第1章 天空の島の美姫
<地の崖ての国>の上空には、天空島と呼ばれる城砦都市が聳えていた。
天空島は東西15エリオン、南北15エリオン(1エリオンは約1km)ほどの小さな島で、パラドキアと呼ばれるこの世界の地の崖て――その見渡す限り岩石しかない痩せた茶色い土地だけを移動していた。とりあえず、今のところは。
地の崖てに住む民たちは、自分たちの土地を<地の崖て>(パラドキア)と呼ぶのに対し、聖ルシアス王国を中心とした他民族の跋扈する世界を<中央世界>(エルシオン)と呼んでいる。またそこに住む人々のことを「人間族」とか「人族」と呼び、自分たちのことは「竜族」、あるいは「竜族の末裔」と呼んだ。
ここでひとつ、今から千年以上も昔の、ある伝説にまつわる物語を語らなければならないだろうか。
吟遊詩人もよく歌に歌っているとおり、この世界が誕生した時(ということは、それは千年どころでなく、実際にはさらに大昔ということだが)、最初この世界には神と大いなる闇しか存在してはいなかった。
そして、神が「光よ、あれ!」と言った時、この世界に誕生したのが光の女神ルシアであった。創造主である神は、最初から自分とともにあった闇よりも、この光のほうをより愛した。そのことに反発心を感じた<闇>は――自分も神の真似事をして、創造の業をなすようになったという。
すなわち、神が自分の伴侶のような存在ともいえる、光の女神ルシアと海を創り、大地を創り、鋳た鏡のような天空を創り、大地に萌える若草を育み、やがて動物や人間といった生き物を誕生させるのを、<大いなる闇>は暫くの間、ただ黙って見ていた。神が光の女神ルシアと創造の御業をひとつ行うたび、<闇>が世界を支配する領域は狭まっていったが、<闇>は最初、そのことを忌々しいと感じながらもただ静観していたのだ。
だが、創造神と光の女神が「人間」という存在を形作り、創造主である自分と光の女神を覚えて讃美させようとした時――<大いなる闇>はその賞讃すべき対象の中に自分が入れられていないことを知り、初めて怒りに身を震わせたのである。
こうして、<大いなる闇>は己を賞讃する存在を欲し、創造神の真似事をして、自分もまた「人間」に匹敵する存在、いや、人間以上の存在を誕生させようと考え、まずは闇の女神アシェラを光の女神ルシアに匹敵する存在として生みだした。
そしてアシェラが自分の伴侶を欲すると、彼女の胎内から闇の神が生まれた。アシェラは彼を「わたしの血肉からの男」と呼び、自分の伴侶にアルゴルと名づけたのである。
ところで、世界の中心と呼ばれる場所に創造神と光の女神が人を住まわせ始めた頃――世界の崖てにある場所は不毛の土地と考えられており、未だ火山活動が活発な岩山が聳え立っていた。<大いなる闇>はそこにアシェラとアルゴルを住まわせると、彼らが「人間」よりも強大な種族を生みだすようにさせた。
すなわち、それこそが「竜族」と呼ばれる人々である。<大いなる闇>は、その前に世界の崖てにある闇の底から暗黒竜が昇って来られるようにし、「竜族」にその竜を操る技を伝授したという。
闇の女神アシェラは光の女神を憎み、暗黒竜によって何度となく攻撃を試みたが、その度に光の竜ルシアスがこれを撃退した。アシェラが悔し涙を流すのを可哀想に思ったアルゴルは、彼女とともに最初は二つの頭部がある竜を創造し、それがルシアスによって破れると、今度は三つ頭のある竜を、それもまたルシアスによって殺害されると、次は四つ頭の竜、五つ頭の竜、六つ頭の竜……そして最後には九つ頭のある巨大な魔力を持つドラゴンによって、ルシアスがこれと戦うよう仕向けた。
闇の軍勢どもの執拗な攻撃に、流石のルシアスも深手を負った。九つ頭のヒュドラと呼ばれる竜もまた、ルシアスに頭を八つ噛み千切られた形でほうほうの体により逃げ去った。
この時、ルシアスは自身の名を冠したルシアス島という小さな島まで行き(この島は今も、ロンディーガ王国の南西にある)、そこにある洞で体中に負った怪我を回復させようとした。何故といってヒュドラが地脈の濃い地で羽を休ませ、傷が癒え次第再び襲ってくるということが、彼にはよくわかっていたからである。
だが、ルシアスの体は弱りきっていた。その無限とも思われた体力の消耗は激しく、いまや虫の息にも等しかった。そして人間の目には不死と見えていたルシアスがその命の灯火を消そうかという時、竜の洞にルーシュという名の人間が現われたのである。
彼女は十弦の竪琴により、ルシアスの心を慰め、さらにはエリクシアルと呼ばれる樹木の葉から霊能薬を作りだし、それによってヒュドラから受けた傷により、壊死しつつあるルシアスの骨や筋肉を回復させたという。
その後、ルシアスは見事ヒュドラを完全に撃退せしめたが、十の頭を持つ竜が再びエルシオンを脅かすということはなかった。何故なら、創造主である神がそれ以上の両者の戦いを決して許そうとはしなかったからである。
地上に再び平和が戻ると、ルシアスは光の女神ルシアに人間になることを願い求めたという。ルシアは、自分や世界そのものを盾となって守ってくれたルシアスに対し、その褒美として彼に人間になることを許した。
こうしてルシアスはひとりの人間の男になると、ルーシュを妻に迎えて中央世界の最初の王となった。すなわち、これがルシアス王国の建国伝説なのであるが、聖竜ルシアスが竜から人間になろうという時、竜としての力は七つのものに分化したと言われている。つまり、ひとつは剣、ひとつは槍、ひとつは杯、ひとつは指輪、ひとつは盾、ひとつは兜、ひとつは鎧である。
これらはのちに<七つの聖鍵>、あるいは聖竜の秘宝と呼ばれるようになり、暗黒の軍勢の目より逃れて世界各地へ隠匿されるようになったのだが――そのようなものが「今も真実、本当にある」と信じている人間というのは、おそらく稀であろう。
ただし、これは<地の崖てに住む民>を除いた、中央世界の人間の中では、という意味であり、<地の崖てに住む民>はみな、現在もそのようなものが間違いなく世界のどこかに存在しているということを、よく知っていたのである。
♪嗚呼、我が魂は熱く燃え
そなたの肉体と心とを、この上もなく切に求めて喘ぐ
そなたの清らかな心の一滴
それが得られたならば、我が持つすべてを投げだすものを
だが、我は竜
恋しいそなたは人間の娘
誰がこの境界を越えられようか
また誰がこの熱い血のたぎりを沈めえようか
嗚呼、我が魂は熱く燃え
そなたの肉体と心とを、この上もなく切に求めて喘ぐ
嗚呼、我はそなたの奏でる琴の一弦になりたい
あるいは、そなたが手を浸す清らかな泉の水の一滴にでも
だが、もしそれすらも叶わぬというのなら
この体などあのおぞましい暗黒竜にでもくれてやろう
ただ、そなたの愛――
それが得られるというのなら、我は再び力を盛り返し
たとえこの身が滅ぶことになろうとも、ヒュドラを撲滅せんと立ち上がろうものを
――このあと、聖竜ルシアスの愛の告白を受けて、人間の娘ルーシュの美しいアリアが歌われることになるのだが、パラドキアの歌姫と呼ばれるアイリは、そこでふと、竪琴を奏でる手を止めた。
<奏楽の間>と呼ばれる城の一室で、彼女は窓から遠く今も古代の竜がその火口に眠ると言い伝えられるネイディーン山を見やった。もっとも、天空の島が空を移動し、火口の上空を通過する際、そこを覗き見たとしても――灼熱の赤いマグマ溜まりが見えるという以外、他には何もないということをアイリは知っている。
自分をここへ連れてきた、アシュランスという竜の片眼を持つ男が、そう教えてくれたのである。
「これもまた、言い伝えられるところでは、ということだが……その昔の昔は、本物の竜というのは、我々が今飼っている竜などより、遥かに大きかったということだ。だが、人に飼い慣らされるうちに自然、千年もの時をかけて竜は小さくなっていき、また卵をなかなか産まなくなった。これがどういうことだか、寒村の田舎娘にはわかるかね?」
アイリは、自分の声で答えるかわりに、ポロン……とリュートの弦を爪弾き、疑問の音色をその時彼に返した。この<世界の崖て>及び、パラドキアという場所へアイリが連れて来られたのは、今より七年前――十六歳の時のことになる。
以来、天空島と呼ばれる城砦都市の高い塔の一室へ閉じこめられ、時折竪琴を爪弾いたり、歌を歌って過ごすという他に、彼女にはなんの役目も責務も負わされはしなかった。
『アイリ、アイリーーっ!!どこへ行くんだよおっ!!俺を置いていくなよーーっ!!』
星月夜の祭りの夜、そう叫びながら、最後まで自分のことを追ってきた少年のことを、アイリは今もまざまざと瞼に思い浮かべることが出来る。だが、飛空艇は無常にも、万年雪を頂く白竜山脈の彼方へと、今しも飛び去ろうという頃だった。
『シンクっ……!!あたし、あんたを置いていくんじゃないわっ!!必ず戻ってくるから、絶対に待っててっ!!』
飛空艇の甲板から地上へ飛びおりるには、すでにもう危険すぎるほどの高さがあった。だがもし、魔法の力による見えない壁さえなかったなら、アイリはおそらく重傷を負うことも顧みず、その時そこから身を投げだしていたかもしれない。
それも自分のため、というよりは……他でもないシンクノアという名の、真紅の瞳をした少年のために。彼はイツファロ王国の言葉、イツファノ語で言うところのマザル=マゴク<忌み子>と呼ばれる子として生まれた。マザルというのは、第13の月の意味で、マゴクというのは呪われた子、あるいは畸形児を意味する言葉である。
アイリは生まれた時から白竜山脈に抱かれた麓の寒村――イツァーク村から外へ出たということがない。もちろん近隣の村々や一番近い場所にある大きな町へなら、出かけたことがあるにしても、他の聖五大陸の人々の暮らしなどについては、噂話や物語として聞く以外、本当のことを何ひとつ知らずに育った。
だから彼女は、第13の月に赤い瞳の子が生まれると、他の国の人々もその子を<忌み子>、呪われし子として捨てる風習があるのかどうかがわからない。初めて村外れに住む、「イツァーク村きっての奇天烈ばあさん」と呼ばれるマリサの丸太小屋を訪ねた時、アイリはまだ五つだった。ふたつ年上の姉、ライリが熱をだし、薬草師のマリサの元まで薬を受けとりにいくことになったのだ。
父は町であった集会に参加する用があり、母は高熱をだすライリにかかりきりで、薬を受け取りにいけるとしたら、たった五つのアイリ以外、他には誰もいなかったのである。
「このユーニップの根を煎じたものは、熱によく効くからね。なに、明日の朝にでもなればきっと、熱も下がって落ち着くだろうよ。そら、シンク。ぼさっとしてないでおまえ、この可愛いお嬢さんを送ってっておやりよ」
アイリは、近所の子供たちがみなマリサを<魔女>と呼んでいるのを知っていたし、シンクノアのことを魔女の子だと信じて疑っていないのを知っていた。そしてみなが「血のように赤い眼をした魔女の子」と呼ぶ子に初めて会い、彼女が感じたことといえば――ただ純粋に驚いたという、それだけだった。
「あら、あんたの目玉ってば、うさぎの赤いのにそっくりね!」
色々な動物の骨やら、干し魚や干し肉、薬草類が丸太の垂木からぶら下がる部屋で、その時シンクノアは砥石で包丁を砥いでいるところだった。炉辺の敷物に座ったまま、シュッシュッといつまでも永遠にそうしているのではないかとアイリには思えたけれど、アイリのことを振り返った彼の顔は、どこかぽかんとしたような、不思議そうな感じだったのを彼女はよく覚えている。
「マリサ。俺、包丁といだよ」と、シンクノアは鼻の下をこすりながら言った。
「あいよ。まあ、いい出来映えだね。明日はこいつで、鹿肉の燻製作りでもしようかね」
「俺、煙を燻すの手伝ってやるよ、マリサ」
「そりゃそうだともね。他に一体誰がいるんだい?まさかこの年寄りひとりに冬支度のすべてを賄わせようなんてんじゃないだろ。この家に住むのはあんたとあたしのふたりきり。ふたり分の食い扶持は、ふたりでなんとかしないとね」
――この時アイリは、シンクノアとマリサのやりとりを見ていて、思わずくすくす笑いださずにはいられなかった。もし今、窓から村一番のおしゃべりと評判の、エルナばあさんが外から見ていたらどうだろう。おそらく彼女はマリサとシンクノアが包丁をためつすがめつじっと眺め、人を呪い殺す算段をしているとでも思いこんだのではないだろうか?
「なんだ、おまえ。一体何がそんなにおかしいんだ?」
馬鹿にされた、と思ったのかどうか、シンクノアがムッとした顔をしてアイリのほうを睨んだ。その瞬間、すっかり忘れていた姉のライリのことを思いだし――アイリは少し罰の悪いような気持ちになった。
何故といって、アイリは一間しかないその居心地のいい部屋にまだいたかったし、この自分と同じくらいの年の子と色々話もしてみたかった。けれども今は、ユーニップの根を刻んだ熱冷ましの薬を、一刻も早く家まで持って帰らねばならない。
「いいから、ほら、シンク。早く外へ行く支度をおし。そしてこの可愛いお嬢さんをみどり川にかかる丸太橋のあたりまで送ってってやるんだよ」
「……………」
シンクは返事をしなかったけれど、それでものろのろとした動作で壁の木釘にかかっている毛皮の外套を手にとって着ていた。その時、アイリには彼にとってマリサの命令というのは絶対なのだろうということが、なんとなくわかった。
自分も、冬に外の厠へ行く時や、その他家の用事を足すのに納屋を出入りする時なんかに――よく今のシンクのような気持ちになることがある。納屋に獣油をとりにいき、ランプにそれを足すのは面倒だけど、かといって親の言いつけに従わないわけにもいかないのだ。
「あんたって面白いわね。あたし、明日もまたここに来て、あんたやマリサが鹿肉の燻製を作ったりするの、見ててもいい?」
「おまえんち、そんなに暇なのか?」
アイリが両手に白い息を吐きかけていると、シンクは相変わらずぶっきらぼうな口調でそう聞いた。
「べつに、暇ってわけじゃないけど」と、アイリも少しムッとして言った。「家の用事が済んだら、近くの子たちと遊んでもいいってことになってるの。だからあたし、明日もここへ来るわ」
「ふうん。じゃあ、好きにすれば?」
――そのあと、随分長い間会話が途切れた。イツァーク村の九月は、すでに冬の足音の聴こえる寒さで、<Ⅸ(ラゼル)の刻>ともなれば、じんとする冷たさが子供の耳朶を痺れさせた。
それでもシンクはみどり川の丸太橋のところまでと言わず、アイリのことを家の庭が見える近くまで送っていってくれたのだ。ルエルナと呼ばれる金の月は半月で、ルエルガと呼ばれる鈍色がかった銀の月もまた同じように半月だった。そしてこの双子のような月が、落ち葉の香る森を不思議な青さで照らしだす中を……ふたりの子供は影を重ね合わせるようにして歩いていったのだった。
この時のことを思いだすたび、アイリは今も少し不思議な気持ちになる。言葉がなくてもお互い特に窮屈でもなく、体は寒いはずなのに、心は何故か温かいという、いわく言葉ではうまく言い表せない気持ちだった。
そしてこのことはおそらく――シンクノアも同じだろうとアイリは確信しているのだけれど、アイリにとっても世界は、この時からふたつしか存在しなかった。つまり、シンクノアと共にいる世界と、それ以外の人と一緒にいる世界ということだ。
アイリの両親は当然、村外れの気違いババアと呼ばれることすらある、マリサとその養い子との交際を快く思わなかったし、そのことは同じ村の人々の眉をひそめさせ、子供たちにはアイリをからかう絶好の囃し言葉ともなった。
「♪赤い瞳のマザル=マゴク、青い瞳の子と結婚し、子供が出来たらお目々は何いろ?」
学校の先生や親たちは、自分の教え子や子供たちがそう囃し立てるのを聞くたび、「これっ!!」とか「こらっ!!」と言って叱りつけはしたものの、それと同時に何故アイリが――わざわざ村の外れ者と好んで交際しようというのか、理解できないと思っていることが、その眼差しからは見てとれた。
「ねえ、どうしてマリサのお家に行っちゃいけないの?マリサはライリの命の恩人なんだよ?もしあの時熱冷ましのお薬がなかったら、危険だったかもしれないって、お医者さんも言ってたでしょ?それなのに、なんで?」
アイリはよくそう言っては、母親のことを困らせたものだったけれど、結局最後は姉のライリの協力を得て、アイリはシンクノアと一緒に森の中で遊ぶという道のほうを選択した。まだ幼かったせいもあり、マリサがルシア神への信仰を告白していないということが、何故それほど重大事なのか、アイリには理解し難かったのかもしれない。
イツファノ民族は、その国土に住む約9割以上の人が<ルシア正教>を信じていると言われている。つまり、光の女神ルシアが創造主であられる全能の神と創造の業を終えて休んだといわれる聖日曜日には、人々は必ず教会へ礼拝をしに訪れるのである。簡単にいうとすれば、小さな農村社会では、同じ宗教・信仰心を持たぬ者は除け者にされる運命であり、マリサがもし光の女神ルシアを信じていないというのであれば――他に一体どんな神を信じているのかという、その部分が田舎の信心深い人々の間では問題となるのであった。
「あたしはね、そりゃ信仰心のほうは持ってるともね」と、マリサはよく香草や薬草をより分けながら、アイリに教えてくれたものだった。「だけど毎週毎週、同じ顔ぶれのいる場所へ、お参りになんか行きたくないのさ。それよりは、神のお創りくだされた森の自然のお堂へ行ってお祈りしたいもんだと思うね。でもまあ、村の連中はあたしがそんなことをしてるのを見れば、やれ邪教と通じてるとか、やれ闇の神を信奉しているだのと言うのだろうよ。けどまあ……それでもね、シンクノアのお目々がこんなに赤くもなけりゃあ、あたしも子供のことを思って教会へ行ったか知れないね。でも、シンクを穢れた悪魔の子だのという連中がいる以上、あんなところはむしろ、あたしのほうが用なんてないのさ」
この時シンクノアは、確か七つくらいだっただろうか。リキエルという名前の、筋骨たくましい流れ者の剣士が現われる前だから――おそらくそのくらいだろうと、アイリは漠然と思いだす。自分とシンクが五つから七つくらいになる約二年ほどの間、アイリは自分のどこからどこまでがシンクで、シンクの一体どこからどこまでが自分なのか、まるでわからないような曖昧模糊とした一体感を彼と持っていた気がする。
お互い、言葉などそれほど多く使わずとも、何をしたいか何を言いたいのか、口を使って言う以前にわかるくらいの親密さがあった。だが、ただひとつだけアイリにとってシンクが理解出来ないとすれば、彼が包丁を問わずナイフを問わず、刃物というものに対して、異常なほどの執着心を持っているということだっただろうか。
彼はそれで、命ある動物たちを何匹も殺した。もちろん生活のため、糧食とするため、必要最低限の犠牲として、野うさぎを狩ったり鹿狩りをするのだとしても――シンクノアは本当に生まれながらの狩人であるように、アイリには感じられてならなかった。彼は牛や豚といった家畜を屠殺する時にも、一発で急所を殴って気絶させ、なんの恐怖もためらいもなく、マリサの指示どおりにその腹部を裂いていったものだった。
「あの野童の坊主は、なかなか見どころがあるな」
そう言って、マリサの丸太小屋の脇にある納屋へ、リキエルという男が住みつくようになったのは、アイリやシンクノアが八つになるかならないかという頃だった。アイリの誕生日は第六の月のことで、シンクノアの誕生日が第13(マザル)の月――ということは、正確にはアイリがすでに八つで、シンクノアはまだ七つだったということになる。
その年の収穫月を迎える前の短い夏に、放浪の剣士を名乗る男は現われ、すべてを滅茶苦茶にしてしまった。もっとも、「すべてを滅茶苦茶にした」と言っても、それはあくまでアイリひとりの個人的な気持ちとしてそうだった、ということである。
実際にはシンクノアは、リキエルがまるで自分の持ち得ないすべてを持つ偉大な人物であるかのように彼を慕い、彼に懐き……リキエルから剣術の手ほどきを受けるようになる頃には、せっかくあった自分との一体感から急速に離れていってしまったのだ。とにかく当時のアイリには、そう思われてならなかった。
正直なところをいって、アイリはこのリキエルという名の精悍な顔つきをした男のことが好きになれなかった。もしかしたら少し、憎んでさえいたかもれない。
アイリには学校があったし、そちらの世界での友達というのもたくさんいた。だから、人からとやこう言われないためにも、この機会にシンクノアから離れる……そういう道も確かにあったには違いない。
だが、アイリはシンクノアがするりと水のように手を離して去っていったことにいつまでも執着し続けた。おかしな例えになるけれど、それはアイリが生まれて初めて持った大切な人形を焼き捨てなければいけないという、そうした選択に似ていたかもしれない。人形が焼かれる間、自分は実際には感じていないはずの炎を感じ、涙を流して悲しむだろう、そしてそんなことをした人間のことを激しく憎まずにはいられないだろう……それに似た思いをもって、アイリはリキエルという得体の知れない男のことを眺め、出来る限り彼のいない場所でシンクとふたりきりで会うということにした。
もっとも、シンクノアとしてみれば、自分が好きな相手を何故アイリが同じように好きになれないのか、理解できなかったようだけれど――なんにしても最後には、アイリがシンクノアとマリサだけが好きなのであって、リキエルという男が一緒の時にはあまり話をしたくない……そうアイリが思っていることを、シンクノアもようやく理解したのだった。
今にして思うと少し不思議なのは、マリサとリキエルがどうも古い知りあいだったらしいということだろうか。そしてそもそもマリサは、イツァーク村の出身者ではなく、いつの間にか流れ者として白竜山脈の麓に住みついていたという女性だったのである。
銀髪に灰色の瞳をしたマリサと、黒髪に赤い瞳のシンクノア、オレンジブラウンの髪に鳶色の瞳をしたリキエル……この三人が同じ食卓で笑いあっているのを見ると、アイリはいつも奇妙な感じがしたものだった。この三人の間には、どう考えても血縁関係などないはずなのに、何故かまったく同じ匂いのようなものをアイリはよく感じていたからだ。そして自分はそこでは部外者であるように感じられること、そのことがアイリには漠然とつらかったのかもしれない。
なんにしても、それからアイリが十五になるまでの間、リキエルはイツァーク村に居続けた。種蒔きや作付けといった野良仕事はもちろんのこと、穀物の運搬作業といった力仕事に至るまで、彼は「ちょっとした手伝い」のようなことをしては、どんどん村の人々から好かれていった。というのも、その後シンクの性格がどこかお調子者的になっていったのは、間違いなくリキエルの影響だろうとアイリは思っている……彼は冗談を言ったり軽口を叩いたりするのが好きで、そんなふうにしてすぐに誰のことをも魅了してしまうのだ。
おそらくリキエルのいた七年の間、イツァーク村で彼に敵意のようなものをしつこく持ち続けたのは、アイリひとりくらいのものだったろう。そしてアイリ自身にしても、ただひとつの事柄に関してだけは、彼に感謝しなくてはならないことがある。
リキエルはいつも楽しそうに口笛を吹いたり、歌を歌ったりしているような男で――聖五大陸の色々な流行り歌を実によく知っていた。その上声も伸びやかでとても良く、リキエルが色々と音楽の手ほどきをしてくれたことに対しては、アイリは掛け値なしに彼に感謝しなければならないかもしれなかった。
(でもまさか、そんなことのために<世界の崖て>なんていう場所へ来ることになるとは、流石のリキエルさんにも、想像つかないことだったでしょうね)
リキエルがイツァーク村を去って間もなく、マリサが亡くなった。そしてその痛手がシンクノアにとって十分癒えないうちに……今度は自分が、突然得体の知れない何者かにさらわれるということになったのだ。
そのことを思うと今も――アイリは時々切なくてたまらない気持ちになることがある。もちろん、あれからすでにもう七年という時が過ぎた。おそらくシンクノアは今はもうイツァーク村にはいないだろうと、アイリはそう確信している。何故といえば、ああした小さな農村社会ではシンクノアは自分の土地を持つことも出来なければ、家庭を持つことも叶わないままだからだ。
それに彼は昔からよくこう言っていたことがある。「世界のどこかを探せば、目の色が何色だろうと、髪の色や肌の色がなんだろうと、差別のない国ってのがあるかもしれない。俺はいつかそういう国を探しに、冒険の旅へ出るんだ」と……そして、その<冒険の旅>にシンクノアが旅立ったであろうことは想像に難くない。
そしてその旅の過程で――彼の目の色が何色だろうと構わず、心から愛してくれる人と出会ってすでに結婚しているかもしれないし、実際シンクノアが言っていたとおり、瞳の色が何色でも髪の色や肌の色がなんだろうと差別のない場所で、彼は幸せに暮らしているのかもしれない。いや、むしろそうであって欲しいと、アイリはそう望んでもいた。
それから最後に……ほんの少しだけ馬鹿な夢を見る。シンクノアが突然いなくなった自分の行方を探し、この<地の崖て>と呼ばれる場所まで、自分を迎えに来てくれるという夢だ。実際、アイリはそんな夢をここパラドキアにある自分の寝室で、何度か見たことがある。そして目が覚めたあとには、必ず涙が頬を伝って流れた。
(もしもリキエル、あなたにもう一度会うことがあったとすれば――わたしは恨み言を、一ダースほどもあなたに申し上げなくてはならないでしょうね)
アイリが飛空艇などというものに乗せられ、天空の島まで運び去られてきたのは、実に他愛もないような、くだらない理由によってだった。七年ほど前、ここパラドキアの城主ともいえるアシュランスと彼の率いる一党は、人気のない夜の白竜山脈の上空を、飛空艇の試運転のために飛んでいたのだそうだ。ところが、飛空艇が動力の不安定さによって不時着することになったのが、イツァーク村からほど近い、イツスーク平原でのことだったらしい。
その日、村では篝火が焚かれ、短く過ぎ行く夏を祝うための星祭りが行われていた。村の娘たちはみな着飾り、男たちは一張羅の民族衣装に着替えて、歌や踊りが夜通し催されていた。そこでアイリもまた、リキエルから教わった流行歌のいくつかと、古代の王を讃える昔ながらの勲しを謳ったものを楽の音とともに独唱していたのだ。
これは、大分あとになってからアイリが知ったことなのだが――最初、アイリはてっきり、アシュランスがほんの気まぐれから自分のことをさらい、パラドキアの王を讃えるための歌とやらを作らせるために、こんな<世界の崖て>などという場所へ、自分を連れてきたのだとばかり思っていた。実際、アシュランスは出会って間もない頃、自分はいかにもそのような悪役であるというように彼女の前で振るまっていたし、アイリが彼のことを心底憎むよう仕向けてもいたのである。
だが、実のところはそうではなく……アイリが今いる自分の状況を落ち着いて受け入れられるようになった頃、アシュランスが何を考えていたのか、その真意が初めてアイリにはわかったのだ。
「ここ、パラドキアはまあそれなりに広いがな。あんたは城砦の一部しか移動が許されてなくてさぞ窮屈だろうよ。そこでひとつ提案なんだが、俺の部下のひとりと結婚してみないかね?そうすれば、パラドキアの町の様子を見て歩くことも出来ようし、行動の範囲もぐっと広がって人生が楽しくなると思うがな」
アシュランスという男がそんなことを言ったのは、アイリが飛空艇にさらわれて三年ほどが過ぎた、十九歳くらいの頃のことだった。彼の言う部下のひとりというのが誰なのか――アイリにはすぐ見当がついた。銀色の髪を、いつも細長い滝のように冑の後ろへ流している、ファルークという名の若い男だった。
実際、イツァーク村の星祭りで、彼の姿をアイリは見かけていた。人口が二百人にも満たないような小さな村では、余所者というのは目立つものだ。またそれだけでなく、ファルークはこのあたりでは見たことのないアメジストのような紫色の瞳を持っていた。彼はおそらくそのような自分の容貌は人目を引くという自覚があったのだろう、村人たちが浮かれ騒ぐ群れの、篝火の光が届かない暗がりの中から……じっと、アイリの歌う姿を見つめ続けていたに違いない。
ここからはアイリの想像にすぎないことなのだけれど――アシュランスはファルーク、あるいは彼を含めた部下の数名に、飛空艇が不時着した付近の村を念のために探らせていたのではないかと思う。そして、勘の鋭いアシュランスは、ファルークの帰りが遅くなった理由を、是非とも知りたくなったのではないだろうか?アシュランスとファルークというのは、親友同士で、おそらくファルークが多くを語らなかったとしても、アシュランスにはわかってしまったのだろう。あの娘の歌声を、是非もう一度聴いてみたいと、彼が望んでいるということが……。
だが、もしアシュランスが突然ファルークのことを紹介したり、ふたりきりでいるよう仕向けたとしたら、おそらくアイリはアシュランスのことではなく、彼のことのほうをこそ憎んだかもしれなかった。アシュランスにはそのことがわかっていたのだ。だからこそ、自分にその悪役をあてがい、ようやくアイリが故郷を恋うる歌を歌わなくなった頃――狭い行動範囲が格段に広がるといった美味しいエサを吊り下げて、花嫁をひとり釣れれば良いなどと考えたに違いない。
「相手は、どなたですか?」
どんな理由があれ、誰とも結婚するつもりなどなかったアイリは、冷ややかにそうアシュランスに問うた。
この頃にはすでにアイリにも、アシュランスという<地の崖て>、パラドキアの王とどうつきあえばいいのかが、よくわかっていた。つまり、泣くにしろ喜ぶにしろ怒るにしろその他どんな感情であれ、彼は常に大きな動きや変動のあることを好む。だから、アイリが泣き叫んだり喚いたり、怒りとともに不満を言い表したりしても……諧謔主義者の彼にとって、それは興を引く面白いことでしかありえないのだ。
逆に、アイリが氷のように冷たい顔をして、眉ひとつ動かさないままでいると、アシュランスはいかにも不満そうな顔をするのである。そのことがわかってからアイリは、アシュランスという男に対して文句を並べ立てることなく、とにかくそうした氷の仮面のような態度を貫き通すということに決めていた。
「おまえは、誰がいい?竜騎兵たちはいつも冑で顔を隠しているが、あれは俺のように顔に焼け爛れた痕があるとかなんとか、そんな理由からじゃない。まあ、言うなれば主君である俺に気を使ってるんだろうよ……俺は普段、顔から仮面を外すということが滅多にないからな」
そうアシュランスは言ったが、アイリと会う時、彼は必ずその仮面を外して部屋へ入ってきた。もしアイリがその彼の顔を眺めて不愉快そうな顔をしたとすれば、アシュランスはいかにも楽しいものを見たというように、ニヤリと笑うのである。
「わたしは――主君であるあなたが結婚せよというから、わたしと結婚してもいいなどと考える、腰抜け男と結ばれたいとは思いません。あなたは、パラドキアの秘密を知った人間のことは生かして返せぬという理由から、わたしをこの不自由な身分に留め置いています。ですが、主君であるあなたが、もし誰それと結婚せぬのであれば、明日わたしを竜のエサにすると言ったとしても、わたしはやはりあなたの言うなりになろうとはしないでしょう」
「ほほう、なるほど?」
アシュランスは実に楽しげに、歌うようにそう言った。
「まあ、その強がりが一体あと何年続くかな?もし気が変わったら、いつでも言ってくれたまえよ、歌姫アイリーン。それまでは、ここパラドキアの歌姫として、時々祭りや宴の席にて歌ってもらうという、それだけのこと。それと、<地の崖ての国の王>が世界を征服した暁には――おまえの美声によって、この全世界の王たるこの私を、讃える歌でも歌ってもらおうではないか。何故といって私は、ただそのためだけにこそ……おまえを田舎の寒村から気まぐれにも連れだしたのだからな」
アッハッハッ!!と、さも楽しげに哄笑しながら、真紅のマントを広げ、アシュランスは<奏楽の間>を去っていった。その時、アーチ型の戸口のそばから、彼に続いて廊下を歩いていく人の姿がアイリの目の端を掠めた。蒼い冑の後ろから、長い銀髪をいつも靡かせている男だ。
おそらく彼は主君について歩く近衛のような役も仰せつかっているのだろう。今のような形で自分とアシュランスとの会話を聞いていることが多いと、アイリは当然気づいていた。
正直なところを言って、アイリは時々あのファルークという紫色の瞳の青年を捕まえて、「いいかげんしてもらえませんか!?」と怒鳴り散らしたい衝動に駆られることがある。祭りや宴の席などでアイリが歌を歌う時――その座にいる他の人間も当然、アイリの歌う姿を目に入れてはいるのだが、ファルークという青年は何か少し違った眼差しで自分を見ているように彼女は感じていた。
大勢の人間の前で独唱せねばならぬという緊張感のせいもあるにしても、アイリは自分が歌っている時にそこにどんな人間がいたかというのは、あまりよく覚えていない。いや、パラドキアに来て今ではもう七年になるので……アシュランスの部下の数名については、ファルーク同様、名前と冑をとった時の顔は一致しているにしても、問題はそういうことではないのだ。
独唱が終わり、王アシュランスの許しを得てアイリがその場を辞すと――アイリはいつも、そこには実はファルークひとりしかおらず、彼に対してだけ心をこめて歌を歌ってしまったような、そんな不思議な錯覚に捕われるのだった。
確かに実際、彼が自分のほうをこの機会にとばかりじっと見つめ、よく耳を澄ますように自分の歌を聴いているという気配を強く感じる……だが、それでいてこの七年の間、アイリはファルークとはほんの数える程度しか会話を交わしたことはないのだ。
それと時々、彼らが飛空艇に乗って<遠征>とやらに出て帰ってきたあと、アイリの部屋の前には必ずなんらかの花が置いてある。もちろん、誰がそんなことをしているのかはわからない。けれど、おそらくこんなことをするのはあの紫色の瞳をした男をおいて他にいないだろうと、アイリは見当をつけていた。
正直なところをいって、ここで少し難しいのは――アイリにしても身分の高いファルークに対し、滅多なことを言うことは出来ないということだった。「自分のほうをいかにも意味ありげにじっと見るのはやめてください」とか、「いつも花を置いていくのはあなたなんでしょう!?」などと問い詰めるということは、とてもではないが出来ることではない。
だが、前に一度だけ……彼の自分を見る目の熱心さに耐えかねて、それに近いような言葉を言ってやりたいように感じたことはある。でもその時にも結局、アイリはただ顔を真っ赤にしたまま、ファルークの前を通り過ぎるということしか出来なかった。
(もし、これからまだこの軟禁状態が続いて)と、窓からの微風を受けながら、アイリは考えた。外は見渡す限り青く、遠い場所で竜騎兵たちが竜を操る訓練をしている姿が小さく見える。(もう二年か三年もすれば……わたしも娘の盛りを過ぎてしまうだろう。その前に自分から膝を折って、誰となり結婚させてくださいと頼むべきなのだろうか?確かにわたしはあのファルークという男に恋なぞしていないにしても、彼が邪念のない良い人間だと感じるのは本当だ。ただ、彼が本当には何を考えているのかがさっぱりわからないという、それだけで……)
四年ほど前――アシュランスから結婚云々の申し入れがあってから、ずっとアイリは待ち続けていた。いつも意味ありげにこちらを見つめる彼の眼差しは、実は自分の勘違いであり、彼は彼にとって相応しい女性と今は結婚した、だからおまえにはもう用はなくなったぞ……いつか、アシュランスがそう言ってくれはしないかと。
だが、ただ徒に歳月は流れてゆき、アシュランスがたまに思いだしたように自分の元へやって来て言う科白というのは、まったく同じものだった。
「どうだね?そろそろ強情っぱりの田舎娘の気も、変わってきたんじゃないかね?」
姿を見せぬよう、ファルークが戸口の脇に立っているかと思うと、アイリもまたいつもと同じ口調、同じ言葉しかアシュランスに返す気にはなれない。
「気が変わるというのは、なんのことを王はおっしゃっておられるのでしょうか?確かにわたしはあまり物のわからぬ田舎娘。ですが、王もご存知のとおり、寒い地方に生まれた者というのは、強情っぱりというよりも、そも我慢強いのでございます。もしも王に、気高き白竜山脈が、冠のように戴く万年雪を溶かすことが出来たとすれば、このわたしの心をも同様に溶かすことがお出来でしょうに」
「ふむ。なるほど」と、アシュランスはいつものように、何か含みを持たせたニヤニヤ笑いをすることなく――突然王の威厳を身にまといつかせると、片手を上げ、真紅のマントを後ろへたなびかせた。「流石におまえは、我が友ファルークが惚れただけの女のことはあるようだ。おまえもすでに気づいていようが、パラドキアの男というのは……歌姫アイリ、おまえの口調を真似るとすれば、そもとても性質が良いのだよ。もっともこれは、王である俺を除いてという注釈付きではあるがな。前にも話したとおり、我々<地の崖て>の民というのは、中央世界から隔絶された、岩山ばかりが続く不毛の地だけを相手にして生きてきたのだ。もちろん、竜に乗れば海を越えて軽く数時間でエルシオンへは辿り着ける。だが、我々は古くから言い伝えられる<掟>に長く縛られて生きてきたのだ……俺の顔が何故こんなふうに醜く焼け爛れているのか、その理由をもちろん、おまえは覚えていような?」
アイリは、はいともいいえ、とも答えず、ただ眼差しによってのみ首肯した。
アシュランスはアイリがパラドキアへ来てまだ間もない頃、「ここから出してっ!!わたしを故郷へ帰してっ!!」と鍵のかかった部屋の前でわめき続ける彼女に対して――「慰みにひとつ、面白い話をしてやろう」と、自分の身の上話をしてくれたことがある。
アシュランスの父親はパラドキアに点在する小さな村の有力な族長のひとりであったという。それぞれの村々はとても貧しく、かろうじて自給自足の生活を送っていける程度であったのだが、それでも年に数度、竜に乗ってエルシオンへ渡り、<地の崖て>では決して取れない様々な物資を調達してくる必要があった。
そしてアシュランスは、十三歳の時に初めて――西の大海カイスヴィリーフを、父親ともに竜に乗って渡ることが許されたのだった。それまで痩せた土地とゴツゴツとした茶色い不毛の岩山しか知らずに育った少年にとって、中央世界の豊かさは衝撃的だった。
確かに<地の崖て国>は、エルシオンの人間から見た場合、地の崖て、この世の崖てのような場所であろうと、アシュランスはその時思った。だが、それと同時に彼は、その岩山ばかりの不毛な世界を自分はもっとも愛しているとも強烈に感じた……何より、<地の崖て>という場所では、中央世界の人間たちの欲しがる鉱石や宝石類などが潤沢に取れるのである。
アシュランスは自分の父親が行商人と交渉し、ほんの少しの翡翠や縞瑪瑙、水晶や緑柱石やヒヤシンス石などを、恐ろしいばかりの値段で取引するところを見た。そして目立たぬ場所に留め置いた竜の背中に、ずっしりと重い食料品や衣類、生活用品の詰まった荷がくくりつけられるのを見て――目を輝かせながら、自分の父親を見上げてこう言ったものだった。
「父ちゃん、俺たちって本当は世界一の金持ちだったんだね!!」
だが、エルシオンで見聞きしたことは成人した男たちの間で<語ってはならぬこと>とされており、村の女や子供の多くは、岩山で取れる鉱石がエルシオンにおいてどれほど莫大な値打ちを持っているのかを知らないのである。
この時から、アシュランスは何かの流行病いのように「なんでそのことを口にしちゃいけないの?」とか「もっと度々エルシオンへ行って宝石の原石を交換すれば、痩せた土地を耕す必要なんかなくなるよ」と、父親にしつこく聞いて回るようになった。そしてその度に族長である父親は、一族に千年以上も昔から伝わる<掟>の重要性を一番末の息子にとくと語って聞かせたというわけなのである。
「エルシオンの人間たちは、竜という存在を滅多に見なくなってもう千年にもなるだろう。それは我々が注意深く竜を隠しながら向こうの人間とつきあってきたからなのだよ。エルヴァルト海、セスアラシア海、デュークセヴァリア海、サンエマルト海、カイスヴィリーフ海……その他どの海の領域からも、ここ地の崖て国へ中央世界から船が到達することはない。唯一、おまえが知っているとおり、船を自分の国土とし、海を移動するテガシエルパの民だけは我々とつきあいがあるがね。彼らもまたいにしえよりの<掟>を堅く守って暮らしている信頼のおける民だ。神はそのように、遥かな昔に<境>を定められたのだよ。確かに、我々の生活は貧しく厳しいかもしれない。だが、地熱のお陰で季節を通して温暖だし、土地は痩せていてもそれなりに穀物や果物も実る……神をおそれ、自分の身をわきまえて暮らしていく分には不自由ないのだから、おまえも<掟>に従って足ることを学ばねばなるまいよ」
――アイリはもちろん、アシュランス自身もまたその存在を聞いたことはあっても見たことはないのだが、海には人の知られざる巨獣が住んでいるという伝説がある。ゆえに、エルシオンの人間たちは船を西の果て、あるいは東の果て、あるいは北の果てでも南の果てでもよいのだが、とにかく船を大海のあまり遠くまで漕ぎだしていくと、巨獣の怒りに触れて帰って来られないという伝説を信じている。
すなわち、その巨獣とは海に住む竜と言い伝えられるリヴァイアサンであり、海獣クラーケンであり、あるいは船乗りを惑わすというローレライ、海の底にある神殿に住むと言われる人魚たちなど、とにかく神の定めた<領海>を彼らが守っているがゆえに……人間はそこを超えてさらに遠くへは行けないのだと、エルシオンの人々は根強く信じ続けていたのである。
だがやはり、<地の崖て国>にも成人したばかりのアシュランスが疑問に感じたとおりのことを考え、禁を破る人間が時として生まれる。その禁を破った人間には、厳しい<掟>の鉄槌が下ることになるわけだが――もし仮にそれぞれの村の族長の許可なく竜を駆って中央世界へ出かけた場合、その者に待っているのはネイディーン山の火口の入口であった。すなわち、パラドキアの人々の言い種によれば、「掟を破った者は火竜の口に飲みこまれねばならぬ」ということになるだろう。
そしてアシュランスは、実際十五歳の時にこの禁を破り、己の竜を駆ってエルシオンの地へ行き……あろうことか、ユーディン帝国の北、最北の地にある雪原地帯の民に竜に乗る自分の姿を見られてもいたのである。
アシュランスはなんとか嘘をついて誤魔化そうとしたが、そんなことが数度繰り返されるうちに、彼の父親は鋭くそのことに気づいたのであろう、<本当のこと>を洗いざらい末の息子に吐かせると、一族の間に彼を引き立てていき、裁判の場へと出廷させたのだ。
「それで、どうなったの?」と、その時アイリは、少し前まで自分が泣いていたことも忘れ、アシュランスのことを見返した。もちろん、彼がこうしてアイリの目の前にいるということは、ネイディーン山の火口行きという罰は免れたのだろうと、そう思いながら。
「近隣の村の族長全員が呼び集められて、族長会議っていう奴が開かれることになった。俺は刑が確定するまでは、岩山にある天然の牢屋にぶちこまれることになったわけだが……まあ、普通に考えたら死刑だな。だがまあ、十五っていう年齢のこととか、俺が族長の息子だっていうことなんかが考慮されたのかもしれん。それなりの罰を与えて一度懲らしめれば、二度と禁は犯さぬだろうという決定が下された。というわけで、背中の肉が裂けて暫くうつ伏せでなければ寝られんくらい――俺は鞭打たれることになったわけだ。だが、親父はいくら息子を可愛がっていたとはいえ、それでは族長として一族の者に示しがつかないと思ったんだろうな。『<掟>を破った者はこのとおりになる!』と叫び、俺の顔をみんなが広場に集まっている目の前で、竜の火につけて焼いたのさ。竜が口から吐く火ってのは、普通の炎とは違う。親父は自分の竜に火炎を吐かせると、そいつを火炎石っていう石に移して、俺の顔に当てたってわけだ……そんなことから、俺も今ではすっかり男っぷりが上がったってわけだな」
少し不思議なことだったかもしれないが、アシュランスからその話を聞いて以来、アイリは彼の醜く焼け爛れた顔の痕が、あまり怖くなくなった。ただし、今でも時々ふと、おかしな物思いに捕われそうになることがあるにしても。
つまり、アシュランスが何かの拍子に右の横顔だけを自分に見せて話をする時――彼が本当は実に優しい瞳をした人間であるということに、アイリは気づくのだ。けれども、左の瞼の際近くまで皮膚が焼け爛れているため、そちらの瞳は狂気を宿した竜のような眼差しに見える。そしてアシュランスが正面を向いて自分に何かを話す時、アイリはいまだにどちらの彼が<本当の彼>なのか、判別しがたいような、引き裂かれた印象を持つのだった。
「もちろん、よく覚えています。一度聞いたら、忘れようにも忘れられないくらい、とても印象深いお話でしたから」
アイリはアシュランスから彼の身の上話を聞いた時、部屋にあった十弦の竪琴を手にとり、それを奏でて王の心を慰めるべく、ひとつの歌を歌った。歌劇『聖竜ルシアスと暗黒竜ヒュドラ』の中で、ヒュドラがルシアスに破れた時、嘆き悲しむアシェラを慰めるべく、アルゴルが妻に歌って聞かせる歌を、である。
「つまり、俺が言いたいのは、だ。聖五大陸のそれぞれの国には、おのおの国民性みたいなものがあるだろう?イツファノ民族は我慢強く、カーディル民族は思慮深く、ロディーガ民族は陽気、レガント民族は剛毅で慎重……といった具合にな。だが俺が思うには、そのうちのどこの男の気質も、我が<地の崖て国>の男の性質には到底敵わんと思うね。まったく、今でこそこんな<天空島>(アストラ・ナータ)なんていうものを創ったり、飛空艇なんていう途方もないものを創り出したりしているが――俺たちは千年もの間、まったく馬鹿のひとつ覚えみたいに、二言目にはとにかく掟、掟と言って暮らしてきたのだよ。だが、それを可能にしたのはとにかく、我々竜族の末裔が天の賜として良い気質を保ち続けてきたからなのだろう。正直なところを言って、親友の俺の目から見てもファルークはいい男だと思うぞ?まあ、あいつに欠点があるとすれば、少々気分にむら気があるところだがな……なんにしても、おまえがもしファルークが気に入らないにしても、竜騎士の男たちのうち、誰と祝言を上げようと、幸せになれるだろうことは請け合おう。何しろ、俺たちはこんな不毛の土地をあてがわれているにも関わらず、そのことに文句も言わず、中央世界の豊かさを僻みもせず、忠実に掟を守って堅実に生きてきた民族の子孫なのだからな。その血がおまえの中の我慢強いというイツファノ民族の血と混ざりあった時には、もしかしたら信じられないほどのいい子や孫に恵まれるかもしれん。まあ、そんなことも少し、考えてみることだ」
「……………」
アイリは思わず、暫くの間黙りこんだ。気分にむら気があるといえば、このアシュランスという男こそそうであろうとアイリは思うのだが、彼は珍しく今日に限っていえば、右の瞳の優しい蒼の瞳だけで語っていた。
もちろんそれは、彼が右の端正な横顔だけを見せてアイリに話をしていた、という意味ではなく……。
「さて、と。そろそろ恋のお邪魔虫は消えるとするか。このことについて、俺は今後一切口は出さん。じゃあな、ファルーク」
そう言って、アシュランスは<奏楽の間>の、広い窓敷居に座っているアイリから見て、後ろにあるアーチ型のドアから外へ出ていった。ちなみに彼がこの部屋に入って来た時には、左側にある開け放たれたほうのドアから入って来たのである。
「……………っ!!」
そこから、銀の細く長い髪を背中になびかせて、紫色の瞳の青年が部屋に入って来た時――アイリは少なからず動揺した。今日もまたいつものとおり、アシュランスが意味ありげな軽口を叩いたあと、ファルークは腰巾着よろしく何も言わずに彼のあとへついていくのだろうと予想していただけに……アイリはなんとかこの場から逃げだすいい口実はないかと思ったくらいだ。
(ずるいわよ、こんな不意打ちみたいな真似するなんて!!)
アイリは手に竪琴を持ち、窓敷居に座ったまま、扇型の窓の外を見ている振りをしようと思った。そこでは相も変わらず竜騎兵たちが訓練しているらしい姿が遠く見える。
「七年もだんまりだったくせに、一体急にどうしたんだと、あなたはそう思っているのだろうな」
ファルークは、自分の主君であり親友でもある男――アシュランスがそれまで座っていた場所へ腰かけ、手を伸ばせば触れるくらいの距離のところから、アイリのことをじっと見つめた。
「たぶん、いつも意味ありげに自分のほうを見ているくせに、その実告白する勇気を持たない腰抜け男……とでも、あなたは思っただろうか?」
(何よ!やっぱりわかってたんじゃないの!!)
ムラムラと腹が立ってくるのを感じると、アイリは最初に感じた恥じらいの気持ちなど、まるでどこかへ吹き飛んでいった。
「いつも、あなたたちが<遠征>とやらへ行ったあと、わたしの部屋の前に花を置いていくのはあなたなんでしょう?」
「そうだ。薔薇に牡丹に芍薬、百合にジャスミン、その他全部俺が置いたものだ。ここ、アストラ・ナータでも、最近エルシオンの良い土を運んできて、少しずつ造園作業なんていうのをやってるよ。そのうち、そうした土の中から向こうに咲く花がうまく育つようになれば……俺は毎日でもそんなものをあなたにあげられると思うのだが」
竜と目が合うことを怖れるように、アイリはファルークのほうをちらと盗み見るようにした。すると彼は、自分のほうから視線を外し、窓の外の青い空と、遠く黒い点のように見える竜の姿とを眺めている。
白皙の横顔は、しみひとつなく雪のようであり、彼が目許の涼しげな秀麗な顔立ちをした青年であることがわかる。ただ、アイリにとってずっとわからないのは――そんな彼が何故自分のような寒村育ちの田舎娘に執着するのかという、その理由だった。
「何故、わたしなんですか?ここにも他に、あなたに相応しいような女性は大勢いるでしょうに」
「ファルークでいい」そう言って、ファルークは、何かとても面白いことでも耳にしたように、少しだけ笑った。「俺は、十六の時に一度結婚した。ちょうどあなたが、ここへ連れられて来たのと同じくらいの歳に。ここパラドキアでは、男は十三歳以上で<竜の儀式>を通過していれば成人と見なされる。そして、十五六で結婚するのが普通だ。だが、妻は病弱で……結婚して一年もしないうちに亡くなった。俺は彼女があまり長くないと知っていたからこそ、婚姻の儀を急いだんだが、せめて子供のひとりくらい授かっていたらと、今もそう思う」
ファルークが窓の外から自分のほうに視線を戻すのを見て、アイリは赤面した。これまでも、儀礼的な挨拶程度の会話なら交わしたことはあるが、こんなに個人的なことまで彼が話すのを聞くのは、これが初めてだったからだ。
「わたしの村でも」と、やもすればか細くなりそうな声に、アイリは意識的に力をこめるようにして言った。「女性は早ければ、そのくらいで結婚していてもおかしくありません。わたしの姉のライリも……十七歳で隣村へ嫁いでいきましたから」
「そうか。歌姫アイリ、あなたももうここへ来て七年にもなるから、ある程度<地の崖て国>の事情にも通じていよう。先ほど、我が主君アシュランスも語っていたとおり、今は我々にとって時代の一代変革期といっていい時だと思う。今から三十年も昔のことになるが、ナーラダという名の男が、やはり禁を犯し、ネイディーン山の火口へ放りこまれることになったのだよ。だが彼は、腕の立つような男ではまったくなかったのだが、刑の執行人の手をうまく逃れることが出来たらしい。その刑の執行人もまた、咎められることを怖れたためかどうか、ナーラダの逃亡については口を閉ざしていた。その時逃亡の途中で彼は、今では<聖魔の秘跡>と呼ばれる洞を発見したのだ。我々にとってネイディーン山は古代の竜が今も羽を休めていると言い伝えられる、聖なる山だ。そこを採掘したりすることなど、パラドキアの民にとってはもっての他、例のうるさい<掟>に触れる重罪なわけだが……ナーラダはまあ、その時すでに死んでいるはずの人間だったわけだ。
とはいえ、ここは見渡す限りの岩山ばかりの土地だから、食糧が欲しいとなれば当然、どこかの村の畑を襲うなりしなければならないだろう。先ほども言ったとおり、ナーラダという男は腕っぷしにはまるで自信のないような男だったから、なんとか自分の元の村の親友を頼ることにしたらしい。ある意味、その親友にとっては迷惑な話だったのではないかと思うが、なんにしても彼――俺の親父のレイルークは、死んだとばかり思っていた親友が生きていたと知り、族長の跡継ぎであるという自分の身分も忘れ、ひたすらナーラダのことを支援することにしたのだ。俺は当然、親父の息子としてその<秘密>を幼い頃から知っていた。ナーラダというのは実に博識な男で、村では学校の先生として人々から尊敬されているような人物だったらしい。そんな彼が特に熱中していたのが「言語学」という奴でね、<聖魔の秘跡>から解読不能な文字の石版がいくつも出てきた時も……ナーラダはその法則性に鋭く気づき、何が書かれているのかをそう時間をかけずに解き明かしたそうだ。そこに書き記されていたのは、空を飛ぶ箱舟の建造の仕方だった。そして<聖魔石>を使えば、同じように大陸や島を空中に浮かせることが出来るということもわかった……ナーラダが生きていることがわかり、彼が中心となって飛空艇が建造されつつあった頃、すべての部族の族長たちの間で、意見が割れていた。ナーラダはそもそも罪人なのだから再びネイディーン山の火口へ突き落とすべきだという者もいたし、言語学に精通した彼がこのような発見をなしたということは、これこそ天命だと言う者もいた。なんにしても、簡単にいえば我々パラドキアの民は、この時から大きく真っ二つに割れたんだ。<箱舟計画>に賛成する部族と反対する部族とにね……俺は親父がナーラダの親友で、先頭きって彼に協力していたから、そのことについて選択の余地はなかった。だが、隣の部族だったアシュランスの父親は反対派でね。また、彼があのようにむごい仕打ちを父から受けなければならなかったのも、そうした事情が背景にはあったということだな。一族に伝わる<掟>を尊守させることの重要性を、再自覚させる必要があるとでも思ったんだろう……俺は、そのことを知って以来、前から親しい友人だったアシュランスのことを自分たちの仲間にならないかと誘った。以来、彼はめきめきとカリスマ指導者として頭角を現すようになっていき、今では<箱舟計画>に協力し賛成したすべての部族の長、王になったというわけだ。実際、箱舟なるものが完成し、飛空艇と名づけられて竜のように空を飛ぶようになると――それまで反対していた一族の者たちも、こぞって我々に従うようになった。今でも唯一、アシュランスの父親だけは意地を張り通しているとはいえ……」
ファルークが、吟遊詩人ばりの語りを終えようかと言う時、アイリはポロン……と思わず竪琴を鳴らした。いつもは無口な彼が、こんなにも色々話すのを聞くのは初めてだったし、その時点ですでにもう、アイリにはファルークの言いたいことが大体わかっていたのである。
何より、いつもファルークにじっと見つめられていると、彼に征服されたような、彼の支配の腕に絡められるような気配をアイリは感じていたが、この時ファルークがその<むら気>によってか、長い話をしてくれたことで、彼女はその脅威が効力を失っていくような感覚を覚えていた。
「だから、つまり……」と、ファルークは、照れたように、少し決まりの悪いような顔になった。「俺には、このことについて、重大な責任がある。一族にとってこれほどの大事に当たる時に、好きな女がどうだとか、結婚して身を落ち着けたいだの、そんなことはあまり考えていられなかった。だが、飛空艇がイツスーク平原に不時着することになったあの日、俺は自分の中でてっきりもうすでに死んだものとばかり思っていた心が、甦ってくるのを感じた。それも、歌姫アイリーン、あなたの歌を聴いたことによって」
アイリは何度か、無造作に竪琴を奏で続けた。なんて言ったらいいのか、わからなかった。自分の元には水がたくさんあるのに、喉の渇いた旅人にそれを与えるのを惜しむような、うまく表現できない気持ちだった。
ここで、「そんなことのためにわたしに七年という若い歳月を無駄にさせたのですか」とか、そんなことは言ってもすでに意味がなく、通り過ぎてしまったことなのだと、アイリにはわかっていた。彼はおそらく、自分に罰を与えるように、なるべく自分を抑え、アイリに対しても必要最低限接しないよう心がけてきたのだろう。そしてそのことを察したアシュランスが――おそらくは親友の心を思い、これまでうまく立ち回ってきたということなのだ。
彼は……ファルークは、おそらくパラドキアの王に次ぐくらいの、言うなれば権力ある立場にいる者だった。つまり、その気になれば彼は本当は、アイリのことを力づくでも自分のしたいように遇することが出来たに違いない。だが、彼は待った。アシュランスが<地の崖て国>の男たちは性質がいいと言った、その忍耐強さによって……。
アイリは言葉によって答えるよりも、別の方法を選んだ。つまり、イツァーク村の星祭りで初めて出会った時――彼が不思議なアメジストの瞳で自分を見つめていることに気づいた瞬間、ファルークが聞き入っていた歌を竪琴の音に合わせて歌うということにしたのである。聖竜ルシアスの訴えに応えて、人間の娘ルーシュが独唱するアリアを……。
♪おお、竜よ
我が魂よ!
おまえに私のすべてを捧げよう
我が骨と血肉、この心のすべてをも
聖竜ルシアス
おまえは私の夢
私の希望
私の心の喜び
そして私のすべて
おまえは跪いて
私に愛を乞う必要はない
むしろ私がおまえの前に身を投げだし
今こそふたりでひとつのものになろう
おお、竜よ
我が魂よ!
我らの心は今ひとつとなりて
邪悪なるものを打ち滅ぼさんとして立ち上がる
――だが、このような歌を歌ったからといって、アイリがファルークの気持ちに応えたというわけではなかった。というより、彼女は彼の気持ちにすぐには応えられないという申し訳なさから……せめてかわりのものとして歌を一曲進呈したという、それだけのことだった。
その証拠にというべきか、アイリが歌を歌い終えた時、ファルークが彼女に触れようとする指を、彼女は拒んだ。勘の鋭い彼は、その時のアイリの顔に浮かんだ表情だけで、すべてのことが十分理解できていた。
「他に、誰か……今も想う男がいるということか?」
アイリは涙の盛り上がる瞳を伏せたまま、肯定も否定もしなかった。ファルークはアイリの長い黒髪を一房握りしめると、そこに口接けて言った。
「では、今はまだもう少し待とう、歌姫アイリーン。近いうち、決戦がある。この戦いはおそらく、我々にとって圧倒的優位と一方的勝利をもたらすに違いないが、それでも万一ということがあるからな。だからその前に一度、あなたの気持ちを確かめておきたかった」
そう言ってファルークは、<奏楽の間>から去っていった。アイリが西の空に目を向けると、そこには軍事訓練を行う竜騎兵たちの姿はすでに見当たらず、徐々に暮れはじめた夕陽の光が――あたりの岩山の茶色い肌を、次第に紅へと染めゆこうとしているところだった。