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How 'bout Us
作:H.RcGoon



第二部 第五章


千恵子と出会ったことによって僕の中に生じた“みのようなもの”は、日ごと大きくなっていった。それはまるで細胞分裂を繰り返しているかのように小刻みに震えながら、徐々じょじょにその勢力を拡げていった。
 優子から電話がかかってきたのは、6月上旬の、僕がアルバイトから帰ってきて何もかも放り出したい気分でベッドに横になっていた深夜のことだった。彼女は夜遅く電話したことを最初にびた。僕は、眠っていたわけではないから気にすることはないと言った。
 そのとき僕の中では、あの“染みのようなもの”がすでにはっきりと異質のものと認識できるまでに成長していた。それは僕のことを嘲笑あざわらうかのようにぴくぴくと震えては拡大を繰り返し、意識を集中しようとすると、まるで侵入をこばむかのように不意に不鮮明になった。僕にはその“染みのようなもの”の実体をどうしても掴むことができなかった。いつも僕の手をすり抜け、わずかな距離のところでふわふわと浮いていた。

 優子の声はとても乾いていた。彼女はそれを僕に悟られまいと努めているような印象を受けた。そして啓奈のことをどう思っているのか知りたいと言った。思っていたとおり、話というのは啓奈のことだった。
「まだ自分でもよくわからないんだ」僕はそう言ったあとでひどく後悔した。それはまるで自分の声ではないような気がしたのだ。
「ねえ」と優子は言った。「まだわずか2ヶ月足らずだけどね、私にはわかるの。あなたと啓奈は、あなたさえその気になればとてもうまくいくの。誰もがうらやむくらいに、ね」
 僕は少し考え、あまり深刻な口調にならないよう細心の注意を払いながら、そうだろうかと言った。
「あなたがそれにまだ気づいていないだけなのよ」
 いったいどんな根拠があって、優子はこんなことを言っているのだろう。僕には啓奈とうまくやっていけるとはとても思えなかった。僕と彼女とではあまりに違いすぎた。文字どおり、トヨタカローラとロールス・ロイスくらいのひらきがあるのだ。
「ねえ、あなたは何を気にしているの?」
 僕はそのとき、僕の中にある“染みのようなもの”のことをよほど話してしまおうかと思った。話してしまったほうが僕自身楽になれるということはわかっていた。
 しかし僕がひとことそれを口にすれば、啓奈も僕も、やがては優子や岸本までもが深い混乱の中へ迷い込んでしまうだろうということもわかっていた。そして4人の関係を取り返しのつかない状態におとしいれてしまうだろうということも予想できた。それ以前に、その“染みのようなもの”の実体をうまく彼女たちに伝えられるかどうかさえもあやしいものだった。僕自身が把握しきれていないものをむやみやたらと口にしたところで結果は知れている。まったく別の種類の、手に負えない誤解を招くだけだ。
 僕は長いあいだ考えたあと、よくわからないとだけ言った。彼女が小さく息を吐きだすのが聞こえた。
「あなた、啓奈の気持ちはわかっているわよね? あの子はね、簡単に人を好きになる子じゃないのよ。知ってた?」
 僕は知らなかったと答えた。
「私たち2歳のころからずっといっしょだから、そういうのって経験的にわかるの。あなたももう感づいていると思うけど、あの子はものすごく敏感な子なの。直感なのか霊感なのか、それとももっと別の次元のものなのか私にはわからないけど、とにかく怖くなるくらいにね、わかってしまうのよ、あの子には。たとえば自分にとって害のない人間かどうかだとか、この先どうなるかだとか、そういったことがね。信頼できる人間とそうでない人間を瞬時しゅんじに感じ取ってしまうの」
「それは、もしかして超能力?」
「冗談を言っている場合ではないと思うけど」彼女はたしなめるような口調でそう言った。「でも、もしかしたらそうかもしれない。今までも、あんなに素敵な女の子だから言い寄ってくる男は数え切れないくらいにいた。だけどあの子にはわかってしまうの、いろんなことが。だから言い換えれば、彼女はとても可哀相だった」
 僕はわかるような気がすると言った。
「啓奈からきつく口止めされていることなんだけど」と彼女は言った。「あなたならかまわないと思う。状況が状況だけにね。以前ね、何度か私と岸本君と彼の友達とそれから啓奈とでダブルデートをしたことがあるの。その中のひとりにとても素敵な男の子がいたのね。17歳のときよ。そのころ私たちは啓奈の恋人を見つけることに夢中になっていたの。とんでもないおせっかい焼きだと思われるでしょうけど」
 僕は無言で頷いた。
「岸本君もその男の子のことを信頼していたし、私にもとてもいい人に思えた。岸本君がいなかったらこの人でも、なんて思ったくらい。そのくらい誠実で優しくて、今度こそうまくいけると思っていたの」彼女は小さく咳払いをした。「ところが、別々に行動しようということになったとき、啓奈は気乗りしない様子だった。もともと彼女、私たちのおせっかいをあまり歓迎していたわけではなかったんだけど、でもこのときだけは自信あったの、私たち。だって、文句のつけようのない人なのよ。ルックスもよかったし――まあ、それはあまり関係ないけどね。それで、結局ふたりっきりにしちゃったの。彼女は最後まで渋っていたんだけど、今度こそ啓奈の思い違いだって、半ば強引に・・・・」
 彼女は話の展開を示唆しさするかのように押し黙った。それから、啓奈には今でも申しわけないことをしたと思っていると辛そうに言った。「思いもしなかった、彼女があんな目に遭うなんて。彼、啓奈をホテルに連れ込もうとしたの。わたし、泣いて謝った。謝ってすむことではないのはわかっていたけど、そうするしかなかった」
 僕は目を閉じてゆっくりと息を吐き出した。それから唇を噛んだ。
「でも、彼女はとても優しかった。いいよ、気にしないでって。私が不注意だったのだからって。顔まで殴られてたのに。でも、岸本君は彼のことを許さなかった。私や啓奈が停めるのも聞かず、彼を殴ってしまったの。それも一度や二度じゃないの。もとの顔がどんなだったかもわからなくなるくらい。おかげで彼は一週間の停学処分を受けるはめになったの。それも、啓奈のおかげで一週間ですんだんだけど」
 彼女はふうと大きく息をついた。
「啓奈はなぜそんな男とふたりきりになってしまったんだ?」僕は言った。「そうなることが彼女には予想できたんじゃないのかな?」
「ちょっと待って。あなた、そんなこともわからないの?」彼女はあきれたように言った。「そんなこと、私たちを傷つけたくなかったからに決まってるじゃない。彼女ひとりでなんとか処理しようとしたからでしょうが。ただ彼女の思っていた以上に彼が強引だった、それだけよ」
 僕は送話口を離して、彼女に聞こえないようにもう一度ため息をついた。優子も呼応するかのように深いため息をついた。
「言いたいことはもうわかったでしょう? そんな啓奈の頭の中が今はあなたのことでいっぱいなのよ。もう正直に言っちゃうけど、最初からあなたと啓奈をくっつけるつもりだったの。岸本君が気に入るのなら可能性はあると思ってね。りないのね、私たちって。ううん、もちろん啓奈が気が進まないようだったら、あのときのように強制はしなかった。あんなことはもう二度と起こってほしくないから。内緒にしてたのは悪かったと思ってる。勝手なことだって言うのならそれも謝る。でも、啓奈がこんなに夢中になるなんて私たちだって思いもしなかったの。だから確信したの、今度こそうまくいくって」 
 はっきり言って、僕の手に余る問題だった。僕には啓奈を幸せな気持ちにすることなんてできない。到底不可能なことなのだ。そのことに優子は気づいていない。いや、あえて無視しているのか。どうして僕と啓奈がうまくやっていけるなどと思うのか。そんな途方もない考えがいったいどこからやってきたのか。僕は不思議でならなかった。
「私の言っていることはわるよね?」
「わかるよ。だけど――」
「だけど、何なの? 啓奈のことが嫌い?」
「そうじゃない」
「だったらなに?」
「僕にはよくわからないんだ」
「なにが? わからないことがあるならはっきり言いなさいよ。なんでも教えてあげるわよ」
 彼女の声には苛立いらだちが混じりはじめていた。そして会話が途切れると重苦しい沈黙が細い線を伝わってきた。それは鉄のように冷ややかで、針のように鋭い沈黙だった。
「話が早急すぎるんだ」僕は話の矛先ほこさきを変えるつもりでそう言った。
「確かにそれはそうだけど」
「まだ知り合って2ヶ月と経っていない。好きとか嫌いとか――」
「私にはわかる。あなたも啓奈の気持ちに負けないくらい彼女のことが好きなんだって」
 彼女の口調はまるで暗示をかけているかのようだった。僕へ、そして彼女自身へ。
「僕にはまだ、ほかにもわからないことがたくさんある。あまりに多すぎて、どこまでわかっていてどこから先がわからないのかもはっきりしない」
 彼女は無言だった。この沈黙に果たして耐え切れるのか、僕には自信がなかった。 
「気を悪くしないで聞いてほしい」と僕は言った。「たとえば、君たちを取り巻いているような何不自由ない生活というのは、僕にはわからない。それから、女の子目当てで働きに来ているバイト先の連中が何を考えているのかわからない。君が僕と啓奈のことでここまでむきになる理由もよくわからない。なによりも、君がそこまで言う啓奈がどうして僕なんかに興味を持つんだ? だから――」
「だから?」彼女はふたたび僕の言葉をさえぎった。「そんなの簡単なことじゃない。あなたという人間がきちんとした人間だからでしょうが。ほかに何があると言うのよ。嘘をつかないし、自分に正直だし、人の痛みを知っているし・・・・何よりも、しっかりしたあなた自身を持っているからじゃない。そんな理由では人を好きになってはいけないの?」
「ちょっと待って」僕は思わず言った。「やっぱりそう。みんなとんでもない誤解をしている。そんなふうなことを言われたのは初めてだよ。僕はそんな立派な人間なんかじゃない。嘘をついたことがないわけでもないし、自分自身がどういった人間でこれから先どこへ行こうとしているのか、それさえもわかっていない。だいいち、わずか2ヶ月足らずで人間のそんなところが理解できるわけが――」
「わかったようなことを言わないで」彼女はたがが外れたかのようにいきなり怒鳴った。僕は唖然となって宙を見つめた。なぜ優子は腹を立てているのだ?
「何もわかっていない。あなた、ほんとになにもわかってない」優子は消え入りそうな声で繰り返した。「啓奈が、彼女がどれだけ悩んでいるかなんて、あなたは考えたこともないでしょう」
「彼女が悩んでる?」
「彼女がそんなこともわからないであなたのことを好きになると思う? あなたがそんなふうに思っていることも啓奈にはわかってるのよ。それで毎晩悩んでいるんじゃない。彼女にはわかってるの、自分が特殊だってことくらい」
 僕の中でパチンという何かがはじける音が聞こえた。
「あなたを含めた男性みんな、啓奈と知り合うことによって今のあなたのように勝手に思い込んで勝手に自信をくしてしまうことくらい、十分過ぎるくらいわかってるのよ、彼女には。それがどれほど辛いことか、あなたにはわかる? でも、それは彼女が悪いわけじゃない。彼女は誰の欠点も責めたりなんてしない。高飛車たかびしゃな態度もとらない。でしゃばるわけでもなければ、自分のひいでた能力をひけらかすこともない。岸本君と話したことがあるの、彼女は生まれたときからそういった種類の人なんだって。彼女は選ばれた人間なんだって。地球が滅亡するときなんかには真っ先に月なり火星なりに逃げることのできる人なのよ、啓奈は。だけど、啓奈は決しておごり高ぶったりなんてしない。彼女はいつも温かで優しいよ。私だって大好きだもの。本当に選ばれた人って、奢り高ぶったりなんてしないものなの。だから選ばれるの。そして、啓奈はあなたも知らないあなた自身を見抜いたの――だから! だから、あなたのことを好きになったのよ・・・こんな、優柔不断で勇気のない男のことを・・・」
 彼女は泣いていた。まるで自分事のようにむせび泣いていた。僕には彼女の泣く理由がわからなかった。いくら考えてみてもわからなかった。そして、その理由を僕が知り得たところでどうにかなるものでもなかった。僕の中の“染みのようなもの”がすでにはじけてしまってからでは・・・。

 たしかに、優子の言うとおりなのかもしれない。僕は長い電話を切ったあと思った。啓奈が僕に対して好意を抱いてくれていること、僕も同じくらいに、いやすでにそれ以上に彼女のことを好きになってしまっているという事実・・・。何も気に病むことはないのだ、優子はそう言った。なぜ素直に自分の気持ちに従わないのか、と。ひょっとすると、そうすることが僕にとっても正しい道なのか、僕自身そう思いさえした。
 でも、僕にはできなかった。僕は僕という人間が啓奈の愛を受け入れることを許さなかった。僕という人間が彼女の優しさにおぼれることを許さなかった。そして何よりも、僕自身がそこなわれていくことに我慢ならなかった。
 啓奈というひとりの女性との出会いは、僕にとって一生を通しても二度と巡り合うことのない経験だったのかもしれない。彼女と過ごした日々はごくわずかだったけれども、彼女は僕に多くのものを与えてくれた。それは僕を圧倒し凌駕りょうがし、時には畏怖いふさえ抱かせ、そして駆逐くちくした―――いや、言い換えよう。僕は完全に沈みこんでしまう前に手を引いたのだ。
 啓奈とふたりきりでいると、僕はまるで超大国に四方を囲まれた発展途上の小国の王になった気分だった。彼女を見ていると、今までの僕の人生がものすごくつまらないものに思えた。僕が今まで大事に抱え込んできたものが急に色褪いろあせてしまったかのように感じた。その思いは日増しに強まっていった。僕にはそれを止められなかった。そして、ある日僕は悟った―――僕が彼女に与えられるものは何もないのだ、と。
 僕が彼女と出会って、彼女から得た最大のものは“自己の認識”だった。それは今までの僕の価値観を根底からくつがえしてしまうほどのものだった。新たに根づいた価値観は僕を途方に暮れさせた。このときほど自分の存在がいかに無価値で、自分の行いがいかに無意味かと思い知らされたことはなかった。僕はひどく傷つき、ひょっとしたら二度と立ち上がれなくなるのではないかと思った。
 僕はいたって普通の人間である。他人よりひいでた外見的特長があるわけでもなければ、極端に醜いわけでもないと思う。他人に自慢できるほどのこれといった特性もなければ、特別劣っているわけでもない。マクロな観点から見れば、スポットライトを浴びる器ではない。性格的にも多少かたよりは見受けられるかもしれないが、それでもおおむね平均的だと思う。二十歳の誕生日を3ヶ月後に控えた、ごくありきたりの人間なのだ。
 そんな僕にとって彼女の存在は、いわば“奇跡”だった。毎日が驚異の連続だった。きら星のごとく輝く知性、控えめで端正たんせいな立居振舞い、時折見せるあどけなさ、それと裏腹の大胆さ、心根からあふれだす優しさ、思いやり、そして愛情・・。そのどれをとっても僕を驚愕きょうがくさせないことはなかった。彼女のそういったものに触れるたびに僕は胸をときめかせ、打ち震えた。凄まじいほどの流れだった。僕はその流れを全身で受け止め、心地好さに酔いしれた。
 しかし、それも長くは続かなかった―――と言うより、ほんの束の間の出来事だった。僕の身体は彼女の流れを完全に受け止めていたわけではなかった。それは少しづつ僕の身体を侵食し、こぼれ落ちる量は日増しに増えていった。僕のキャパシティが敵わなかったことも要因のひとつだと思う。しかし僕が支えきれなかった本当の理由は、その“クォリティ”にあった。
 僕が本当の優しさだと思っていたものは本当の優しさなどではなかった。僕が信じて疑わなかった勇気は水面みなもに映った虚像だった。僕が抱き続けた――ささやかだけれども意外と強固な(そう思われた)―――誇りは、薄氷はくひょうの上の僕自身だった。
 気がついたとき、僕の手元には何も残っていなかった。僕は自分の意思で立っていることもかなわないほどぼろぼろになったいた。それが限界だった。皮肉なことに、僕はそれを――僕と啓奈のことをほかの誰よりも気遣きづかってくれた優子自身によって思い知らされたのだ。 







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