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  赤青鉛筆 作者:海堂莉子
第10話
 ブルーは、昨日とは違う道を歩いていた。私のアパートに行くには、曲がらなければならない道を曲がらず、もう一本先で曲がった。私は何故か、どこに行くのとは、聞けずにいた。
 確かこの道は、うちのアパートと繋がっている筈だ。
 曲がってすぐのアパートをブルーは指差した。
「ここの2階の一番左の部屋」
「えっ?」
「オレん家」
 私はもしかして部屋に無理矢理連れ込まれるんじゃないかと、硬くなった。
「連れ込んだりしないよ」
 私はホッと胸を撫で下ろした。
「今はね」
 えっ?、と私が顔を上げるとブルーは微笑んでいた。
 どうしてこんなに優しい微笑み方をするんだろう。
 私は自分の身の危険も忘れて、その微笑みを目に焼き付けようと、釘付けになって見ていた。近付いてくるそのブルーの顔に、私は見惚れてしまっていた。
「そんなに見るなよ。照れる」
 今日のブルーはどこまでも優しい。
 私はもしかしたらもうブルーから逃げられないのかもしれない。そんな不吉な予感を感じていた。
「マスターが……。私は、マスターが好きなの。あんたじゃない」
 私のこの日最後の抵抗だった。かなり無駄な抵抗なのかもしれない。
「知ってるよ」
 優しく寂しげな微笑みだった。その微笑みが私の心を打つ。
「どうして、どうしてそんなに優しく笑えるの?」
「それは、紅が好きだからだよ」
 再び小さく微笑み、私の唇を塞いだ。
 でも、私はマスターが好きなの……。
 ブルーはその台詞を呑みこんだ。
 私はマスターが好きなの。私が好きなのは、間違いなくマスターなのに……。どうして? どうして、ブルーのキスに抗がえないんだろう。
 微笑みと同じように優しいキスに私は目尻に涙を溜めた。
 ブルーのキスは、私から何かを奪い取ろうとするのではなく、何かを与えてくれているような気がする。
 優しさ、思いやり、勇気……。あらゆるものが与えられているような。それはもしかしたら、大袈裟に言ってしまえば、愛と言われるようなものなのかもしれない。無償の愛。人から見れば、それは重いと思う類のものかもしれない。けれど、ブルーはそれを直接私にぶつけたりしない。私がそれに溺れ、もがき苦しまないようにその量を調節しているようにさえ思える。
「私がブルーを好きになるとは限らない。私はブルーを好きにならない」
 それは、半分は自分に言い聞かせているのかもしれない。
「好きになるさ。紅は俺を好きになる」
 そうきっぱりと言われると、まるで本当にそうなってしまいそうで怖い。
 手を取られ、ブルーに引っ張られるようにして歩き出した。今日のブルーは始終優しくて、高慢ちき男じゃないように見える。
 一体どれが本当のブルーなんだろう。
 ブルーの住むアパートからうちのアパートまで恐ろしく近い。1分もかからない。
 アパートの前に着くと、「送ってくれてありがとう」と、早口に言って階段を駆け上った。もたもたしていたらきっとまたブルーに何かされる。ブルーにこれ以上何かされたら、流されてしまいそうで怖かった。
ブルーに腕を掴まれ、キスの一つでもされるんじゃないかと思ったが、ブルーはそれ以上なにもしなかった。
 階段を登り切った時、ちらりと振り返ると満面の笑顔のブルーが手を振っていた。無意識に手を振り返している自分に驚愕した。
 なに、仲良くなったみたいになってんの、私。思い出さなきゃ。私の好きな人はマスターで、あんな多重人格者みたいなブルーなんか好きじゃないんだから。
 そう思いながらも、知らず知らず私の指は唇をなぞり、ブルーの背中を見送っていた。
「馬鹿だ、私……」
 自分の無意識の行動に、自分で自分に叱咤した。
 流されているだけだ。目を覚ませっ、私。
 自分に喝を入れるべく両頬をパチンと勢い良く叩いた。
「あいたっ、強く叩きすぎたよ」
 情けなくて、大きな溜息をついて、部屋の鍵を挿した。
 もう、ブルーの背中を見ようとは思わなかった。
 部屋に入ると、どさりとバッグをぞんざいに置き、崩折れるようにぺたりと座りこんだ。
 ブルーをどうにかするにはどうしたらいいんだろう。
 二人きりにならないようにするのが一番良いとは思うんだけど、マスターの余計な計らいで帰りは必ず一緒になっちゃったし。富ちゃんに事情を話して帰りについて来て貰うっていうのはどうだろうか。
 富ちゃんになら頼めそうな気がする。そうだ、そうしてみよう。
 なんとか希望の光のようなものが見えて来て、私は漸く楽しい気分を取り戻せていた。
 だが、私は忘れていたのだ。つい先日までの富ちゃんならば、私達が帰る頃までゆっくりと飲んでいたのだが、彼と仲直りをした富ちゃんは、店に来ても彼との電話があるからと、すぐに帰ってしまうことに。後日、私は幸せ度100%の富ちゃんには、とてもじゃないが頼めないとがっくりくるのだった。

 飲み物を冷蔵庫から持って来て、テレビを低音でつけてリラックスし始めた。
 丁度いつも見ている深夜のお笑い番組が始まるところだった。
「おぉう、グッドタイミングだったねぇ」
 誰もいないのに、こんな風に独り言を言うようになったのは、一人暮らしを始めてからだった気がする。無意識に寂しさを感じているんだろうか。そんな事を考えながら、テレビを見ていると、どこからともなく音楽が聞こえて来た。
 それは、私のバッグの中から聞こえるのだが、私の着信音とは違うメロディだったので困惑した。バッグの中をがさごそと探ると、中から私のものではない携帯電話を発見した。途端にイヤな予感がしたが、永遠になり続きそうなので、諦めてその携帯に出た。
「もしもし?」
『もしもし。その携帯の持ち主なんですが、拾って下さって有難うございます。申し訳ないんですが、届けては貰えないでしょうか?』
「ブルー。そんなしおらしい声出したってバレてんだかんね。もしかして、わざと私のバッグの中に携帯入れたんじゃないでしょうね?」
 その電話の先の声はまさしく先程まで一緒にいたブルーだった。イヤな予感的中である。
『まさか。俺がそんなことするわけないでしょ。紅が持っていたなんて、全然解らなかった。ああ、びっくり』
 かなり怪しい。確実に怪しい。全然驚いてる感じしないし。
「もう、仕方ないから届けるよ。コンビニにいるんでしょ? 今から行くからそこで待ってて」
『紅、ちょっと待って。夜は危ない。俺が何の為に送ってったのか解らないだろ。明日、出来れば午前中にうちに直接届けてくれないかな? 俺が取りに行きたいところなんだけど、これから課題をやらなきゃならないんだ。明日の午後から講義があるんだけど、課題がかなりやばいんだ。ごめん、無理かな?』
「もう、仕方ないな。明日、午前中に届ければいいんでしょ? あんたその時間起きてんの?」
『今日は眠れないと思うから。ごめん、じゃあ、よろしく』
 急いで電話を切るあたり、本当にヤバい状態なんだろう。課題の締め切りが明日ってことなのに、多分全然手をつけていなかったんだろう。私にもそんな経験がよくある。
 明日は、私も午後から講義だから夜更かしして、明日は午前中いっぱい寝ていようと思ったのに。まあ、頼まれてしまったものは仕方ない。大人しく早寝しますか。
 ブルーと電話している間に好きなお笑い番組は、半分ほど終わってしまっていた。なんだか、見る気が失せてしまってテレビを消した。


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