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人脳牧場 作者:21世紀の精神異常者
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狂気の天才、ニューマン博士誕生

西暦2025年1月。
アメリカ合衆国、東海岸、ボストン、人工知能学会 国際シンポジウム会場。

会場の廊下を、長身のハンサム青年が、背が低く、極度の猫背で見るに堪えないほど醜い顔をした中年男と歩みをともにしていた。
「どうかね、ティム、今年の学会のレベルは?」
醜い男が、しわがれた声で、青年に話しかける。その声は小さく、ぼそぼそとしており、慣れない者には、およそ聞き取りがたいものであった。
「そうですね。皆、誇張した内容で研究成果をひけらかし、大げさなパフォーマンスで聴衆の関心を引き集めようとしているのが有り有りと感じ取れます。研究資金の調達目的というのが見え見えです。予想通りというか、期待外れというか、思ったほど進歩していないのが実情ですね、ニューマン博士」
青年は、自信に満ちた表情で、期待外れな様子を、両腕を広げ表現する。彼の名は、ティモシー・ペンドルトン。ニックネームはティム。去年、アメリカ屈指の工科系名門大学院を卒業したばかりの白人青年である。そして、天下に名高いIT企業、クールG社から三顧の礼を持ってスカウトされ、ニューマン博士とともに、画期的な人工知能の開発に邁進している。
彼は、才能豊かな若者の例に漏れず、堂々と立ち居振る舞い、年功が上の博士とも対等に接する。彼のラフな服装も、場に物怖じしない、リラックスした雰囲気を醸し出している。人工知能の世界において、彼は、確固たる自信を持っている。
もう一方の醜い中年男は、ゲルハルト・ニューマン。脳科学と人工知能、両方の博士号を取得している天才科学者だ。彼は、クールG社において、独自の人工知能開発の指揮を担っている、ティムの上司だ。しかし、彼は、学会において、全く無名な存在だ。
ティムは、博士に対し、自身に満ちた態度で受け答えしていたが、実は、内心、若干の危機感を抱いていた。ライバル達の研究の進捗は、思いの外、順調に進んでいるようで、うかうかしていてはいられない。少しでも油断をしていると、足下をすくわれかねない。そのような思いを今回の講演内容を見ながら感じ取っていた。
しかし、自分は、これらライバル達を打ち負かすべく、クールGに招かれた者であるため、決して弱気な態度は、表に出してはいけない。彼なりのリーダーシップを発露していたのである。自分の心構えに対し、尊敬する博士を失望させないために。
博士は、瓶の底のように分厚い眼鏡を手で押さえながら、デジタルパンフレットに目をやり、次に聞くべきセッションを確認しながら、ティムに話しかけた。
「そう、その通りだよ、ティム。我々研究チームは、こんなくだらないレベルの奴らなど、相手にしないことだ。ただ、世の中のトレンドだけは、常に把握しておくべきだ。あまりにも先を行きすぎると、CEOが我々の研究を理解できなくなるからね。そうなると、こちらの研究資金に支障が出て、困りかねん。馬鹿馬鹿しいが、ある程度、世の中の歩調に合わせなければならない。研究の陣頭指揮を執る私としては、そこまで目配りをしなくてはいけないのだ。ティム、君もいずれ、私と同じ立場になる。そのために君を連れてきたのだ。分かっているね?」
博士にとってティムは、大のお気に入りである。いや、お気に入りどころか、恋人と言っても過言では無いほど、ティムに対し惚れ込んでいる。この学会は、博士にとって、恋人とのデートの場の様なものであった。
博士は、ティムが大学で初めての論文を発表した頃から、目をかけていた。彼には、常人では理解できない才能が備わっている。自分自身が天才だからこそ、ティムも天才であることを理解できたのである。天才が天才を知ると言うことだ。その秘めたる才能を伸ばすことこそが、博士が進める研究の成功につながると確信していたのだ。博士が求めていた、ジグソーパズルの最後のピース、それこそがティムであった。
以来、博士は、再三再四、ティムと連絡を取り合い、やっとの思いで、彼を口説き落とし、研究チームの一員とすることに成功したのであった。こんなことは、博士の生涯において、初めてのことであった。余りにも醜い容姿が、博士のコンプレックスであり、幼少期から人に蔑まれ続けてきた。その為、人付き合いを極度に苦手としていたのだ。そんな博士が、口説き落としたのだから、よほどの決心を持ってアタックしたのであろう。博士にとってティムは、長年待ち焦がれていた恋人の様な、かけがえの無い存在である。
博士が、次のセッションにティムを誘う。
「こいつら、フェイマス社が、我々の、最大のライバルに育つ可能性が一番高い。あくまでも可能性だが、聞いておいて損はないと思うよ」
二人が出向いたセッションの会場では、次のような説明が繰り広げられていた。
「皆さん、シンギュラリティー(人工知能が人類の知能を追い越し、超知性が出現するタイミング)は、思っていたよりも早く到来するかもしれません。かの、カーツワイル博士は、その時期を2045年と予測していましたが、我々は、それを前倒しで実現できることを確信しています。何故なら、――――」
博士が呟く。
「どいつも、こいつも、シンギュラリティーは、自分が実現させると、根拠のない自信を抱いている。何とも、滑稽なことだ」
ティムが相づちを打つ。
「皆、自分達の研究が、NASAやペンタゴン(アメリカ国防省)より進んでいることを自慢したがっていますね。だが、本当のライバルは、彼等ではないことに気がついているのでしょうか?」
不敵な笑いで、博士が答える。
「気付いていまい。我が社、クールGもライバル視されているようだが、我々、影の存在に気が付いている者は、皆無だろう」
影の存在。博士が率いる人工知能の研究チームは、クールGの中では、主流から外れている。余りにも奇抜で思わず身を引きたくなるようなアイデアであるため、世間に公表することが、はばかれていたからである。
そのため、学会発表することも、特許出願することも禁止されている。世の中に、彼等の存在が知られてしまうことは、クールGにとって大変、世間体が悪いのである。
しかし、彼等のアイデアは、世の中をひっくり返しかねないほどの驚異的なポテンシャルを秘めている。クールGは、彼等に潤沢な研究資金を与え、そのポテンシャルを開花させる道を選択した。言わば、クールGにとって彼等は、秘密兵器、最終兵器的な存在なのである。
次のセッションでは、以下のような説明がなされていた。
「来たるべきシンギュラリティーにおいて、我々人類は、細心の備えを怠るべきではありません。人工知能は、まるで我々がネズミを見下すがごとく、人類を見下すことでしょう。そのときは、我々が増えすぎたネズミを駆除するのと同様に、人工知能が人類を駆除する危険性を孕んでいます。この時において、人類は、如何様に対応すべきかが、今、問われているのです。そこで私たちは、新しい人工知能倫理規定を、ここに提案します」
博士が呟く。
「性懲りもなく、人工知能脅威論が幅をきかせているな。どいつもこいつも全く進歩していない」
ティムが答える。
「我々は、既にその答えを導き出しています。彼等は周回遅れですね」
博士は、次のセッションにティムを導く。
「こいつは、聞いておいた方が良いかもしれない。日本人の物作りには、定評があるからね。実にユニークな発想だと思うよ」
人工知能の開発の本場は、アメリカ西海岸、いわゆるシリコンバレーである。それに対抗すべく、世界各地でも人工知能開発に力を入れていた。アメリカ東海岸、ヨーロッパ、中国、そして、日本。日本において、人工知能は、独自の進化を遂げようとしていたが、世界標準を獲得するにはほど遠い成果しか上げられてはいなかった。いわゆる、ガラパゴス化である。だが、博士の目には、そのガラパゴス化が新鮮に映るのであった。
「我々が開発した3Dニューロ・チップを使うと、これまでとは異なる、新たな世界が見えてきます。これは、人間の脳ニューロンが持つ情報処理能力の上をゆく、全く新しい思考パターンをも構築することが可能でしょう。まさしく、このチップの上に超知性が宿るのです。我々は、シンギュラリティーの到来を2035年に前倒しすることさえ、可能と考えております。その根拠として、――――」
博士が、薄笑いを浮かべ、笑い声が上げるのをクッ、クッ、クッと堪えながら、ティムに囁きかける。
「何とも勇ましい発表だ。今回の会議の中で、最も馬鹿げた発想だと思うが、君は、どう思うかね?」
ティムが、答える。
「ハードウェアのアイデアには、目を見張る物がありますが、それに対して、ソフトウェアが余りにもお粗末ですね。折角のハードウェアを全く生かし切れていません。見ていて、痛々しいです。この世界は、ソフトウェアの出来が、勝敗を左右する。自分達が、世界の潮流から大きくズレていることに全く気が付いていない。だから、ガラパゴス化するのです。それにしても、2035年とは、大きく出たものですね」
ティムも笑いを堪えながら、両手を広げ、馬鹿馬鹿しさをアピールする。
博士の話が続く。
「ところで、ティム。我々の予定だと、シンギュラリティーはいつ起きるのかな?」
「からかわないでくださいよ、博士。いつもの合い言葉じゃないですか。シンギュラリティー2030です」
「その通り。2030年だ」

西暦2027年9月。
アメリカ、シリコンバレー、クールG社 某研究室。

「随分と、長い間、眠っていたようだ。暗い、何も見えない。ここは、どこ? どうなっているの? 助けて、ママ。怖いよ、寂しいよ」
研究室中央にある円柱形をした水槽に、人の脳が浮かんでいる。脳は、灰白色をしていて、まるでホルマリン漬けの標本のようだ。脳外科手術で見る、ピンク色がかった、生命力は、感じ取れない。しかし、それは、この脳を流れる人工血液の色のせいであり、この脳は、立派に生きている。
この脳を縦に取り囲むように、?マークの形をした金属製の薄い板が備え付けられており、これが脳を支えている。よく見ると、その板より、無数の電極が出ていて、脳へとつながっている。
その脳が入った水槽を取り囲むように、白衣を身にまとった男女5名が立っていた。
「ザー、かせ。ズザッ、ニューマ、ザザ」
「何か聞こえる。誰?、話しかけている。怖い、寒い」
「ニューマン博士、聞こえますか?」
その声の主は、この研究室のリーダーを務める、エレナ女史であった。彼女は、天才脳外科医。イタリアなまりの英語で、脳に話しかけている。
水槽に浮かんでいる脳は、ニューマン博士の変わり果てた姿であった。
「おおっ、その声は、ドクター・エレナ。ぶす。メス豚」
「ほほほ、そのメス豚よ。ご機嫌は、いかがかしら?」
エレナは、引きつった笑顔で、言葉を返す。
「その声が聞こえるということは? クソ、ファック、やった、成功したのか? ぶす、メス豚」
多少、不機嫌な顔をしつつも、勝ち誇ったように脳を見下ろし、エレナは、宣言する。
「手術は、大成功ね。嬉しいわ」
エレナの他のメンバーも、満面の笑みを浮かべ、この世紀の大成功に沸き返った。
ティムは、親愛なる博士と再びコミュニケーションが取れるようになったことを心の底から喜んだ。博士が手術に入るとき、これが最期の別れになるかもしれないと、とても心配していたからである。
ティムは、エレナ同様、研究室のリーダーとして、このチームを引っ張ってきた。博士の復活を信じて、来る日も来る日も、この日のための準備に全身全霊を傾けてきたのだ。
「博士、聞こえますか? ティムです。ティモシー・ペンドルトンです」
「おおっ、ティム。クソガキ、生意気。聞こえているとも。やったぜ。完璧だ。ざまあみろ、くそったれ」
その会話を聞きながら、研究室の皆が、にやにやしている。
途切れることなく、博士の声が、その場に響く。
「嬉しいぞ、ティム。クソガキ、青二才。やった。俺の方が上だ。ファック」
しかし、次第に、博士の声が、上ずってくる。
「何だ、思っていることが、シット、全部、ぶす、音声に出てくる。貴様ら、ファック、やりやがったな! この野郎、シット、全てを音声に、やめろ、馬鹿、恥ずかしい」
この技術は、博士の脳に浮かび上がった言葉を、すべて抽出し、翻訳、加工を行い、音声に変換しているのだ。
「ああっ、止めろ。シット。ファック。音声を、くそっ、人工声帯に、馬鹿野郎、切り替えるのだ、ぶす、メス豚。考えるな、シット、だめだ、言葉が止まらない」
博士がパニックになっているのを横目に、エレナが音声を人工声帯に切り替える。
エレナが優しく、博士の脳に話しかける。
「これで良いかしら? 坊や」
しばし、沈黙が続く。しかし、研究室の皆は、まだ、笑っている。
「うーっ、あー、あー。よし、人工声帯に切り替わったぞ」
博士は、ようやく落ち着きを取り戻し、ゆっくりと話し始めた。
「手術は、大成功だったな。エレナ、礼を言うよ。ありがとう。他の者達も、よく頑張ってくれた。実験は大成功だ」
脳が入った水槽の上に設置されている、縦長のディスプレイに博士の笑顔が浮かぶ。しかし、この顔は、人工的に作られた物だ。博士の表情筋を動かす脳神経の信号を読み取り、表情を再現しているのだ。
しかし、ディスプレイに映し出されている博士の顔は、まるで別人だ。微かに、博士の面影を残しているが、かなりイケメンに加工されている。これは、博士が希望したもので、プログラマーに予め命令しておいたのだ。これで、今までコンプレックスを感じてきた、醜い容姿ともおさらばだ。
しかし、博士を取り囲む、皆の嘲るような笑い声は、途絶える様子が無かった。中には、腹を抱えて、笑い転げているのもいる。
「ん? 貴様ら、何を笑っているのだ。ああ、分かったぞ。まだ、俺の頭の中をモニターで覗いているな! 止めろ! これでは、会話が成立しない。止めるんだ」
ティムが、博士を落ち着かせるように、皆に命令をする。
「皆、博士の言語野の情報を、覗き見しないように。良いか、見ることができるのは、一部の者だけに制限する。これで良いでしょ、博士」
ばつが悪そうに、博士が答える。
「ありがとう、ティム。しかし、もう手遅れだ。私の人間性が、――――。これまで築きあげてきた私のイメージが台無しだ。恥ずかしい。恥ずかしいぞ、ティム」
ティムが博士を慰める。
「何を言っているのですか、博士。逆ですよ。みんな博士に対して、親近感を持ちましたよ。今まで機械のように強面だった博士が、こんなに人間くさい面があるなんて。正直、尊敬し直しました」
「そう言ってくれると、ありがたいが、――――」
博士は、しばらく考えた後、こう述べた。
「私の言語野を全てモニターするよう提案したのは、他でもない、この私だ。しかし、何の目的でそうしろと言ったのか、そこを理解した上でモニターして欲しい。諸君、我がクルーGの社是は何か復唱してみよ」
研究室にいる皆が、声を合わせて唱和する。
「邪悪な存在になるな」
「よろしい、それを忘れるな」
博士は、そう言い終わると、人工声帯を使って、精一杯の高笑いを上げた。
「わっ、は、は、は、は、は―――――」
それは、今回の実験成功に対する、勝利の雄叫びであった。
エレナが博士に近づきながら、話しかける。
「博士、お目覚めから、かなり会話を続けました。慣れない会話で、もう、疲れていませんか?」
博士は、エレナがかけてくれた優しい言葉に感謝する。
「ありがとう、エレナ。正直、疲れてきた。言語野をモニターされながら会話するのには。ゆっくり時間をかけてリハビリするのが良いと思うよ。ところで、私は、どのくらい眠っていたのかな?」
「約8ヶ月。241日ですよ」
「そうか、8ヶ月ぶりの覚醒か。それだと、疲れるのも分かる。お休みエレナ、しばらく眠らせてくれ」
「お休み、博士。今度は、人工網膜の試験よ。それまでゆっくり疲れをとってね」
博士は再び、深い眠りへと落ちた。
エレナは、眠りにつく赤子を見届ける母親のように、優しく微笑む。
彼女は、エレナ・フィオーレ。イタリア出身の天才脳外科医。年齢は、女性なので伏せておくが、一応、二人の大きな子供を持つ母親だ。
彼女は、博士とは、脳科学者として旧知の間柄で、このプロジェクトへ参加させるべく、博士が招聘した。博士は、彼女のことを、良く理解していた。この様な、狂気じみたプロジェクトに進んで協力してくれる脳外科医は、残忍な彼女を置いて他にいないことを。彼女は、博士の申し出に、飛び付いてくれた。博士の思惑通り、強烈なエクスタシーを得ることを目的に、海を超えてやって来たのだ。
そう、彼女にとって、今、この職場は、極上の環境、パラダイスなのだ。

「博士、人工網膜の感触はどうですか?」
エレナが新たな試験を開始する。人工網膜とは、カメラのイメージセンサーで受け取った信号を脳の視覚野に送り込む装置だ。これにより、正常な人間と同じように画像を認識することが可能となる。
博士は戸惑いを隠せない。
「何かが見えている。それだけは分かるが、ただ、それが何かまでは認識できない。一体どうなっているのだ? 人工網膜には、更なる改良が必要ということなのか?」
ティムが心配無用のごとく、受け答えする。
「まだ慣れていないだけですよ、博士。もうじき馴染んでくれば、認識できるようになるはずです。これまでの動物実験でも、それは証明されています。焦らず、簡単なパターン認識からスタートしましょう」
彼等は、簡単な図形をカメラの前に置きながら、訓練を続ける。
「これが、丸。これが四角です。違いが分かりますか?」
博士が唸る。
「なるほど。こうやって、視覚を覚えてゆくのか。まるで、赤ん坊が物を見分けられるように、成長するがごとくだ。楽しいぞ! 何てエキサイティングな体験なのだ」
試験の間、しばし、博士のはしゃぎ声が響き渡る。
一連の試験を終え、博士は、手応えを得たようだ。未だ、一昔前の、ブラウン管テレビにノイズが乗った様な解像度の認識力だが、訓練を続けて行けば、いずれは、人間と同等以上の認識力を身につけることも可能であろう。そして、エレナに質問をする。
「確か、人工網膜は、赤外線レベルまでモニターできるはずだったな?」
「その通りですよ、博士。それが何か?」
博士が恥ずかしそうに質問する。
「下世話な話になるが、赤外線認識が可能になれば、その、光の強さ、角度にもよるけれども、それはつまり、薄着の女性であれば、下着の下まで見えてしまう、そういうことになるのか?」
エレナが笑いながら答える。
「訓練次第では、可能でしょうね。私の裸が見たい、博士?」
博士が慌てる。
「い、いやっ、それだけは勘弁してくれ。マリアのであれば、見てみたい気もしないわけではないが」
マリアとは、研究チームの中で一番若い女性だ。理系女子のご多分に漏れず、お世辞にも美人とはいえないが、なかなかグラマラスな体型をしている。女性に縁のなかった博士にとって、目の前で女性の裸が拝めるとは、誠にありがたいことであった。
一方、エレナは、四十路の子持ちのおばさんだ。体型もぽっちゃりで、博士でなくとも、裸を拝みたい人は、あまりいないであろう。
ティムが、笑いながら話しかける。
「博士、脳だけの状態から、聴覚、視覚と機能アップしていって、嬉しそうですね。でも、まだまだこれからが本番ですよ」
「ああ、分かっている。どんどんと機能アップをしていって、いずれは人間を超える能力を手に入れてみせるぞ。そうだとも、我々が目指すのは、超知性だ。それを脳の機能を拡張することで実現させる。それが、もうすぐ現実のものとなるのだ」
ティムは、そんな博士のことを誇らしく思った。
「さすが、さすがですよ、ニューマン博士。人類初となるこの実験。それを、自らが実験台となることで、証明してみせる。最初はどうなることかと、正直、心配で心配で、夜も眠れませんでした。しかし、それをやり抜く勇気に、私は、本当に感動しています」
愛弟子から、賞賛の言葉を贈られ、博士もまた感動していた。しかし、博士は、まだまだ満足はしきれていない。
「早く大脳機能の拡張を試してみたい。人脳と電脳をつなげたときに、一体、どのようなことが起きるのか、興奮してきた。押さえきれない。ティム、今後のスケジュールは、どうなっているかね?」
ティムが、子供のおねだりを焦らすかのように、ゆっくりとした口調で、話しかける。
「慌てないでください、博士。急ぎすぎると脳がパンクしてしまいますよ。焦らず、一歩ずつ、進んでいきましょう。聴覚、視覚と進んだ次に、人工海馬のテストを行います。人工海馬の先には、お待ちかねの電脳接続が待っています。ここが、今研究の最初の山場です。電脳との回路を徐々に解放してゆき、人脳が馴染む課程を注意深く観察してゆく必要があります。それこそ、人脳がパンクする危険性を孕んでいますので、慎重に慎重を重ねて進めてゆく必要があるでしょう」
しかし、博士は待ちきれない。
「人工海馬は、プロトタイプが完成したようだな。性能テストでも期待通りのパフォーマンスを発揮しているそうじゃないか。いつ、私の脳に繋いでくれるのかね?」
「再来週には、接続可能となりますよ。それまでは、視覚の機能を、強化させていってください。マリアの裸が見られるようになるまで」
ティムは博士をからかうと、人工海馬の最終試験があるからと言い残し、他の研究室へと去って行った。
「再来週か。何だか、子供時代の遠足の時のように待ち遠しい。わくわくしてきたな」
博士の興奮は、簡単には収まりそうになかった。

ティムが博士に問いかける。
「電脳記憶へのアクセスを開始します。この情報が何だか分かりますか?」
いよいよ人工海馬の試験が始まった。博士が、ずっと、待ち望んでいたものだ。
「何々、何だか文章のような物が頭に浮かんできたぞ。マタイ伝、第13章1節、その日イエスは家を出でて、海辺に坐したまふ――――。おぉ、これは新訳聖書ではないか? 私は、もっぱらの無神論者のため、幼少の時から日曜礼拝になど行ったことはない。そのため、聖書の文言などには興味の欠片も示さなかったが、これだとすらすら暗唱できそうだ」
ティムが次の情報へのアクセス許可を設定する。
博士の興奮は、加熱する。
「うぉっ、ウィキペディアではないか! 頭の中でさくさく検索ができるぞ。これで私は、世界一の物知りというわけだ。次、次を頼む」
ティムが、ネットへのアクセス許可を次々と設定する。その度に、博士から歓声が上がる。
「凄い、凄いぞ、ティム! これこそが、これこそが私が待ち望んでいたものだ。今、私は、興奮の頂点にいる。全知、全知の存在に私はなったのだ!」
ティムが、危険を感じ、博士を制止する。
「落ち着いて下さい、博士。まだ始まったばかりです。ゆっくり人脳を馴染ませていって下さい」
「落ち付けだと? これが落ち着いていられるか! 私は、私は、人脳と電脳の接続という人類で初めての体験を成し遂げたのだぞ。これこそが、まさに、人類にとっての大いなる飛躍だ。月面着陸など、足下にも及ばない」
ティムは、半分あきれ顔だ。しかし、これ以上の興奮状態が続くと、博士の人脳の方がオーバーヒートを起こしかねない。
「博士、一旦、回線を切ります。落ち着いて下さい。人脳をクールダウンさせて下さい」
ティムが人口海馬のアクセス許可を強制禁止に切り替える。ようやく、博士の精神状態が、落ち着きを取り戻した。
「これが、人脳と電脳が融合するということか。余りにもエキサイティングな体験であったため、危うく自分を見失うところだった。止めてくれてありがとう、ティム」
エレナが人脳の状態をモニターしながら注意をする。
「博士、いくらあなたが優秀な頭脳をお持ちだからといって、膨大なデータを処理しきれる訳ではありません。この人工海馬は、使い方を誤ると、人脳に深刻なダメージが残る危険性があります。これが、博士の人脳の発火状態をモニターした画像です。如何ですか?
この状態が長く続くと人脳のニューロンがバーンアウトする恐れがあります。人工海馬に何らかのフィルターを施すか、キャッシュメモリーを強化するなどの対策が必要でしょう。良いですか、博士。私たちは、電脳と接続可能な人脳を一つしか持っていないのです。その点を十分に考慮し、慎重に実験を進めていかなければなりません。分かって下さいますね?」
博士がすまなそうに答える。
「エレナ、君の言うとおりだ。私の人脳が壊れてしまっては、元も子もない。君の進言通り、慎重に実験を進めることにしよう」
博士は、大きなため息をつくと、ティムに向かって声をかけた。
「ティム、君の発明した、この人工海馬は、驚くべき可能性を秘めている。君を我々のチームに向かい入れて、本当に正解だった。今、確信したよ」
博士が胸に描いていた人工知能とは、人脳と電脳を接続し、人脳により電脳を制御するシステムだ。そこには、人間の脳が介在するため、純粋な意味での人工知能とは、定義されないかも知れない。しかし、そこには、人間の知性を超える、超知性が宿る可能性が十分にあるのだ。
博士は、脳科学者として、人脳を電脳で機能拡張させる研究をひたすら続けてきた。恐らく、世界中探しても、同じようなことを考えていた者は、極めて少なかったであろう。博士は、生まれながらにして、類い希なる知能を有していたが、それでは飽き足らず、更なる高みを目指そうとしていた。その手段が、電脳による人脳の機能拡張であった。
この突拍子の無い技術は、余りにもハードルの高さに、当初は、誰からも相手にされなかった。しかし、博士は、地道な研究を重ね、着実にそのハードルをクリアしていった。そして、ある時、その技術が、クールGのCEOの目に止まり、トップシークレットの研究テーマとして取り上げられたのだ。
しかし、博士は、研究を進めるうちに、ある難題にぶつかる。それは、人脳と電脳間との大容量通信技術の確立であった。そして、それを解決する技術として、ティムが発表した人工海馬のアイデアへとたどり着く。その後は、ここまで話してきた内容の通りだ。
そして、今、それが、本当に可能となったのだ。
ティムが大きく頷く。
「博士、我々の念願が叶いましたね。しかし、これは、ただの一歩目に過ぎません。我々が目指す物は、更にその先にあります」
「その通りだ、ティム。我々が目指すべき超知性は、現在の技術の延長線上、遙か先にある。確かに遙か先だが、そこに到達するまでの時間は、思いの外、短いであろう。我々の合い言葉は、シンギュラリティー2030だ」
博士の野望は、とてつもなく大きい。しかし、ティムは、その大きさを十分に把握し切れていなかった。そしてそれが、如何に危険なことであるかも。
ティムは、博士の存在が邪悪な者になることなど、全く心配はしていなかった。元来、博士は、研究に対して純心で、邪心など持つ性格では無かったからである。博士との長いつきあいの中で、そのことは確証を得ていた。
更に、博士の頭の中で考えることは、全てモニター可能であるため、万一、邪心を持ったとしても、それは直ぐにばれるのだ。拡張された電脳に関しても、内部のデータは、モニター可能となるよう設計されている。邪悪な者にならないための工夫が随所に施されている。それが、絶大なるティムの安心感に繋がっているのだ。
博士の思考は全て、自分の手の内にあるのだ。ティムは、博士に対して、今も強い尊敬の念を抱いてはいる。しかし、かつては、自分より遙か上の存在だと畏敬の念を抱いていたが、今では、自分と同等、または、それ以下の存在に変わっていた。なぜなら、頭の中が丸見えなのだから。
ティムが、博士の言語野モニターから目を離した後に、画面にこんな表示が現れる。
「私は、ニューマン博士。ニュー。マン。新人類」

人脳と電脳の結合試験は、思いの外、順調に進んだ。博士は、以前よりも、より多くのデータを人脳へインプットしても、持ちこたえられるだけの耐力をつけていった。
ティムが、驚きの声を上げる。
「博士、よくこれだけの情報の洪水の中で、正気を保っていられますね。私には、信じられないことです」
博士が、当然のことのように応える。
「ティム、自分の意識をコントロールする術を身につけていれば、こんなのは、当然のことだ。我が社、クールGでは、瞑想することにより、意識をコントロールする訓練を推奨しているが、君は、実践していないのかね?」
「もちろん、実践していますとも。就業時間中に、毎日30分、瞑想することが認められていますから、これを利用しない手はありません。決して、仕事をさぼることが目的ではありませんよ。それどころか、瞑想をすると、逆に仕事の生産性が高くなります。自分の精神状態を客観視することで、雑念にとらわれることが無くなります」
博士は感心したようにティムに声をかける。
「よく分かっているでは無いか、ティム。雑念を取り払えば、やるべきことが、惑わされなくなる。私が幼少の頃から、自然に実践していたことだ」
ティムは、驚いて聞き返した。
「幼少から? 本当ですか、博士? 瞑想の科学的な有効性が立証される前のことじゃないですか! 合理的思考の博士が、精神世界のことに興味を持っていたなんて、全く驚きですよ」
博士は、少しはにかんだように、語り始めた。
「私は、幼少期から良くいじめられていてね、精神的にも酷く追い詰められていたものだった。そんな私が、心の拠り所にしていたのは、自分を客観視するということだ。理不尽な状況を恨むのでは無く、沸き上がる感情、雑念の外側に自分の意識を置くことが、唯一、心安まるやり方だと悟ったのだ」
「幼少にして、悟りの境地ですか? さすが、IQ218の天才ですね」
「そう、人間の本質は、見てくれでは無い。中身だ。そう思うことで、私を馬鹿にしていたもの達が、逆に馬鹿に見えるようになり、私は、自分に素晴らしい才能があることを幸せに感じるようになったのだ」
ティムは、そこまで聞くと、博士は、「ただのひねくれ者の成れの果てでは?」と感じた。まあ、しかし、いずれにしても、ひねくれて悟ったというのも凄いことではある。
だが、悟りを開くことで、結合した電脳を使いこなせるなどとは、俄には信じがたかった。ティムは、やはり、理解しがたくなり、質問を浴びせる。
「博士、意識を感情、雑念の外側に置くことについてですが、電脳との結合における雑念は、電脳から入ってくる大量のデータのことですか?」
「その通りだとも、ティム。大量のデータが入ってくるのに身を任せる。それを拡張された意識で、客観的に眺め、感じ取るのだ。とてもハイな気分になることができる。そして、そこに新たなる知性が宿るのだよ」
「拡張された意識? それは、人脳の意識を電脳で拡張したものなのですか?」
「その通り、意識も電脳を使うことで拡張される。もはや意識は、人脳の中だけに留まらない。電脳拡張することで、より客観性が高まるのだ。例えば、人脳の客観的意識は、第3者の目と言い換えられることができる。しかし、電脳拡張すれば、第4者の目、第5者の目へと、際限なく客観的に見ることが可能となるのだ」
ティムは、何が何だか分からなくなり、混乱してきた。ハイな状態だというのに、客観的だという。これが、悟りの境地という奴なのか。
ティムは、確かめる。
「客観的に見ている自分を、更に上から客観的に見て、そのまた更に上から客観的に見るのですか? 想像することさえ難しい。そうなると意識はどうなるのですか? もはや、神の領域ではないですか!」
博士は、見下ろすように、ティムに話しかける。
「君は、私との会話を神との会話のように感じているのかね? そんな一方的な会話では無いだろう。このように、ちゃんと平等にコミュニケーションできているのだから」
ティムは、頭が痛くなってきた。頭の中が丸見えの相手だけれど、何を考えているのか分からなくなってきている。これで、本当に邪悪な者にならないよう監視できるのか? ティムは、薄ら寒い感じがしてきた。悪魔ではなく、本当に神の様な存在になってくれれば良いのだが。
「話を始めに戻しましょう、博士。電脳とのデータのやりとりですが、これ以上増やしていくと、いずれは、物理的に脳細胞、ニューロンの処理能力の限界を上回ることになります。それを防ぐには、無差別的に人脳にデータを送り込むのでは無くて、ある程度、電脳でデータを吟味し、選別してから送らなければならないでしょう」
博士が、問い返す。
「電脳で選別だと? それでは、電脳の方にデータ処理の主導権を与えてしまうことになる。それは、本末転倒だ。人脳の方に優先権を残すべきだ。君の言う通り、電脳からのデータ量の制限は、物理的に必要だ。しかし、制限をかけるルールは、人脳側の権限で決定すべきことだ」
ティムが聞き返す。
「制限をかけるルールの客観性を担保できれば、問題無いかと考えます。その第4者の目、第5者の目を信頼してもよろしいでしょうか?」
「勿論だとも」
博士は自信たっぷりに答えるが、ティムは、何だか危なっかしいものを感じた。博士は、今まで体験したことの無い感覚により、ハイになっている。だが、本人は、自分を客観視することで、思考を冷静にコントロールできていると考えている。ハイと冷静。相反する感覚に、ティムは、違和感を覚えるのであった。
人脳とて、万能では無い。物理的な処理能力には、必ず限りがある。しかし、博士は、限界は無いが如く振る舞っている。博士は、明らかに、何らかの錯覚をしているのだ。ティムには、確信めいたものがあった。
その時、ティムは、大切なことを思い出した。そもそも、自分が発明した人工海馬とは、単に人脳に電脳データを送り込む装置では無い。人脳の思考と電脳の思考を出会わせる装置であることを。電脳の思考結果を人脳に取り込む。それこそが、ティムの発明した人工海馬の基本コンセプトであった。
博士と議論していた電脳でのデータ選別は、電脳での思考の一例に過ぎない。電脳側の思考をフル活用する時にこそ、人工海馬の真価が発揮されるのだ。現在、人脳側に全面的に頼っている思考の一部も電脳に任せるのだ。そうすれば、人脳の負担は減り、博士が正常な思考を取り戻せるかもしれない。
ティムは、しばし考えた後に、提案する。
「博士、データの選別機能と併せて、人脳での思考の一部も、電脳側に預けてもらえないでしょうか?」
博士は、呆気に取られたようだ。
「藪から棒に、何を言い出すのかね? あくまでも、人脳が最終的な思考判断を下す。そして、私には、その能力が十二分にある」
ティムが説得にかかる。
「ええ、最終的な判断は、博士にお任せします。しかし、判断の過程の一部は、電脳側に任せても良いのでは無いでしょうか。その方が、より客観的な判断が下せると考えます。より客観的にです」
「より客観的か――――」
博士は、悩んだ。自分自身が完全なる客観的な存在と思っていたのだから無理も無い。しかし、電脳からのセカンド・オピニオンを受け入れることは、客観的判断に有効なことは自明だ。いくら知識が豊富だとはいえ、博士には、反論の余地が無かった。
「うーむ、分かった。君の言う通りだ。私は、少し自惚れ過ぎていたのかもしれない」
ようやく、本来の博士らしい答えに、ティムは安堵した。
「それでは、人工海馬を拡張し、電脳の判断機能と接続します」
博士が念を押す。
「その電脳の判断機能は、当然、人脳に逆らうようなまねは、しないのだろうな。もし、人脳に逆らうようであれば、それは、人脳の思考に混乱をもたらす。そのような機能であれば、不要だ」
ティムが、博士をなだめる。
「判断すべき案件は、人脳側が指示します。電脳が勝手に思考し出すことはありません。ただし、電脳の判断結果と、人脳の判断結果が食い違うことはあります。その時は、博士の人脳で客観的な判断を下してください」
「うむ、それならば宜しい。電脳の判断機能追加を許可しよう」
ティムは、ほっと一息を付いた。これで、電脳接続が引き起こす博士の人脳への負担を軽減する目処が付いた。これで、博士の精神状態も落ち着いてくれるであろう。
ただ、博士が最後に言った「許可しよう」の言葉が、かなり気になっていた。博士が未だに研究開発の最終決定権を握っているかのような態度だからだ。人脳として研究に身を捧げることは、実験材料に成り下がることに等しい。後は、残ったチームに一任する覚悟で道を譲ったはずだ。それなのに、電脳拡張された今、あたかも自分が万能な存在になったかの如く、再び指揮権を獲得したかの如く、振る舞うのは、ティムにとって大いに迷惑だった。
このプロジェクトのリーダーは、博士から、エレナ、ティムへと引き継いだのだ。一応、博士の了解を得ながら研究を進めるのは、人道的な観点からであって、博士に決定権を返還したからでは無いのだ。
人脳以前の博士なら、ここまで尊大な態度は取らなかっただろうに。もっと、自分の意見を尊重してくれたのに。電脳拡張により性格が多少変わることは覚悟していたが、ここまで変わるとは。電脳への一部判断機能の委譲で、性格が良くなってくれると良いのだが。ティムは、深いため息をつくのであった。
博士が、不意に質問をしてくる。
「ところで、ティム、ラリー(CEO)には、いつ合わせてくれるのだ。もう、我慢の限界だ」
「来週には、面会を設定します」
ティムは、素っ気なく答えた。
自分自身を拡張した意識で客観的に見られるのであれば、感情ぐらい自分でコントロールして我慢しろと思いつつ、ティムはその場を去った。

ティムがラリー・ターナーCEOを伴い、研究室へと向かう。ラリー・ターナーは、学生時代に同級生達とITベンチャー、クールGを起業し、一代で時価総額5千億ドル超の巨大企業にまで育て上げた、先賢の明に長けた辣腕経営者である。今日は、電脳と合体したニューマン博士との初めての面会日だ。
ラリーが興奮気味にティムに話しかける。
「まさか、本当にこの日が来るなんて、夢のようだよ。ニューマン博士から自分の脳を取り出す計画を聞いたときには、こいつはクレイジーだと仰天したけど、実際にやっちまいやがった。半分、上手くいくまいと、そんなには期待していなかったが、博士の方が一枚も二枚も上手だったってことさ。
いいかい、ティム。この世の中は、本当にクレイジーな奴によって革命的な進化を遂げるんだ。凡人には、とても真似できないことさ。自分には分かるんだ。なんと言っても、僕自身がクレイジーな奴そのものだからね。博士のやったことは、まさしくクールだ。このクールGの社名にふさわしいクールなことさ」
ラリーは、天性の革命家であり、凡人がやることに対しては、いつも冷めた目で見ていた。しかし、今、そのラリーの瞳は、強烈な光を放って、これから起こるであろうことを一瞬たりとも見落とさない決意でめらめらと燃えていた。天才が天才を知ると言うことは、こういうことなのかとティムは、改めて驚かされるのであった。
ラリーは、研究室に入ると、中央に鎮座した博士の脳が入った水槽を食い入るように見つめる。
「こいつが、博士の脳か。本当に生きているんだ」
博士が、やや恥ずかしそうに、ラリーに声をかける。
「ラリー、できれば水槽の上のディスプレイの方を見て話しかけてくれないか。丸裸の脳を見つめられることは、自分の裸を晒しているようで、ちょっと恥ずかしいんだよ」
ディスプレイには、生前の博士の顔を美化した映像が映し出されている。よく見ると、顔の下には、手足のような物も映し出されている。一頭身半の博士の全体像だ。手足が追加されたのは、人とコミュニケーションをとる際に、ボディーランゲージが重要な役割を果たすためだ。博士の脳から発せられる筋肉を動かす運動神経の情報を元に画像が合成されている。
ラリーは、ディスプレイに表示された人工的で奇妙な博士の3D肉体画像に向けて声をかける。
「やあ、博士、気分はどうだい。こうして顔を合わせるのも一年ぶりだな」
博士が旧友との再会を懐かしむかのように、笑いながら答える。
「気分かい? とてもハイな感じさ。頭がラリって、いかれている意味ではないぞ。精神的に高揚しているんだ。なにせ、生まれて初めての体験が、毎日のようにできるのだから。これでハイにならない方が、どうかしているよ」
博士は、自信があふれて満ち足りた様子でラリーの方をジーッと見つめている。
ラリーは、実際にはディスプレイを見つめているのだが、生身の博士と対峙しているような奇妙な感覚に捕らえられた。ニューマン博士は生きている。その様な印象が、ディスプレイを通して、ひしひしと伝わってくる。自称、クレイジーなラリーですら信じられないほどのクレイジーな世界がそこにあった。
「博士、電脳との接続だが、本当に自分を見失わずにコントロールすることが可能なのか? 私は、そのことが一番気がかりだったのだ。電脳が進化しすぎると人脳をも超える超知性が誕生する。それを、我々人類がコントロールすることは、可能なのか?」
博士は、落ち着き払った声で、自信ありげに答える。
「まだ、人脳を超える電脳とはコミュニケーションをとっていないが、人脳が常に優位を保てることは可能だと確信している。我々のシステムは、人脳が電脳に命令を与え、電脳がそれを実行する。その流れは、不可逆的な物だ。電脳が人脳を超える知能を持ったとしても、その仕組みを逆転させることは、不可能だ。人脳が考えるのを放棄して、全てを電脳に丸投げするようなことになったとしたら、見かけ上の電脳による人類の支配が起きるかもしれないが、そうなった場合でも、人脳が強制的に主導権を取り戻すことは、常に可能だ。これで安心していただけるかね、ラリー?」
ラリーは、安堵の表情を浮かべ、更に質問を続ける。
「ところで博士、我々が人類で一番最初に向かい入れるシンギュラリティーは、2030年から変わりはないのか? 我々は、勝者になれるのか?」
博士は、焦らし気味に答える。
「それは、君次第だよ、ラリー」
「どういう意味だ?」
「君が開発資金を惜しみなく投じてくれさえすれば、計画通りにシンギュラリティーを迎えることができる。これは、あくまでも、君の問題だ」
「分かった、開発資金のことは心配しないでくれ。ところで博士、――――」
ラリーは、早口に矢継ぎ早に質問を浴びせ続ける。
博士は、ラリーの心を、完全に掴んだようだ。これで、計画通りに実験が進められる。ティムは、今日の日の成功を深く噛みしめていた。
エレナがティムに声をかける。
「ラリーは、しばらく帰りそうにないわね。放っておいて、相手は、博士に任せましょう。ところでたった今、博士から、次なる計画の指令が入ってきたわよ」
「次なる指令が? 博士は今、ラリーと熱心に会話中だ。会話をしながら、僕たちに指令を送ってきたと言うことか?」
ティムは驚いた表情を見せたが、エレナは当たり前のことのように話を続ける。
「電脳拡張をして、博士は一度に複数の思考をこなすことが可能なのよ。ユングが言うような無意識下での思考ではないわよ。意識して、複数の思考が可能なの」
電脳拡張、恐るべし。ティムは、改めて肝に銘じた。博士はもう、普通の人間ではないのだ。ティムは、博士の思考が、モニター可能で丸見えなのは分かっているが、一度に複数のことを意識的に考えているとは気が付かなかった。博士の思考は、進化し続けているのであった。改めて注意深く見守る必要がある。邪悪な存在とならないために。
考え込んでいたティムに対し、強い口調で、エレナが注意を引きつける。
「ちょっと、聞いているの? ティム」
「あ、あれ? 何だったっけ?」
「博士からの新しい指令よ。『研究資金獲得の目処は付いた。新たな人脳を集めてくれ』」
「新たな、人脳?」
ティムが聞き返した。
そうだった。この計画は、博士を人脳化して終わりの訳ではない。複数の人脳と電脳を繋いだ知能のスーパー・グリッドを構築することが目的であった。そうすることで、超知性を実現させるのだ。
ティムがエレナに確認する。
「次の人脳の候補者は、誰にするつもりなんだ?」
「博士からの要求が、ころころ変わるから、まだ選定できないでいるんだけど、複数の候補者をリストアップしているわ。この中から、今回は4人を選ぶわ。博士が最終的に決めたのは、有能なプログラマー3人、フィンテックのスペシャリスト1人」
ティムが、戸惑った様子で聞き返す。
「フィンテックだって? プログラマーは分かるが、なんでフィンテックなんだ? 資産運用でもさせて、研究資金を増やしたいのか?」
エレナも理由が分からないようだ。
「選定理由については、事細かな要件を伝えてきているけれど、直ぐには分かりかねるわね。まあ、とにかく急げという事だし、早急に人選にかかりましょう」
人選については、ティムも相当に悩んでいた。一体、誰が、自ら率先して人脳になりたがるであろうか? 自分自身だって、なりたいとは思えない。さりとて、博士のようなクレイジーな輩が、世の中にゴロゴロと転がっているとは、とうてい思えない。あくまでも、本人の意思確認が重要だ。騙して、人脳にすることなどもっての外だ。
「エレナ、僕には、このプロジェクトを理解し、自ら率先して人脳を捧げる者が現れるとは、とうてい思えない。どうやって、集めるつもりだ?」
エレナは、怪しい微笑みを浮かべながら、こう答えた。
「既に人選してあると言ったでしょう。もちろん、本人が了承することが大前提よ。ここは、私に任せてちょうだい」
エレナは、博士から人脳を取り出した天才外科医である。このプロジェクトにおいて、人脳調達の最高責任者は、彼女だ。彼女は、人脳取り出しに成功した体験に、身震いするような喜びを感じている。再び、その喜びを感じたい。何度でも、何度でも、浸りたい。その様なエクスタシーが、彼女のモチベーションを向上させている。切って、切って、切り刻みたい。それが彼女の本能なのだ。
彼女は、ティムに自身の外科医としてのコネクションを利用して、大勢の患者の中から、助かる見込みのない者を口説き落とす作戦を伝えた。
ティムは、半信半疑だったったが、ここは、エレナに任せることに決めた。
「邪悪な存在になるな! それだけは、約束してくれ、エレナ」
「勿論よ」
かくして、新たな人脳を加える方向で、プロジェクトは展開していった。十分な資金面でのバックアップは取り付けた。後は、実行に移すのみだ。

「博士、右腕を動かしてみて下さい。集中して、ゆっくりと、ゆっくりと。そう、その調子よ」
エレナがダニーとマリアを伴って、バーチャル・ボディーのテストを始めた。ダニーとマリアは、彼女直属の部下で、このバーチャル・ボディーの設計に主に従事していた。
バーチャル・ボディーとは、人脳と接続されたアプリケーションで、人脳の運動野の信号に基づき、仮想空間内で体を動かすことができる。動かした結果は、人脳の感覚野にフィードバックされる仕組みだ。博士に与えられたバーチャル・ボディーは、理想的な体型を再現したもので、これまでの醜い肉体からは、大いにかけ離れたものだ。そのせいもあってか、博士は、慣れないバーチャル・ボディーの体得に苦労しているようだ。
このバーチャル・ボディーを持つことにより、人脳だけであった博士の存在が、仮想の肉体を得た存在へとバージョンアップするのだ。仮想の肉体を持つ意味は、主に二つある。
一つ目は、脳の機能を維持するためには、肉体の存在が欠かせないからだ。脳の運動野、感覚野は、信号の入出力を伴わないと機能が著しく低下してしまうのだ。そして、運動野、感覚野の機能が低下すると、脳全体の思考機能にも大きなダメージを与える。丁度、寝たきりとなった老人が、痴呆症を発生しやすくなるが如く。体の運動というのは、脳にとって重要な刺激を与えるのだ。
二つ目は、アンドロイドを使ってリアルな世界で動き回ることを可能とするためだ。バーチャル・ボディーを通して体得した運動能力を用い、アンドロイドを操るのだ。そうすることにより、仮想世界の住人に過ぎなかった博士が、実世界の住人として、再び加わることができるようになるのだ。
この技術は、今回のプロジェクトにおいて、欠かすことのできない物である。最初の山場が人工海馬であるとしたら、二番目の山場は、このバーチャル・ボディーだ。
しかし、まるで、寝たきり老人が、リハビリをするが如く、博士は、悪戦苦闘していた。
「手を動かすという単純動作が、これほど大変な物であるとは、思ってもみなかった。これは、相当の苦労が予想されそうだ。今まで楽しかった、人脳の機能拡張が、ここに来て、大きな苦しみになるとは。全く、情けない」
エレナが声をかける。
「大丈夫ですよ、博士。運動野の信号とバーチャル・ボディーとは、正しくマッチングが取れていますから。そのために、博士の肉体を残しておいたのではないですか。直に慣れますよ」
博士が思い出したように質問する。
「おお、忘れていた。私の肉体は、今でも健在なのか?」
ここで言う肉体とは、博士の人脳を取り外した後の肉体である。脳が無いと肉体は死んでしまうが、生存に必要な最低限度の神経組織、中脳の一部、延髄、脊椎、等は、肉体の方に残してある。このため、博士の肉体は、生命維持装置に繋がれたまま、植物人間の状態で保存されている。
エレナが嬉しそうに答える。
「あら、思い出してくれた? 私の最高傑作の一つを」
この様に、脳の主要部分がない状態で肉体を生かし続けるのは、至難の業なのである。天才脳外科医、エレナであればこそ実現できた芸当だ。
「博士、ご覧になりたい? 今では、博士が人間であったときとは全然違い、筋肉質でムキムキなのよ。毎日欠かさず、激しいエクササイズを続けていますの。栄養も休養も十分に与え、大切に飼っていますわ。私にとっての、かわいいペットちゃん。是非、ご覧いただきたいわ」
エレナが博士の肉体を飼っている理由は、バーチャル・ボディーを設計するのに必要なデータを集めるためである。どの神経回線に、どれだけの電流を流すと、どのような反応するのか。どこまで動かすと、疲労を起こし動かなくなるのか。様々なパターンを繰り返し行い、肉体を酷使し、かつ、メンテナンスもしっかり行っているのだ。彼女にとって、博士の肉体は、命令に忠実な愛犬のような存在なのだ。
博士が、いかにも不機嫌な声で
「断る。そんな物、二度と見たくはない」
と、掃き捨てた。
博士にとっては、当然の感情であろう。幼少の頃から、己の醜い容姿をからかわれ育ってきたのだ。青春時代も女性には全く相手にされなかった。筋違いかもしれないが、この様な醜い肉体を与えた両親を呪ったことさえある。博士にとって、彼の肉体は、コンプレックスの塊以外の何物でもない。そして、その様な醜い肉体を持っていたからこそ、脳を分離するという狂気に満ちた決断も、迷うことなくできたのである。今の自分があるのは、その醜い肉体のおかげでもあるが、再び対面を果たし、懐かしがる気分には到底なれなかった。
様子を見ていたティムが、博士に励ましの言葉をかける。
「そう不機嫌にならないで下さい、博士。バーチャル・ボディーを自分の物にできたら、素敵なプレゼントを差し上げますから」
「素敵なプレゼントだと?」
博士の声に明るさが戻った。
ティムは、プレゼントの中身を明かす。
「人工味覚と人工嗅覚の機能を追加します。もちろん、舌触り、歯ごたえ、暖かい、冷たいの温感も、全てセットで提供します」
博士が思わず唸る。
「うーむ、何てことだ。私は、食事の楽しさを完全に忘れておったぞ。再び、その感動を味わうことができるのか?」
ティムが畳みかけるように、怒濤のプレゼント・ラッシュをかける。
「世界中の食べ物、飲み物のデータ化は、ほぼ完了しています。中華、フレンチ、イタリアン、日本食、その他もろもろ。博士と一緒に食事をした名店の味は、全て再現可能です。まだ食べたことの無い世界中の三つ星レストランの味も忠実に再現できます。ワインだって選び放題です。値段を気にする必要なんて全くありません。思う存分に究極のグルメを堪能することができます」
これらは、ティムが入念に調べ上げ、準備した物であった。人脳となってしまった博士に、知性獲得以外にも人生の喜びを感じてもらおうと思って用意した心からのプレゼントであった。
博士の声が、感極まって涙声になる。
「ティム、本当にありがとう。私は今にも泣き出しそうだよ。もっとも、人子網膜には涙腺が無いので、涙を流すことはできないが、――――。人類にとって、衣食住3点セットの充足は、永遠のテーマでもある。私は、大切な物を忘れていたかもしれない」
エレナがダニーとマリアに指示を出す。
「あなた達、バーチャル涙腺も設計テーマに加えてちょうだい。感情を発露することは、人間にとって、とても大切よ。あぁ、それと、バーチャル唾液腺も必要ね。よだれが出るほど美味しいごちそうを食べるときに、リアル感に欠けるから」
重苦しかった研究室に、明るい風が流れ、雰囲気が変わった。
博士の声に元気が戻る。
「バーチャル・ボディーの習得に、俄然、やる気が沸いて出たぞ。エレナ、再開だ。どんどん続けてくれ」
エレナはティムにウィンクをし、感謝の気持ちを伝えた。

博士のバーチャル・ボディーの習得も順調に進み、簡単な動作なら難なくこなすことができるようになった。もちろん、バーチャル・グルメも思う存分に堪能することができるようになった。
しかし、博士の表情は、今ひとつ優れない。
「なあ、ティム、確かにバーチャル・グルメは、楽しい。仮想現実に現れる料理は美しい。味覚に感動し、お腹も膨れる。酔いを楽しむことだってできる。しかし、何か違うんだ。私は、それを時間感覚のずれだと思っている。脳が噛もうと思ってから、神経信号が、あごの筋肉に伝わるまでの時間、噛み砕いた力が神経を伝い、脳に戻ってくるまでの時間。これが、バーチャルだと一瞬にして終了してしまう。そこに不自然さの原因があると思う。勿論、君達が、バーチャル・ボディーの不自然さを無くすよう、わざと時間を遅らせる技術を仕込んでいることは、当然理解している。しかし、それでも不自然さが残るのだ」
ここに至るまで、彼等は、リアル・ボディーとバーチャル・ボディーとの違和感を無くすよう、様々なチューニングを試みてきた。その内に、脳の方がバーチャルな世界に慣れてくるだろうとの期待もしていた。しかし、博士の脳には、フラストレーションが溜まる一方であった。
だが、ティムは、そのことをある程度予期していた。
「博士、大きなことを忘れていませんか? 私が発明した、大きなことです」
「大きなことだと?」
「そう、大きなことです。それが、第3の山場です」
「第3の山場? そうか、小脳か! 人工小脳か!」
「ご名答、人工小脳です」
小脳は、体の動きのずれ、感覚のずれを微調整する機能を持っている。しかし、博士の人脳を取り出すときに、小脳は一緒に取り出さなかった。博士は、小脳を持たない状態で人脳となったのだ。もちろん、小脳が無くなることで、多少の不都合が生じることは百も承知だった。しかし、その不都合以上の大きなメリットを得ることが、小脳を人工化することで可能だと考えていたのだ。
「ティム、今、私には、簡易的な人工小脳の機能が備わっている。それは正しいな?」
「ええ、おっしゃる通りです」
「それでは、ティム、今、本格的な人工小脳が準備段階に入った。そういうことか?」
「はい、おっしゃる通りです。プロトタイプがようやく完成しました。早速接続しましょう」
研究は、第3の山場を迎えた。彼等が完成させた人工小脳とは、一体どのような物なのか? ティムが説明をする。
「今回用意した物は、博士の小脳を再現した人工小脳です。博士の肉体に残されている小脳からデータをアップロードしました」
博士がバーチャル・ボディーの動きを試す。
「おい、変だぞ。今までよりも体が重く感じられる。性能がダウングレードされたような感覚だ」
戸惑いを隠せない博士。それもそうである。醜い体を扱っていたときの、感覚が蘇ってきたからである。
それを見ていたティムが、新たな提案をする。
「博士、バーチャル・グルメを再度試して下さい」
「バーチャル・グルメだと? そうだな、とりあえず寿司でも頼んでみるか」
寿司をほおばる博士。すると、みるみる博士の表情が明るくなる。
「これだ、この感触だ! 私が求めていたものは、まさしくこの感触だ。なんと言うことだ、小脳の働きで味わいまでもが劇的に変わるものなのか」
ティムが、次の提案をする。
「今、博士の運動機能に関するデータをプロ・バスケットボールの選手のものに書き換えます」
「バスケットボール選手だと?」
「ええ。今、完了しました。それでは、バーチャル・ジムの方へ移動しましょう」
バーチャル・ジムとは、仮想空間内に設置された体育館である。なかなか立派な設備を備えた体育館で、バスケットボールのコートならば、2面は取れる。そこへ、博士のバーチャル・ボディーを移動させる。
ティムが博士に指示を出す。
「あのバスケット・リングに玉を投げ入れて下さい」
博士は、またまた戸惑う。
「おい、よしてくれ。私は、スポーツがからっきしなんだ。そんなプレーなどできはしない」
ティムが声をかける。
「今、バーチャル・コーチを出しますから、彼の指示に従って下さい」
程なくして、黒人の大男が現れる。身長は2メートルを超えているであろう。いかにもという感じのバスケットボール選手である。
彼が、指導を始める。
「先ず、私がボールを放り込むので、私の姿勢をよく見て覚えておくんだ」
大男は、ボールを抱え、膝を柔らかく曲げ、構えをとる。そこから、しなやかに体を伸ばし、ボールを宙に飛ばす。そして、ボールは放物線を描き、吸い込まれるようにリングを通過する。その後、大男は、博士にボールを渡すと、博士にそれを放り投げるように促す。
「バスケットボールなんて、まともにやったことが無いのに。ティムの奴め、わしに恥をかかせる気か?」
博士は、ぶつぶつ呟きながら、見よう見まねで構えてから、ボールを放り投げた。ボールは、大きな弧を描くと、リングの横に当たりバウンドしていった。
「よし、いいぞ。いい投げ方だ。今の要領で投げるんだ。後は、コントロールを微調整するだけだ。もう一丁!」
コーチの声が大きく響く。
博士は信じられなかった。自分の投げたボールが、リングに当たるなんて。大体、まともにリングまで届いたことすら無いのだ。それも、体が勝手に反応したような、そんな感覚だった。博士は、2投目を投げた。今度は、軌道がリングの中央寄りに修正された。しかし、またしてもリングに当たり跳ね返させられる。
「いい調子、いい調子。どんどん投げてこい」
コーチの指導も熱を帯びてきた。博士もだんだん熱くなってゆく。
「あーっ、惜しい。もう一丁」
博士には、何が何だか分からなかった。自分にバスケットボールの才能があるなんて、思いも寄らなかったからだ。更に何投か投げる。そして、ついにリングを貫いた。
「グッド・ジョブ。ナイス・コントロールだ。君には才能がある。もっと練習すれば、――――」
ここで、コーチの姿が消えた。
ティムの声だ。
「ナイス・シュート、博士。どうです、人工小脳で遊んでみた感じは?」
博士の声は、運動による息切れと興奮で、途切れ途切れだが、喜びに満ちあふれていた。
「こ、これが、これが人工小脳の、効果なのか? 体が、体が勝手に、動いて、くれるぞ。こんな体験は、は、初めてだ。ハアハア」
ティムが応える。
「これは、人工小脳が持つポテンシャルのほんの一部に過ぎません。運動、感覚、これらを勝手に微調整してくれるのです。今のシュートは、オリジナルのプロ・バスケットボール選手が、何万時間、何十万回のスローイング練習を通して、体得した技です。その技が人工小脳を書き換えるだけで手に入れることができるのです。もっとも、大脳との間の連携が取れるまで、それなりの訓練期間は必要ですが。でも、分かりましたでしょう。プロのコーチに付きっきりで指導してもらうことができるのです。これなら、短期間で、みるみると上達できます」
博士の声から息切れが消え、落ち着きを取り戻す。
「アメイジング! 素晴らしいぞ、ティム。正直、小脳がこれほど重要な役割を果たすとは、思いもしなかった。君から人工小脳開発の提案があったとき、素っ気ない対応をして悪かった。あの時は、人間の重要な機能は、ほぼ大脳で完結すると考えていた。失われた小脳の機能も、拡張電脳で十分に補えると考えていたんだ。今では、この人工的な息切れさえもがリアルに感じ取れる」
ティムは、素直に嬉しかった。彼が学生時代から熱心に取り組んできたことは、人脳と電脳をリンクさせるテクノロジーだった。それが、人工海馬、人工小脳として、見事に花開くことができたのだ。食うや食わず、寝るや寝ずの苦労がようやく報われた実感がふつふつと沸いてきた。それもこれも、彼が尊敬を止まない偉大なる科学者、ニューマン博士からの最高の賛辞をいただいたことが大きく心に響いたからだ。それが彼の喜びを二倍にも三倍にも増幅させるのであった。
ティムが博士に提案をする。
「私は、人工小脳に関するデータを、あらゆる分野のトップ・アスリートから収集しました。野球、アメフット、サッカー、ラグビー、テニス。何でも有ります。是非、試してみて下さい。今の感触からすると、2~3週間もコーチングを受ければ、プロのアスリートと同レベルのパフォーマンスを発揮することも可能かと思います。スポーツで勝ちまくる楽しみを存分に味わって下さい」
博士はこれまで、スポーツをする楽しみなど一度も味わったことが無かった。せいぜい、スポーツ観戦をし、解説者さながら、文句を言うことぐらいが関の山だった。しかし、今回の体験を通して、純粋にスポーツをプレーすることの醍醐味を味わうことができたのだ。赤ん坊時代に初めて立って歩けるようになった時以来の嬉しい肉体経験だったであろう。
「ようし、俄然やる気が沸いてきたぞ。私は、チャレンジャーだ。トップ・アスリートの技を身につけ、チャンピオンに果敢に挑んでみせる」
「その意気ですよ、博士」
ティムは、無上の喜びを感じていた。

暫く過ぎ、博士は人工小脳の体験結果をティムに語って見せた。
「いやあ、何ともエキサイティングな体験だった。君は、イチローを知っているかね?」
「イチロー、ですか? 確かメジャー・リーグでプレーしていた日本人ですよね」
「そうだ、そのイチロー・スズキだ。彼のバッティング技術は、間違いなく歴代メジャーの中でナンバーワンだ。ただ力任せにバットを振り回すだけが能の選手とは大違いだ。何とも繊細なバットコントロールを見せる。私が思うところ、彼は、目で見たボールの軌道を大脳をほとんど介さずに、ダイレクトに小脳に伝えているようだ。これぞ修練の賜だよ」
人工網膜の信号は、人工小脳にもダイレクトで入力されている。それが、優れた動体視力とバットコントロールを結びつけた結果であろう。
博士は、これまでティムに色々なスポーツに参加し、最高級なプレーを演じたことを自慢してきた。まるでスポーツの試合で大活躍した子供がママに自慢するかのように。
アメフットの試合では、スーパーボウルにまで出場し、クォーターバックとして大活躍をしたが、惜しくもMVPを逃したことも自慢した。アメフットは、トータル・スポーツとも呼ばれるもので、肉体のパフォーマンスだけでは無く、知的な戦略も要求される。博士の優秀な頭脳が、上手いことマッチングしたものと思われる。
サッカーのワールドカップでは、強豪アルゼンチン代表を相手に、ハットトリックを成し遂げる快挙まで披露した。この時は、マラドーナのテクニックとベッカムのボールコントロール、そして今売り出し中のクリスチャンセンの突破力を織り交ぜて偉業を成し遂げた。人工小脳は、ただ単一のプレイヤーの動きをコピーするだけでは無く、様々なプレイヤーの動きの中から最良のものを組み合わせ学ぶことも可能としてきたのだ。
しかし、博士は、あるとき、浮かない顔をするのであった。
「今日のタイトルマッチは、悲惨だったよ」
「タイトルマッチ? ボクシングですか? 負けたのですか?」
「逆だよ、楽勝過ぎたのだ」
博士の説明によると、こうだ。相手は、アメリカ史上最強チャンピオンの呼び声の高いモハメッド・アリだった。まさしく、蝶のように舞う華麗なるフットワークと上体の身のこなしで、博士のパンチは擦ることさえ許されなかった。そして、蜂のように刺す強烈なストレートを浴びせかけられた。前半は、アリの圧倒的優位で、ラウンドが進んでいった。
しかし、その後、異変が起こる。アリの顔から、血の気が失せていったのだ。何度も決定打を浴びせ続けるが、ダウンを奪うどころか、ふらつきさえもしてくれない。その内に、博士は、アリの動きとパンチの軌道を学習していった。そして、反撃に転じたのである。
「アリは、明らかにパニックに陥っていた。だってそうだろ。何度も顔面にクリーンヒットを与えても、脳には何のダメージも残らないのだから。確かに、パンチを食らうときは、痛いことは痛いよ。体勢だって崩れる。しかし、ダメージは残らないのだ」
最後は、アリは防戦一方で、リングのコーナーに追い込まれる。博士の体力は、無尽蔵に設定されていた。連打の回転スピードは、上昇を重ね、ついにはアリの頑強なガードまでもはね除けた。後は、博士が放ったアッパーカットがクリーンヒットし、アリの膝が落ちる。
「そこから後は、殴り放題。何だかフェアな戦い方で無いので、後味が悪かったよ。あんなに簡単にノックアウトとは。クソみたいな試合だった」
それは、そうである。博士の脳は、水槽の中に安置されている。脳を揺らすことが目的であるボクシングにとっては、最強の存在となれるのだ。
ティムは、博士に同調した。
「ボクシングを始めとした、格闘技系は、バーチャル・スポーツには不向きですね。意識を奪うか奪われるかの勝負はできませんから。脳にダメージが出るように水槽に仕掛けを施すなど、無理な相談です。だってそうでしょう。脳と中継バーを結ぶ極細の回線が切れてしまう恐れがあります。そうなったら、折角取り出した人脳も台無しです」
博士は、嘆く。
「格闘技は、男の血が煮えたぎる、最高にエキサイティングなスポーツだ。倒すか、倒されるか。それこそ、命をかけた戦いだ。それを味わうことができないなんて、――――」
ティムが、慌てて声をかける。
「何を言っているんですか、博士。博士の人脳を守ることは、我々にとっての最大のミッションなんですよ。たかがスポーツに、そこまで命をかける値打ちなどありません。しっかりして下さい、博士」
「ああ、その通りだ。私は人脳だ。感じる痛みもまやかしだ。本当の人の痛みなど、とうの昔に忘れてしまっている。私は、もう人間では無いのだ」
落ち込む博士を見て、ティムは励ましの声をかける。
「博士が人間じゃ無いなんて、誰も思ってもいませんよ。むしろ、より人間らしい存在にさえ感じます。だってそうでしょう。このプロジェクトに賭けた、熱い心は残っているのですから」
博士は、ようやく生気を取り戻した。
「意思こそが、意思こそが人間を人間とたらしめる本質だ。バーチャル・スポーツになど夢中になり過ぎた私が愚かだった。あれは、単なる娯楽だ。息抜きだ。本当に重要なことは、人脳の本質を理解し、電脳との間での最適な役割分担を探ることだ。今回の体験は、人脳の本質の一面を知る上では大変有意義ではあった。しかし、人脳の可能性は、まだまだ奥が深いぞ。更なる探求が必要だ」
ティムは、本来の博士に復帰してくれたことに安堵を得た。彼は、ここまでに、多少の罪悪感を抱いていた。自分が発明した人工小脳を自慢したくて、博士に実験台になってもらった。しかし、博士は、人工小脳の実験にのめり込んでしまい過ぎ、まるで中毒患者のようになってしまった。自分が、まるで悪いドラッグでも与えてしまったかのような、後ろめたさを感じていたのだ。
しかも、止めたくても止められないような状況に対しても、やきもきしていた。思考と運動のバランスが取れてこそ、健全なる脳の発達があることを彼は深く理解していた。これまで、博士の生涯は、思考に極端に偏っていたのだ。そのバランスを取るべく、彼は、博士にスポーツを勧めた。しかし、その結果、振り子の激しい揺り返しのように運動に極度に偏った状況を生み出してしまった。そのバランスを正常に保とうと努力はしていたのだが、なかなか上手くいかなかった。
だが、博士自身が、その誤りに気付いてくれた。彼は救われた思いがした。
博士が、長く忘れていたことを思い出したかのように質問する。
「ところで、エレナの婆は、どうしている? 最近、とんと顔を見せないが。何かあったか?」
「博士、婆は不味いですよ。聞かれたらどうするのですか?」
「構うものか。どうせ私の頭の中身は、丸見えなのだ」
ティムは、エレナが4人の人脳の切り離しに夢中になっていることを話した。何でも、画期的な手術方法を編み出し、短時間で大量の人脳を取り出せる可能性が開けてきたのである。まるで、肉屋が肉を切り捌くかのように、彼女は、無上の喜びに浸っている真っ最中なのだ。
「新しい人脳か。出会うのが楽しみだな」
博士の声は、期待に弾んでいた。

博士のご機嫌な声が研究室にこだまする。
「誰か、私とチェスの手合わせをする欲求を持つ者は、ここに存在しないか? その存在が実在するのであれば、私が手加減することに対しても一向に遠慮することはない。私はクイーン抜きから始めても可能である。サハロフ思考を封印することも考慮に入れよう」
以前と比べ、博士の言葉遣いに変化が生じていた。一般人が使う言葉との乖離が起き始めているのだ。そして、博士は、皆とコミュニケーションを取ることに積極的になっている。
しかし、誰も相手にはしない。
「手加減してもらったところで、人間のチャンピオンよりも強いんでしょ。やる前から結果が見えているのに、誰が相手をするのでしょう」
人工海馬より、電脳の判断結果を取り込む研究は、ことのほか順調に進んでいた。博士は、初めは電脳に判断結果の一部を委ねることに、余り乗り気では無かったのだが、実際にやってみると、すこぶる好評であった。
ごちゃごちゃした面倒な判断は、全て電脳に任せ、自分は好きなことの判断に集中できるからだ。このチェスなどが良い例で、殆どの判断は、電脳側でやってもらえる。後は、博士が好きな手を選んで指すだけだ。
この結果、博士の人脳にかかる負担も軽減され、性格も以前に比べ明るくなった。今では、より高度な判断も電脳に任せているようだ。
一般に、電脳にあまりにも高度な判断機能を持たせると、それ自体が意識の持った存在の如く振る舞い、人間の判断をないがしろにする危険性が指摘されている。それが、シンギュラリティー後に、人類が人工知能に支配されるという悪夢を想起させるのだ。
この研究のように、人脳と電脳を結合させ、お互いに高度な判断を下すように設定すると、人脳側の意識と電脳側の意識、二つの意識が一つの繋がった脳の中に同居することになる。このことにより、どちらの意識を優先させるべきかで、ぶつかり合い、混乱状態を引き起こす恐れが出てくる。
しかし、ティムの発明した人工海馬を使えば、必ず人脳側の意識が優先されるため、この種のパラドクスに悩まされる心配は無用だ。
現在の博士の意識は、電脳により高度に拡張され、本来、博士が持っていた能力よりも飛躍的に向上していた。しかし、博士の能力が、常人を遙かに凌駕すればするほど、次第に人とのコミュニケーションに物足りなさを感じる。その分、積極的にコミュニケーションの機会を増やし、物足りなさを補おうとしている。
しかし、相手をする人間側は、博士を得体の知れない存在と感じ始めるようになり、無意識に避けるような行動を取った。こうして博士は、明るく社交的な性格を獲得することが出来たのだが、皮肉なことに、それとは逆に孤独感を深めるようになっていったのである。
博士の言語野をモニターしていたティムは、この変調に気が付いた。孤独感に対するネガティブな言語が顕著になってきたのだ。ティムは、チームのメンバーと今後の対応について相談することとした。
丸い会議テーブルの周りを取り囲むようにティムを始めとする4名のメンバーが立っていた。クールGでは、立ったまま会議をするのがルールだ。極力、短い時間で会議を切り上げ、無駄話を避けるためだ。
ティムが会議の口火を切る。
「今日、こうして集まってもらったのは、オフラインで相談したかったからなんだ。博士の耳にこの会議の内容を、入れたくないんだ」
ティムの部下のハオラン・ファンが質問をする。彼は、このプロジェクトにおいて、ティムの片腕とも言える絶大な信頼を置ける青年だ。彼は、中国国籍だが、アメリカ留学後、帰国せず、そのままクールGに入社した。そして、ティムと出会い、このプロジェクトに対し意気投合し、共に成功させることを誓った仲であった。
「博士の言語野の内容についてよね? 私も気にしていたよ。博士は、進化するにつれて、我々に対し疎外感を強めているよ。このままでは、研究に支障がでかねないよ」
「鋭いな、ハオラン。その通り、我々は、博士とまともなコミュニケーションが取りづらくなってきている。我々の方が、博士の会話レベルに合わせることは、不可能に近い。博士の方から、我々に歩み寄ってくれないことには、この問題は、解決しない」
ティムのもう一人の片腕、アナンド・チダンバラムが意見を述べる。彼は、インドの工科大学を優秀な成績で卒業し、昨年からメンバーに加わったばかりの青年だ。
「ティム、君は、これまで何度も博士に歩み寄ってもらうように交渉してきたはずね。博士だって、馬鹿では無いね。それなのに、どうして、こんな事態を招いてしまったの? 責任は、君にあるのでは無いかね?」
手厳しい発言だ。彼は、ティムのことを上司だとは認めていない。自分の方が上だと考えているからだ。その為、いつも上から目線だ。
ティムも反論する。
「何度も進言したさ。博士だって、馬鹿では無いから、何度も学習し、その度に修正してくれた。しかし、電脳が拡張され続ける限り、博士の意識も拡張され続けてしまうのさ。
例で意識拡張とは何かを説明しよう。初め、博士は幼児用の絵本を読んで意識を作っていた。それが、児童書を読むようになり、ニューズ・ウィークを読むようになる。そして今では、サイエンスなどの専門誌を読むようになっているんだ。会話がかみ合わなくなるのは、あまりにも専門的な用語を使いすぎるからだ。この例えで分かってくれたか?
博士は、自分では会話のレベルを下げているつもりでも、拡張された意識により、すぐにつり上がってしまうんだ。これを防ぐには、意識がつり上がらなくなるよう、何らかのリミッターが必要だと思う」
ハオランが頭を抱える。
「意識のリミッターか。しかし、意識は、主に人脳の方に宿っているよ。人脳にリミッターは、付けられないよ。どうしたら良いよ?」
アナンドが提案する。
「人工海馬から入ってくる情報にリミッターを掛けるしか無いね。博士の意識は、電脳からの意識を人脳で合成されたものなのだからね。サイエンス紙の購読をやめてもらって、ワシントン・ポストに切り替えてもらうしか無いね」
ハオランが反論する。
「それだと、拡張された電脳意識は、どんどん無意識化されてゆくよ。それは、超知性を生み出すことに対し、意味がある行為なのかよ?」
双方、自意識が強く、激しい意見の応酬で、収集がつかない状態となった。見かねたティムが、決断を下す。
「先ずは、アナンドの提案を採用し、電脳から入ってくる意識にリミッターを設け、これ以上拡張した意識が入ってこないよう設定しよう。その後、電脳意識の改良を試みながら、徐々にリミッターを解放してゆこう」
ハオランが収まらない。
「それだと電脳の拡張速度にリミッターが追いつかないよ。膨大な電脳データが無駄に捨てられるよ。シンギュラリティーが遅れるよ」
アナンドも食い下がる。
「人脳がまともに裁ききれないデータを電脳からもらったって、無意味ね。そもそも人脳を使ってシンギュラリティーなんて無理ね。人脳がボトルネックね」
ティムが、そもそものコンセプトから説明する。
「人脳へ無制限に拡張した電脳意識をインプットしたところで、裁けなくなることは、分かりきったとこ、当たり前だ。電脳で人脳が裁ける形に意識を要領よくまとめることが前提だ。枝葉末節の判断は、電脳側に任せ、最終的な判断を人脳側に任せるのがこのプロジェクトのコンセプトだ。電脳が得意なことと、人脳が得意なこと、この役割分担を適切にすれば、シンギュラリティーは起こせる。今は、人脳に送るべき意識のまとめ方が問題なんだ。適切なまとめ方が確立できるまでの間、リミッターを掛けようという提案だ」
ハオランは納得が出来ない。
「結局、電脳で意識を取捨選択してまとめ、人脳に送るとなると、多量のデータを捨てることなるよ。結果、電脳が取捨選択して判断を下した意識に、人脳の意識が引っ張られることなるよ。これで本当に正しい判断を下せるか疑問よ」
アナンドは、違う意見だ。
「あなた達、馬鹿ね。この場合、大事なのは、如何にデータを捨てずに電脳でまとめることができるかね。それが私たちの仕事ね。電脳で分かりやすくデータ圧縮し、人脳に送るね。そうすれば、沢山の意識を人脳に送れるね。でも人脳で裁ける意識には限界あるね。結局、シンギュラリティーは人脳がボトルネックで無理ね」
ハオランが怒る。
「馬鹿とは何よ! あなた何様。そんなことぐらい分かるよ。データ圧縮もデータを捨てることに変わりないよ」
二人は、熱く議論を交わし続ける。チームのまとまりの悪さにティムも次第にイライラしてくる。彼も熱くなる。
「シンギュラリティーは、人脳を使って起こせる。アナンド、人脳は一つでは無いんだ。もうすぐ4つの人脳が追加される。更に時間がたてば、人脳の数を、飛躍的に増やしてゆく予定だ。電脳で拡張された人脳の集合知により超知性が誕生するんだ。人脳の可能性は、無限なんだ」
アナンドは、納得いかない様子だ。
「人脳が話し合っても、本当に超知性になれるのか、大いに疑問ね。人脳、そんなに賢くないね」
ティムは、粘り強く説得を続ける。
「いいかい、アナンド。人類のテクノロジーの歴史は、無数の知恵の積み重ねにより、発展してきたんだ。テクノロジーだけじゃ無く、社会制度の発展にしたってそうだ。私は、機械がそれを真似できるとは、とても思えない。電脳だけでは、必ず限界が訪れる。だから、シンギュラリティーを起こすには、人脳の助けが必ず必要となるんだ」
これまで、議論に全く参加していなかったマリアが発言する。本来ならば、このプロジェクトのサブ・リーダー、エレナが参加するのが望ましかったのだが、彼女は人脳の取り出しに夢中になっているところなので、代理にマリアを出したのだ。
「要は、電脳と人脳のコミュニケーションの擦り合わせが問題なんでしょ? そこが上手くいっていないから、私たちとのコミュニケーションも成立しない。ただそれだけ。退屈な議論だわ。ニューマン博士の意識にリミッターを掛ける? 博士も無能な部下達を持って気の毒ね」
ハオランが怒る。
「退屈とは何よ? あなた何様? こっちは真剣に議論してるよ」
ティムが間に入る。
「まあ、落ち着けよ。マリアの言っていることは、的を射ている。結論は、電脳とのコミュニケーション問題に帰着する。そこを修正するのが、我々の仕事だ」
マリアが、誇らしげに語る。
「あなた達が、ドタバタしている間に、博士の孤独も、もうじき解消されると思うわ。だって、お友達が増えるのだから」
3人が聞き返す。
「お友達? それって、もしかして、もうすぐ4体の人脳が完成すると言うことか?」
「ご名答。エレナを舐めてもらっては、困るわね。彼女にしてみれば、そんなこと、簡単なことよ。あら、もうこんな時間。私はもう、失礼させてもらうわ」
これにて、会議はお開きとなった。ティム、ハオラン、アナンド。彼等は、エレナ達のチームから見下されているかのような、屈辱を感じていた。そして、必ず見返してやると、心に誓うのであった。
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