表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

第3章 白蛇女王の館

 ナルム村を出て以降、一行の旅のペースはゆるやかなものになった。大体次の町や村へ辿り着くのに――30エリオン以上離れているということはなかったので、馬がなくとも徒歩でも、日が暮れるまでに辿り着けないような場所はなかったのである。

 そこでセンルとルークとシンクノアの一行は、王都カーディルまで行き着くのに、約三か月ほどもかかってしまった。というのは、道程の町や村で色々な事件に引っかかったせいもあり、場所によっては半月ほど逗留したこともあったからである。

 第一の事件としては、山間にある洞窟に魔物が住んでおり、そのせいで隣村同士の行き来が閉ざされ困っている……というのが、<ルアーガの鬼蜘蛛退治>という事件であり、この時初めてセンルは、シンクノアの剣の腕前がどの程度のものであるのかを知った。

 ルアーガというのは、カーディルの言葉で「熊の巣」を意味している。つまり、村人たちが熊が冬眠するのに使っていると思いこんでいた洞窟に――いつの間にやら<鬼蜘蛛>という名の魔物が住みついていたのである。鬼蜘蛛は巨大な蜘蛛のような姿をしており、口から粘液を吐いて動物や人間を絡めとると、生きたまま貪り食べるという、肉食の魔物だった。

 センルとしては最初から特にシンクノアの剣の腕前のほうには期待していなかったのだが(というより、彼がどの程度の剣の使い手なのかということすら、考えてみたこともなかった)、自分ともし直接対決した場合、おそらく無傷ではいられまい、というくらいの脅威を感じた。 

 つまり、センルが呪文を唱えて発動させる前に、すべての事の決着は着いていたのである。センルにはその太刀筋を見分けることさえ出来なかったが、シンクノアが細身の剣を抜くか抜かぬかの間に……鬼蜘蛛の巨体はまず胴と頭が離れていた。それから一瞬間を置いて、足がすべてバラバラになっていたのである。

「こいつは、頭を潰しても胴体だけで動くし、足に生えてる毛に毒があってな、捕まえられると痺れて暫く動けなくなるんだ。暫くなんて言っても、その動けない間に喰われちまってる公算が高いわけだけどな」

「……おまえ、この種の仕事をよく請け負うのか」

 火炎魔法によってまずは口を塞ごうと考えていたセンルは、あまりに呆気なく片が着いたのを見て、シンクノアに対して感心しないわけにはいかなかった。ルークは光の精霊魔法を使って洞窟内を明るく照らしていたが、あまりにグロテスクな魔物の屍骸を前にして、驚いたのだろう……暫く口すら聞けないまま、ただ呆然としていた。

「まあ、話としては、センルの闇の魔導士退治っていうのと、少し似てるのかもしれないな。こういう汚れ仕事はマゴクが御専門ってな感じで、話があれば当然割高で請け負うよ。じゃないと、こっちも暮らしていけないからさ」

「なるほど。そういうことか」

 ――ナルム村を出たあと、当然センルは、ルークの本名や彼女自身が生きた<鍵>そのものなのではないかということまで、色々と質問攻めにしたのだが、シンクノアはそれを途中で止めさせていた。

「そういうのは、やめにしようぜ、兄弟」と、彼は道の途中でそう言い、センルの肩をぽんと叩いたのである。

「……私とおまえが、一体いつから兄弟になった。気色の悪いことを言うなっ!」

「だってさ、ミュシアちゃんもおまえに一気に色々聞かれて困ってるじゃん。あんたさあ、もう三百年も生きてるんだろ?それで、生まれはどこですかとか、三百年生きてもその若さで、どんなことで一番お困りですかとか――聞かれて嬉しいか?むしろ途中で、いいかげんぶっ飛ばすぞ、このトウヘンボクがっ!!てなるのが普通なんじゃねえ?だからそう、こんな可愛い子を一気に追い詰めるような真似すんなって、俺は言いたいわけ。おわかり?」

 確かに、シンクノアにそう言われて、ルーク……いや、ミュシアが困り果てたような顔をしていることに、センルは初めて気づいた。どことなく、怯えきったうさぎのような顔の表情すらしているように見える。

 以来、ミュシアが第四の緑柱石の巫女だったこと以上に、センルは詮索するのをやめているわけだが、知識欲が旺盛なセンルとしては、最後の姫巫女リリアが託したものの意味について、早く知りたくてならないのだった。

「あの、本当にわたし、わざと隠してるってわけじゃなくて……その<鍵>っていうのがなんなのか、よく知らないんです。だから、世界最大の図書館っていわれるカーディル図書館へ行けば、何かわかるんじゃないかって、そう思ってて……」

 ミュシアのその答えを聞くと、今度はセンルが黙りこまねばならなかった。何故といって、おそらく王都カーディルへ行けば、本を調べる以前に<生きた知恵>を持った魔導士たちがいるので――もしセンル自身がうまく渡りをつけられれば、ミュシアがこれからどうすればいいのかを、教えることが出来るかもしれないのである。

 また、それと同時に、自分とシンクノアが実にその身分の危うい人間を守っているのだということに、センルは初めて思い至っていた。つまり、姫巫女の間で代々継承されてきた<鍵>が今現在彼女の体内にあるということは、ミュシア自身が本当の意味での生きた最後の姫巫女ということになるだろう。

 もし、政治的野心を抱いている人間が彼女に近づき、姫巫女リリアが次の姫巫女を指名して逃がしたからこそ、リリアは自ら命を絶ったのだと世間に公表された場合……おそらくミュシアは、多くの人間から命を狙われることになるに違いない。ミュシア自身はその可能性にまるで気づいていないようだが、ルシアス王家は現在、どうやら<遷都>を考えているらしい。暗黒竜に踏み穢されて焦土と化した大地を復興させるよりも、ルシアス王国の第二の都といわれるルベリオンか第三の都として栄えるルクシンドラへ王家をお迎えしてはどうかということが、現在審議検討中であるらしかった。

 もしそこへ、姫巫女がその証拠となるものとともに御存命であられる……などということが世間に知れ渡ったら、一体どうなるだろう?そもそも、王族を初めとした諸侯はみな城の中へ逃れていて無事だったということ自体、少しおかしな話ではないかと、センルは前から思っていた。ルシアス王家というのは、聖竜の末裔の血を継ぐ者として姫巫女ほどではないにしても、世間ではそれなりに人気のある存在である。だが、噂によると(といっても、ミュシアの口から直接それが本当のことであると知った今、センルにとってそれは真実となったのだが)、ルシア神殿の姫巫女は、女王や王である者とすら、俗世にある者として顔と顔を合わせて話をすることはしないらしい。つまり、執政のことに関して何か神の託宣が欲しい場合は、御簾ごしに会話をし、姫巫女自身は女王の前にも王の前にも決して姿を現したりはしないのだという。

 よくそれで、千年以上も治世が持ったなとセンルはつくづく感心するが、ルシアス王家が長い間ルシア神殿のある方角を、王城から疎ましく眺めていたとしても、まったく驚くには当たらないだろうという気が、センルはする。これもまた噂によればということなのだが、王家に収められる税金よりも神殿税のほうが遥かに大きく上回るということだし、その税を自分がうまく操れる巫女をその地位に就けることで自由に出来るとしたらどうだろう?センルには、そのような計画がルシアス王国の現女王を中心に押し進められているのではないかという気がしてならなかった。

 つまり――カルディナル王国の王都カーディルで、最初センルがしようと思っていたのは次のようなことだった。国の最高魔導士であるブリンク以下、高位の信頼できる魔導士たちに自分がヴァリアントと出会ったこと、また彼が<鍵>と呼ばれるものを探し回っているらしいこと、それからそれが何を意味しているのか、自分の手には余る問題について彼らに訊ねてみるとつもりであった。

 だが、そのためにはミュシアがルシア神殿の姫巫女としての継承権を保有する者であることを、彼らに明かさなければならなくなるだろう。センルは闇の魔導士退治が嫌になり、破門されたも同然の身分であったので、カルディナル王国の政治事情については今もいまいち疎いという実情がある。

 ゆえに、話をする相手はつくづく慎重に選ばなければならないと考えていた。もし、カルディナル王国に姫巫女が逃れて御存命中であるということが世間に知れ渡れば――おそらくその後は戦争になるということも、十分考えられるのだから。

「シンクノア、おまえ……あの子ために、命を捨てられるか?」

 ひとり、頭の中で同じことを繰り返し考えるのに嫌気が差し、シロンという名の町にいる時、センルは眠る前にそうシンクノアに聞いていた。

「命、か。そういうあんたはどうなんだ?」

 その時に宿っていた瞳の色によって、シンクノアにはそれが出来るだろうということが、センルにははっきりとわかった。

「前に、ハーフエルフの百年は、人間にとっての十年みたいなものだって、言っていたことがあったろう?それでいくと、センルは命さえあれば、これからもずっと長生きができる……つまり、せいぜい百年くらいしか生きない俺たち人間の命が、センルには十個以上詰まってるってことだ。それなのに、その命をつまらないことで落としたくないと思うのは当然のことのような気がする。でも俺は――昔はさ、もう一度アイリに会えるまでは絶対に死ぬものかと思ってたこともあるけど、今はそれが第一にありつつも、あいつが幸せだっていうこさえわかれば、別に明日死んでもいいんだよな。あの子は……ミュシアは、俺が自分のクズみたいな命を捨てて守る以上に、充分価値のある子だと思う。そしてミュシアのほうでも、俺か、あるいは俺じゃなくても、だ。クズかカス程度にしか感じられない人間のためにでも、あの子は命を投げだすだろう。それがわかるから、俺はあの子のためになら命を捨てられる気がするんだ」

「そうか。だがな、私自身のことに関して言えば、逆の考え方もできるんだぞ?すでにもう三百年も生きたということは――普通の人間の生命、三個分以上の人生を送ったことにもなるわけだ。それで、魔導士センルもそろそろ年貢の納め時っていう時が来たら、残りの寿命のことなど考えてもいられまいよ。おまえが身に沁みて知っているとおり、長生きするばかりが幸福とはいえない。私は生まれ変わりといったものを特に信じているわけではないが、もし来世というものがあったとして、シンクノア――次はどんな瞳の色でも選べるとなったらおまえ、どうする?」

「ははは」と、シンクノアはどこか愉快そうに笑った。「俺は次の人生なんて、考えてみたこともないな。だけど赤い瞳だけはごめんだ、ということも出来ない。人間ってのはまったく深い生き物で、俺のことをマゴクと呼んで忌み嫌う人間がいる反面……アイリやミュシアやセンルみたいに、そんなことをまるで問題にもしない人間っていうのが存在するからな。俺はミュシアみたいに特に信仰深いわけではないにしても、時々神さまっていうのが天から見ていて、本当に価値のある人間とそれほどでもない人間を選別してるんじゃないかと思うことがあるよ。あの子は差別意識のない本当にいい子だ、魂の財産としてプラス五点とか、何かそんなふうにさ」

「だが、それでいったら、赤い瞳で苦労しているおまえ当人は一体どうなるんだ?」

「俺か?センル先生、俺にはそれがまったくわからないんだよな。シンクノアくんは、たまたま第13の月に赤い瞳で生まれちゃって可哀想でちた。だから百点満点……なんていうのが神とかいう奴だったら、俺はそんな野郎のことは速攻ぶっ飛ばしてるだろうからな」

 そこで、センルとシンクノアが互いに声を合わせて笑っていると――不意に、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。ふたりは、てっきり相手がミュシアに違いないと思っていたのだが、「どーぞー」というおちゃらけたシンクの声に答えたのは、ミュシアではない、まったく別の女性の声だった。

「わたくしは、シロンの領主の城館に勤める、エノラと申す者です。こちらに、ルシアス神殿にお仕えである神官さまがおられると聞いて参りました。我らがシロンの娘と呼ばれるヤスミンカさまが、奇病にかかっておいでで……是非、治療をしていただきたく、こちらをお訪ねしたのでございます」

 この種のことというのは、湯治町リディマを出て以来、幾度となくあった依頼であった。ルシアス神殿の神官としての印しである青の僧服と、手に持った錫杖を目にするなり、信心深い老人などは、額を地にこすりつけんばかりにしてルークのことを拝むことさえあるのだ。

「えーと、ミュ……じゃねえ。ルークなら、別の部屋にいるけど、俺たちは彼とともに旅をしている用心棒ってところだ。用があるなら、上からあいつを呼んでこようか?」

「ええ。是非お願いします」

 エノラという名の中年の女中は、切羽詰まったような顔の表情をしており、シンクノアの赤い瞳を見ても、まったく動じずに、彼が脇を通りすぎていった時にさえ、敬意を払うように会釈していた。これまで、大抵の人間がルシアス神殿に仕える神官さまともあろう方が、何故マゴクなどと一緒にいるのか……という視線に慣れていたセンルにとって、これはむしろ何かの良くないサインであるように思えて仕方なかった。

 つまり、シロンの城主の娘のヤスミンカとやらは相当な重傷らしいと察せられるが、権力を持つ者の親族の病いを癒せなかったらどうなるのか、センルにとってはその点が何より気がかりだったのである。何しろ、リディマの町のリウマチ女性がそうであったように――ルークの癒しの祈りといったものは、即座にその場で効力が現われる場合と、そうでない時とがあるのだから。

 シンクノアが二階の部屋で休んでいたルークのことを連れてくると、エノラはとにかくお嬢さまのことを見てほしい、その症状についてはここではお話できないというその一点張りだった。そこでルークが、「今日はもう遅いので明日の朝お伺いするというのではどうでしょうか?」と提案すると、エノラという侍女は「是非とも今宵のうちに、一刻も早く見ていただきたいのでございます」と、今にも泣きださんばかりにしてルークに懇願した。

 そこで彼女としても、これは相当病いが重いのだろうと考え――エノラの言い分を聞き入れたのだったが、この時、時刻は<第十一ハザルの刻>であった。双子月はともに三日月よりもさらに細くなっていたこの夜、シロンの城館へ向かうまでの間、道は暗いというよりもまるで黒く塗り潰されでもしたように先が見えなかった。

 エノラとしては、ルシアス神殿の神官ひとりのみを屋敷まで連れていくつもりであったのだろう。まるで当然のように後ろから蒼の魔導士と赤い瞳を持つマゴクがついて来ようとするのを見て――彼女はとても当惑した様子だった。

「もしそれが伝染病か何かでるあるとしたら、ぼくひとりで……」とルークが言いかけると、いつものように「駄目だ!!」とセンルが即座に反対した。

「何度言ったらわかる?おまえの体はもう、おまえひとりだけのものじゃな……」

 そこまで言いかけて、ハッとしたようにセンルは口を噤み、それからこう言い直した。

「つまり、ルシアス神殿の神官さまの御身は、あなたおひとりのものではないということです、ルークさま」

 この丁寧な物言いに、エノラは気を良くしたのかどうか、「さようでございましょうとも」と言って、初めて微かに笑顔を見せた。

「ヤスミンカさまの御病気は、人にお移りするようなものではございません。そちらはこのわたくしが十分に請けあいますわ。何故といって、わたしはヤスミンカさま付きの侍女で、いつもヤスミンカさまのお世話をしているのですから……しかしながら、お嬢さまの寝室では神官さまだけがお嬢さまにお会いして欲しいのです。その点については、ご了承いただけますでしょうか?」

「まあ、俺は当然ヤスミンカさんに会わないほうがいいにしても」と、シンクノアは隣のセンルのことを見返した。

「私はとても嫌な予感がしてならないんですがね、エノラさんとやら」

 センルは、先頭に立って角燈で先を照らす侍女に対し、仏頂面で続けた。

「もしそこに闇魔法が関わっていた場合、それはどちらかというと魔導士である私の専門だと思うので。そしてその場合は、もしかしたらルシアス神殿の神官さまのお力を持ってしても癒されぬかもしれないのですよ。そう考えた場合、ヤスミンカお嬢さんはルークと私のふたりに会ったほうがいいと、そうお考えにはなられませんか?」

 ――町の大通りを抜けてからは、坂道が続いた。シロンの町は、小高い丘に建てられていて、領主の城館はそのもっとも高い場所に位置している。そして砂石造りの古い城館の門をくぐった時、センルの中の嫌な予感は確信に変わった。

 闇の魔導士や闇魔法に関わる何かが身近にある場合、センルは仮に寒くない時でも一瞬肌が怖気立つのだ。侍女のエノラは、センルが言った言葉に対し、黙って足早に坂道を上り続け、返答を保留にしていたのだが、屋敷の玄関口へ辿り着くなり、突然その話の続きをしはじめた。

「ああ、ヤスミンカお嬢さまの寝室は二階でございますわ。そのう……名のある魔導士さまにでしたら、すでにお嬢さまのことをお見せしたのです。ここから王都カーディルまでは、そう遠くはございませんからね。お嬢さまのために、なるべくお力のある魔導士さまをと、ヤスミンカさまのお父さま……つまり、ここシロン地方一帯の領主であるラディール卿は使いの者を走らせたのですよ。ところが、あの口の軽いヘボ魔導士めが!!」

 ここでエノラは、今思いだしても腹が立つとでも言うように、何度か玄関マットの上で足を踏み鳴らした。

「あら、わたしとしたことが……おほほ。なんにしても、そのヘボ魔導士めはお嬢さまの御病気をお癒しになれなかっただけでなく、シロンの領主の娘には白蛇の呪いがかかっているだなどと、言い触らしてまわったのでございますよ。そのせいで、せっかく進んでいたエレアノール卿との縁談もすっかりぶち壊しになって、以来お嬢さまは生きる気力を失っておいでなんですの。ああ、以前はあんなにお美しかったお嬢さまがどうしてこんな目に……本当に、おいたわしい限りのことでございますわ」

 エノラは玄関口に出てきた使用人の娘に角燈を渡すと、毛足の長い白い絨毯の敷かれた階段を、二階へ上がっていった。廊下は広く、このままどこまでも続きそうなくらい長くもあったが、壁にかけられた燭台に明かりが灯っているだけでなく、あちこちの暖炉に火が入っているそのせいだろう、全体に暖かな空気が行き渡っているようだった。

 センルは廊下の壁に飾られた絵画や、大理石の彫刻品などを見て、これだけの贅沢のできる金持ち領主の娘が病気となり、不名誉な噂話を流されたとあっては、これ以上の屈辱はおそらくなかったろうと想像した。エレアノール卿との縁談だけでなく、果たして他の身分ある貴族ともこれから結婚できるかどうか……もしその白蛇の呪いとやらが闇魔法に関わるもので、領主の娘ヤスミンカ自身が何かの<取引>に関わっていた場合――今も正気で命があるだけでも儲けものだという可能性もあることを、センルはよく承知していた。

「あの、少々こちらでお待ちになっていてくださいませ。ヤスミンカお嬢さまに心の準備をしていただかなくてはなりませんから」

 ヤスミンカが休んでいるという部屋の向かいに応接室があり、そこでも暖炉に炎が燃えていた。シンクノアはここからは自分は邪魔になると判断したのだろう、片方の扉が廊下に向かって開け放たれている応接室の中へ姿を消した。

「まあ、ルシアス神殿の神官さまが本当に来てくださるだなんて!」

 胡桃材の茶色いドアの向こうからは、病気とはとても思えないような、若々しくて明るい声が聞こえてきた。

「ああ、でもわたし、どうしたらいいのかしら、エノラ?こんな格好で神官さまにお会いするだなんて、きっと失礼だわ。せめて、普段着にでも着替えなくちゃ……」

 その時、ルークがコンコンとドアを軽くノックした。すると、エノラが極めて細く扉を開け、小さな声で「もう少々お待ちください」と言った。

「いえ、そのままで構いませんとヤスミンカさんにお伝えください。人間は、神の御前では裸なのですから、着ている衣服がどうとかいうようなことは、まったく関係がありません」

 その科白を聞いていて、センルは若干驚きつつ呆れた。時々思うことなのだが、ルークことミュシアはこと信仰というのか、神に関わる出来事となると、突然恐ろしいまでに大胆な行動に出ることがあるのだ。

 そしてそのまま半ば強引に扉を開き、センルには眼差しで待っているよう釘を刺すと、自分ひとりだけがヤスミンカのいる室内へ入っていった。

 暫くそこで聞き耳を立てていたセンルだったが、何分あまりに小声すぎて何を話しているのかがまるで聞き取れない……。

「なあ、センル。これってなんだと思う?」

 応接室から戻ってきたシンクノアが、手に白い鱗状のものを持っているのがわかるなり、センルはヤスミンカの部屋へすぐ入っていった。

「キャアアアアアーーーーーッ!!」

(やはりそうか!)

 悲鳴を上げているのは、ヤスミンカ本人だった。だが、彼女は人間というより、白い蛇の顔そのものだった。顔だけでなく、肩も腕も手も、露出している肌はすべてびっしりと、白い鱗で覆われている。

「あんた、たぶん誰かと何かの<取引>をしたろう?相手は自分を何であると名乗っていたかはわからんが……カーディルから派遣されてきたヘボ魔導士が白蛇の呪いと呼んだのも、案外外れていなくはない。この鱗を砕いて粉末状にしたものを飲み続けると、今のあんたのように取り返しのつかないことに……」

「見ないでえっ!わたしを見ないでえっ!!」

 両方の手で顔を覆い、まるで蛇のようにヤスミンカが体をくねらせていると、ベッドの前に腰掛けていたルークが立ち上がり、怖い顔をしてセンルのことを睨みつけてきた。

「センルさん、出てってくださいっ!!ここは若い女性の寝室なんですよ!」

 そう言って、センルを突き飛ばして外へ出ていかせると、ルークはバタンとドアを閉めていた。暫くの間ヤスミンカの啜り泣く声が廊下の隅々まで聞こえていたが、こういうことがよくあるのかどうか、使用人が二階に上ってくるような気配はまるでない。

「やれやれ。センル大先生の博識も、若い女性の前ではけんもほろろだな」

「うるさいっ!!」と言いつつ、センルはシンクノアが空中に放った白い鱗を受けとった。

「大方、これを飲めば肌が美しくなるとかなんとか、怪しい商人にでも売りつけられたんだろうよ。まったく、よくある手なんだがな……これに引っかかる女性というのは、数に限りがない。あいつらはもう自分たちに明るい未来がないので、それを持つ人間の未来を台無しにする以外楽しみがないんだろうよ。シンクノア、おまえ『欲望のなる樹』っていう話を知っているか?」

「ああ。まあ、有名な民話だよな。子供でもみんな知ってるような……」

 腕を組んだまま、シンクノアは廊下の壁にもたれて言った。

「ええと、確か――ある村に<願いごとの叶う樹>が生えていて、みんながそこにお願いごとをしにいった。心の清い人間がお腹をすかせてそこに食べ物を取りにいくと、西瓜とか蜜柑とか、とにかく食べたいものが生っている。他には新しい鍬が欲しければ、古いのを地面に埋めておくと、次の日には新品の鍬が樹に生っているという寸法なわけだ……ある日、貧乏で結婚できない若者が、いい嫁さんが欲しいと願うと、我慢強いべっぴんの嫁が樹になっていた。それを見ていた腹の黒い男が、自分の女房を殺して土に埋め、新しい美人の嫁が欲しいと願う。次の日に<願いの叶う木>には確かに美人の嫁が生っていたのだが、そのべっぴんの嫁は次第に腹の黒い男を苦しめるようになった。その他、その男が金のヤカンが欲しいと願えば、そのヤカンには穴が開いてるし、とにかくそんな調子でそいつの願いごとはちゃんと叶えられた試しがなかった。だが、他の人間たちが相も変わらずいい物を引き当てるのを見て嫉妬した男は、最後、その樹に斧を当てて倒してしまうんだな。村の人々は願いの叶う樹がなくなったことを悲しみ、腹の黒い男と強欲な女房を殺すと、もと樹のあった場所へ埋めたって話だ。終わりの言葉は、「このふたりが埋まった地面からは、その後なんにも生えて来ませんでしたとさ」っていう、なんとも救いようのない、暗い話だよな」

「そうだ。闇魔法に関わった連中っていうのは、それと同じ運命を辿るってわけさ。自分だけでなく、他人をも不幸にするっていう負の連鎖が延々と続いていき……一度闇の側へ落ちた人間っていうのは、他人を不幸にしたり呪うこと以外に興味がなくなっていくらしい。正確には、自分と同じ不幸を持つ人間を増やすことしか、なすべきことがなくなるってわけだ。私が魔法の手ほどきを受けたカーディル王立魔術院では、教師のひとりがこんなことを言っていたよ。闇魔法に傾倒する人間が増えると、やがて世界を癒す樹が枯れて、一本も生えない状態になるってな。だからそうなる前に向こうの勢力をある一定のところで食い止めなければならんわけだが……おまえ、ここに来るまでに感じなかったか?」

「ああ、感じた」と、シンクノアは重い溜息とともに答えた。「囲まれてるな。城館に勤める使用人のうち、何人かは間違いなく魔の物だと思う。もともと人間なのか、それとも魔物が人間の振りをしているのかは判然としないが……問題なのは」

 シンクノアはそう言って、扉の向こうに再び耳を澄ませた。話声が急に止んだのである。センルはすかさず、重いドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。

「くそっ!」

 センルが口の中で<開錠>(ラ・シエント)の呪文を唱えると、鍵の回る音が聞こえるのと同時、シンクノアがそこに肩から体当たりした。

 そこでは、二匹の白い蛇が暖炉の炎を受けて、壁に影を不気味に伸ばしているところだった。気を失ったミュシアが、一匹の白蛇おそらくエノラに抱えられ、もう一匹の白蛇が二又に分かれた赤い舌をだし、彼女の体を味見するようになめている。

『残念ダワ……アトモウ少シダッタノニ』

『やすみんかサマ。セッカクノ上等ナ御馳走ヲ諦メナイデ。ワタシタチデ半分コニシマショウ。ワタシタチデ半分コ……』

『ソウネ!ソウスレバアノ方モキットオ喜ビ二ナルモノネ!!』

 本体よりも影のほうがぐっと大きくなり、威圧するようにシンクノアに牙を剥いてきた。鬼蜘蛛を倒した時同様、一瞬で蹴りがついたのは良かったが――首を斬り落とされたあと、大蛇の首が黒い何かに変わり、次にそれが無数の虫になってあたりを這いずりまわった。

「うわっ!!なんだ、これ……っ!!」

「しっかりしろ!ただの幻術だ!!」

 センルが火炎魔法を唱えると、暖炉の炎が白蛇エノラの体に燃え移った。その炎の力にヤスミンカも驚いたのだろう、シンクノアの幻術がとけた。

「うあ~っ。気っ持ちわりぃ~!!危うくもう少しで、口の中にゴキブリが入ってくるところだったぜ!!」

『やすみんかサマ、助ケテ。やすみんかサマ……』

 体をくねらせながらエノラは、まるで捧げものでもするように、ヤスミンカに向かってミュシアの体を持ち上げたが、白蛇のヤスミンカがクワッと口の顎を外して獲物に襲いかかろうとした瞬間――今度こそ本当に、シンクノアの剣がヤスミンカの舌を引き裂き、そのまま喉から内蔵に至るまでを真っ二つにした。

 これで勝負はついた、とシンクノアはそう思い、ミュシアを抱き上げたセンルとともに部屋を出ようとしたのだが、二匹の白蛇はそれで死んだというわけではなかった。ふたりは脱皮するように新しい体を作り上げると、ふたつの頭を持つ大蛇となり、三人に向かって再び牙を剥いてきた。

「おい~!あいつら不死身かよ!?」

 泣きごとを呟くシンクノアと一緒に廊下を走りつつ、センルは左右の部屋に鋭く目を走らせていた。ミュシアの体であれば、重力魔法をかけて軽くしてあるので、何も問題はない。だが、センルにとってこの時一番問題だったのは、どこにあの二匹の蛇の<本体>の元があるのか、ということだった。

 それを潰さない限りは、無限に増殖する化け物と空を切るような拳闘を続けなければならないことが、センルにはよくわかっていたのだ。

「シンクノア、屋敷の火をすべて消すぞ!!」

「ええっ!?そんなことしたら……まあ、天才魔導士先生の仰せとあっちゃ仕方ねえな!あんたの好きにしろよ」

 センルが炎を消す消火呪文を唱えると、まずは廊下の燭台にあった火がすべて消えた。それから暖炉の火も、すべて水を浴びせられたように突然消し炭になる。

『アアア~ッ。助ケテ、えのら。ワタシ、目ガ見エナイ。暗イノ、怖イ。怖イノ、イヤ。えのら、えのら……』

『やすみんかサマ、シッカリシテクダサイ。えのらハココニオリマス。イツデモ、やすみんかサマノオソバニ……』

 二階の部屋の炎が消えた間に、センルは一階でミュシアの顔をはたいて、彼女のことを起こそうとした。彼女に光の精霊魔法を唱えてもらってからでなくては、一階の部屋の炎を消せないからだ。

「ミュシア!光の精のラミカを呼んでくれ!!それも今すぐに!」

 ミュシアは目を覚ますと、センルの言うとおりに呪文を唱えた。悪しき者は決してこの光の力に打ち勝つことが出来ない。そこで、双頭の大蛇をこの光の力によって二階に足止めすると、一階にある部屋のひとつから、先ほどエノラが角燈を渡した使用人の娘がでてきた。

「あなた方がお探しのものは、これでございましょう」

 そうして美しい硝子細工の角燈を、ミュシアに向かって彼女は差しだした。

「わたしたちはずっと本当の光が訪れるのを待っていたんです。ヤスミンカさまはここの屋敷で火事のあった日に、顔に大火傷を負って縁談が破談になったのでございますよ。とてもお美しい方でしたが、弱視でしたので、自分が本当はどのくらいお美しいのかはご存知ないまま……首を吊って自殺されたのです。侍女のエノラはこの角燈を持ってお嬢さまの寝室を覗いた時に、そのご遺体を発見してしまい、その後ほとんど廃人のような人生を送って死にました。あの時に火事で死んだ使用人たちはみな、わたしを含め、何故かみなここへ呪いの杭に刺されるみたいに留め置かれることになったんです。でも今、これでようやく、どこかはわかりませんが、別の場所へ行くことが出来そうです。唯一の本当の光、これさえ道標になってくれたなら……」

『れおのら~ッ。使用人ノ分際デ、主人ノコトヲぺちゃくちゃ喋ルナンテ許サナイ~ッ。オマエナンカ、クズダッ、ゴミダッ。天国ニナンカイケッコナインダッ!!死ネ死ネ死ネ死ネ、ミンナ死ネッ!!モウ嫌ダア~ッ!!コンナノ嫌ナノォ~ッ!!コンナハズジャナカッタッ!!ミンナ間違ッテル!!ワタシ以外ハミンナ間違ッテルンダァ~ッ!!!』

「早く、この角燈を持ってお逃げください。あのままでは、ヤスミンカお嬢さまも侍女のエノラも結局不幸なままなのです。そして、その角燈を持って安全な場所へ出るまでの間、かわりにあの光をわたしたちに与えてほしいのです。そのあとで、その角燈を粉々に砕いてください。いいですね?」

 センルとミュシアとシンクノアは、言われたとおりにした。時刻はまだ<十二アザルの刻>と<Ⅰ(ハゼル)の刻>の間で、まだまだ闇が色濃く、もしその角燈の光がなければ、とても旅籠の<月と牝牛亭>までは戻れなかったろう。

 屋敷を出て、坂道を下っていく間、ミュシアとシンクノアとセンルは、城館の使用人と思しき何人もの人々にお辞儀をされた。麦わら帽子をちょっと外して礼をする若者や、はにかみながら手を振る若い娘や、鍬を肩にかついだ中年の男や……たくさんの人々が光の精霊ラミカの見える方角へ、擦れ違いざまに登っていった。

「なあ、センル。あれって……」

「今はまだ何も言うな」と、センルは疲れた声音でシンクノアに言った。

「言いたいことがあれば、夜明けまで待て。下手なことを言うと、その言霊に引かれて邪霊どもがやって来るとも限らんから」

<月と牝牛亭>では、まだ一階の酒場に客が数人残っており、店の主人も起きていた。三人は、一体この人たちが幽霊でないなどという保証はどこにあるのだろう……といった思いで、部屋に戻ると、夜が完全に明けきるのを待ってから、角燈を粉々にした。

「センルってさ、闇の魔導士とか相手にする時って、あんなのとばっかり戦ってきたわけ?」

「ああ、まあな」と、センルは眉間のあたりを手指でもみながら答えた。どうにも眠くて仕方がない。「ああいう、恨みやつらみがひねくれ曲がって増大したタイプの霊っていうのは、どうにも厄介でな。大抵はそこにつけこまれて闇の魔導士連中に利用されるっていうパターンが多い……が、まあ、片付けても片付けても似たようなケースってのは次から次に現われるから、流石に九年もやればもう十分だろうって話だな」

「うげっ!!九年か~。俺、あんな連中、次にもう一度会うのもごめんだぜ」

「でももし、あそこに捕われていた人々の魂が救われたのなら……わたしはそれだけでも、良かったような気がするんです」

 そう言って、ミュシアは角燈が朝日にきらめく先の、丘の上にある石造りの城館が元あった場所を眺めやった。今はそこには、土台を残した以外、その上の建物は何もなくなっている。三人は、ほとんど夕暮れか宵の口かという逢魔ヶ時にシロンの町へやって来たので、丘の上にある城館のことなど、きちんと見てはいなかったのだ。

 ――なんにしても、こうした形で三人は次から次へ事件に巻きこまれることとなり、何もシンクノアだけが疫病神として災いを呼んでいるばかりではないらしいということが、だんだんにはっきりしてきた。

 むしろミュシアが善意として良いことをしようとした結果として、何かのトラブルを招くといったケースも多く、結局王都カーディルへは、ルドミラの町を出発して三か月が過ぎた第12(アザル)の月にようやく到着したと、そういった次第だったわけである。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ