第2章 旅の仲間
ルークこと、ミュシアが蒼の魔導士センルと赤い瞳のシンクノアと出会ってから、約半月ほどの時が過ぎた。
三人がルドミラという町の<踊る小鹿亭>という旅籠で出会ったのは、第九の月のことで、今は第十の月である。エルシオンでは一年は十三か月、そして一月は二十八日であり、最後の第十三の月のみ二十九日が存在するのであった。
ミュシアとセンルとシンクノアが湯治町リディマを出立したのは、第十の月の中旬頃だったのだが、宿泊した旅籠<金のおんどり亭>の主人は実に抜け目のない金の亡者であった。一行が旅を続けるのに、馬が是非とも入用であろうと見抜いていた彼は、自分の厩舎にいる馬をナルム村までなら一頭5レーテルで貸与してもいいとセンルに申し出たのである。
「徒歩でいけばまあ、十日はかかりまさあね、旦那。ナルム村には、わたしの双子の弟が住んでおりましてな、よくここリディマと往復してますんでさ。そんなわけで、馬のほうは次に弟夫婦が温泉へ入りに来る時にでも、返してもらえばいいっていう寸法でして。へっ、へっ、へっ!」
大して必要もないような揉み手を繰り返す太った宿の主人を見て――センルは溜息を着きながら、馬を三頭借りることにしようと思った。何も別に15レーテル程度の出費が痛かったというわけではない。むしろ、人の足許を見る主人にしては、随分安い値を申し出たものだなとすらセンルは思っていた。
ところが、厩舎から使用人の子が馬を引いてくると、「あのう、センルさん……」と、ルークがどこか言い辛そうにして、彼のことを見上げてきたのである。
「ぼ、ぼく、馬に乗ったことがないんです」
まるで、何かとても恥かしいことを告白するように耳打ちされて、センルは思わず笑いそうになった。
「それじゃあ、私の前に乗るといい」
センルがそう言うと、「うわっ!まずいだろう、それは!!」とシンクノアがすかさず突っこんだが、王都カーディルへ辿り着くまでは、ルークが女であると気づいているということは、黙っておくという約束がしてある。
そこでシンクは誤魔化すように口笛を吹いていたのだが、なんとも言えぬぎこちない、白々しいような態度であった。
(やれやれ。嘘をつけない正直な貧乏人のせいで、これではカーディルまで持つかどうか、まったくわからんな)
センルは糧食類や旅に必要な道具の詰まった荷袋を括りつけると、先にミュシアを馬の鞍の前へ乗せ、それからその後ろに自分が乗った。
「蒼の魔導士先生、馬を一頭5レーテルでお貸しすると言いましたけど、今さら二頭しか借りないって言われてもねえ。何しろすでにお代もいただいてますし……」
金の亡者の太った親父がブツブツ不平を言い出すと、センルは宿の主人に対し、まるで汚らしいものを追い払うかのように手を振った。
「いらん。とっておけ」
そう一言いい残し、鐙で軽く馬の腹を蹴ると、センルは湯治町リディマを後にすることにした。実際には、馬屋で馬を借りる時には、そのまま乗り逃げされないために、証文にサインした上、結構な保証金を支払わなければならない場合が多い。つまり、借り手の過失によって馬が逃げたりした場合、その保証金は戻って来ないというシステムである。
にも関わらず、一頭たったの5レーテルで<金のおんどり亭>の主人が馬を貸したのにはやはり、理由があろう。まず第一に、センルが正式な魔導士会に所属する高位の魔法使いであるということが大きかったに違いない。何故といって、蒼の魔導士を名のるセンルという男が馬を乗り逃げしたという訴えが魔導士会の本部(カルディナル王国の王都、カーディルにある)へ提出された場合、それは実際に調査されるかどうかは別としても、とりあえず記録としては残るのである。
そして、あまりにもそうした訴えが多数の者から出された魔導士というのは、称号を剥奪され、魔導士学院から卒業時に授与された杖を返納しなくてはならないという法律が、五王国すべてに存在するのであった。
もっともセンルの場合、魔力を行使する時に杖やそこに象嵌された魔石に力の発動を補助してもらうことはないので、称号がなくなろうと杖を折られようと、どうということはない。下位の魔法使いは、杖を取り上げられると魔法が使えなくなったりするらしいのだが、それは上位四級の魔導士にはあまり関係のない話だといえる。しかしながらやはり、人の評判や名誉といったものは、金で買えないだけに大切なものであろうとセンルは思っていた。
第一、闇の魔導士狩りが嫌になって破門された身分も同然のセンルが、何故いまだに魔力の発動となんの関係もないヒヤシンス石の嵌まった樫の杖を持ち続けているかといえば、そこには当然理由がある。<姿変えの術>により、老若男女、どんな姿にでも化けることが可能だとはいえ……センルはそもそも、自分の容姿を偽る術が不得手なのではなく嫌いであった。だが、となると、彼の容貌はどこの町でも村でも、あまりに目立ちすぎた。それこそ、センルの容貌を一目見ただけで、その後ずっと忘れずに覚えている人間は多いに違いない。
そこで彼にとって物を言うのが、上衣につけた蒼の魔導士の襟章と、手に持ったオークの杖であったかもしれない。すると、大抵の人間が何故というのはセンルにも説明が難しいが――とにかく「納得する」のである。
簡単にいえば、お偉い魔導士先生だから、俺たち平民とはそもそも醸しだされる雰囲気が高貴で違うんだろうよ……といったような、そうした「納得」の仕方とでも言えばいいだろうか。もしそれがなかった場合、金目のものを持っているに違いないと踏まれ、妙な連中に後をつけられるといったようなトラブルが増加するということを、センルはよく知っている。
だが、最初から高位の魔導士であるということがわかってさえいれば――いらぬ問題にかかずりあわないですむ回数というのは、格段に減ってくるのだ。センルはその違いを試してみたことがあるが、「魔導士だったら、是非あれをやってくれ」とか「これをやってくれ」と正面切って頼まれる面倒のほうが、処理するのが遥かに楽なのである。
まあ、そのような理由によって――何も<蒼の魔導士>という称号に後生大事にしがみついているというわけではなく、センルは今もヒヤシンス石の象嵌された樫の杖を大切にしているということだった。
「あの、すみません。ぼくが馬にさえ乗れれば、旅程がもっと短く済んで、それだけ早く王都カーディルにも到着できるのに……」
「なに、べつに構わんさ」と、少し先を速足に進んでいくシンクノアのことは構わず、センルは微かに笑った。「第一、早いといえばエシュタリオン街道を馬に乗っていくのが一番速かったんだ。その道を選ばずにわざわざ遠回りすることを選んだ時点で――こうなる覚悟はしていた。それはあいつも同じだろうよ」
そう言って、シンクノアの長い黒髪の揺れる後ろ姿を、センルは手綱を持った手で軽く指差した。
「だが、まさかとは思うが、エシュタリオン街道を行く道を選ばなかったのは、馬に乗れなかったことが理由ではあるまい?」
「まさか!」
ルークはびっくりしたように、一瞬だけ後ろを振り返り、センルと目が合うと再びまっすぐ前を見た。
「……第一、馬に乗らずに徒歩でいったとしても、エシュタリオン街道を歩いていくのが最短ルートだったんです。たぶん、湯治町リディマに辿り着くのも――ぼくひとりだったら、おふたりと一緒に行くより、もっと時間がかかっていたと思います。センルさんが抜け道とか、どこをどう通ればいいかとか、道をよく知ってくださっていて、本当に助かりました」
「いいえ、どういたしまして」
センルは素直にそんな科白を吐いている自分に驚いたが、(まあ、この娘が特別製の天然記念物っていうことなんだよな)と、彼女に気づかれないように、心の中で何十度目になるか知れない溜息を着いた。
例の、ルークがリウマチの癒しを祈ったとかいう女性が――祈ってもらった時には何も起こらなかったが、翌日に突然曲がっていた手が真っ直ぐになったとかで、町の噴水のある広場で大騒ぎしだしたのである。
そして、ルークの泊まっている宿である<金のおんどり亭>までやって来ると、泣きながら感謝を述べ、他の湯治客の間に吹聴してまわった結果として……その前まで広場にいた似非神官は、商売上がったりということになってしまったのだ。
おそらく、馬を一頭5レーテルなどという値段で貸してもいいと<金のおんどり亭>の親父が思ったのには、そこらへんにも理由があっただろうとセンルは思う。ルークのお陰で部屋は即座満員御礼となり、他の宿を経営している主人たちは、どこか恨みがましい目で金の亡者の親父を眺めやっていたものだ。
似非神官のじじいはといえば、やさぐれたような格好で賭場に出入りしていたようだが、ルークは彼に森で折ってきたヒソプの枝を渡していたのである。
「ぼくはこれをあなたにただで差し上げますから、あなたもただで、人の病いのために祈るようにしてくださったらと思います」
センルは内心、(そんなもので本当に病気が治るのかね)と訝しんでいたが、十日ほどの滞在ののちに湯治町リディマを後にしてしまった今――どうなったのかはわからない。
なんにしてもセンルは、あの似非神官のじじいが「これはルシアス神殿に仕える神官さまからいただいた、ご利益あるヒソプですぞ!さあ、みなさん並んだ、並んだ!!」と言っている姿が、脳裏にありありと浮かんで仕方ないのだが。
実際、何故あの金権主義的強欲じじいにそんなことをしたのかと、センルは興味を引かれてルークに聞いてみたのだが、彼女はただ「人の持っているものを横から奪うのはよくないことです。それでは、泥棒と同じことになってしまいますから」と答えただけだった。
(まったく、よくわからん娘だ)
若干呆れつつそう思いはするものの……自分に背中を預けないよう背筋を伸ばしている目の前のルークを見ていると、センルは奇妙なおかしみが胸にこみあげてくるのを感じた。
よくわからないが、自分にしても最近、こんなふうに心の中で笑っていることが多いというのは、確かなことだった。
「シンクノアの奴、さっさと先へ走っていきすぎだな。どれ、少し追い越してやるか!」
そう言うと、センルはルークの体を自分のほうへ引き寄せ、馬に速度を上げるよう合図をだした。ルークは一瞬驚いたようだったが、センルが他意なく彼女のことを抱きしめるような形になっても、何も言わなかった。いや、そうではなく何も言えなかったのだというのは――おそらく、ミュシア自身にしかわからぬことだったに違いないが。
湯治町リディマから次に向かったナルム村では、<銀のめんどり亭>という旅籠に一行は宿泊することになった。リディマで<金のおんどり亭>を経営していた親父と、ナルム村の<銀のめんどり亭>の親父とは、双子であるというだけあって、顔も性格も瓜二つというくらい、まったくそっくりであった。
「へっ、へっ、へっ!旦那方、馬のほうをご所望で?まあ、この鹿毛と灰色のは俺の兄貴のものだから、俺の一存では売れないにしても……ラッキーでしたね、旦那方!俺の知り合いに、いいのを何頭も持ってるのがいますよ」
「それは大体、二頭でいくらくらいになる?」
金の交渉事になると、何かと神経質に気遣わしげな顔になるルークの視線を感じながら、センルは下腹の突きでた、禿げの中年親父と会話を続けた。そう、<金のおんどり亭>と<銀のめんどり亭>を経営する双子の兄弟の違い、それは頭の頭髪のあるなしであった。
「そりゃあ旦那、物によりけりって奴ですよ。ここから王都までっていうと、まだまだ結構ありますからねえ。ここでいい馬を仕入れて王都で売れば、なかなかいい釣りが出るかもしれないってことを考えて、駿馬に大枚をはたくってのもアリかもしれませんぜ?都じゃあ、いい馬に目のない馬気違いの貴族の方なんてえのがいらっしゃって、そうしたやんごとなき方々ってのは、実際には良馬を見抜く目がなくて、くずみたいな馬でも喜んでお買いになったりするっていう噂ですし」
「そんなことはどうでもいい。ついでに、値段についてもそうとやこううるさいことを言うつもりはない。とにかく、問題なのは私がこの目で見て気に入るかどうかということだ」
センルはぞんざいにそう言い、その日はそれで話を切り上げて、部屋のほうへ引き上げた。またしても「自分は一番安い部屋でいいです」、などとルークが寝言をいうので、センルは疲れに任せて彼女を二階の<銀のめんどり亭>の中では一番上等だという個室へ放りこんだ。
そして、自分は一階にとった部屋で、その日はシンクノアとふたりで寝るということにした。もちろん、ベッドはそれぞれ壁際にひとつずつあるのだが、センルはシンクノアに対し、ある重要な話があったのである。
「貴様、私に何か隠しごとをしているだろう?」
湯治町リディマを出た日の夜――一行は、適当な場所を見つけて野宿するということになった。センルは湯治町リディマに辿り着く前のこと、野宿して三晩目の夜くらいに、結界の外を邪霊がうろついているのを見てはいた。
その時にその邪霊どもが<鍵>がどうのという話をしていたことも当然覚えている。だがまさか、自分が寝ずの番をしなければならないほどの脅威を感じるはめになろうとは、想像してもみなかったのである。
そのせいでセンルは寝不足となり、翌日はシンクノアの乗る馬にルークのことを預けるということにもなった。とにかく先を急ぐ必要があり、朝早く出発して速駆けしてゆけば、なんとか日の暮れるぎりぎりにはナルム村に辿り着けそうでもあったのだが……やはり、地形がそれを許さなかった。下馬しなければ通過できない峡谷があり、道はそうなだらかな平野や丘陵地帯ばかりというわけではなかったのである。
もちろん、センルはそうしたことも最初から承知した上でそのルートを選んではいた。そう先を急いでいるわけでもないし、ゆっくり行っても誰が損をするということもないだろう、というくらいの気持ちで。
だが、邪霊憑きのオオカミが結界の外をうろつくとあっては、話が別だった。それがもしただのオオカミだとしたら……火炎系の魔法を少々使って追い払えばいいくらいの話ではあったろう。第一、<獣除けの結界>であれば張ってあったので、飢えたクマでも毒を持った蛇でも、近づいてくるということはないはずだった。
だが、邪霊憑きのオオカミというのは厄介なのだ。そちらの生命を奪えば、邪霊は居所を無くすだろうが、そのためにはこちらが結界の外へ出て相手と対峙しなければならない。そして、オオカミが骸となって倒れた瞬間、今度は邪霊のほうと戦わなければならないのである。
もっとも、このような戦いに、センルは慣れてはいた。辺りを三十頭ほどの邪霊に操られたオオカミどもに囲まれようとも、そう驚くには当たらない……だが、センルはとりあえず今のところ<アレ>としか呼びようのない、おぞましいものを見てしまったのだ。
喰人鬼であれば、センルも撃退した経験がある。これもまたやはり、闇魔法に身を堕した魔導士が、死人使い(ネクロマンサー)となって操っていたということなのだが、センルが<アレ>としか呼びようがないと思ったものは、おそらくヴァリアントと呼ばれる存在ではなかったかという気がしてならない。
ヴァリアントのヴァーリとは、一つ眼という意味であり、アントゥスというのは複数形で風とか霊といった意味がある。つまり、正確にはヴァーリ・アントゥス、一つ眼の風霊とでもいえばいいのかもしれないが、それが邪霊憑きオオカミどもの首領であり、先日センルが「自分の足でここまで来い!」と言ったとおりに……彼は実際にやって来たというわけだ。
正直なところを言って、向こうが本気になれば、自分の作った結界など五秒も持つまいということが、センルにはよくわかっていた。それと同時に、<彼>(あるいは彼女)が――今回はただ様子を見に来ただけだということも、センルは漠然と感じていたのである。
お互いに本気でやりあえば無傷ではおられず、そんな手間や面倒をかけずとも、「彼(彼女)」の欲しいものが<鍵>であるとしたら、もっといい他の「隙」を窺ったほうが、得策というものだったろう。
センルが思うには、「彼」はおそらく<鍵>が本物かどうかを「直接自分の目で」確かめに来たのではないかという気がしてならない。
結局、持久戦に耐えられなくなって逸った邪霊憑きオオカミどもは、結界に体当たりをはじめたのだが、それほどやわなものをそもそもセンルは張っていなかった。そのお陰で奴らのうち数匹は、勝手に自滅してくれたわけだが……結局、夜明けになるまでヴァリアントの脅威は去っていかず、センルは一睡も出来なかったというわけである。
「あのさあ、物事には順序ってものがあるじゃんよ。あの子、今日すごく可哀想だったと思わねえ?朝起きたらきのうとは打って変わってご機嫌ナナメな魔導士先生がピリピリ神経を逆立ててて……なんかもー、「きのうきっと自分が気に障ることをしたから、センルさんは怒ってるんだわっ!」とかいう心の声がずっきゅんずっきゅん聞こえちゃって、俺も今日一日、すげえつらかったわ。じゃなかったら、可愛い女の子と相乗り出来て、ちょっとドキドキな展開だったっていうのにさ」
「なーにが、ドキドキの展開だっ!!」
(この阿呆が!)と思いながら、センルはオークの杖で床をドン!と一突きした。
「貴様、私に以前、自分の剣を見せたことがあったな?思うにおまえは、あの剣が本当は何かを知っている……その上でおそらく、私がどの程度の魔導士なのか、見極めようとしたんだろう?表面上はいかにもお調子者ぶってるが、その実、貴様はなかなかちゃっかりしているな。その分だときのう、本当は寝たふりをしながら何が起こっていたのかにおまえは当然気づいていた……違うか?」
「ははっ。俺、実はいびきかいた振りすんの、結構得意だったりするんだよな。でも俺、なんかまずいことになってるってわかってるから寝た振りしてたんじゃないぜ?もしあのままオオカミどもが襲ってきたら、剣をとってあんたに加勢してたさ。けど、旅慣れたあんたになら、説明するまでもないことだけど――体を横にして休んでおくだけでも、大分違うからな。この剣の名前は「不殺の剣、アスタリオン」とか言うらしいが、剣の鞘が持ち主の俺にも抜けないっていうのは本当の話さ。でも、前に邪霊どもが言ってた<鍵>がなんとかっていう話は俺、初耳だなあ」
「貴様……っ!!」
(まさか、あの時も起きていて、邪霊どもと私のやりとりを聞いていたとはな)、そう思い、センルはどっと肩に疲れが押し寄せてくるのを感じた。
なんにしても、自分はきのう寝ていないのだ。その上、強行軍で馬を飛ばしすぎた。ルークが時々、何か物言いたげな眼差しで自分のほうを見ていることにも気づいていたが、彼女のことを気にかけてやる心の余裕など、センルには残っていなかったのである。
「いや、ほんとマジな話、あんたには悪いと思ってるよ」
脱力したように、センルがどさりとベッドに横になると、シンクノアはいつものおちゃらけた調子ではなく、若干真面目な口調になって言った。
「俺さあ、たぶん疫病神なんだと思う。瞳が赤いっていうのもそうなんだけど、何か呼ぶものがあるんだろうなあ……そんで、もしあんたが「じゃあもうついてこんなっ!!」って言うんなら、実際そうしても全然いいんだ。あんたもたぶん同じこと考えてんだろうけど、あの子、すごくいい子じゃん?最初はさあ、ルシアス神殿の神官さまと一緒にいれば、この俺の運のなさも少しは持ち直すかもって思ったんだけど……きのうの<アレ>をちらっと見てから、俺もちょっと考え変わったっていうかさ。俺みたいな人間のために、あんないい子に迷惑かけられないもんな。うん」
「その同じ科白、明日ルークの前で言ってみろ」
センルはもう一度、樫の杖を支えとするようにして、ベッドサイドへ起き上がった。
「私も、単に貴様が遠くへ行けば脅威が去るというのなら、そうもしよう。だがおまえ、その剣をさすらいの放浪剣士とやらから、一体いつ受けとったんだ?第一、もしそれが奴らの探し求める<鍵>なら……おまえが今現在こうして生きていることのほうが不思議だろう。それとも貴様は、あのヴァリアントを撃退できるくらいの、実は物凄い剣の使い手だったりするわけか?」
「まさか。流石に俺もそこまでのビッグマウスじゃないさ」と、シンクノアは笑った。「あいつらがもし、こんなものを本当に欲しいんだとしたら――まあ、とっくに俺なんか長い旅の間におっ死んでて、誰かがこの魔剣の所有者になってるだろうよ。なんにしても俺は、ものをしゃべるオオカミにつけねらわれたりしたことはない。大体、オオカミってのはそもそも根が臆病だからな。家畜を貪り食べるおぞましい様子なんかを見て、人間は自分たちも襲われるって感じるんだろうが……実際には奴らが人間を襲うってのは滅多にない話さ。俺は小さい頃からあいつらとつきあってきたが、仲良くなるとキンタマまで揉ましてくれるようになるからな。ま、そんな話はどうでもいいにしても――勘の鋭いあんたが、実は見落としてることがあるんじゃないか?あの子が、実は女だってことの他にさ」
「そうだな」と、センルは寝不足のせいでうまく回転しない思考回路で、それでもなんとか考えようとした。「どうやら、明日にでもそのことを直接ルークに聴いてみる必要があるようだ。人家にいようが野宿してようが、果たさなければならない使命がある時には、奴らは再び襲ってくるだろう……そもそもあの子は我々と出会う前までは、ひとりで旅をしてきたんだろうからな。仮に、聖都ルシアスが陥落した時に、神殿に眠る大事な宝のようものを携えて逃げることになったと仮定してみよう。そしてそれが邪霊どもの欲しがる<鍵>と呼ばれるものであったとして――それは一体、なんのための<鍵>なんだ?」
「今日のあんたはどうもいまいち、冴えないみたいだな」
シンクノアがそう言って笑うと、センルは「うるさいっ!!」と一喝し、まるで目の前を蝿が飛んででもいるかのように、手を振ってはたき落とした。
「あ、あのう……」
コンコン、とノックしたあとで、どこか怯えたような声が続き、センルとシンクノアは思わず顔を見合わせた。
「お食事の用意が出来たそうなので、ご一緒にと思って」
その声を聞いた時、センルは眠い目を手指でこすり、シンクノアは思わず声にださずに笑ってしまった。何故といって、一度相手が女だということがわかってしまうと、それまで何故男だと思いこんでいたのかが、シンクノアにはまったく理解し難かったからである。
(あんなに可愛い声してんのにさ。匂いがどうとか変態くさいことじゃなくて、なんで気づかなかったんかな、俺)
「あーい。今、センルおじいちゃんと一緒に行きますよ~」
「だから、その呼び方はやめろって言ってるだろーがっ!!」
切れかかっているセンルを見て、シンクノアはやはりまた笑わずにはいられない。こいつもからかい甲斐のある、つくづく面白い奴だとシンクノアは感じる……だが、早くもそろそろ離れるべき潮時というのが来ているのかもしれなかった。シンクとしてはもう少し持つかと思っていたが、邪霊憑きオオカミに狙われたり、気味の悪い妖力を全開にした巨大な一つ眼の魔物までがお出ましになったとあっては、彼らにこれ以上迷惑をかけられないと思ったのだ。
といっても、そんなものに狙われなければならない<何か>を自分が所有しているという可能性については――シンクノアは本当に心当たりがなかったのだが。
「シンクノア、悪いが私の分の食事はここまで持ってきてくれないか?そして食事が済み次第、私はすぐに眠る」
「あいよ。今はまあ、一年で一番うまいもんが食える季節だからな。あの金の亡者の弟がそれなりに気を利かせてくれてれば、ちょっとしたうまいご馳走にありつけるだろうよ」
今は第十の月の半ばである。別名狩猟月とも呼ばれるこの月は、人々が一年に収穫したものを屋根裏や地下室に蓄える時期で、ゆえに樽の中などに貯蔵しきれなかった余りものに多くありつける季節でもあるのだ。
といっても、<銀のめんどり亭>の亭主は、<金のおんどり亭>を経営する兄ほど羽振りがよくなかった上、大変な締まり屋でもあったので――シンクノアとセンルとルークは、とうもろこし粉のパン各ひとつずつと、味の薄い豆のスープ、それに鳥の胸肉を細く切ったのを一切れずつ与えられたというだけであった。
「あんた、一体これにいくら支払ったんだ?」
シンクノアが笑いながらセンルに盆を渡すと、「あのドケチ兄弟め!」という呪いの言葉がセンルの口から洩れた。
「明日の朝食代まで込みで、全部で十七レーテル支払ったんだぞ。まったく、人の足許を見ることにかけては、顔だけでなく性格までそっくりな兄弟だな」
ナルム村は、全人口が百人にも満たない小さな村だ。ゆえに、旅籠などというものを経営しているのは、ここ<銀のめんどり亭>以外にはない。「それがお嫌なら、どうぞ野宿してくださいまし」といった涼しい顔つきをしたおかみに、センルは金を渡したのだったが――やがてその理由が何故だったのか、三人にもよく飲みこめた。
センルとルークとシンクノアは、店のカウンターではなく、一階のセンルとシンクの部屋で盆を寄せあって食事をすることにしたのだが、やがて銅のなべか錫のおたまでも床に叩きつけるような、けたたましい音が響いてきたのである。
「あたしの作るものに、いちいちガタガタお言いでないよ!この甲斐性なしのつるっパゲが!!」
「そういうなよ、おまえ」と、心底奥さんを怖れているらしい、恐妻家の亭主が囁くような小声で言った。「だって、十七レーテルももらってるんだぞ?スペアリブのひとつくらいつけてやらにゃあ、値段に見合わんだろうよ。それにおまえはもともと大して料理が上手いってわけでもないし……」
「なんだってえ!?そのうまくもない料理を二十年以上もたらふく食って、こんなに太っちょになったのはどこのどいつなのさ!?まったく笑わせてくれるよ、このだんだん腹のへなちょこ男めが!!」
「しっ!おまえ、そんな大きな声を出したらお客さんに聞こえるだろうが」
ここで奥さんの、意地の悪い感じのする笑い声がアッハッハッ!!と響いてくる。
「聞きたい奴には聞かせときゃいいんだよ。それとも何かい?あんた、客の前ではあたしの尻に敷かれてるってとこ、見られたくないとでも言うのかい?そんなこた、村中の人間が知ってることさね。<銀のめんどり亭>の亭主は、めんどりに怯えてトキをつくるのも忘れちまってるんだと!いやはや、子供ってのは、なかなかうまいこと言うもんじゃないか」
今度はけらけらと愉快そうに笑う、朗らかなおかみさんの声が聞こえてくる。ふたりはなおもぼそぼそと何か話している様子だったが、センルは輪をかけてさらに疲れた気がして、溜息を着きたくなった。
「あのおかみさん、ピクルスを漬けるのはうまいみたいですね」
そう言って、何かをフォローするように、ルークが鳥の胸肉の横にちょっぴりのった、胡瓜のピクルスをフォークで刺した。
「確かにな。鳥の胸肉のほうもうまいことにはうまいが、たったこれだけの量ときては、腹が膨れた振りしかできん。まずい豆のスープも、あったかいだけ感謝しろといったところだな」
「ま、屋根があってとりあえず口に入れるものがあるってだけでも、俺にとっちゃあ御の字だぜ。あ~、食った食った!!」
そう言ってシンクノアは、ベッドの脇にあるテーブルにお盆をのせ、暖炉に薪をひとつ足した。そして暫くの間火かき棒で暖炉の中の灰をかき混ぜたりして、火の番をして遊んでいる。
「本当に、火のある場所で暖かくしてられるっていうだけでも、ぼくは神さまに感謝しないと……」
いつもなら、おそらくは呆れつつも、センルはルークのこの物言いにイラッと来たりはしなかっただろう。だがこの時、旅の疲れと寝不足のせいか、センルは腹にたまりかねるものを感じたのだ。
「おまえ、何か私たちに隠していることがあるだろう?」
突然なんの前置きもなくズバリとそうセンルが聞くのを、シンクノアが驚いたように振り返る。まだ半分も食事を終えていないルークは、ベッドサイドに近づけたテーブルの前で、隣の魔導士をまともに見ることさえ出来なかった。
「王都カーディルへ辿り着くまでは、何も聞くまいと思ってたんだがな。毎度野宿の度に命の危険に晒されていたんでは、こっちの身が持たん。ルークっていうのもおそらく偽名なんだろう?四か月ほど前の第六の月に、おまえは聖都ルシアスにいて……そこで何かがあって逃げだして来たんだ。違うか?」
ガシャーン、とお盆を引っくり返しそうになりながら、ルークは立ち上がって、何かを言おうとした。
「ぼ、ぼくは……」
そう言いかけて、喉に言葉が引っかかる。とうとう、怖れていた瞬間がやって来たと、彼――いや、彼女は思った。本当のことを話すにしても、さらに嘘を塗り重ねるにしても、この場合、とにかく何かを言わなければならない。
だが、真実を鋭く見抜くような蒼い瞳の魔導士と、どこか気遣わしげなシンクノアの赤い瞳に出会うと、ミュシアはそれ以上何も言うことが出来なくなり、気づいた時には結局、その場から逃げだしていた。
「おい、待てっ!!」
これ以上余計な面倒をかけさせるな、というようにセンルが舌打ちするのを見て、シンクは立ち上がろうとする彼のことを押し留めた。
「今のあんたじゃ、あの子には逆効果だ。かわりに、俺がいく」
シンクノアは火かき棒のかわりに細身の剣を手にとると、外へ駆けだしていった。ルークは階段を上がって自分の部屋へ戻ったのではなく――そのままの格好でドアを突き破るようにして出ていったのだ。剣は、邪霊憑きの獣にでも襲われた場合の、用心のためのものだった。
「ええ、わたしも初めて見ましたよ。マゴクと呼ばれる忌々しい赤い瞳の男をね。そんな男を泊めてやってるってだけでも、慈悲深いと思ってもらわなきゃ……」
カウンターの前には、いつの間にか宿のおかみの友人がふたりほど腰かけていて、村の噂話に花を咲かせていたらしい。店の主人は台所の隅のほうに小さくなって、ビールをちびちびやっている。
シンクノアは、宿のおかみが気まずそうな顔をするのを無視すると、玄関から走って出ていった。これと似たような言葉なら、生まれた時から何千回となく聞いているので、心が傷つくとかなんとかそんなことはまるでない。というより、彼にとってはすでに「それが当たり前のこと」にすらなっていた。
「おい、ルークっ!!待てって!!」
今夜は双子月がともに、どこか暗く輝いていて、あたりも闇の気配が濃かった。これもまた、一種の迷信のようなものであろうとシンクノアは思うのだが、第十の月の半頃から第十三の月が終わるまで――ふたつの月は満月であっても、どこか色に翳りを帯びており、夜が普段以上に暗くなる。それはその期間、闇に蠢く魔のものどもが活動を活発にするそのせいだと、人々は一般に信じているのだった。
追いつかれまいと思ったのかどうか、ルークは道を左右にきょろきょろ見やると、どこの家のものかもわからない納屋のほうへ飛びこんでいった。
「やれやれ……」
(このクソ寒い中を、まったく頼むぜ)と思いつつ、寒村育ちのシンクノアにとっては、この程度の寒さなど、実際にはまだ寒いとすら言えないようなものだった。
「こ、来ないでくださいっ!!」
シンクが納屋と思ったものは、実は馬屋で、そこには綺麗な栗毛の馬が二頭、囲いの中で身を寄せあうようにして並んでいた。
「センルなら、部屋にいるから安心していいよ」
薄い月明かりの中で、ルークが必死に頬の涙をぬぐうのを見て、シンクノアは胸を突かれるような思いがした。ぐすっとか、ひっくとかいう、しゃくり上げるような声が聞こえると、気のせいか馬たちも、彼女のことを気の毒がってるような気がしてならない。
「あんさあ、別に俺たち……っていうか、俺もセンルに言われなかったら気づかなかっただろうけど、ルークが嘘をついてるとか思ってるわけじゃないんだぜ?世の中には嘘も方便っていうかさ、そうしなきゃ生きていけないっていうことがたくさんあるわけ。ルークはたぶん、神殿にずっといて知らなかったかもしれないけど……ま、世の中ってのはとかく真冬に吹きすさぶ風のように冷たいもんだからな。俺はそのこと、身に沁みてよく知ってるよ。何せ、マザル=マゴクって呼ばれる忌み子なんだからさ」
「マザル……って、それは何ですか?」
マゴク、という言葉を発音するのが嫌だったのだろう。神官服の袖で目の涙を拭うと、震えるように小さな声でルークは聞き返した。
「マゴクっていうのは、イツファロの言葉で呪われた子っていう意味だ。でも、その言葉に関してのみ、他の国でも同じように通用するとは、俺も実は思ってなくてさ。ここの<銀のめんどり亭>のおかみもついさっき言ってたぜ。『あんなマゴクを泊めてやるだけでも、自分は慈悲深い』ってな」
「……………」
シンクノアは馬屋の片隅に干草が積み上げられているのを見ると、その上にゆっくりと腰かけた。自然、ルークもまたそんな彼の隣に並んで座ることになる。
「なんだか今日は、窓から差しこむ月の光が暗い感じがするな。三日月ってほど細くもないのに、星もなんだかその光を落としてる感じがする……人間っていうのはとにかく、この<感じ>って奴に弱いんだよな。実際には嘘をついてなくても、嘘をついてる<感じ>がするってだけで、そっちのほうが真実になっちまったりするもんなんだ。一年の中でも第十三の月は不吉な感じがする、赤い瞳をした子は不気味な感じがする……俺さ、近いうちにルークとセンルからは離れるべきかなって、実は少し思ってたんだ。じゃないと、何かと迷惑をかけることになると思ったからさ」
「どうして、ですか?わたしが……いえ、ぼくが………」
ルークが慌てたように言葉を直すのをみて、シンクは優しく微笑った。
「<ぼく>でも<わたし>でも、どっちでもいいんだよ。これは俺だけじゃなくて、センルの奴もそう思ってることなんだけどさ。ルークが男でも女でも、名前が仮にルークじゃなくても、俺にはどっちだっていいし、センルだってそうなんだ」
――このことは流石に、ルークにとって衝撃的だったのだろう。彼女は暫く言葉を失くしたまま、ただ薄青い影の中で、凍りついたように微動だにしなかった。
「俺もさ、悪かったって思ってる。<踊る小鹿亭>で、ほとんど強引に一緒に連れていけって言ったようなもんだからな。ルークにとっては迷惑なことだっただろう。でも俺、自分の目玉が赤いってことに関しちゃ、すっかり被害妄想患者みたいになっちまってるから……ルシアス神殿の神官さまでも流石に、マゴクなんかと一緒にいるのはキツイのかなって思った。それでついて来ないでほしいって遠回しに断ろうとしてるのかなって思ったりもしてさ」
「そんな、そんなことは関係ありません。わたしはただ……」
ミュシアは、自分なりに「こうしたほうが男らしい」と感じられる話し方を意識的にしているつもりだったが、今はもうそんな演技をする気力さえ、彼女からは失われてしまっていた。
「本当のことがわかると困るって、ただそう思ったんです。でも、せめて王都カーディルへ行くまでだったらって、みんなにだけじゃなく、自分の心にも嘘をついて騙そうとしたのかもしれません。ずっとひとりで旅を続けるよりも、誰かが一緒にいてくれたほうが、絶対に心強いし……でももし本当のことがわかったら、ふたりとも自分のことを軽蔑するだろうってわかっているつもりでした。だけど、センルさんやシンクノアが優しいのをいいことに、つい甘えてしまって……」
「べつに、軽蔑なんかしないさ」
不意に、月の光が外で強まり(あるいは、雲の陰から月が顔を出したのかもしれないが)、厩舎の中を金色の灰明るさで満たした。シンクノアはその時、自分の隣にいる神官の横顔が、端整で実に美しいのを見てとった。
男と思えば男にも見えるし、女と言われれば到底男であるとは思えないような、どこか中性的な顔立ちだった。だが、彼――いや、彼女にはどこか人を寄せつけない強さがあると前から思ってはいた。汚れた手で触れれば文字通り本当に火傷をしそうな、それは一種の神々しさに近いものだったが、そのような神聖なものを一体誰が軽蔑しうるだろうと、シンクノアにはそんなふうに思えてならない。
「俺はさ、あんたのことが好きだよ、ルーク。あんたの迷惑にさえならなければ、これからも一緒に旅を続けたいと思ってる。センルが今日機嫌悪かったのは、きのうの夜に蒼の魔導士さまでもおしっこちびりそうな魔物が現われたっていう、そのせいだからな。さっき、センルはルークに『何か隠してることがあるだろう』って詰問したけど、その前にあいつ、俺にもまったく同じ口調で同じ質問してたよ」
ここでシンクノアは、明るい声で笑った。
「センルの奴は、ルークが最初から女だってわかってたんだってさ。それで、女の一人旅っていうのは何かと危険だろうと思って……それで、一緒について来ることにしたんだと。あいつも何かっちゃあ、おっもしろい奴だよなあ。三百年生きてるとか言ってる割に、ちょっとしたことですぐ切れそうになったりさ。俺がもし百まででも生きたら、あいつよりはまだしも気が長くなってると思うんだがな」
「えっ!?最初からわかってたって、どうして……」
雪白の肌が、月光の下にも朱に染まるのがシンクにはわかった。それを見て(あーらら)と、シンクノアは内心思う。こんなにもわかりやすい子ときのう一日馬に乗っていて、センルがもし何も感じないのだとしたら――あの魔導士はその部分だけが年相応にジジイなのではないかとしか、シンクノアには思えない。
「まさかとは思うけど、きのう一緒に馬に乗っててそれで気づかれたとか、そんなふうに思ったわけじゃないだろ?」
「ち、違いますっ!!でも、最初からわかってたなら、どうしてもっと早く……」
ルークは真っ赤になった顔を、両方の手で包むようにして隠している。シンクノアとしては、もしセンルとルークが恋愛的な意味でうまくいきそうなら……その場合にも姿を消そうとは思っていたが、あの頑固な石頭の魔導士が相手では、今のところ、自分が間にいたほうがいいのかもしれないと初めて思った。なんというのだろう、ある種の緩衝材のような存在として。
「ルークはさ、シンクノアのことが好きなんだろ?巫女って、外の世界で他の男と結婚したりしちゃ絶対駄目なのか?」
「わ、わたしはルシア神殿の巫女として、終生誓願を立ててるんですっ。ですから、それを人間のわたしの意志で取り消すということは絶対に出来ません。わたしはセンルさんのこともシンクノアのことも人間として好きだと思っています……ただ、その、センルさんに対してはわたし、たぶん――小さい頃からの癖が出るのかもしれません。でも本当にただ、それだけなんですっ!!」
「小さい頃からの癖って?」
(本当に可愛い子だな、まったく)と思いつつ、火照った顔を両方の手で挟んだままでいるルークのことを、微笑しながらシンクノアは横から見つめた。
「つまり、その……神殿には姫巫女さまを初めとした、美しい巫女たちがいらっしゃって、わたしは小さい頃から彼女たちに強い憧れを持っていました。時々、神殿の敷地内のどこかでお姿を見かけることがあると、暫くの間ぼうっとしてしまうくらい、巫女さまたちはとてもお美しくて……わたしが巫女見習いとしてお仕えした巫女さまも、本当にお綺麗な方でした。あの、なんていうかわたし、いつも横にそうした自分が憧れとする方がいたものですから、センルさんのこともつい、そんなふうに思って見てしまうのだと思います。でも本当に、恋とかなんとか、そんな畏れ多いことではないんですっ」
(畏れ多いねえ)
シンクノアは心の中で肩を竦めつつ、それ以上のことをルークに追求するのはやめることにした。彼女はたぶん――その憧れの対象が同性ではなく異性だったら、それが<恋>と呼ばれるものになるということを、まだ知らないのだろう。
そんな純粋な娘に、下品な詮索をしようなどとはシンクノアも思わないし、何より、そろそろ体が半分くらい冷えてきた。寒村育ちのシンクノアにとって半分ということは、ルークにとってはそれ以上だろう考え、彼は立ち上がるとルークに向かって手を差し伸べた。
「さてと、そろそろ寒くなってきたし、宿のほうへ戻るとするべか」
「で、でも、わたし、センルさんの前で、これから一体どんな顔をすれば………」
シンクノアの手をとって立ち上がりながら、ルークはまた半分泣きそうな、不安定な感情の揺れる顔つきをした。
「う~ん、そうだな。とりあえず今日はまあ、とにかく二階に上がって寝たほうがいいかもな。センルには俺から、「ルークにわかってたってことを話した」ってことを話しておくから。あいつはルークが女だったから用心棒よろしくついてきたんであって、もしあれでルークが男だったら、今一緒にいなかったかもしれないんだぜ?だから、そういう意味でもあいつにとってはルークが女か男かっていうのは、もともと重要じゃないわけ。これでおわかりになったかな、お嬢さん?」
「でもわたし……ずっとふたりに嘘をつきながら、いかにも正道をとく神官のように振るまっていて、そのことがわたし、なんだかとても恥かしくて……」
馬小屋をでる前に、シンクノアは囲いの中にいる栗毛の馬二頭の鼻づらを撫でてやることにした。二頭とも、とてもいい馬だ。もしセンルが明日馬を買うつもりなら、こいつらがいいんじゃないかとシンクノアは思いもしたが、何分金をだすのは彼なので、センル自身が言っていたとおり、彼が自分の目で見て納得したものを買うほうがいいのだろう。
「ま、そう深く考えなさんな」と、馬小屋の木戸を開けながらシンクノアは言った。「明日の朝はまた、なーんもなかった顔をして、「わたしは男です」っていう振りして、いつもどおりにしてたらいいのさ。実際、ルークが平民の女の格好して旅を続けるとしたら、それはそれで大変なことになりそうだからな。センルは蝿叩きを持ってしょっちゅうピシャピシャやってなきゃならないだろうし、どっかの宿屋に泊まるたびにイライラメーターが上がりっぱなしになるだろうよ。でもまあ、さっきみたいに三人きりで一間の部屋にいるような時は――ルークはルークらしくしてたらいいのさ。そういえばあいつ、前に言ってたぜ。ルークが男の振りをしてるってことは、相当気を遣って疲れることなんじゃないかって。その部分を俺と自分が減らせてやれれば……みたいにさ。石頭で頑固でイラチだけど、そう考えるとやっぱ、結構いい奴だよな、センルって」
「センルさんが、そんなふうに……」
ルークが不意に黙りこんだので、シンクノアもまた両方の手を頭の後ろで組んで、月を見上げるようにしながら村の通りを歩いていった。<銀のめんどり亭>の屋根のてっぺんには風見鶏が踊っていたが、それほど大きな強い風はなく――旅馴れたシンクノアは風向きや雲の流れ、月や星のかげんなどから、明日はどうやらいい天気になりそうだと、そんなふうに感じていた。
ルークとシンクノアが<銀のめんどり亭>へ戻ってみると、出てきた時にカウンターにいた客の姿は消えていた。
おかみの姿もまたなかったが、かわりに禿げ頭の亭主がジョッキを掲げて、ふたりに「どうも、どうも」とよくわからない挨拶をして寄こす。
「じゃあな、ルーク。おやすみ」
「おやすみなさい」
ぺこり、とどこか礼儀正しくお辞儀をしてから、ルークは階段をゆっくり上っていった。その姿を少しの間見守ってから、シンクノアはセンルの待っている部屋のドアを開けたのだが――まさかここまで険悪な顔をして天才魔導士さまが自分のことを出迎えようとは、シンクは思いもしなかった。
「……それで、どうなったんだ?」
「どうってのは?」
暖炉の脇、自分のベッドから手を伸ばして取れる距離のところに、シンクノアは剣を立てかけた。それからベッドサイドに腰かけ、本当は今すぐにでも眠りたいであろう、魔導士殿の相手をすることにする。
「まあ、あの娘が一緒に戻ってきたということは、うまくいったと考えていいんだろうがな」
「そうっスね。そのとおりっスよ」と、シンクノアはいつものようにお調子者を装って言った。「ほーんとにあの子、あんなに純粋で大丈夫なんスかね、旦那。俺とあんたが軽蔑したらどうしようって、そんなことが心配だったんですとさ。もう顔なんか真っ赤にしちゃって、ぐすぐす泣いたあとで、「センルさんにこれからどんな顔すれば……」とか言われちまいましたよ、俺。ま、いつもどーり普通にしてりゃあいいんじゃないかって言っときましたがね。蒼の魔導士さまにその気がないんでしたら、俺が間違って馬屋で押し倒してるとこでさ、旦那」
「こういう時に、面白くもない冗談を言うのはよせ」センルはシンクノアをギロリと睨んで言った。寝不足のせいか、青い瞳が血走って見える。「それで、どこまで聞き出した?邪霊どもが騒いでも不思議のない、<鍵>とか何かそういうものを持っていると言っていたか?」
「あ、それは聞きませんでしたわ、旦那」と、シンクノアはてへっと言うように、自分の頭を平手で叩いた。「だってさー、そこまで急に突っこんだこと聞けます?向こうは自分が女だってバレたと思って、すんげえ動揺してるんスよ?とりあえず、ルシア神殿にいたってことは確かなんじゃないスかね。そんで、巫女見習いをしてて、自分の仕えてた巫女さまっていうのがすんごく綺麗な人で……」
「巫女見習いだと?」
ある程度そうしたことを推測してはいたものの、あらためてそのことがはっきりわかった途端、センルは驚いた。いや、驚いている自分に驚いた、というべきか。巫女見習いといえば、次期に巫女になる可能性の高い、そうなるまでにも相当な倍率をくぐり抜けてようやく<神意>によってなれるものだと聞いているだけに……やはりこのことの裏には何かあると、センルはそうはっきり確信した。
「そんでですね、自分がセンルさんのことを好きなのは、そういう美しい巫女さまたちを横で見てきたから、つい同じようにロールモデルを求めて……って、聞いてますかね、旦那?人の話」
だが、センルはもうシンクノアの話など聞いていなかった。彼はベッドに横になると、無駄に睡魔と戦いながらこう考えていた。別にわざわざ盗み見ようと思っていたわけではないが、センルはルークの荷物の中に<鍵>と思われるような、それらしきものなど何もないと知っていた。となると、一番可能性として高いのは、彼女の体の中になんらかの形で<鍵>が移植されているということだろう。つまりは、ルーク自身が生きた鍵そのものなのだ。
(くそっ!こんなに眠くもなければ、今すぐ二階へ行って、洗いざらいすべて話させてやるものを……)
そう思いながらセンルは、泥のような睡魔との戦いに破れ、やがて静かに寝息を立てはじめた。シンクノアが振りではない本物の大いびきをかいていたことには、幸いなことにまったく気づかないくらい、彼は翌朝までぐっすり休むことが出来たのである。
翌日――きのうのまずい夕食に続き、それ以上にパッとしない朝食を終えると、三人は<第Ⅷ(イゼル)の刻>になる少し前に、<銀のめんどり亭>を出ることにした。
朝食のほうは、店のカウンターでではなく、昨夜と同じくシンクノアとセンルの部屋でとることにしたのだが、その場でセンルは、ルークに特別何も聞いたりはしなかった。何より、事が自分で考えていたよりも重大事らしいと気づいた彼は、相手がど田舎村の住民であれ、このことに関してこそりとも物を聞かれるのは危険だと考えたのである。
だが、<銀のめんどり亭>の亭主が紹介してくれた馬屋の親父というのが実に頑固で、仮に一頭につき三十シェケルもらったとしても、馬を売る気はないと言い張った。馬上ですぐにも、自分の知りたいことをすべて聞くつもりであったセンルとしては、これは大きな計算違いとなることである。
「そうか。ではここにクラウン金貨が五十枚ある。シェケルに直せば百シェケルだ。これであの栗毛の馬を二頭、譲ってもらえないかね?」
イラチの魔導士センルとしても、ここは我慢のしどころだった。何分、きのうぐっすり眠れた上、夢の中でさえ邪霊に悩まされなかったお陰で――彼は今、普段よりは若干気分が良かったのだ。
「へっ!クラウン金貨なんぞクソ食らえだっ!!こっただ金、ここいらじゃ使わねえって、あんた方は知りなさらんのかね?わしらは土地でも家でも、大きなもんを買う時には、シェケルで交換するって慣わしよ。馬だってそうさね。クラウン金貨なんぞもらったって、温泉町のリディマか王都カーディルに近い町くらいまで行かねえと、ここいらじゃ実用性なんかねえのよ」
クラウン金貨というのは、カルディナル王国では一般に貴族階級の人間しか使わない貨幣である。シェケルというのはクラウンよりもひとつ下に当たる通貨で、1シェケルには50レーテルの価値があるとされる。平民や農民などは大抵家屋などを買う時でも、シェケルで決済するのが普通であった。
センルとしては、これだけの金に心を動かさない人間がいて嬉しい反面、シンクノアが言うところのイライラメーターが徐々に上がってきてもいた。結局のところ、金の問題ではなく馬主は馬を手離したくないのだろうと思い、センルは諦めることにしたわけだが――他を当たってみても、まったく同じように馬を売ってくれそうな村人には出会えなかったのである。
その理由が何故なのか、五軒目の家で、センルにもようやくわかった。そこの厩舎の持ち主が、センルたちが馬房を出ていきしな、ぼそりとこんなことを呟いていたからだ。
「誰が好き好んで、マゴクなんぞに物を売るもんかね。そんなことをしたら、末代まで祟られちまうわ」
当然、この一見純朴そうに見える中年農夫の言葉は、ルークの耳にもシンクノアの耳にも届いていた。シンクノア自身は、大して気に留めてもいなかったのだが(というのも、これが彼にとっての「普通」であったので)、もうこのままナムル村の出口まで道を歩いていくしかないように思われた時――突然、ルークがぴたりと立ち止まり、大声で宣言するようにこう言い放ったのである。
「馬なんてなくっても、このまま歩いていきましょう!!次の町へ辿り着くのには、10エリオンもないんですから。とっとと歩いていけば、正午前には着いてしまいます、きっとそうです!!」
そう言うなり、ルークは怒ったような顔をして、ひとりずんずん歩いていった。
そんな様子の彼女を見て、センルとシンクノアは、思わず顔を見合わせて笑ってしまう。
「自分で言っていたとおり、本当に貴様はいい疫病神だな」
「ははっ。この程度で済むくらいなら、まだいいほうだぜ。あんた、あの<銀のめんどり亭>のおかみが泊まらせてくれなかったら……二晩続けて野宿で、今ごろ寝不足のあまり、眉間の血管から血が飛び出してるだろうよ」
「それをおまえが言うな!」
センルはそう言って、手に持ったオークの杖で一瞬地面を穿った。
シンクノアはといえば、頭の後ろで両手を組んだまま、隣にいる三百歳の魔導士の、イライラした顔の表情を面白そうに眺めやるばかりである。
(なんにしても、旅の仲間ってのはいいもんだな)
呑気にそんなことを思いながら、天高く馬肥ゆる秋の空を、シンクノアはじっと見上げていた。