睫毛は固く閉じられている。
「ああ、思い出し始めたようだ」
彼は全てを受け入れるべく手を開けた。細い身体は闇に消えていきそうだった。
急にシナガワの身体が強張った。脳裏に沢山の記憶がなだれ込んでいるのだろう。
彼は歯を固く食いしばり、手を固く握りしめた。こめかみに血管が浮いている。華奢な肩が細かく震え、苦痛に耐えている声が歯の間から漏れてくる。
これまであったことを全部思い出さなくてはならない。アンダーグラウンドで這いずり回った日々を、もう一度繰り返さなくてはならない。
シナガワが天に向けていた顎を下げた。がっくりと肩を落とし、顔は地へと向けられた。罪を得て濁り、アカワからシナガワへと戻ってしまった。
彼が目を開くといつもの暗い光が宿っていた。短く息を吐き、相変わらずの強がりを言った。
「何も問題はなかっただろ?」
「……そうだね」
強情そうな口に薄笑いを浮かべていた。何を言ったらいいのかわからず、言葉を探している僕に話かけてくる。
「俺が記憶を失っている間に色々あったな。大変だったろ?」
「まあね」
「だが、これだけでは完璧ではない」
「何をしようとしているんだい?」
彼はスマートフォンを取り出した。
「ハッカーとコンタクトを取って、広告会社のワンクリック募金を一億回ほどクリックさせる。そうすれば食料不足の国に食料が送られる」
「そりゃ、いいだろうけど、どうして今なんだい?」
僕の疑問を断ち切るようにシナガワが口を開いた。乾いた声に感情の色はない。
「これから医療施設が作られ、乳幼児の死亡率が下がる」
「いいことじゃないか」
「よく考えろ。死んでいた人間が死ななくなる。そうなると、食料不足が顕在化する。食料価格は上がり、食えなくなった連中はアンダーグラウンドに潜る。このままだと治安が悪くなるんだよ」
言葉を失っているとシナガワが乾いた笑いを浮かべた。
「知ってるだろう? この世界は暢気な世界じゃない」
「ああ、知っていたよ」
シナガワは背を向け電話を始めた。急くような物言いは相変わらずで、有無を言わせず一方的に用件を押し付けている。ハッカーに電話をしているのだろう。彼が見付けたと言っていた未熟な天使の破片。それはハッカーだったのかもしれない。
電話を終えると、シナガワは僕の方に向き直った。
僕は冗談めかして言ってみる。
「広告会社が悲鳴をあげるかもしれないね」
「その広告企業は募金の仕組みを使って裏金を作っているんだよ。そいつを吐き出させる」
「……以前の一億回クリックもそういう理由だったのかい?」
「まあな。他人にどう思われようが俺には関係ない」
やはり、シナガワはシナガワだった。余りの彼らしさに僕は思わず呟いた。
「君は馬鹿だ」
「光栄だよ、飽浦。俺はもう行かなくてはならない」
僕は笑って見送ることにする。
「元気でね。今度はドアを蹴破らないで欲しいな」
シナガワは薄笑いを返した。いつも通りに戻っている。彼は短く言った。
「さあな。次の時は考えておいてやるよ」
シナガワはシナガワの世界へ戻っていった。
さあ、僕は僕の世界に戻らなくては。
夜の帳は全てを隠す。僕はそもそも闇の世界で生を受けた。元いる世界に戻るべきだろう。
闇は闇にあるべきだ。
僕は僕の世界に戻る事にする。
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