主人公を思う:主人公は想う
×ガールズラブ
○友情
趣味を詰め込みすぎた気はします。
乙女ゲーと呼ばれるゲームがある。主人公は大抵性格が良く、天然を帯びていることが多く、男子からの好意に鈍感で、そして美少女である。基本要項なので覚えておくと良い。
あとは、そうだな、追加項目としては、召喚とか、神様転生とか、チート能力持ちで人生イージーモード俺つええヒャッハーとか。詳細はググれ。
教室の片隅で地上を見下ろしながら、氾濫している、と私は思う。
視線の先では美男子と笑い合う快活な美少女。彼女の笑顔は6月の曇った空の下、太陽光を振りまくようで、眩しげに目を細める周囲の男子学生たちの視線を釘付けにしている。
バケーション何とかかんとか。そんな名前のゲームだったと思う。わんこ系男子からモグラ系男子まで幅広く揃えた、夏休みの出張バイト先で出会う彼女たちの仲を描いた日常系。ちなみに現在会話中の素朴でありながら明らかに将来を約束された男子生徒は、彼女、夏坂佳織の幼馴染である。
彼女の無邪気な笑顔に打算は見えない。吟味する様子もないので、恐らく彼女は妙な追加項目のない、ノーマルな主人公なのだろう。
「あ、巡ちゃん!おはよー!」
ふとこちらを見上げた花が、元気良く小さな手を振る。頬杖を付いた左手をそのままにゆったりと右手を振って返した。
「今日のお買い物楽しみだねー。巡ちゃんに服選んで貰えるの、うれしいなー!」
「お誕生日だからね」
彼女のテンションで言えば大声で返すべきなのだろうけれど、まあ通常音量でも届くだろう。えへへー、と声が聞こえそうに緩んだ顔が可愛らしい。
「でも、佳織ちゃんはどんな服でもきっと可愛い」
可愛いものは好きだ。綺麗なものも。だって女の子だもの。そして可愛くあろうとする努力がまた微笑ましい。
ひとりごちながらつい怪しく綻ぶ口元を頬杖の手で誤魔化していると、ふいに視界が陰った。太陽光など元からないが、それにしても近い位置の影である。
視線を上げると、空に羽ばたく大きな鳥──のような何かの姿。おや、と片眉を上げた私に、背後から声が掛かる。
「め、巡さん、あの」
眼鏡を掛けたどこか野暮ったいクラスメイト。分厚いレンズの向こうを良く見ると、黒というには不思議な反射のある虹彩が覗く。顔立ちは秀麗である。
おどおどとした態度が嗜虐心を煽ると評判であった。反面、身のこなしには隙がない。気配も足音もさせずに私に近付いた少女、冬川翔子は、恥ずかしそうに視線を下げて足元に固定した。
何たらかんたらの姫巫女。異世界に突如召喚された気弱な彼女がひたすらに魔物と戦いながら大体人外イケメンとの絆を深める、多少鬱展開を交えたゴシック系ゲームだ。……ったと思う。プレイはしていないので詳しくは分からない。ググれ。
陰のあるかんばせがひたすらに困っている。少女を困らせることに快感を覚える性癖のない健全な私は、怖がらせることのないよう細心の注意を払った声音で促した。
「どうしたの?」
「あ、その……な、何でも、ないの、ごめんなさい……」
ちらりと瞳が外を見た。つられて窓の向こうへ目をやって、空から影が消失しているのを確認して得心する。
なるほど、先程の鳥っぽいものは異世界の関係の何かだったのだろう。意識を逸らすために咄嗟に声を掛けたは良いが、続く会話が思い浮かばなかったとはいじらしい。
俯いて縮こまった少女に笑みを零す。とはいえ、私も会話が得意な方ではない。
「今日も暑いね」
「え、うん」
「私、甘いもの飲みたくなっちゃった。飲み差しで悪いんだけど、翔子ちゃん、これ飲んで貰って良い?」
「あ……」
立ち上がりつつ、鞄に引っ掛けたペットボトルを渡す。
緑茶は彼女の好きな飲料だったはずであるから、嫌がらせにはならないだろう。気まずい沈黙の打破には私がいなくなるのが一番なので、財布だけポケットに突っ込んで教室を横切る。
背後の彼女は、慌てたように珍しく大きめの声を上げた。
「あ、ありがと……!」
「うん、こちらこそ」
片手を上げて別れの挨拶。
彼女らは心優しい人たちだ。他の人たちに比べて、人として出来ていると思う。主人公だから好感が持てるのではない。好感が持てるから主人公足りえるのである。
そんな人から嫌われれば悲しいし、好かれていれば単純に嬉しい。ので、少しでも優しくありたいと思っている。思いが報われていると良いのだけれど。
ドアを潜って購買へ向かう道すがら、人だかりに遭遇した。
廊下を埋めるように群れる圧倒的イケメンの数々と、周りを囲む女子生徒の妬み嫉み。自分だけに届く小さな溜息を吐いて迂回路を探す。
人垣の中心には、姫野萌香がいた。可憐な容姿と華奢な四肢。鈴の声音が響くたび、イケメンたちがデレるデレる。
何とか学園ほにゃらら私だけの王子様ゴニョゴニョ。相変わらず正確な名称は記憶にないが、覚えているフレーズだけで内容が理解できる便利仕様である。
綻ぶ花には毒がある。元々の主人公の面影はあまりない。原型が知りたく今すぐググれ。元ネタの少女の笑顔はカスミソウのような儚さ美しさであるから、どっちかって言うと男性人気のが高いんじゃないかな。
とはいえ別に現在の彼女も嫌いじゃない。
ふいに人垣を超えて目が合って、わかる程度に頭を下げる。迂回するとなると、階段を下りて一度外へ出なければいけない。このクソ暑い中できれば校舎内を移動したいが、何故だかあのイケメンたちに目の敵にされているので近寄りたくはなかった。
姫野萌香は転生者だ。しかも、多分神様転生系。魅了チート持ち。神様転生って分かるかな。神様から、好きな能力を持って転生させてあげよう、とか言われるご都合ルートだよ。正確には違うかもしれないけど、大体そんな感じじゃないかな。
打算的なあの目と態度、男子生徒のウィークポイントを狙い打つ使い分けと見事な落としっぷりは、女子生徒からは酷く嫌われている。蛇蝎のごとくと言っても過言じゃないだろう。昔の私なら、確かに同じように嫌っていたかもしれない。
でもなあ、と考える。
逆に言えば、好きになって貰うために一生懸命なのだ。そこまでしても愛されたいと思っているのだろう。もしくは、愛されないといけないと思う理由がある。
多分、私が彼女と同じ立場になれば虚しい。だって、彼らに好かれても、もし本気で愛した人が愛し返してくれたとしても、それは私本来の魅力ではないのだ。そのままの自分を曝け出して、好きになって貰えたとするだろう。しかしその結果には、魅了の力が働いている可能性を否定しきれないのだ。気付くまでは良い。けれど気付いた瞬間から、心には大きな隙間が出来ると思う。
この現実が彼女にとって、知らない世界であれば良い。けれど例えば彼女が「既知の乙女ゲーム」に転生していたりした場合、万が一誰にも愛されなかったときのエンディングが、悲壮な結果であったなら。
一体全人類の誰が、チートの力を使わずにいられるというんだろう。
私が落ち込んでも仕方がないのだが、胸に湧いた遣り切れない気持ちに溜息を吐いた。どうせ人がいないのだから思ったより響いても問題ない。
購入したココアの缶を、僅かに汗ばんだ手で包む。冷たい。気持ち良い。気休め程度とは言うが、大事なことだ。少しばかり凪いだ心地で教室へと戻る行程を歩く。
「め、巡!」
「うん?ああ、萌香ちゃん」
声はまたしても背後からだった。振り返ると、呼吸を荒げた美少女が、強張った表情で竦んでいた。
綺麗にセットされた巻き毛が台無しである。近付くと強張りが全身に広がったが、理由がよく分からなかったので気にせず手を伸ばす。
枝分かれした流れをくるくると纏めるのは好きだ。完成されたドリルの美しさには恍惚とすらする。
「あ、の、ごめん」
「何かしたの?」
この短時間に2回も謝られた。
もしかして顔が怖いとかだろうか。表情は少なめだと自覚しているが、とうとう鏡の前でスマイル練習に励む滑稽に苛まれなければならない季節が到来したのか。親に見られると恥ずかしい。
首を傾げる私に、泣きそうな顔で彼女は口を開いた。
「道、塞いで、迷惑かけて……」
迷惑といえば迷惑だけれど、果たして謝るほどのことだったかな?
「別に心底迷惑だと思えば突撃するよ、私。ちょっと通してって言えば済む話だし」
「でも」
「彼らには嫌われてるし、絡まれると面倒だったから遠回りしたけど、別に萌香ちゃんのせいじゃないよ」
むしろ考え直せば、注意をひいていて貰ったのは僥倖だったのではないかと思う。
下手に視線が合えば因縁付けられるのがオチだし。萌香がいなければ、教室から購買までのそこそこ長い道程で、彼らの中のいずれかと遭遇していた可能性がある。
うん、間違いなくそうだ。ならば私は逆に、彼女に感謝し、礼を述べるべきなのだろう。
胸中で一頻り納得して、いざ口を開こうと。
「……巡、ありがと」
したんだけど、先を越された。
頬を紅潮させて礼を言う意図が分からないので曖昧に微笑んでおく。
上目遣いにキュンキュンする。観察していたところでは、女子に能力が発生している様子はなかったので、この胸の高鳴りは多分魅了チートとは関係ない。むしろ魅了チートのせいならば、この可愛らしさを生み出したことに感謝しようではないか。キュートさにデレデレするのは幸せである。性愛の絡む生々しい奪い合いの発生しない女子だからこそのほんわか感情万歳!
何度も言うが、可愛いものは好きだ。綺麗なものも。だって女の子だもの。
「うん、萌香ちゃんもありがとね。わざわざ追っ掛けてきてくれたんでしょう?」
「べ、別に、購買に用があっただけだし!」
素の彼女にはツンデレのケがあるらしく、ツンとそっぽを向いてしまった。
購買向かってたのなら私の後ろから現れるわけがないんだけどね。本当に可愛らしい。
足早に去っていく彼女の背をホクホクと眺め、気を取り直して教室に向かいがてら、携帯電話をチェックする。
数件のメールが入っている。アイドルになった幼馴染や、小学校で逆ハーレムを築いていた末恐ろしき友人、その他諸々からのお誘いであるらしい。あと、幼馴染の付き人をしている恋のアシスタント係からも何故だか映画のお誘いがあった。彼のは幼馴染へのメールに一緒に返信しときゃいいよね。
私がこの人生で出会った乙女ゲームの主人公は10人を超える。氾濫している、と私は思う。
乙女ゲーが氾濫する妙な世界は、中々楽しくて有意義な人生を送れそうだった。
そうそう、傍観とかいうジャンルもあるんだよ。複合で事故死による転生も付加すると、言うまでもなく、私のような人間のことになるんだけど。
オタクなオバチャンだった私には、この青春の檻は微笑ましくて仕方がない。
after1.夏坂佳織
「あいかわらず、かぁっこいいよねー、巡ちゃん……」
「……そうだなぁ」
引っ込んでしまった彼女の虚像を名残惜しく見上げながら、佳織は熱い溜息を吐いた。
隣では幼馴染が憮然とした顔をしている。彼女を目撃できるという偶然の幸運を授かりながら、一体何が不満だって言うんだろう。まったくもって男の子っていうのは理解しがたい。
「へへー、聞こえた?聞こえた?『佳織ちゃんはどんな服でもきっと可愛い』だって!もー、幸せすぎて午後の授業なんか覚えてらんないよー」
「どうせいつも授業なんか覚えてらんないじゃんか」
ああ言えばこう言うからいつまで経っても彼女ができないんだよ、という言葉はあんまり哀れなので口の中で消した。変わりにツンとソッポを向いて、思考を巡の優しい笑顔で埋める。
クーラーの効いた教室は肌寒いくらいだったから出てきたんだけど、あのまま教室にいれば、こんな見飽きた男とじゃなくて、もしかしたら巡とひたすらラブラブお話できるという至福タイムが生まれていたのかもしれない。
そしたら至近距離で褒めて貰えたのかとはっとする。今から教室戻ったら、少しはさっきの話題継いでくれるかな。
そうと決まればこんなところにはいられない。可及的速やかに教室へ帰投しないと!
「くっそ、また先越された……。佳織にどんな服でも似合うって、当たり前だっつーの」
「なんか言ったぁ?」
「何でもないよ!」
背後でブツブツ言ってるオバカは帰るのかどうするのか。今更気を遣うような関係でもないので、声を掛ける間を惜しんでさっさと踵を返すことにした。どうせ佳織が動いたら勝手に判断するだろう。
この学校ってやけに格好良い人多いし、気さくに声掛けてくれる人も多いけど、一番素敵なのは、絶対、超自然体で接してくれる巡だよね。
after2.冬川翔子
引き絞った弦を開放する。一筋の光の矢は流星のように闇を切り裂き、一寸違わず敵の眉間を打ち抜いた。傾ぐ巨体を貫くとどめの一撃が、ほの暗い世界に光を撒き散らす。
「ショーコ、怪我は」
「大丈夫。お疲れ様」
精緻な意匠の剣に纏わり付いた闇を払い、パートナーが翔子を振り返る。闇を弾き返すように燃えるような赤い長髪に紛れ、腕を覆う羽毛がいくらか散った。
ポーチに入れた分厚い眼鏡の無事を確認しながら、自分にしては明るい口調で労りを零す。
いつも翔子に「ボソボソ喋るな」と暴言を吐く彼が、それに眉を寄せるのは何故だろう。
「……随分と上機嫌だな」
「そうかな?」
そうだろう。自覚がある。
けれど、口にしてしまうと珍しく自分に訪れた幸せが逃げていきそうで、曖昧に笑んで誤魔化した。
今日は凄く、良い日だった。無愛想で、最近ちょっと気が利くようになったけれど基本的に我儘で自己中心的な彼の勝手な行動に、珍しく素直な感謝を注いでも良いかと思うほど。
まさか自分の世界にパートナーが姿を見せるとは思っていなかった。知る気配が学校に近付いてきていることに半ば呆然としながら戦々恐々としていたら、上空に大きな鳥のような生物が現れた。見慣れた姿だった。彼は鳥型の魔と人間のハーフで、どちらの姿にもなれるのだと披露されたのはつい先日の話だ。
息が止まるかと思ったのは、軽い絶望を覚えながら屋上に向かおうとしたときだった。クラスメートが、空を見上げて首を傾げている。
苗字が平凡なせいか、皆が皆、彼女を名前で呼んでいる。巡、という彼女は何というか、とても、完成された人だった。
落ち着いているけれど、翔子のように暗いという印象はない。大人っぽい、優しい、でも少し踏み込みにくい。接する態度が特別なわけじゃないのに、その視線は滲むような慈愛を湛えて、不思議なほど心が温まる。
思春期という不安定な空気の中で、一人やけに確立した少女は、目立つことなど何一つしてはいないのに、学校の中では随分と目立っている。
落ち着いた声で名前を呼ばれるために、彼女に話し掛ける機会を窺う女子は多い。男子がそれほど気にしないのは、彼女の甘やかな視線は彼らにはあまり向かないためだろう。空気を見るような視線に首を傾げたことがある。時々は男子に慈愛が向けられることもあるので、結局基準は分からない。
そんな彼女に憧れを持つのは、もう女子としては当然のことで、かくいう翔子も例外ではなかった。
暗い性質の自分を疎まず、次の言葉をゆっくりと待ってくれる巡。翔子がこのクラスの中で虐めを受けていないのは、巡のさりげないフォローで女子の輪の一端に組み込ませてくれたことだと思っている。
彼女はつまり恩人で、憧れで、少々ミーハー心を出すならば、ちょっとでも会話できればその日一日が幸せでいられるような人なのだ。
声を掛けたのは咄嗟のことだった。頭の良い彼女が得体の知れない巨鳥を疑問に思う前に、と、反射で動いた自分を恨んだ。
翔子を振り仰ぐ黒瑪瑙の瞳に、いっそ頭が真っ白になった。固まる翔子を待つ視線に、切り替えし下手な自分は更なるパニックを起こして──まさか彼女の飲みさしのペットボトルを貰える幸運にあり付けようとは!
即座に自分を恨んだ自分を撤回したのは言うまでもない。小躍りしそうな自分を抑え、手にした甘露を握り締め、思わぬ幸運を運んでくれた、たまには良いことをするパートナーを迎えるべく屋上へと走り、多分偶然だろうとは思うけれど中身が翔子の好きな緑茶だったことに更に喜んだ。
それから、なぜかこのパートナーは不機嫌である。
翔子が幸せを吸い取ったと言わんばかりの形相に、しかしヘリウムもかくやという今日の翔子の機嫌は落ちる気配を見せない。
そんなふうに緩みそうになる口元を必死に押さえる翔子の脳天に、突然衝撃が降り注ぐ。
「おまえはこっちの世界のこと考えてればいいんだよ!」
「何よ、お役目はちゃんとします!」
人の旋毛にいきなりチョップとか、どういうことなの。
語気も荒く言い返した、これまた珍しい翔子の姿にパートナーは、頬を引き攣らせて不機嫌さを増したのだった。
良いじゃない、たまの幸せを噛み締めるくらい。
after3.姫野萌香
女の子は嫌い。可愛いものを苛めるから。
男の子は好き。可愛いものに盲目だから。
「萌香、そんな廊下の中央にいては危ない。もっとこっちに寄って歩け」
「イインチョってば何セクハラしてんのぉ。モエ、そっち行くとあぶねェよぉ?」
「睨み合うの止めて下さいよ。モエちゃんが怖がってるじゃないですか!」
「おまえら何してんだ、廊下で騒ぐなよ。……あー、萌香、調度良かった。ちょっと次の授業の用意、手伝ってくれるか?」
なんて、いつもの光景。普通なら異常なやりとりも、萌香を挟んで行われれば、周囲からは日常に変換される。
廊下のド真ん中で、小さな身体があっちへこっちへと引き回される。萌香はそれが嫌いじゃない。
S気のありそうな冷徹風紀委員長とか、チャラい感じの先輩とか、わんこタイプの同級生とか、頼れる兄貴な先生とか。今はいないけど、俺様生徒会長とか、超シスコンの義理の弟とか。まあ、そんな感じの「都合の良い人たち」が色々といる。
萌香は主人公だ。既知の乙女ゲームの舞台たる、この学園の。
ある日、気が付いたら赤ちゃんだった。
当然パニックを起こした。頭が真っ白になって、泣き喚いて、散らした。
疲れと諦念で泣くのを止めた頃になって、ふと、小さな掌の中に携帯電話のような端末があることに気が付いた。同時に流れ出した着信音に、萌香をあやしていた両親は気が付かない。端末は、他人には見えないようだった。
表示名は愛の天使。着信音は愛の挨拶。見ずに消してやろうと思ったのに、赤子の手はうまく動かない。そんな不器用な手が、届いた文面を見せるために勝手に動いたのは、今でも言葉にできないほど気持ちが悪かった。
愕然としながら事態を悟った。愛の天使とやらが、萌香に最高の愛をプレゼントするために、ゲームの世界に転生させたのだという。
父親は大企業の社長。義母親は有名な血筋のたおやかな人。恵まれ、慈しまれる生活。何も萌香を害する要素のない特上の環境。
何も──何も考えず、喜ぶことにした。
萌香は愛されるのが好きだ。元々人形のようなと称して良い整った顔立ちをしていたので、今までだって異性からはやたらとチヤホヤされていた。
その中にイケメンがいなかったわけじゃないが、ゲームの、いわば「理想の彼氏」たちに愛されるのだ。情熱的で、イベントという名の盛り上がりもあり、逆ハーレムならではの適度なスリルが味わえ、安全が約束されている。
問題ないじゃないかと拳を握ったのは、多分、自分に言い聞かせるためだったのだろう。
考えてしまえば、満面の笑顔で日々を過ごせるはずもない。だから、考えないようにした。運命的な出会いを何人かと繰り返し、どこかの姫かと思うほどの接待を受ける日々。典型的な意地悪悪役みたいな我侭極まりない性格を封印して、天然交じりのキャラクターを演じることで、寄せられる愛情はうなぎ登りに増した。
天使は萌香に魔法を掛けた。いわく、萌香への好感度を増幅させる魔法だという。
男子は転生前に勝る、妖精のように愛くるしい美貌に加えて、好感度補正により魅力をいや増した萌香にメロメロだ。視線を送らずとも目尻を緩ませ、声を掛ければ涎を垂らさんばかりの笑みを帯びる。
反面、女子には効果がない。ありもしない好感度を増幅させたところで、ゼロはゼロだから。
萌香の魅力なんてそんなものだ。可愛いだけのお人形。性格が悪いのは自覚してる。私のために争わないでなんて言うなら争いを起こさないように努力するのが筋なのに、独占欲が心地良いからという理由でそれを放棄しているくらいだから。
無視されたり、呼び出されたり、そんなのも日常の一環だ。颯爽と現れたオウジサマに助けられるのも、また一環だけど。
それが、萌香を病ませていく。
女の子は嫌い──甲高い怒声は真実を見ろと強要するから。
男の子は好き──盲目に甘えていれば、同じように目を眩ませていられるから。
『気持ち悪いのよ、男子にばっかり媚売って』
だって、愛されろって天使が言うんだもの。
『姫野さんって他人が迷惑してるのわかんないの?』
男の子は喜んでるんだから、あんたたちが我慢すれば?
『いいかげんにしてよ、人の気持ち、ちょっとは考えて!』
嫌だよ。だって、考えたら。
考えたら──私にはどこにも道がないじゃない。
年取った頃が見ものだわ、と言われたことがある。多分、今生で一番早くに深く刺さった言葉がそれだと思う。
萌香の魅力は、可愛いだけだ。性格は悪い。媚を売ってるだけで好感が得られるのは、顔が良いからだ。
じゃあ、年を取ったら?病気か事故か、何かの要因でこの顔立ちが崩れたら?
ブーストさせる好感度すらなくなったら、萌香はただの性格の悪い女である。きっと誰も愛してくれない。
容姿を切っ掛けに好感度を得られるから、男子は萌香を好きになる。容姿からの好意って、結局性的な欲望のことだ。でももしかしたら、自分の知らない何がしかの良いところを、万が一にも見付けてくれるかもしれない。そうしたら、一生好きでいてくれるかもしれない。一生一緒にいてくれるかもしれない。
私が一生の誰かを得るなら、今、可愛らしいお人形であるこのときに賭けるしかないのだ。少しで良い、容姿以外の何かを見付けてくれることを。
でもそれだって、多分ほんとの愛じゃない。少し気になる、が妄信的な愛情に変わる萌香への感情の中から、萌香は甘い愛情を見付け出すことができるとは思わない。
幻想に縋るしかない自分に現実を見ろだなんて、彼女たちは萌香が死ねば良いとでも思ってるんだろうか。
思ってるのかもしれない。だって萌香は、主人公は、彼女たちの大切な誰かを、奪う可能性が。
惰性が口を動かして、日常が萌香に笑顔を作らせる。
ガラス玉に似た大きな青色の瞳の中に、ふと、映る人がいた。
「めぐる……」
小さな小さな呟きは、誰にも拾われなかったようだった。
視線の先に、大人びた同級生が小首を傾げて立っていた。囲む学生の厚い輪の外でも、彼女だけはよく見える。
目が合った。僅かな会釈を残し、彼女は身を翻す。
あ、と零れた声は、我ながら迷子になった子供のように思う頼りなさだった。ふらりと一歩を踏み出した萌香に、群れるイケメンの視線が寄る。
「萌香、どうした?」
「な……んでも……」
なくは、ない。
女の子は嫌い。容姿を切っ掛けに、好感度を得ることができないから。切っ掛けがなくて最初から倦厭されるなら、萌香の一生の誰かにはなりえないから。
でも。
「みんな、ちょっと、ゴメン」
「え、モエちゃん!?」
引き止める声に、今じゃなければ足を止めていただろう。戻らなくても、片目を瞑って愛嬌を振り撒いてから場を去ったと思う。
進む先が、巡でさえなければ。
『姫野さん、大丈夫?』
差し伸べられた手を忘れられない。
高校生から幼児へ戻って、また高校生になって、同級生の皆が皆、子供にしか思えなかった。萌香の周りを固める学園の有名人たちの中、年齢を詐称してるんじゃないかというほど大人らしい人と触れ合っても、精神年齢の差は大きい。
そんな中で、彼女の静謐は萌香の目を奪った。背筋を伸ばした姿勢の良い立ち姿。机に向かう後姿は、だらけた他の背中とは違って貫禄さえ感じた。教科書を読み上げる声は堂々として、注目されるとき特有の気恥ずかしさの欠片もない。同級生への対応にもソツがなくて、まるで萌香よりも大人のようだった。
乙女ゲームに手を出していることからもわかるように、萌香は元々オタクである。二次創作だって読み込んでいる。
傍観、というジャンルはあまり好きじゃなかったけど、そういうものがあることは知っている。主人公の傍で、主人公のあれこれを見守る趣味の悪い立場を貫く人を描いたジャンルだ。傍観者はただの一般人であることもあれば──転生者であることもある。
頭に隕石でも落下してきたかと思うほどの衝撃だった。もしも、もしも後者であれば。彼女は彼女は私に気付いているかもしれない。私の卑怯な内面に。私の醜悪なやり口に。
今更の妙な後ろめたさに怯えて、彼女を避けたことがある。いつも萌香を取り囲んでいたゲームキャラたちは、そんな自分の警戒心を機敏に嗅ぎ取って、彼女を敵視するようになった。いつもなら敵視を煽るように宥める萌香だけれど、このときばかりは本気で皆を諌めた。その本気さが余計に油を注ぐ行為だとまでは考え至らなかったが。
『酷いことするよね。好きな人取った取らないって、別に彼氏だったわけじゃないんだし、順序が違うんじゃないのかな』
校舎裏に呼び出されて、泥水を引っ掛けられた。怒気も露わに濡れ鼠になった汚らしい姿を嘲笑う先輩を、追い払ってくれたのは巡だった。
挨拶程度も満足に交わさず、イケメンに睨まれる原因となった萌香に、彼女は労わるような視線をくれた。
ありがとう、と蚊の泣く声で告げた。優しい眼差しの傍観者は、ハンカチを汚して萌香の濡れた頬を拭って。
『巻き髪可愛いね』
『え?』
『濡れちゃったから取れてるけど。可愛いのは生まれつきの見た目だけじゃなくて、そうやって努力してるからでしょ?媚を売ってるっていうか、人には良いトコ見せたいよね。打算って言うけど、皆やってるよ。嫌われるより好きになって欲しいのは当たり前だし』
ぽかんと口を開けた萌香は、ただただ耳を疑った。
傍観者って、だって、萌香の色々を見守る人で──ああ、それなら、言い換えるなら。
『そういう努力を女の子が突き刺すなら、男の子に手当てして貰うしかないじゃんね。でも私、姫野さんのそういう努力、可愛いと思うなあ』
見守って、くれている人だ。
気付いてすぐ、大きく見開いた目のままで、彼女に詰め寄った。我侭な内面を隠すことなく高慢に。わざとじゃなくて、被った人間大の猫が動揺の余り逃走したせいだった。
『助けてくれてありがとう。オウジサマが来てくれなくて残念だったけど、お礼に、名前で呼ばせてあげる!』
『どういたしまして。萌香ちゃん?』
『……。な、何?巡!』
赤面ものだ。どうして素直になれない。余計な前後をカットすれば良いじゃないか。どうして本心でもない蛇足を付け足してしまうんだろう。
即座の自己嫌悪に陥る萌香が絶望を覚えていると、怒るでも呆れるでもなく、ちょっとだけ驚いたような顔をした巡はあっさり言うことをきいてくれた。愕然と背の高い彼女を仰ぎ見て、どさくさ紛れに名前を呼んで。
その日から、巡は萌香の特別になった。
卑怯なやり口には気付いていないのかもしれない。気付いた上でああいう態度なのかもしれない。どっちでも良い。自分を見てくれているのなら。萌香の媚を見抜いた上で、それを好意に変えてくれて、些細な努力を認めてくれるほど自分を気にしてくれているのなら。
だって、女の子なら、もしかしたら一生の親友になってくれるかもしれない。容姿に左右されない好感を持ってくれた人だから。萌香の孤独に寄添ってくれるかもしれない。
両親。それって突然別人に代わってしまった、愛しかった人たちのこと?
兄弟。それって影も形もなくなってしまった、溺愛を向ける両親に代わって厳しく叱ってくれていた姉のこと?
萌香が転生したことで。
疎ましいと多少は感じていて、でも確かに愛していた色々なものを、一つ残らず失った。喪失は萌香の心にぽっかりと穴を開けてしまった。大きすぎる、深すぎる奈落へと続くほどの穴。
用意された代替品は思い出を削るだけだ。優しい今の両親も、義弟も、萌香に残る思い出と比較されて差異に軋みを残すだけ。
愛しいものを奪ったのが彼らじゃなくても、愛しい人のポジションに成り代わっているのに、どうして自分が愛せるというのだろう。
リノリウムの床を鳴らしながら、去った巡の目を思い出す。
嫌悪に満ちてはいなかっただろうか。呆れて見放してはいなかっただろうか。
彼女を嫌いな彼らと戯れて、邪魔だと把握しながら廊下を占領して、迷惑を掛けた。
──そんなことで人を見放す人じゃないことを理解しつつも、不安だけは募っていく。溜まり溜まった鬱憤が、いつ爆発するかなんてわからないじゃないか。
この学園を卒業したとき、自分の道は途切れてしまう。誰かに愛されても、誰にも愛されなくても、その後を語るエピソードはない。
魔法は切れるの?それでも主人公は愛を手にし続けられたの?あの話に親友なんていなかった。主人公には性愛を向けてくる対象の、男子しかいなかった。思考はループする。じゃあ、容姿が劣化したら、どうなるの。
それなら自分で紡ぐしかなくて、でも、女の子は皆マイナス感情しか向けてこないから、好き放題に生きてきた萌香にはどうしたら良いのかわからなくて。
「巡、私の、めぐる」
彼女は可能性だ。転生者であるならばなお良い。
この世界のトリックを知って、萌香の汚らしさを理解して、それでもあの笑顔を向けてくれる彼女なら、この無感情な世界で、自分の唯一になってくれるかもしれない。
誰か私を見て。
ずっと一緒にいて、隣を歩いて。
あの温かい感情で、誰でも良いから私に触れて。
無償の愛で、私を愛して。
「私の」
追い掛けて、怒ってるかどうかもわからないけど、とりあえず謝ろう。天邪鬼な自分がどこまで素直になれるかわからないけど、もしできるのならろくに示せていない感謝を告げて。
そうして、努力しよう。彼女が好きだと言ってくれたように、好きになって貰える努力をしよう。主人公でいられる舞台が終わっても、ずっと友達でいてくれるように。
打算的だって良いって言った。巡が肯定したんだから、それを巡に向けたって構わないはずだ。
ライバルはたくさんいる。自分と違って性格の良い可愛い女の子たちが、巡に熱い視線を向けているのを知っている。
人間性で言うなら間違いなく萌香は不利だけど。
「私のものに、なってもらうんだから……!」
そのためなら頑張れる。きっと、絶対、巡に好きになってもらう。決意も新たに足早に駆けた。こうして頑張る気概を持てる自分は、辛うじて嫌いじゃない。
──まさか予測したルートに巡はいなくて、追い付く頃には決意が萎むほどの時間が経過しているとは思わなかったが。
after4.おまけ
「『今週は約束一杯だから、その内遊ぼうねって伝えといて』だって。諦めたらぁ?脈ないよ。あってもあたしがチョン切るけど」
「うるせークソ!せめて俺のケータイに個別に返信くらいしろよアイツ……!」
「大体、あたしたちのアイドルに、あんたみたいなへーぼんぼんが手ェ出そうってのが間違ってるんだよねー」
「……明日家に直訴に行ってくる」
「へーがんばってね。あ、そういえば明日のオフ、キャンセルだってさ。良かったねー、オシゴト順調だよー」
「お前の恋を後押ししてやった俺を少しは労われよお前はああああああああああああああああ!」
「そんな叫ぶとノド乾くんじゃない?高いやつだけど、恩人だから仕方ないね。クレンジングオイルでも飲む?」
「実家に帰らせて頂きますッ!」
5000字くらいであっさりほのぼのしようと思ったら趣旨がずれました。
ずれた先で乙女ゲー主人公について申し訳程度に本気出して考えちゃった結果がこれだよ!
よっぽどのポジティブさんじゃない限り精神崩壊すると思います。