表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

終章 天空の島の美姫Ⅱ

「ちょっとっ!!レディのことはもっと、丁重に扱いなさいよねっ!!」

 ルシア神殿の第七の巫女サフィは、天空島アストラ・ナータにある地下牢へ連れてこられると、そう言ってわめいた。

「はっ!レディが聞いてあきれらあな」と、近衛隊の竜騎士のひとり、ヴァルガが鼻で笑った。彼はアシュランスの信任が特に厚い部下であり、サフィのことを王城の門前で捕え、取り調べたのも彼であった。

「おーい、みんな。裏切り者の巫女さまが、何か御託宣があるらしいぞお」

 地下牢に集まっていた仲間たちにヴァルガが呼びかけると、そこここから口笛やら囃し立てる声とが巻き起きる。

 天空島の上に聳え立つ建物は、全八階層で、どこかいびつな形の巨岩に窓がたくさん開いているような形の塔が、いくつも不規則に折り重なって出来ている。これは自然の芸術作品のようなもので、かつてファルークの村で神殿として使われていた居住区を、聖魔石の力で天上へ上げたものが基礎となっていた。そこへさらに必要に応じて、建造物が建て増しされていったことで――最終的に今のような三角形の塔がいくつも積み重なるような形状になったのであった。

 そして地下部分も二階層あって、そこには食糧庫や物品庫だけでなく、今サフィのいる地下牢もあったというわけなのである。

「おい、この淫売。知ってるか?」

 ヴァルガは地下牢の前、見張りの番兵の食堂も兼ねる広い場所に、何故彼の仲間たちが今こんなにも詰めかけているのか、その理由をよく知っていた。

「おめえ、よくもまあちょっと脅かされたくれえでペラペラものを喋ってくれたよな。もちろんこっちとしちゃあ大助かりだが、それにしてもよぉ」

 ヴァルガは格子戸の隙間から手を伸ばすと、サフィの薄青い絹の巫女服を引き裂いて寄こした。そのせいで、片方の形のいい乳房が露わになる。

「ぶ、無礼者っ!!何をするか、この蛮族めっ!!」

 サフィはすぐに体を後ろへ引き、両方の手で胸を隠した。まるで憤死寸前とでもいうように、屈辱で顔を赤く燃え立たたせながら。

 だが、男たちの間からは、いい見物をさせてもらったというように、さらにどっと大きな笑い声が起きただけだった。みな葡萄酒やビールの注がれた杯を手にしており、これぞ最高の酒の肴としか思ってはいないのだ。

「いいかあ、よく聞けよ、この淫売」と、ヴァルガは得意顔で続けた。「俺たちの国の厳しい掟じゃあなあ、裏切り者は死罪だし、仲間のことを売った奴も当然死罪だ。にも関わらず、なんでてめえが生かされてるか、その理由がわかるか?おめえの父親がルシアス王国のレグナ大公閣下さまだからよ。はっはっはっ、娘も裏切り者なら、父親も大の裏切り者か。まったくてえした親子だぜ!」

「な、何を言うかっ!父上は裏切り者などではないぞっ!!その無礼な言葉、今すぐ取り消せっ!!」

 再び手を上げられることを恐れ、サフィは牢屋の壁に背をつけたまま、震え声でそうわめいた。地下牢の番兵の見張り所へは、いまや廊下に至るまで男たちの列が出来、全部で六十名ほどもいたであろうか。

 そこへ、ファルークのことを従えたアシュランスの姿が現れると、蒼の戦闘装束を着た竜騎士たちは、赤いマントを翻して歩く王に、敬意をこめて次々道を譲っていった。

「おやおや」

 アシュランスは顔に仮面をつけたままの姿で、道化役者のように肩を竦めていた。彼は女性が自分の顔を見て当惑する姿が好きなのだが――サフィに対してはむしろ、そんな気すら起きなかったのである。

「ヴァルガ、もうはや手を出したのか。口を割らないのなら何をしても構わんが、この巫女さまは鍋の中のバターのように滑らかなお口の持ち主だ。何も辱める必要まではないだろう。リュー、あとでおまえの服でも何か、持ってきてやれ」

「はい、アシュランスさま」

 ファルークの後ろにいた、リューと呼ばれた女性が、落ち着いた声でそう返事をした。彼女もまた他の男たち同様蒼の冑と戦装束を身に纏っており、一見男性かと思われるが、リューは竜騎兵唯一の女性戦闘員であった。 

「さて、と。おまえたち、この第七の巫女さまに踊りでも披露してもらいたい気持ちはわかるが……それはまた、別の機会に設けるとして、当番の兵以外は一度ここを去れ。私はこの娘だけではなく、重要な捕虜たち数名に用があるのでな」

 アシュランスの声にはいつも、他を圧するような胆力と威厳があり、もし彼が竜騎兵たちにとって仮に<王>でなかったとしても、大抵の者はその命令通りその場をすぐ離れていったに違いない。

 男たちは、手にしていたゴブレットやビールのジョッキなどをテーブルに置くと、当番に当たっていた見張りの兵三名を残し、地下牢から静かに出ていった。

「さてさて、第七の巫女サフィさまこと、レイヴァン卿のご息女であられるお方さま。先ほどのヴァルガの蛮行をどうか許されよ、などとは、私は決して申しませぬぞ?あなたは一晩の慰みになら結構な女だが、我が竜騎士たちが妻帯する女としては、少々口が軽すぎる。そんなにも自分のお命が大事であったのか、それともこのように敵に辱められながらも、生き伸びねばならぬ理由がそなたにはあったのか――とくと答えられよ」

 ヴァルガが、アシュランスの元に椅子を持ってきたので、彼はそれに腰掛けた。ファルークも机の前にあった木のスツールに座り、王のこの尋問を見守る。番兵ふたりは他の捕虜の牢の前に立っていたが、この問いにサフィがどう答えるのか、じっと耳を澄ませて聞いていた。

「わ、わたしは、わたしは……っ!!」

 サフィは仮面の奥にある、アシュランスの容赦ない眼差しに射抜かれ、その場にぺたりと座りこんだ。

「わたしはルシア神殿の第七の巫女なのよ!?そのわたしがどうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの!?それにお父さまはレグナ大公なんだからっ!!だからわたしと他の貧民出の巫女なんかは、そもそも格が違――」

「ヴァルガ、その女の着物を脱がせろ。それからバケツ一杯の冷水でも浴びせてやるといい」

 へい、とヴァルガは返事をするだけに留めておいた。何故といって部下として彼には、主人の意向がよくわかっていたからである。

「い、いやあっ!!そんなことしたら、舌を噛んですぐ死んでやるんだからっ!!お父さまがこのことを知ったら、あんたたちなんてすぐに死刑よっ!それこそね!!」

「やれやれ。ヒステリックな女を殴って言うなりにさせるのは嫌いではないが――どうやら私の想像以上だな。我らが素晴らしき盟友、レグナ大公は、とてもいいご息女をお持ちになられたようだ。あなたの父上は我らに国をお売りになられたのですよ、それも第七の巫女であるあなたの命を助け、次の巫女に立てるという条件付きでね。だがまあ、レグナ大公にも色々と計算違いがあったに違いないが、我々にも誤算があった……そういうわけで、あなたは父上の手には渡されず、今こうして我々の陣営に捕虜として捕えられているというわけだ」

「お、お父さまが、わたしを次の巫女に!?それは本当なの!?」

 蹲るサフィの瞳の中に、微かに希望の光が差しているのを見て、アシュランスはどうしたものかと思案する。正直なところを言って彼も、まさか姫巫女リリアがあのような形で死ぬとは想像してもみなかった。また、杯というのは生きていなければ意味がないということを、アシュランスは<聖魔の秘跡>の石版を読んで知っている。ということは当然、リリアは次の姫巫女を指名したからこそ、誇り高くも死を選んだということになるだろう。

 アシュランスにはとても、この娘が次の姫巫女の器たるに相応しいとは思えなかった。ということは、やはりヴァルガが彼女に吐かせたとおり、第四の巫女であるミュシアという少女が、どうにか逃げおおせたのだと考える以外にはない。

「第四の巫女の行き先については、そなたは心当たりがないのだったな」

 サフィの問いを無視し、アシュランスは自分が聞きたいと思う話だけを先に進めた。途端、サフィの瞳の中に、激しい憎しみの色が浮かぶのを見て――アシュランスは初めてこの娘に対し、興味を引かれるものを感じた。

「ミュシアは、神殿に捨てられていた孤児なのよ。だから父親が誰なのかも母親が誰なのかもわからないってわけ。あの子には故郷なんていうものもないし、生まれてからルシア神殿から出たことすらないのよ?それでどこへ逃げたかって聞かれても、わたしにわかるわけないじゃないの。知ってたら、すぐに教えてあげたけどね。わたしをここから出して、お父さまの元へ帰してくれるっていう条件付きで」

「ほう。そなたはよほどその、第四の巫女が個人的に好きではなかったと見える。つまり、庇うような謂れはないとそなたは言いたいわけだな?」

「当たり前よ。あんな子、今頃のたれ死んでオオカミにでも食われてりゃいいんだわ。第一、なんで不正をして巫女になったような子に、あんたたちはそんなに執着するのよ?ミュシアはね、リリアが可愛がってたから巫女になれたっていう、たぶんそれだけの子なのよ。大方、体の関係でも持ってたんじゃない?あの子ったら、ねっとりしたいやらしい目でいつも姫巫女さまのことを見てたのよ。まったく、汚らわしいったら」

 ここでアシュランスは、最初はくつくつと低く、それからアッハッハッ!!と突然大声で笑いだした。

「気に入ったぞ、サフィ。いいだろう、あとでそなたには、リューに言いつけて、ここよりは少しましな部屋を用意させよう。だがまあ、そなたにもその前に、裏切り者がどういう最期を迎えるのかをよく知っておいてもらわなくてはな。逃亡をくわだてるにしても、ここ天空島からでは身投げする以外にないが……それでも何かあればその美しい顔に傷がつくということくらいは、覚えておくがいい」

 アシュランスは椅子から立ち上がると、隣の二間続きの牢屋に入れられた、緑の神官装束の男をひとり、番兵に命じて引きだして来させた。男はまるでうわ言を繰り返すように、「神よ、お許しください。私は罪を犯しました。嗚呼、どうか神よ」と、同じ言葉をブツブツ呟いている。

「さて、第七の巫女にして、次代の姫巫女たるサフィさま。この男は実に罪深い男でしてな、巫女や巫女見習いをしている女性及び女神官たちをその手にかけたのですよ。このような男は、どうなるべきですかな?」

「決まってるじゃない!!死刑よ!」

 サフィはアシュランスの機嫌をとったことで調子づいたわけではなく――彼女にもともと備わる女王の威厳によってそう命じた。同時に、逃げださずにあのまま神殿に残っていたとしたら、自分も同じ目に遭っていたのだと思い、サフィは心底ぞっとした。

「ああ、第七の巫女サフィよ。どうか何卒お許しください」若い神官見習いの男は、命乞いするように縄で縛られた手を胸の前で組み合わせた。「それというのもあの男が……巫女さまたちが蛮族に穢される前に殺したほうがいいと、そう命じたのでございます」

 男は最後には泣き崩れ、心底悔悟しているというように、その場にへたりこんでいた。彼に指差された白装束を着た老神官は、顔を引きつらせて怒鳴り散らした。

「なんだと貴様!?自分の罪をこのわしに着せようというのか!?貴様なぞ、神の御前に裁かれて、第二の地獄へ行くがいいっ!!」

 第二の地獄というのは、第一の地獄に留め置かれた罪深い人間が、神の裁きの座についてのち、その魂を投げこまれるといわれる場所である。つまり、審判の座で「情状酌量の余地なし」とされた場合、二度とそこからは這い上がって来られないと信じられる場所である。

「同じ穴のムジナと言えばいいのか、なんと言えばいいのか……」

 アシュランスは哀れさの残る眼差しで、このふたりの罪人及び、捕囚とした三十数名の神官たちの顔を順に眺めやっていく。

「第七の巫女サフィよ。誤解のないように最初に申し上げておくが、私は巫女や女神官たちには一切手をかけるなと、部下には強く命じておいた。何故といって、彼女たちが怖れるのはおそらく、死よりも陵辱されることであったろうからな。第一、そんなことをすれば我々竜騎士の一団の名にも傷がつく……とはいえ、まさかあんなにも呆気なく彼女らが自ら神の元へ召されていこうとは思わなかった。だが、多くの女神官たちや、何人かの巫女や巫女見習いの娘などは、死をためらったのだよ。それをこいつらが手伝って黄泉の旅路へと向かわせたわけだ。これから世間ではなんと言われるかわかったものではないだろうな。事実は歪曲され、おそらく悪者とされるのは我々だろう。私の部下たちもそのことをとても苦々しく思っている……ゆえに、こやつらには明日、火竜の眠る洞窟へいってもらうとしよう」

 ブルブルと震え、ろくに足の立たない神官見習いの男を、番兵のひとりは強引に引き立てて元いた牢屋へ戻していた。

「我らが捕われておること、大神官エルヤサフさまはご存知なのか!?何故といって、我らはあの方の命令により動いておったのだぞっ」

「もちろん、知っているだろうとも」と、アシュランスは左の竜に似た目を冷たく光らせた。「貴様らはおそらく、捨て駒にされたのだ。お優しいエルヤサフさまはな、今ごろ王城でぬくぬくとレグナ大公と一献やっておるだろうよ。何故といって奴らにとっては、巫女制度さえ廃止に出来れば神殿税を自分たちの手だけで使い放題といったところだろうからな。次の遷都で、聖都と呼ばれる場所はレグナ大公の領地にあるルクシンドラへ移るだろう。我々にはルシアス王国を掌中に治めようという野心はない。ただ、我らは聖竜の秘宝と言われる杯が欲しかったのだ。それと、貴様らの神殿の地下倉に眠っていた竜の槍――そのふたつと引き換えに、奴らは国を売りよった。もしかしたら主らには、私の言っている言葉の意味がわからぬかもしれん。私のいう国を売るというのは、魂を売るということよ。そして貴様らも結局はその悪事に加担したということではないのか?まったく、ルシアス信仰も地に落ちたものよ!」

 そう言ってアシュランスは、赤いマントを翻し、神官たちに王の威厳を見せつけたそのままの姿で、地下牢から出ていった。そのあとに、ただ黙って静かにファルークが続いていく。

「あやつら、明日は火竜の餌食になる運命と思って、今晩は怯えて眠れぬ夜を過ごすかもしれんな」

「だがまあ」愉快そうな顔のアシュランスの後ろで、ファルークも微かに笑った。「それが千度を越すマグマの火口であると最初からわかっていたとしても……さして変わりないのではないか?」

「確かにな」

 ふたりが第七階層にある会議室へ向かうべく、階段を上ろうとした時、自分の私服を携えたリューと擦れ違った。彼女は竜騎士の鎧をまだ脱いでいなかったが、冑だけはすでに取っていた。

 すらりと背が高く、ふわりと長い黒髪を背中に垂らした彼女は、二十代半ばの容姿端麗な娘だった。ただし、顔の左側、額から目の下と頬にかけて、竜の爪に引っかかれた痕の残るのが、せっかくの彼女の美貌を惜しいものにしていたかもしれない。

 アシュランスは階段を数段のぼりかけたところで、ふと思いだしたようにリューのほうを振り返った。そして、彼女の耳に「今晩部屋へ来い」と耳打ちすると、リューは「承知しました」と、ほとんど無表情に答えた。まるで、何かの仕事の事務連絡でも受けた時のように。

「おまえも、酷なことをするな」

 ファルークは部下ではなく親友の顔に戻ると、アシュランスと廊下を並んで歩きながら言った。

「もし、あの絶世の美女が手に入っていたら、どうするつもりだった?リューのことは用済みという、そういうことか?」

「おまえのように、七年も好きな女のそばにいて、手も出さない男に俺の気持ちはわからんだろうよ」

 アシュランスは仮面をとると、それを胴着の内側へしまいこみながら、自嘲の笑みを浮かべた。

「だが、リューにはわかるのだ。あの娘は、俺が<王として>床をともにするのは、自分以外の他の女でなければならないと理解している。もし仮に私が慰みにサフィとかいう巫女と寝たとしても、大して気にもしまいよ。かといって、その上で私がサフィの世話を命じたとしても、隠れてこっそりいじめ抜くという真似もしないだろう。そこが私がリューに惹かれる点だな」

「……………」

(本当にそうだろうか)、とファルークは再び、王の斜め後ろを歩きながら思う。

 リューは女ながらに、最高の竜の乗り手のひとりにして、弓の使い手だった。その彼女の乗るリューのエストラドが、聖都へ向かう途中、急に<むら気>を起こして突然飛空艇から離れていったのだ。

<むら気>というのは、竜が持っている特徴的な気質で、いつもは乗り手に懐いている竜が、突如言うことを聞かずに自分本位な行動を起こすことを指す。竜は人間よりも知恵があり、頭もいいが、それでも幼獣の頃から育てれば、飼い主に逆らうということは滅多にないと言っていいだろう。けれども時々<むら気>を起こして飼い主を困らせることくらいはあるということだった。

 ファルークは、エストラドの後を追うようにして自分の乗るファティマを飛空艇から離脱させたが、エストラドが真っ直ぐにルシア神殿を目指すのを見て、彼が何故<むら気>を起こしたのかが、なんとなくわかる気がしていた。おそらく彼は、リューの微妙な女心を敏感に察知したのではないだろうか?

 そこで<むら気>を起こして我先にと、先頭に立つアシュランスの飛空艇さえ追い越して飛んでいったのではないかと、ファルークはそんな気がしてならなかった。

 そしておそらくはその時に、ルシア神殿の前でエストラドが話していた少女こそが……もしかしたら、第四の巫女ミュシアだったかもしれないと、ファルークはそう思っていた。無論、確信までは持てないので、ファルークはそのことを確かめるためだけに、無残な死体の並ぶルシア神殿を歩いてまわるということにもなった。

 その時に巫女殺しを行った神官を捕えたり、あろうことか、女神官に襲いかかっている神官のことを槍で打ち据えたりと、今思いだしても胸の悪くなるような光景ばかりが続いた。だが、十人いる巫女のうち、黒髪の娘はひとりもいなかった。第七の巫女サフィの話によれば、巫女の中で髪が黒いのは第四の巫女ミュシアだけだという話だし、遠目ではあったにしても、もう一度会えば当人であるとわかるかもしれない……ファルークはそう考えていた。

 とはいえ、暫くの間戦争はごめんだというのが、彼自身の感じていることではあった。

 聖都を襲撃する前は、これほど多くの血が無駄に流されることになろうとは、ファルーク自身も思っていなかったし、他の仲間もそうであったろう。姫巫女の御身さえ手に入れば――というのは、聖杯がルシア神殿を離れれば、そこに神殿のあること自体意味がなくなるということだが――あとは、ユージェニー女王とレグナ大公、ルシアス神殿最高位の大神官であるエルヤサフ卿が、ルシア神殿の威光を徐々に弱めるという、当初あった計画はそれであった。

 だが、実際にはエルヤサフ卿が神殿の地下倉に眠る聖竜の秘宝を渡そうとしなかったことから、今度は内輪揉めのようなことが起きる結果になったというわけだ。ファルークは、ルシアス神殿の地下倉へ到達するまでの間に、何人もの神官たちを槍で刺し殺さねばならなかったし、中にはかなりの槍の使い手がいて、仲間の加勢がなければファルーク自身の身も危ないという場面すらあった。

 そうして、これぞまさしく聖竜の槍と思われるものを手に入れたまでは良かったものの――ティグルという竜騎兵の乗る竜のグラナダが、突如<むら気>どころの話ではない暴走をはじめたのだ。おそらく、神殿で多くの血が流された、その匂いに興奮したのだろう。ティグルは竜から振り落とされて重傷を負ったが、聖都の住民に捕えられる前に、アシュランスが己の竜の背に彼を乗せ、なんとか救いだしたのである。

 また、グラナダの行為に釣られるように、バグノルドという名の竜も乗り手の制御を離れて暴走を開始した。こうなってしまってはもはや、飛空艇から二頭の竜のことを見守り、頃合を見て角笛を鳴らすことで、帰投を促すしかなかった。何故なら、十分に殺戮と破壊行為に酔ってからでなければ、すぐ角笛など鳴らしても、竜の気性からいって戻ってくるはずがなかったからだ。

 おそらく、レグナ大公は「約束が違う」といったようなことを言ってくるであろうし、それを言うならこちらもまったく同じ科白を言う権利があるということになるだろう、とファールクは思う。

 第七階層にある、水晶石の床が美しい会議室で、竜騎兵の幹部二十四名は、そのことを長時間かけて話し合わなければならなかった。何故なら、野生の竜は別として、幼獣の頃より飼い慣らした竜が突如あのように制御不能に陥るなど――今まで誰も見たことがなかったからである。

 会議では他に、「結局血を流さぬ戦争などないのだ」ということが、ファルークの父レイルークの口から発せられ、「聖竜の秘宝については諦めよう」という意見も出された。このことについて、アシュランスは黙って年長者の話に耳を傾け、王としてどのような判断を下すかについては、答えを一旦保留にした。

 だが、ファルークは親友として、アシュランスの性格をよく知っているだけに……彼が聖竜の秘宝を諦めることはないだろうと、よくわかっていた。というよりもむしろ、姫巫女のあの気高い死に様を見て、アシュランスはますます聖杯が欲しくなったに違いないと、ファルークはそう思っていた。

 あのような痛ましい死が最初から待っているとわかっていたら、ファルークは絶対に今回の件に協力したりはしなかっただろう。だが、今さらすべてが遅すぎた。自分の手は血で汚れてしまったし、もう引き返すことの出来ない道に一歩足を踏みだしてしまったのだから、聖竜の秘宝の最後のひとつが集まるまで、アシュランスについていきたいという気持ちも彼には強くある。

(なんにしても)と、夜遅くまでかかった会議を終え、第三階層にある自分の居室まで、ファルークは戻っていこうとした。(俺は、こんな戦の前にあの人の肌に触れなくてよかった。そして無事に戻って来たその時こそはと、最初はそう思いもしたが……もう駄目だろう。清らかなあの娘に触れるには、俺は汚いものを見すぎてしまったし、それなのにあの娘の中に癒しを見出そうとするなど、虫の良すぎる話だ)



♪ああ、一体いつまでですか、あなたは

 一体いつまで私のことを待たせるのですか


 忘れないでください

 故郷の紫色の花にかけて誓ったこと

 必ず迎えにくると言ったこと……


 あなたの優しい眼差しが今宵も私を苦しめる

 あなたが私の肌に押した唇の痕が疼き、

 とめどもなく甘く、海の呼ぶ声が聞こえるのです


 そう、ここは海

 あなたのいない孤独な海


 ああ、一体いつまであなたは私を待たせるの?

 必ず迎えにくると言った、あの言葉は嘘だったのですか


 ああ、あなたは一体いつまで……



 歌の途中で、竪琴の旋律が途絶えた。アイリは、月と星の明かり、それに暖炉に燃える火炎石に、ファルークの姿が切り取った影のように浮かぶのを見た。

「少なくともその歌は、俺のことを想って歌われたものではないのだろうな」

<奏楽の間>にある広い窓敷居に腰かけて、アイリは顔をさっと赤くした。何故といって、今は第Ⅲ(マゼル)の刻に近く、まさかこんな夜中に誰かが自分の歌を聴いていようとは、思ってもみなかったからだ。

「あなたには誰か、故郷に思いを残してきた男がいるのか?だが、あれから七年にもなる。だからすでにもう誰かと結婚していようし、自分のことも忘れているだろうと、今の歌はそんなふうに聴こえた」

「故郷でわたしを待っているのは、父と母のふたりくらいなものでしょう」

 本心を窺わせない、抑揚のない声でアイリは答えた。

「この流行歌を教えてくれたおじさんと、昔、一緒に暮らしていた男の子がいたんです。わたしは赤い瞳の彼のことが好きでした。みんな彼の赤い瞳を不吉だって言って嫌いましたけど、わたしはあんなに綺麗な瞳を見たことは、今まで一度もありません。もし彼と結婚したいと思えば、駆け落ちでもするしかなかったでしょうね……でも、わたしたちの間ではまだ、そこまでの想いは育っていなかった。これからもただなんとなくずっと一緒にいられたらと、そんなふうに思っていた時に、あなたがわたしの前に現れたんです」

「俺にはそれを、償うということは出来ない。ただ、思った以上に速く時が流れてしまったことを、詫びることしか出来ない……単刀直入に言って、俺はあなたが欲しい。卑怯だと思われてもいいし、死ぬまで恨んでくれて構わない。何故「今」それを言うのかと、あなたは思うだろうな。その気持ちもよくわかる。自分がいかに自分勝手かということも……だが、この手が血で汚れてしまった今、俺には支えが必要なんだ」

 ファルークの物言いは、彼が自分で言ったとおり、本当に単刀直入だった。

 アイリは、何故か彼が部屋に入ってきた時から、泣いているような気がしていた……もちろん、その紫水晶の瞳に涙の影はなかったとしても。

「俺が怖いか?」

 ファルークの手が竪琴を横にどかせ、自分の腕と脇の間に入りこんでも、アイリはそれを拒むということが出来なかった。血で汚れてしまったというのが、どういう意味なのかということも、アイリは聞かなかったし、彼女にわかっているのはただ、彼にはたった今<これ>が必要なのだという、それだけだった。

 実際に、シンクノアと一緒にいる時に、唇を重ねあわせたいと思ったことが、アイリは一度もない。それなのに今、彼女の脳裏に思い浮かぶのは、彼のことだけだった。

 けれど、アイリはファルークの唇をそのまま受け入れた。それから彼がうなじや首筋にキスをするのも許した。アイリは以前、竜の求愛行動を一度だけ見たことがあるが、それに少し似ていたかもしれない。ネッキングといって、竜は何度かお互いの首を絡め合わせるような行為をしたあと――交尾するのだった。

「無理強いはしない。でも、もし俺を受け容れてくれるなら……」

 ファルークは、アイリのことを窓敷居から抱き上げると、少し照れたように笑って、彼女のことを見下ろした。アイリは瞳を伏せめがちにしたまま、何も言わなかった。そしてそれが肯定とみなされることも、よくわかっていた。

(このことを、彼のせいにしてはいけない)と、アイリは不意に彼の部屋の寝室で、強くそう思った。ファルークの体の胸からわき腹にかけてと、背中に竜の爪の傷痕が大きく残っているのを見た時に……。

 それから、彼のその傷痕を震える手で撫で、彼が自分の手を掴み、そこにキスしはじめるのを黙って見ていた。

 アイリはファルークに抱かれている間、ずっと心の中で歌を歌っていた。懐かしい故郷の寒村の、短い夏のことを歌った歌を……。




 終わり 




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ