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第三十八話:吸血鬼異変 楽園への道程
 
 ●

 紅は思う。
 沙夜を打ち破ったのが八雲・紫であると知ったその日からの日々を。
 憎悪に身を委ねた時があった。
 研鑽を積み重ねた時もあった。
 日常で心を暖めた時もあった。
 それは全て、
 ……今日この日の為に。そして、この瞬間すらも――。

「それが、沙夜への愛と信じるが故」

 一歩を踏み出す。
 吸血鬼異変の終わりを告げる、最後の戦争の始まりを。
 意思は既にただ一つの目的を求めている。

「勝利をこの手に掴む瞬間を!」
「魅せてみなさい、八雲・紅。貴方の全力を――!」

 吼える紫の妖気を歯牙にもかけず、5メートルの距離を踏破する。前に踏み出した右足を軸にして、踏み込んだ。
 同時に左肩をカタパルトとして左拳を発射した。
 風と水による加速が付与された一撃は高速。
 だが基本に忠実な正拳突きは、基本故に多くの対応が存在する。これだけ判りやすい攻撃を合気を修めた者が見逃すだろうか。
 紅は八雲・紫が緩やかに動くのを見た。

「――!」

 正確に鳩尾を穿つ一撃は容易く捕捉される。
 紅の高速の拳を掴もうとする紫の手が迫り、しかし弾かれた。

「!」

 紅の拳を覆う力場の様な物がある。
 風だ。
 紅は身体の周りを風で覆い、小規模な乱気流を発生させているのだ。なによりも正確な体捌きが必須となる合気を封じ込める手段として考案した一手。
 しかし、

「――甘い」
「な――!?」

 視界が右に回った。
 一瞬遅れて気付く。

「風に影響されぬ程の妖気で掴んだのか!」

 力任せの行為は状況を開拓するのに十分な効力を発揮している。
 ……このまま地面に叩きつけられるのは拙い……!
 だから、という様に紅は動いた。
 続く動きは全てが一瞬。
 掴まれた腕を掴み返し、空中で身体を丸めたのだ。そうして生まれるのは更なる回転。

「おお……!」

 お、から始まる気合の声は咆哮に近い。
 上下の反転した世界で掴んだ腕を捻りながら”下”へと放り投げる。
 次に脚を伸ばせば回転によって、

「地に足が着く……!」

 上下の反転もなく、世界を正しく認識。
 中空に投げられた紫の位置を確認する前に蹴りを放つ。先に着いた左足を軸にしての直蹴りだ。力任せの方向転換は筋肉に多大な負荷を及ぼすが、妖怪の筋力と回復力はそれを可能とする。
 見れば、紫は足を天井に向ける体勢。
 普通であれば首を粉砕する上段の蹴りは、腹部へと着弾する。
 対する紫は冷静に防御姿勢へと姿勢を変えた。食らった衝撃で距離を取るつもりだ。
 ……それほど単純には済まさん……!
 紅は蹴撃の軌道を変化させた。

「――!?」

 紫の驚愕を無視して続行。
 上段の蹴りを風で見えないレールを作り、なぞる事で中段へと移行した蹴撃は、紫の首を殴打。
 衝突。

「が……!」

 骨を通して鈍い打撃音が伝わってくる。手応えは十分だがダメージがあるとは信じない。
 空中を時計の様に回る紫を視界の端で捕捉する。
 流れるように直蹴りの右足を旋回させて紫にかかとを向ける状態で着地。後方への攻撃体勢ができた状態だ。
 勢いをそのままに左の後ろ回し蹴りを放った。全力の一撃だ。

「ふんッ!」
「つ――うあっ!」

 額を狙った一撃は無理矢理姿勢をねじり、クロスした腕に阻まれた。
 同時。
 吹き飛ばされながらも紫は受けた衝撃を身を捻ることで脚へと流し、次の瞬間には衝撃を利用した蹴りを放っていた。
 蹴り方こそ乱雑だが、円運動によって十分な荷重を得た一撃が紅を襲う。
 ……なんと器用な……!
 妖気のほとんどは攻撃に込めてしまっている。防御に回す妖気は残っていない。
 腕を構えて防御するしかない。構えた腕以外で脱力し、衝撃に備えた。

「ぬぅッ!」

 激突。
 ほぼ正面から押されるだけの一撃だが、途轍もなく重い。
 お互いが後方へと吹き飛んでいった。
 紫は玉座を粉砕して、紅は扉横の壁に叩きつけられて停止。激突の音は響かず、肉体のみを震わせた。
 床に這い蹲りながらも紅は思う。

「……強い」

 能力を封じられて尚、己よりも強い。
 間違いなく強いのだ。
 そして、それ以上に自分が弱い。
 風も。
 水も。
 妖気でさえ、全てが借り物。
 雷は充電式。長期戦には向かない。
 反射神経を強化する術なくして相対出来る相手ではなく、無駄な消費は抑えたい。
 彼らの居る領域に駆け登るなど夢のまた夢だ。だがそれでも、諦められない。
 この意志だけは、

「譲れぬ」
「――譲る? 違うわ」

 声は目の前。
 かつては玉座だった粉塵を割って姿を見せる紫の物。
 万全に近い姿を見せる紫は言った。

「貴方はここで敗北するのよ。無様に、無慈悲に、容赦なく、ね」
「……風は突破出来まい」
「馬鹿ね。正確に捉えられないならその身体」

 紫が接近してくる。一歩一歩をしっかりと。

「――砕き割る」

 無防備な歩みだと、紅は思う。
 迎撃が本領たる合気で攻めるなど愚の極みだからだ。
 そして同時畏怖している。
 先に攻めてはいけないからだ。
 ……いや。
 違う。間違っている。それは八雲・紅の戦い方ではない。相手に対応して戦っていては、自分を発揮出来るはずがない。

「!」

 迷う内に互いが間合いに入っていた。手を伸ばせば触れられる距離だ。
 これ以上の思考は隙となってしまう。だから、我慢しすぎだ、行けと、己を叱咤する。
 瞬間。
 紫が動いた。中段突きだ。
 機先を制するタイミングのそれは、

「うまい……!」

 完全に出鼻を挫かれた。
 既に紫は攻撃準備を終えている。対する自分は一瞬に遅れていて、無防備に近い。
 しかし、動揺はない。
 ……焦るな、逸るな、(たわ)めるな。冷徹に状況を俯瞰しろっ!
 正々堂々正面から出し抜くのが、八雲・紅の戦い方だ。
 見る。
 攻撃は単純な物理打撃だ。ただし速度、妖気ともに申し分なく、威力は計り知れない。
 防御、回避は間に合わない。風も水も盾には強度が不足する。拳を振り抜かれれば、それが致命打となってしまうだろう。
 だからと、紅はキーワードを詠唱した。

「『――雷人(いかずちびと)』」

 雷が体表面を覆う。
 紅の妖気に蒼く染められたそれは鼓動とリンクするかの様に脈動し、生命の息吹を感じさせる稲光だ。
 雷は体表面上を流動する事で消費を最小限に抑え、その上で継続して攻撃力を保有する。
 持続力の無さという欠点を補い、攻撃面と防御面の両方を強化する業。
 紫が驚愕に目を見開き、右拳を止めようとするが遅い。
 紫の一撃は、紅へと着弾した。

「――!!」

 声にならない悲鳴が紫の口から上がった。
 紅の雷は、10億ボルト20万アンペアという本当の意味において地球規模最大級の雷と同等まで高められている。
 如何に一人一種族の大妖怪でも筋肉が電気刺激によって硬直し、脳の指令を無視して停止させられたのだ。
 紅に致命打を与えるはずのそれは不発に終わった。しかし、紅は無傷で切り抜けたのではない。

「く……ッ」

 吹き飛びはしない。だが、その場で呻き声を上げて膝を着いてしまう。
 痛覚の問題ではない。原因は内蔵の損傷。
 紫が感電して硬直しても既に放たれた物理的運動の慣性は残る。紫の拳は加速がないだけで、慣性のまま腹部を抉っていた。
 十分な妖気を保有する一撃は強力無比だ。
 圧倒的弱者である紅が受けて無事で済む道理はない。

「――相打ち!?」

 誰かの驚く声が鼓膜を震わせた。
 幼稚さと賢さを合わせて感じさせる声は、レミリアのものだろうか。
 だが今は確認する余力、意義共に存在しない。
 早急に魔力を回す。

「……良し」

 都合3秒。全ての物理的損失は再生。
 立ち上がる。
 視線を上げれば、既に紫は起立していた。目立った負傷もなく、三半規管や、筋肉への影響も抜けていると判断。だが、動かない。

「攻めてこない……? 違うッ」

 紫は妖気をカードに込めていた。
 それは、攻撃準備。自分はかつてコレを見たことがある。頭の中から記憶を見つけるのと、現実の状況が重なった。

「――電車か!」

 八雲・紫の妖気が染み込んだ特別製特攻車両。3両の廃電車は並列に走行し、空間を圧し潰してゆく鉄塊だ。
 快走の音は金属の摩擦する不協和音。
 一瞬で状況を把握する。
 八雲・紅という一個人では、回避も防御も不可能。雷人は強力だが、圧倒的質量の衝突を耐えうる様な耐久値を得られるものではない。
 ならば、立ち位置という前提を変更する。
 故に紅は一瞬で術式を組み上げた。その魔方陣の効果は、

「『――空間転移!』」

 時間を置かずに紅が姿を表すのは紫のすぐ後ろ。
 転移前の前方移動のベクトルを攻撃のベクトルとして利用して正拳を放った。
 そして、紅は二つのモノを見た。
 一つは、転移前に自分が居た場所の後方に位置する壁に電車が激突し、瞬間的に魔術的な防護壁が形成されて電車が強引に止められた瞬間。
 そしてもう一つは、自分の放った正拳が亜空間に飲み込まれていく瞬間だ。

「――!!」

 そして理解する。
 紫は間違いなくこちらの転移を、そしてその移動先すらも読んだのだと。
 瞬きする間もなくスキマが肥大化する。
 巨大にして無数の視線は、獲物を逃がさない。

「くそ……ッ」

 紅は、スキマに飲まれて消えた。

 ●

「き、消え――?」

 スキマに飲み込まれた紅を見て呟くのはレミリアだ。
 その独り言に近い呟きに対する答えが飛んできた。
 藍だ。

「……終わりだ」
「終わり?」

 藍は永い夜の終わりを悟る。
 疲労を吐き出す様に深く吐息して、

「アレは紫様の境界能力。対象を自分の世界に取り込んだんだ。逆転の可能性はない」

 あの世界では絶対者なのだ、と言う藍にレミリアは理解する。
 あれこそが幻想郷を統べうる反則。

「一人一種族の大妖怪……!」
「そういう事だ」
「い、いや、待ちなさい! なら八雲・紫は紅の能力封印魔術を超越したって言うの!?」

 藍は僅かに思案し、

「……昔、紫様がおっしゃったんだ。自分の能力を先んじて符に込めておけ、ってね」
「それって」

 レミリアの驚愕に答えるように、藍は続ける。

「――ああ。能力を封じられるという事象に対する対処をしてあったんだろう」

 圧倒的なまでに強大な主への諦観か、藍は肩をすくめて言った。
 その反応を見たレミリアは、眉間に小さな皺を寄せて、

「……まるで、前にもそんな事があったって言いぐさね」
「有ったさ」
「――」

 藍は絶句するレミリアに、教える。幻想郷の住民全てが知る真なる神を。

「たった一度だけ、有ったんだ」

 ●

 あらゆるモノを覗き込む様な眼が無数に存在する空間に、紅は居た。
 どこを見ても、そこには必ず不気味な眼が存在していた。
 どこかに光源が有る訳でもないのに視野の通る世界。
 スキマの中の境界世界。
 周囲を確認する紅に声が届いた。

『――ここに来るのは二度目かしら?』

 反響して耳に届く声は、間違いなく紫のもの。
 しかし、その姿は確認出来ない。
 視界、風の触覚、妖気、そして魔術。あらゆる探知が無意味だった。何の手ごたえさえが帰ってこない。
 ささやかな抵抗と理解しつつ、それでも警戒の体勢を崩さない。

「……初めて会ったとき以来だ」
『そう。なら改めて紹介しましょう』

 極めつけは、紅魔館との魔術的なリンクが引きちぎられた事。
 これが単に接続を切っただけなら再度接続する事も出来たが、無理矢理だ。
 術式効果には顕れないだろうが、術式が損傷している可能性が高い。
 修復するには数時間掛かる。もはや今夜中での使用不可だ。

『よおこそ、私の世界へ』
「……招待状を貰った覚えはないがね」

 再生に近い域の回復魔術は消費が大きく、地脈から吸い上げた魔力がなければ多用できない。紅自身は良くて一回使うだけの魔力しか保有していない。
 つまり回復は許されず、無茶は出来ない。だが万全であったとしても、
 ……この世界で勝てるはずもない、か。
 この場での非常に宜しくない出来事を予期する紅は内心で吐き捨てた。

『ごめんなさい。何せ急なお祭りだったから用意も追いつかなかったのよ』

 けれど、と紫は続けた。

『メインイベントは準備してあるの』
「……何だ?」
『――蹂躙よ』
「!」
  
 やや右後方。
 前兆すらなく、突如として空間に生まれた妖気弾は発生と同時に紅に向けて加速。
 弾丸と化す。
 続く紅の判断は全てが一瞬の内だ。
 高速の一撃をギリギリのタイミングで身を躱して回避。
 そして見た光景は、

「――」

 戦列。
 あらゆる種類の弾幕が、砲台となって紅に狙いを付けていた。
 余りに理不尽な戦力差に背筋が凍る。
 それは、紛れもなく隙だった。
 畏怖か恐怖か、それは定かではない。
 だが事実は一つ。紅が硬直したという現実だ。そしてその一瞬は、弾幕を形成するのには十分すぎる時間だった。
 圧倒的優位に立つ紫は、それでも油断なく紅に問う。

『降伏する気は?』

 字面だけを見れば疑問系だが、それは是非を聞く為の質疑ではなかった。
 ただの確認。
 故にこう言おう。答えの解りきった問いは、

「――愚問」

 回答すると同時。
 返されたのは弾雨だった。それらは怪しく瞬き、姿を現した。
 紅の周りだ。
 そしてこの世界では、まさしく周囲の空間が妖気そのものであり、威力は減衰どころか存在し続けるだけで増していく。
 圧倒的なパワーと無限波状攻撃。上下左右正面背後、その全て。全方位が危険地帯。

「――――……」

 絶望的な死が、紅を押し潰していった。

 ●

 原始的な光源が怪しさを伴って光を放っている。
 長型の提灯(ちょうちん)だ。
 風に揺らめかぬように和紙の囲いが小さな炎を護り、闇を照らしている。
 そんな日本家屋が在るそこは、太陽ではない人工的な光が照らす大和。
 地底界。
 そこに居を構える一軒に、球体の映し出す映像を前にする計4本の角を持つ三人の影があった。
 鬼だ。

「これで終わりか。存外粘ったものだ。勇儀、お前ならどう対処する?」

 勇儀、と呼ばれた額から角が生えた女性は少しの間考え、

「力で無理矢理逃げられないなら手はないね、相性が悪すぎる。萃香は? ――萃香っ」
「あっ、えっ、何!?」

 萃香と呼ばれた二本角の少女は、映像に見入っていたのか、呼び掛けに肩を跳ね上げた。
 微笑ましい子供を見るような生暖かい眼を向ける健康的な魅力に溢れる女性、桔梗は言った。

「萃香。お前はあの状況にどう対応する?」
「あっと、紫のスキマに?」

 確認の問いに桔梗が頷く。
 萃香が考え、あー、とか、うー、とか呻くが、やがて案が纏まったのか、首を傾げながら、口を開いた。苦笑いと共に、

「んあー、やっぱり霧になるとかしてなんとか捕まらないようにするくらい?」
「ふむ」

 と桔梗は前置きし、

「霧となる。それも一つの解かもしれんが、良策とは言えぬ」
「え、そうなの?」
「ああ。一度間近で見た故、アレの性質は見知っている」

 桔梗を息を吸う。

「アレは異世界そのものだ。入る前であればこちらの法則に従うが、一度飲まれてしまえば、そこでの法則は全く異なったものとなる。ヤツの設定した、な」

 勇儀は腕を組んで思考する。
 母の言葉を吟味し、眉間に(しわ)を作って、

「じゃあつまり、捕まればその時点で敗北か」
「簡潔に言えばそうなる。わらわの様に高次元に避難する等の例外を除けばだが、対応はない」
「……」

 四天王と呼ばれる様にまで至った二人は視線を落として考え込む。
 自ら思考する意志は成長へと繋がる重要な糧だ、と桔梗は考える。故に思考を諦めない二人の更なる成長を期待している。

「母さん」

 勇儀が呼び掛け、桔梗は鷹揚(おうよう)に頷き、続きを促す。
 口元に手を当てて考え込みながら、

「能力には、強弱が在っても無敵化や蘇生などは出来ない。――そうだったね?」
「うむ。限定的な無敵、というモノなら幾つかあるがな」

 桔梗の持つ『次元を操る程度の能力』も、限定的な無敵状態を作り出せる稀有な能力だ。
 自身を高次元存在に変換する事で下位次元存在の干渉を不可能とする反則が可能だ。
 能力を使用している間はほぼ完全に無敵だが、妖気の消耗が激しく長時間の使用が出来ない。長時間使って尚、敵を打ち倒せていない場合には圧倒的な劣勢に立つ事になってしまう。
 完璧な能力など存在しない、と桔梗は思う。
 桔梗にも紫の能力に対する考察はある。
 当然ながら正解かどうか等は解らない。だが、一見無敵に思える能力にも抜け穴が存在するのが普通だ。

「んー、ママ」

 まだ自分の中で整理こそ出来ていないが、一応の案は浮かんだのだろう。
 思案中だといった表情で萃香は桔梗に声を掛けた。

「紫は、スキマの中では無敵なのは間違いない?」
「抜け道が無いとは限らんぞ」

 龍神。
 彼の真性の神には、一目見ただけで真似られた様に。

「じゃあ、スキマは一日一回しか使えないとか、そういう制約が解れば対策も出来そうだね」

 有効かどうかまでは分からないけど、と萃香は苦笑して酒を一口。
 良質な酒の匂いに惹かれつつ、桔梗は言った。

「制約は何か。推察出来るか?」
「正直さっぱりかな。勇儀はどう?」
「……強引かもしれないけど、一応」
「ほう。言ってみよ」

 桔梗の催促に一度頷き、

「大結界騒動と今回で計二回。鋼鉄の箱を使ってる。『デンシャ』というらしいけど、あれを使うときは必ず数秒の間があった。それ以外にも、八雲・紫はスキマを開くという行為を戦闘に於いては無駄打ちしていないんだ。なんらかの形で多用出来ないんだと思う」
「ふむ。だがそれだけでは弱いな」
「だから強引かもって言ったんだよ。そうやって勘違いさせる狙いかもしれないけどねぇ」

 と、そこで萃香が勇儀の背に抱きついた。
 背から顔を覗かせるようにして、桔梗を見据える。
 表情は真剣だ。
 元々が幼い容姿なので、微笑ましいという感情が先だってしまう類のものだが。
 萃香が聞く。

「で。ママは結局どう思ってるの?」

 問いかけに、桔梗は思う。
 このまま自分の考えを教えてもいい。教えてもいいが、
 ……面白くない。

「ふむ。――さてな」
『……ええええ!?』

 声の揃った甲高い疑問系が飛んできた。
 更に矢継ぎ早にまくし立て、

「どっ、どうしてだよっ! ここはカッコ良くビシーッと決めるトコでしょ!?」
「そうだぞ母さん! アタシにだけ言わせておいて逃げるのは無しだっ!!」

 淑女、という概念を外界に投げ捨てた醜態を見ながら桔梗は言った。
 浅く眉を立て、

「阿呆、言ったろう。明確な解など問いたださねば分からぬ。それはわらわの推察とて同じ事。信頼されていると自惚れるが、不確かな推測を並べてお前達の先入観にしたくないのだ。理解せい」
「む……」
「それなら、うーん」

 信頼する相手にこの様な言い方をされて納得出来ずとも異を唱えるのは難しいだろう。
 無論、狙った。

 ●

「ゴブッ!」

 紅は腹に受けた衝撃で意識を覚醒させた。
 誰かの蹴りに吹き飛ばされたのだと認識する。
 何度か転がり、しかし何も出来ない。勢いのままに転がった。
 幾度かの回転を経て、ようやく紅の身体が止まった。
 動かない身体の代わりに視線だけを巡らせて確かめる。
 自分が今居るのは紅魔館。
 こちらを心配そうに見る人影が一人。
 寝ている人影が一人。
 ただ眺めている人影が一人。
 そして、

「――起きたわね」
「……っ。ぁっ……」

 掛けられた声に、紫か、と言おうとしたが、気道を傷つけたらしく声が掠れてうまく発声出来なかった。
 改めて自身の状態を診れば折れた肋骨が何本か肺に刺さっている。
 その他にも無数の打撲などがあり、全身無事な箇所が一つと存在しない。
 満身創痍。
 魔術で抑制していた痛覚は防波堤を失い、最大の痛波となって紅の脳を襲っていた。
 だが、身じろぎですらが痛みとなる状況では何も出来ない。

「黙って聞きなさい。貴方の魔術は一時的に封印したわ。これで再生は出来ないでしょう? 貴方はどうするべきか。――分かるわよね」

 一片の感情も籠もらぬ冷酷な声音で投げかけられたのは、降伏勧告。
 しかも、魔術を人質代わりに盾としているからタチが悪い。魔術を失えば、能力封印が出来ないという考えだろうが、実際はそれ以上に困る。
 これから全ての事象の為に、魔術は必須。
 だから、
 ……確かめなくては……!
 声帯を震わせる事が辛い。ゆえに、口だけを動かして紅は聞いた。

 ――一時封印とは?
「現時点から二十四時間の魔術行使不可。単なる阻害よ。けれど――」
 ――これ以上逆らうなら永遠に使えなくする、か。
「ええ。それを踏まえてもう一度だけ聞いてあげるわ。――貴方はどうするのかしら? 八雲・紅」

 紅は状況を整理する。
 魔術の二十四時間封印。
 これは境界能力による干渉と推測する。
 そして、これ以上の抵抗と同時に、永劫の魔術技能消失を意味する。
 紫はこの条件で私を降したつもりなのだろう。
 確かに普通ならばどうしようもない。
 しかし、

 ――私は退かぬ。
「!」

 同時。
 紅の身体が発光現象に包まれた。
 ほぼ身体の中心から漏れ出すそれは、夢幻の如き泡沫(うたかた)
 光が損傷部位を覆えば、瞬く間に紅の肉体を修復していく。その様はまさしく福音とでも言うべき光景だろう。
 能力ではない。
 魔術でもない。
 妖術でもない。それは、

「――陰陽術!」

 叫ぶ紫の顔は驚愕に歪んでいた。
 予め長い期間を掛けて作成した符は、膨大な時間という対価を支払う為に強力な一枚となる人間の戦闘手段。
 紫とて陰陽術を知らぬ訳ではない。元々が人間であるなら誰でも扱える術だ。
 なればこそ紫は己の失態を悔いた。
 己を人間と自称する者が使えないと思い込むとは、と。
 その様を見て僅かに歓喜の感情を得た紅は立ち上がる。

「八雲・紫。……私は人間だ。肉体の半分、或いはそれ以上が人で無かろうと、――確かに私は人間なのだよ」
「妖怪と人間。決して相入れないととでも言う気?」

 険しい表情で威圧する紫に苦笑する。

「そんな事はない。慧音を否定する様な事は言わんし思わん。構図だけ見れば、そう思えるかもしれんがね」
「なら、それが何だと言いたいの?」
「人間は弱い。妖怪に比べて余りに脆弱だろう。だがその心は妖怪より遙かに強い。決して諦めぬ意思を持ち、決して折れぬ意志を持つ者こそが人間だ。ならば信念を諦めぬ私は人間で――」

 そして、

「故に貴様等妖怪よりも強い」
「――――」

 紅は二メートル先に立つ紫を見て、視線を反らさない。
 己の言に嘘偽り無し。
 荒唐無稽な意思表示だ。
 それをどう思ったのか、紫は視線を伏せて言った。

「……そう。それが貴方の信念なら、私は否定しないわ」
「ははは、有り難い。不毛な言い争いがしたいとは思わないんでな」

 紫は笑わず、突き放す。
 紅は笑って、言い放つ。

「――ただ私が蹂躙するのみよ」
「――ただ私が勝利するのみだ」

 瞬間。
 紅が動いた。
 次の一瞬で紫が行動を開始する。
 続く全ては刹那の中だ。
 紅の動きは、左の貫手を中段で放つもの。
 対する紫は貫手の対処をするのではなく、跳躍。
 後方へと大きく跳躍する事で貫手は空振り、紅に一瞬の硬直が起きる。それは十分な隙だ。しかし紫は攻撃をしなかった。
 隙を突くよりも距離を稼ぐ事を優先したのだ。

「……!」

 紅は思う。
 距離を離されれば二度と接敵の機会はないだろう、と。
 八雲・紫はそれが出来るだけの頭脳を、そして能力を保有している。再生魔術無くして突破出来る壁ではない。
 故に時間を与えてはならず、
 ……今この時が最大にして最後の好機!
 だから、という様に叫んだ。

「『――雷神(らいじん)!!』」

 力を発現させる為の言霊は効力を視認させる。
 紅の身体が発光したのだ。
 先に使用した『雷人』と同じく蒼く瞬く雷光が辺りを瞬間的に照らす。
 瞬間。
 紅は雷速で飛んだ。
 『雷人』が全体的な強化であるのに対して、『雷神』は超攻撃的高速移動特化の能力。
 『雷人』と大きく違うのは己の肉体すらも雷と化す点だ。
 超々高速移動する雷は、敵の物理接触を透過するだけでなく、触れ得た全てを感電させるという大きなメリットがある。

「――!」

 紫を透過し、感電させながら背後へと一瞬にして移動する。
 紫は感電による硬直に身を固められてた。
 この瞬間には、呻き声すら満足に上げられないはず。
 故にこのまま『雷神』を解除して攻撃すれば勝利は確定するだろう。
 しかし、

「ぐがあああ――!」

 『雷神』を解除し、着地した瞬間。
 紅が激痛に悶えた。
 ただの一瞬で太股から下が消失。左足が完全に粉砕したのだ。
 これが『雷神』の代償。
 理論上、完全に制御すれば無敵化に近い能力ではある。
 しかし併せ持つ雷が散らされ、自分自身を喪失するという危険を防ぐのが紅の限界だった。
 自由自在に動き回る事など出来はしない。
 つまり電子と同様に雷化している限り目的地まで止まらない特攻でしかない。
 だから雷速で物質に衝突するエネルギーをそのまま受け止める事しか出来なかった。
 そのエネルギーは膨大であり、両足が粉砕されるのを防ぐ為には片足を犠牲にするしかなかった。
 だがそれでも、片足を粉砕してでも、
 ……この一瞬が欲しかった……!
 紅が激痛に耐えて器用に振り返るのと、紫が硬直を逃れて振り向くのは同時だった。

「――どうした紅。我に会いたかったのではなかったか」
「――どうしたのメリー。秘封倶楽部は休みだったの?」

 紅魔館に立つ二人、女性と少女は互いを見て動きを硬直させた。
 八雲・紫が居るはずの場所に沙夜が、八雲・紅が居るはずの場所に宇佐見・蓮子が居た。
 陰陽術”変化”。
 これは短時間だが、姿形のみならず気配すら変化させる詐術。妖怪を騙す為に陰陽師が練り上げた傑作の一つ。
 奇しくも八雲・紅と八雲・紫が同じ術で互いを騙そうとした瞬間だった。

「……!」

 先に我に返ったのは、蓮子(紅)だった。
 蓮子(紅)は見開いた眼で、瞬きを一つ。
 次の瞬間。
 残した右脚で地面を全力で蹴り飛ばした。
 全ては一瞬。
 生まれる動きは、踏み込みを必要としない身を投げ出す様な特攻だ。
 一瞬遅れて沙夜(紫)が動きを見せた。

「くっ――!」

 床の上の滑る様に一歩退いたのだ。
 しかし、出遅れた沙夜(紫)の一歩よりも後先すら考えずに飛び出した蓮子(紅)の方が速い。
 距離が潰れた。
 蓮子(紅)は右の片足で飛び出した為に左肩が下がり、体勢が崩れている。
 右肩から突っ込む形だ。
 だから、という様に蓮子(紅)は左肩が下がった分の距離をカタパルトとして利用。
 貫手を発射した。
 その際に前に出ていた右脇を締めれば、背筋を十分に生かした一撃となる。

「逃が、さんっ!!」

 全力で踏み出し、轟声を上げる蓮子(紅)から光が舞った。
 霊力だ。
 追い抜いた風に剥ぎ取られる様にして”変化”の残滓が霧散しているのだ。
 そうして姿を現すのは、満身創痍の紅だ。
 同じく紫も姿を取り戻している。
 そして、その口の端が怪しく歪む。
 笑みだ。
 紅が認識すると同時。
 紫は一メートルもない紅との空間に、扇子を下から縦に走らせ、叫ぶ。

「『――開け!』」

 異世界への扉を開き、勝敗を決する能力は、
 しかし発動しなかった。

「――――」

 紫は状況を一瞬で掌握。
 自分に問題が無いと確認し、即座に原因へと到達する。
 発動するはずの能力が発動していない。
 そんな事が出来るのは、

「……能力封印魔術!?」

 紫は驚愕を眼を見開くのみで押さえ込み、動く。
 続くの判断は一瞬。
 考えるよりも早く動いたのは本能だ。
 振り上げた腕を突き出し、

「『――四重結界!!』」

 蒼く輝く四枚の結界を一瞬にして起動。
 頑強な防御壁を展開する。
 しかし、

「――砕け!」

 紅の持つ『シヴァ』は対結界魔術具として最上の部類に入る。
 結界は手甲との接触と同時に破壊され、音が空気を振るわせる。
 響く音は硝子の破砕される音に近い。
 紅を阻む全ての障害は排除された。
 故に紅は確信する。
 ……勝った!
 貫手は標的へと運ばれ、

「『――“穿て”! シヴァ!!』」

 肉を貫き、砕き割りながら体内で真の効果を発揮した。


 ●

「…………どういう事だ……?」

 八雲・藍は呆然と呟いた。
 理性が理解する現実を本能が頑なに否定する。

「何故だ」

 倒れ伏す一人の少女。
 紅に肉体を穿たれた少女。
 ここに居るはずのない少女。
 その少女は、

「何故橙がここに居るんだああああっ!!」

 右腕が無かった。
 死に瀕する橙は、信奉する主の両の腕に抱かれている。
 自分には回復系の技能は無い上に式神を扱う能力は封印されている。
 しかし、主であるならば必ず救ってくれるという信頼がある。
 故に自分が為すべき事柄は邪魔をしない事のみ。
 そして、その行為に及ぶ可能性のある人物の、排除。
 或いはただの逃避だったかもしれない。
 それでも大義名分まで用意出来てしまうなら、抑えられるはずがなかった。

「紅――!!」

 咆哮と共に憤怒に猛り、翔ける。
 状況を俯瞰していたレミリアは阻止に動こうとして、

「……おねえ、さま……」
「――――」

 フランドールに衣服の端を摘まれ、紅と迷った。
 その迷いは、藍を見逃すのに十分な隙だ。
 藍はレミリアをかわし、射程に紅と捕捉する。

「しまっ――」
「ああああ……!」

 理性を押し込める激情を発露させ、突撃。
 対する紅は無防備に立ち尽くし、藍を見て口を開いた。
 音が生まれた。掠れた声だ。
 肉体に力は無く、しかし眼だけをギラつかせて、

「……八雲、藍」

 藍はそれ以上、何かを言われる前にぶん殴った。
 防ぐ事も避ける事もなく紅は吹き飛ぶ。
 いい様だ、と藍は思う。
 しかし、この程度で終わる程、藍の怒りは浅くない。
 追い縋り、捕まえ、馬乗りで殴った。
 手加減など微塵もない暴虐は筋肉を押しつぶし、骨を砕き割り、内蔵すらも破壊し、

「……紫、さま?」

 止まった。
 橙の声だ。
 か細く、今にも事切れそうな程に弱々しい橙の声は、藍を呼ぶのに十分すぎた。
 紅の事など一瞬にして意識の外に吹き飛ばし、橙の元へと駆ける。
 ……橙!
 向かった先で見たそれは、まるで触れ得ざるモノの様な光景だった。

「大丈夫、ですか……? もう終わったんですか? 橙と一緒に、居ても……大丈夫な、んですか?」
「――ええ。貴女のおかげでね。ありがとう、橙」

 母の如く慈愛に満ちた紫の雰囲気は聖母を思わせる。
 長年従者として生きてきた藍をして初めて眼にする優しさを携えた微笑み。
 神聖な絵画の様な情景は見る者全てを魅了する禁忌。
 アガペに触れた橙は、はにかんで言った。

「えへへ、……よかったぁ」

 安心して気が抜けたのだろう。
 言い終わると、眠るように気を失った。
 その直後。

「――藍ッ!」
「!」

 紫の一喝。
 そして、

「藍! 今直ぐ紅を連れてきなさい!!」
「はいっ!」

 常ならば感じられる優雅さ、或いは怪しさとでもいう、いわゆる”余裕”が全く無かった。
 有ったのは焦燥。
 八雲・紫という賢者が焦る。それは、
 ……それほど橙の容態が芳しくないという事!
 即座に飛んだ。
 紅の横に膝を着き、状態を診察する。

「……ち、まだ死ぬなよ」

 左足は付け根から欠損。
 胸筋と腹筋はスリ潰され、肋骨はそのほとんどが粉砕され、折れた数本が内蔵を傷つけている。
 更に、削り取られた様な小さな傷が無数にある。
 妖怪と言えども死んでいておかしくないレベルだが、

「関係ない。来てもらうぞ……!」

 頭髪を掴み、無理矢理引きずった。行為自体も手荒い。
 嫌悪、憎悪、怨恨。
 或いはそういった類の感情が働いたからかもしれない。
 橙を瀕死の状態に追いやったのは、紅なのだから。

「――紫様」

 声を掛けると同時。
 乱暴に紅を放り投げる。
 片方しか残ってない足は床に投げ出されたまま、頭だけが放物線を描き、床に激突。
 丁度、紫の前だ。
 紫に動きはない。

「――紅。今すぐ魔術を解除なさい」

 橙に話しかけたのとは全く違う温度の無い声音で紫が言った。
 視線だけで紫を見上げる紅は口を開き、

「……っ、い……は……」

 音は声にならなかった。
 肺の損傷と、気道も傷ついているかもしれない。
 そこで紫が動きを見せた。
 紅の喉から胸部に掛けて、手をかざしたのだ。
 掌に淡く儚い乳白色の光が灯り、触れた部位を修復していく。紅が使った物と同じ陰陽術だ。
 紫はゆっくりと這わせていた手を離し、
 
「これでいいでしょう。もう一度だけ言ってあげる。魔術を解除しなさい」

 紫の眼下。
 紅は唾液を飲み下すなどをして、幾度か調子を確かめてからこう言った。

「……能力封印の魔術なら、既に解けている」

 眉を立てた紫は、横の空間にスキマを開き、

「なるほど」

 境界能力の発動を確認して呟いた。
 次に橙の腕の無くなった右肩に手を置いて眼を閉じる。
 失った右腕は時間を掛ければ再生する。
 それが妖怪だ。
 しかし、橙は元々がただの猫。それ故に出血が致命的になる可能性がある。
 なにより衰弱が酷い。
 このままでは間違いなく橙の体力が保たない。
 だから紫は橙に備わる治癒力を一時的に高める事で腕ごと治そうとして、

「!?」

 有り得ない現象に眼を剥いた。
 橙の失われた右腕が少しずつ再生するのではない。
 傷口が塞がってしまった。
 妖怪の再生能力は人間の比ではない。半人半妖の紅を見てもそれは明らかだ。
 それなのに腕が再生せず、傷口から塞がってしまうという事は、

「これで全快だと言うの!?」
「なっ、どういう事ですか紫様!」

 藍は想定外の事態に
 紫は歯を噛みしめ、紅を見た。

「く……。紅、貴方何をしたの?」
「答えろ! 紅!!」

 紅は珍しく取り乱す紫を一瞥し、眼を伏せた。
 そして、乾いた笑いをこぼし、

「は、ははは、これは勝利……か?」
「この状況で戯れ言を言えるとはね。敗者は潔く頭を垂れなさい……!」

 苛立ちを隠させない様子の紫に対して紅は、とても穏やかだった。
 それが更に紫を苛立たせる。

「そうだな。目的を達したとは言え、私は動けず、君らはまだ戦える。明確な結果だ」
「――紅!」

 同時。
 藍が叫び、鋭利な刃と化した爪を喉元に突きつけた。

「お前がしていいのは回答だけだ! それ以外の答弁をするな!!」
「ああ、そうだったな。何が聞きたい……?」

 完全に生殺与奪の権利を握られていながら、紅は不思議な程に穏やかだった。
 藍は思う。
 水面に揺られているかの様だ、と。
 この状況下で、異常なほど穏便で居られるのは、死が訪れないと思っているか、
 ……死を受け入れているか、だ。
 もしそうであるなら、生命を対価とする脅迫は意味を成さない。
 ……どうする!?
 そこに声が来た。
 その声には驚愕と、それ以上の烈火の如き怒りがあった。
 紫だ。

「……紅、貴方……!」
「流石は八雲・紫だ。気付いたか。……ごふっ、ぐっ……。だ、伊達に、境界を操る能力を保有してる訳ではないか」

 簡易の治療を一部に施されただけであり、途中せき込みながら紅は感嘆を言葉にする。
 八雲・紫への純粋な賞賛だ。
 だが、紫は顔をしかめて、

「…………魂まで”破壊”したのね」

 ●

「――魂?」

 藍が疑問をオウム返しに口にした。
 返す様に紅は口を開き、

「細かい疑問は時間の無い今は置いておこう。結論として、右腕を魂ごと破壊された橙を“通常の手段”で治す事は不可能だ。――魂に手を入れるのだからな」
「……」
「そこで取引だ、紫」
「……。何?」

 観念する様に紫が聞き返した。
 それは間違いなく紅が引き出した対等という立場であり、権利。

「大した事ではない。この異変の首謀者はレミリアかもしれないが、ここまで大事にしたのは紛れもない私だ。引責は私だけで頼む」
「な――」

 声を漏らしたのは、レミリアだ。
 だが、紅は続けて言う。

「レミリア。二度言わせないでくれ。この場で口を開く権利は私のものだ」
「ふざけないで! 私はこの紅魔館の主、スカーレット家の当主!! その私を置いて引責なんてさせる訳ないでしょう!?」

 紅はレミリアの言葉を聞いて、優しい子だと、そう思う。
 この子がスカーレット家に生まれなければ。
 義務を伴った巨大な一族に生まれなければ。
 自由を謳歌する権利と共に生まれたならば。
 ……きっと、穏やかに死ねただろう。
 或いは、それを望まず今のように奔放に生きるかもしれない。
 内心で苦笑を押し殺し、言った。

「藍、交渉の邪魔だ。黙らせてくれ」
「誰が貴様なんかの――」

 紅の”指図”を受けて鼻白んだ藍は、当然反発する。
 大切な橙を傷つけた怨敵だ。素直に聞くはずもない。
 しかし、紫が静かに藍を見て、

「藍」
「……分かりました。――黙れ吸血鬼。これ以上喚くならもう一人の安全は保障しない」
「……ッ」

 歯を噛みしめ、レミリアは黙らされる。だが意志だけを屈しまいと鋭く紅を睨みつけた。
 レミリアに睨まれながらも紅は微笑んだ。
 それが、優しさだと知っているからだ。
 紅は意識を切り替え、紫を見る。
 彼は感情を込めずに淡々と問う。

「で、返答は?」
「却下よ」
「ふむ」

 下された判断に紅は頷き、何も言わない。
 紫には時間が無いからだ。
 時間を掛ければ掛けるだけ橙の危険が増していく。
 不用意な事は出来ないと誰もが理解している。

「と言いたいけれど、時間がないわ。現状では全て保留し、後日第三者を交えて交渉。それでいいわね?」
「ああ。ただし今すぐに誓ってくれ。交渉の結果は必ず私と共同で公表すると」

 紅としては、先に治療を施して無かった事にされる訳にはいかない。
 だが、正式に宣誓として幻想郷に対して伝わったならば問題はないと判断出来る。
 もしも破られれば八雲の名声は地に落ち、lあらゆる妖怪が八雲勢力に敵対とまで行かずとも友好的ではなくなるだろう。
 この提案を断ってもそれは同じ事だ。
 公正さを欠いた行動を取る者について行く馬鹿は居ない。
 交渉でどうなるかまでは推測になるが、紅は取りあえずの余裕と、武力に裏付けされた対等のテーブルに座るだけの権威も手に入れている。
 そこまで悪いようにはならないと理解した上での発言だ。

「ええ。八雲・紫は、その名に誓い、公正かつ厳正な判断を持って判を下し、その結果を幻想郷に報告するわ」
「――感謝する」

 頭を下げる動作が出来ないので、眼を伏せる事で謝意を提示する。
 それが終われば、やはり感情を見せずに紫が言う。
 今成すべき橙の治療についてだ。

「じゃあ橙を。実際はどうするつもり? 魂を直接どうにかする術があるとでも言うのかしら?」
「無い訳ではない、と言っておこう。だが臨床実験になる」
「却下ね」
「当然だ」

 と、紅はほとんど動かぬ身体で、被害の少ない右腕を突き出し、

「――持っていけ。この場に居る妖怪で、腕を移植しても橙が侵されずに済む程度なのは私だけだ。スキマで魂ごと切り取り、形を整えて使うといい」

 紅が提案するのは、無いなら余所から持ってくるという単純な手法。
 肉体を移植する。
 妖怪の肉体で行う移植は人間と比べて危険という比ではない。無謀に近い暴挙だ。
 自分よりも強い妖怪の肉体を移植すれば、その妖気に侵され、最悪自我が崩壊する。
 逆に弱い妖怪を使えば、自身の大幅な弱体化に繋がってしまう。
 そして妖怪としての性質が違いすぎる場合、基本的に変質してしまう。どの様に変化するのかは未知の領域だ。
 故に紫は顔をしかめて、言った。

「いえ、親和性に不安があるわ。橙は猫で貴方は人間。それも妖怪の血を受け入れた特殊」
「――私の中の血は人間と、半妖の妖狐が二種、純粋な妖狐が一種。内二種は体型も橙に近い時期に受け入れたものだ。イヌ科だが同じネコ目だ。そう違いはあるまい」

 問題はあるか、と続けて紅は言うなり黙った。
 僅かな間、紫は押し黙り、

「…………激痛よ?」
「覚悟の上だ」

 そう、と言って紫は扇子を紅の右肩に添える。
 そして紅の眼を見て、こう言った。

「馬鹿ね。――貴方のそういう所が大嫌いなのよ」

 同時。
 肩と腕の間にスキマが開いた。
 一瞬にして紅の右腕がスキマの中に飲み込まれ、消えていく。
 その直後。

「――があああああああッ!!」

 脳が右腕の切断を訴えてくる。
 生命が魂の切除を訴えてくる。
 余りの激痛に気絶と覚醒を繰り返し、その度に生への執着が削られてゆく。
 魔術を封じられた紅は痛覚を緩和する事も出来ない。
 死ねば楽になれるという甘言すらこぼれてくる。
 ……それだけは出来ない……!
 紅はただ繰り返す。
 忘れるな。
 目的を。
 忘れるな。
 生きる意味を。
 忘れるな。
 ――待つヒトが居るという事を。
 次の瞬間。

「!?」

 痛みが消えた。
 余りの仰天に表情すら動かせずに思う。
 ……どういう事だ?
 視線を巡らし、確認する。
 紫は橙をスキマに飲み込んでいる。
 藍はレミリアとこちらを監視している上に、驚きを隠せていない。
 紅魔館組も同様だ。
 つまり、この場に居る者の仕業ではない。
 ……なら誰が……!
 紅が考えに耽る時、謁見の間の扉が乱暴に開かれた。

「――全員動くんじゃないよ!!」
「!」

 当代博麗の巫女、博麗・妙。
 啖呵(たんか)を切った彼女は常とは異なった様相を(てい)していた。
 右腕は複雑に折れ曲がり、大小様々な(あざ)が目立つ。
 左足を地に着く時も余り体重を乗せない様にしているが分かる。
 それでも尚、彼女は吸血鬼の前まで危なげなく歩を進め、言った。

「アンタがこの異変の首謀者かい?」
「ええ、私が紅魔館の主。レミリア・スカーレットよ」

 腕の中のフランドールを撫でながらレミリアが答えた。
 紅は思わず、待て、と遮ろうとして、

「――――」

 紫が口を塞いでいた。
 ただ手を当てるだけだが、今の紅に逆らう力が無い。
 ……黙れというのか貴様ッ!
 憤慨を視線に載せて訴える紅を無視して紫は口を開いた。

「待ちなさい、妙」

 呼ばれた巫女は視線を動かさずに、

「なんだい紫」
「事を収めたのは私。事後処理は任せて貰うわよ」
「はン、妖怪が妖怪を裁くってのかい? 道理が無いねぇ。妖怪は人間を襲う。人間が妖怪を払う。それだけの関係であり、妖怪に横の繋がりは無いはずだろう?」

 違うわ、と前置きして紫は続けた。

「道理が無いというならば、人間に直接被害の無い今回の異変に置いて調停を司る“博麗の巫女”が出張る方にこそ、道理が無いわ。妖怪同士の(いさか)いは妖怪に任せろ、と言っているの」
「…………チ。ま、いいさ。博麗の巫女は異変を収めるまでが仕事。今回は間に合わなかったし、譲ってやるよ。ただし」

 妙はゆっくりを眼を紫へと向けて、

「贔屓なんかがあったら容赦しない」
「好きになさい」

 紫は言うなり、スキマを開き、妹を抱きしめるレミリアに視線を向けた。

「レミリア・スカーレット。妖怪の山にも手を出していたわね? 天魔との協議の後、沙汰を下す。――紅。貴方もよ」

 言われた二人は各々で肯定の意を示し、

「ええ、大人しく待つわ」
「私は私で行動する。そちらで捕捉してくれ」
「そう。何処へでも失せなさい。今日限りで貴方から八雲の名を剥奪よ。――それでは御機嫌よう」

 言いたい事だけ言って、紫は藍を連れてスキマに消えた。
 いままで戦闘していたのに、随分あっさりとした去り際だと言えるだろう。
 状況の推移を見届けた妙は、一息。

「――やれやれ。やる事がないね、あたしゃ帰るよ」

 誰に言うでもなく呟き、扉から退出していった。
 敵対していた人物が消えて若干の静寂が生まれた。
 室内で意識を残す二人は視線を交わし、

「……負けたのね、私達は」
「……負けたとも、我々は」

 レミリアは一度俯き、そして穴の開いた天井を仰ぎ見て、

「私が領主として生きる必要はないのね」

 紅は紅でしかない。
 だからレミリアがどういう意思を支えに、どういう信念を抱いて生きてきたのかなどは分からない。
 しかし、空虚に言った言葉が虚空に溶ける前に言える言葉を持っている。
 それは、

「スカーレット家の当主という立場こそ消えないが、領主ではない。レミリア・スカーレットという個人がここに居るだけだ」

 紅は息を吸う。

「――君は自由だ」
「――――」

 呆然と、レミリアは紅を見た。
 戸惑いや驚愕、疑念の入り交じった表情が見て取れる。
 決して得られなかった個人としての自由。
 しかし突然の自由は、束縛に等しい。
 だから、紅は言った。この異変を利用させてもらった恩は返そう。

「君は君として、したいように生きればいい。最低限のルールさえ守るなら、幻想郷は楽園だ」
「……らく、えん」
「誰も君を束縛しない。ここが妖怪にとって安住の地である限り、な」

 レミリアは答えない。
 カーテンの焼き切れた窓から差し込む月光と、星空を見ているだけだ。
 だが、それでいい。
 己で考え、受け入れる事こそが肝要だ。

「『――癒し賜え』」

 紅は最後に残った僅かな霊力を使って、陰陽札を発動。最低限の治療を施した。
 ……いくらかは歩けるか。
 自身の状態を確認し、ゆっくりと歩き出す。
 レミリアはもう大丈夫だろう。これ以上は必要ない。
 あとは、自分の目的地へと辿り着くだけでいい。

「さあ、行くか」

 ●

 紅魔館を出て、北へと足を向けて紅は歩く。
 湖の孤島から唯一陸続きの狭い道だ。
 霧の湖の直中(ただなか)を行く道の為、特に多くの妖精が姿を見せる場所でもある。
 しかし、珍しく妖精の姿が無い。
 紅魔館での強大な妖気の衝突を感じたのだ。ほとんどの妖怪、妖精も危険を察知し、一時的に避難している。
 ……もし居たら、やられたかもなぁ。
 負傷に悲鳴を上げる身体を無理矢理歩かせる紅の速度は遅い。
 人間がただ歩く速度にも劣っている。
 ようやく対岸に辿り着いた時には、既に1時間が経過していた。
 そして、紅は見た。
 霧の向こうに大きな影のシルエットを。

「……俺に、何か用か?」

 一歩近づく度に少しずつ視界が開け、影が姿を取り戻していく。
 一歩、また一歩。
 ゆっくりと歩み続ける。
 そして何歩を進んだときか、紅の瞳に妖怪の姿が映し出された。
 そして、耳に残る深い声が言う。

「――見事だった」
「……戒良」

 かつて、大結界騒動で紫に鎮圧された集団の一匹、犬の大妖怪・戒良がそこに居た。

「確かに貴様は実力を証明した。なおかつ、八雲・紫を打ち倒す可能性すら示した」
「……どいてくれ。行かなければならない」

 紅は歩みを止めない。
 歩き続ける紅は、戒良に口でくわえられ、

「!」

 上へと放られた。
 なにを、と抗議の声を上げようとして、紅は見た。

「――――」

 戒良の背に、乗せられていたのだ。

「故に貴様に敬意を示し、我が背を許そう!」

 戒良は大きくほうこうして、言った。

「場所を言え! 貴様が死する前に送り届けようぞ!!」
「……!」

 紅は驚いたが納得する。
 状態を見れば、紅は生き残るとは思わないだろう。
 つまり、これは可能性を示した同志に対する最後の友誼だ。

「そう、か。ならば、白玉楼へ」

 紅は首から上だけを北に向け、

「あそこに行けば、私は死なん」

 白き獣が空気をかき分けて突き進む。

 ●
大変遅くなりました……。

オンゲとか信長の野望とかelonaとかがいけないんや
いえ、毎日20時にならないと帰宅できない状況なのに遊ぶ俺が悪いんですけど。
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