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How 'bout Us
作:H.RcGoon



第二部 第四章


 千恵子のマンションを出たあと、僕は近所のスーパーで買い物をして自分の部屋へ帰った。簡単な中華丼を作るつもりだったのだが、部屋に戻ってみるとそれほど腹が減っていないことに気づいた。
 スーパーの紙袋を流し台の上に置き、ベッドに身体を投げ出した。奇妙な疲労感が全身を包みこんでいた。何もしたくなかったし、何も考えたくなかった。眠れるものならこのまま眠り込んでしまいたかった。しかし、僕の頭は完全にえ切ってしまっていた。
 頭の中では、千恵子が最後に言った台詞が念を押すかのように何度も繰り返していた。『あなたはやっぱり私の思ったとおりの人だった』。思ったとおりの人だった・・・・。
 彼女の台詞には二通りの意味合いがこめられていた――いや、実際に彼女が言いたかったのは、そのどちらか一方なのだろう。しかし、僕にはわからなかった。いくら考えても、彼女が伝えようとしたものがどちらなのか、僕にはわからなかった。

 陽がすっかり落ちてあたりを薄闇が包みはじめたころ、開け放しの窓から冷たい風が吹き込んでくると同時に電話が鳴った。
「元気にしてる?」と啓奈は言った。
 僕は彼女の声に奇妙な懐かしさを覚えながら返事は曖昧あいまいに濁した。
「なにかあった?」
「どうして?」
「ん――岸本君と約束していたでしょう?」
「忘れてた」
「岸本君、心配していたよ。約束をすっぽかすようなやつじゃないのにって」
「ああ」
「体調が悪いの?」
「そんなことはない」
「どこか別のところが調子悪いのね?」
 僕は答えなかった。
「今から行くわ」
「今は――いや、なんでもない」
「なにか食べたいもの、ある?」
「特にない」
「ん、わかったわ。三十分くらいで行けると思う。待ってて」
 彼女は電話を切った。僕は受話器を戻すと台所へ行って湯を沸かした。それから濃いめの紅茶を作り、窓辺に座って飲んだ。どこからかウィントン・マルサリスのトランペットの音色が聞こえた。その音色に乗って甘ったるいクリームシチューの匂いが漂ってきた。彼女がやってきたのはそれからきっかり三十分後のことだった。
 彼女はスーパーの紙袋を抱えていた。そして流し台の上の別のスーパーの紙袋を見つけた。
「なんだ、ちゃんとお買い物してきているじゃない。これ、いま買ってきたの?」
「2時間くらい前」僕はふたたび窓辺に腰を降ろしながらそう答えた。
「ふうん」彼女は紙袋の中をのぞきこんだ。「ね、なにを作ろうとしていたのか当ててみせようか? えっと、キャベツとタマネギと・・・鶏ガラスープの素?・・・ま、いいや。それからきくらげと豚肉・・・。ふむ、中華料理ね?」
「中華丼だよ」
「あ、なるほど。じゃ、それ作るわ」
「いいよ。今あんまり食べたくないんだ」
「……そう」
 彼女は紅茶をれ、僕の隣りに座ってゆっくりと時間をかけて飲んだ。僕は深い紺色の空を眺めながら、時折煙草を吸った。マルサリスはすでに演奏をやめ、クリームシチューの夕食はとっくに終わったようだった。かわりに小さな雨が落ちてきていた。夜を通して降り続くかのような静かな雨だった。そして、その雨のような沈黙が部屋の中にも積もっていった。 

「ねえ」長い時間が過ぎたあと、彼女は言った。「わたし、なんだかおなか空いちゃった」
 僕はあまりにこの場にそぐわない台詞にびっくりして彼女を見た。彼女は膝を抱えて座り、身体を小さく前後に揺すっていた。瞳は焦点をぼかしたまま狭いベランダの一点に据えられていた。
「ケーキは食べたんだけどね」彼女はベランダに視線を向けたままそう言った。
 僕は思わず微笑んだ。「だったら、最初からそう言えばいいのに」
「タイミングをはずしちゃったの」
「勝手に使ってかまわないよ、大したものはなんにもないけど」
 彼女は身体の動きをピタッと止めて僕を見ると、にっこりと微笑んだ。「よし、じゃ作ろう」
 彼女はすくっと立ち上がって鼻唄混じりで台所に行った。僕は彼女の背中を眼で追いながら、ふたたび笑みを漏らした。
 彼女はまず丁寧ていねいに米をいでご飯をしかけ、鍋に水をはって火にかけた。それから彼女が抱えてきた紙袋から中華ハムを取り出し、だしを取るために小さく刻んで鍋に入れた。次に乾燥きくらげを水にさらし、キャベツとタマネギとニンジンを切り、万能ネギを刻み、豚肉を小口切りにした。湯が沸くと鶏ガラスープの素を溶き、塩コショウして醤油を二、三滴たらし、そこへ刻んだ万能ネギを浮かべた。
 彼女は二つのマグカップを持って戻ってきた。「はい。ご飯が炊けるまでこれでも飲んでいて」
 僕たちは窓辺に座ってそのスープを飲んだ。
「中華ハムなんて、いったい何を作るつもりだったの?」
「ないしょ」
 炊飯器のスイッチが切れると、彼女は別の鍋でふたたび湯を沸かした。湯が沸くまでのあいだに中華鍋で肉と野菜をさっと炒め、そこへ先ほどのスープを加えて軽く煮込んだ。新たな鍋に湯が沸くと、青梗菜ちんげんさい(これも彼女が買ってきていた)をさっとでてから一口大に切り、細切りにした中華ハムと混ぜ合わせ、胡麻油と豆板醤とうばんじゃんをベースにしたたれでえた。そのあと中華鍋のほうへ片栗粉を溶き、溶き卵を回し入れた。これで簡単な中華丼のあんが完成した。この程度の材料でこれといった特別な作り方があるとは思わないけれど、彼女の作り方はまったく僕と同じだった。
「君がこんなにも手際よく料理ができるなんて思ってもみなかったな」
「あら、そんなに感心していただくほどのものは作っておりませんわ」
「でも、金持ちの家ではこんなことはみんな召使いがやるものだと思っていた」
「その台詞は聞き捨てならないわね。私だって普段のお食事くらいは作れるわ」
「家でも作っていたの?」
「もちろんよ。私だってひとり暮らしなんだから」
「てっきり君専用のコックさんがいるものだとばかり思っていた」
「まさか。信じられないかもしれないけど、けっこう好きなの、わたし」
「へえ。ほんとに信じられないや」
「あ、失礼なやつ」
 彼女は本当に何を作る気でいたのか、真空パックされた烏龍茶まで用意していた。食事が終わると、彼女はそれを急須きゅうすで煎れてマグカップに注いだ。僕の部屋に烏龍茶を煎れるためのボーンチャイナの湯呑みセットなどあるわけもなく、これはいたしかたなかった。
 僕と彼女はふたたび窓辺に腰を降ろして、静かに降り続く雨を眺めながらゆっくりと烏龍茶を飲んだ。
「岸本と優子は?」僕はふと思いついてそう訪ねた。「いっしょだったんでしょ?」
「帰ったよ」彼女は穏やか笑みを浮かべて僕を見た。「ケーキを食べたあと」
 僕の顔は自然とほころんだ。「岸本がケーキなんてめずらしいな」
「ううん、岸本君は知らない」と彼女は言った。「今日は別々だったの、彼女たち」
「え?」
「あ・・・」
「岸本とは会っていないの?」
 彼女は無言のまま頬をほんのりと染めた。
「だったら、どうして僕が約束をすっぽかしたことがわかったんだ?」
 彼女は居心地いごこち悪そうに身体を揺すった。
「どうして?」
「・・・いいじゃない、そんなこと。気にしないで」
 僕は納得がいかなかったけれども、彼女が答える意思のないことをはっきりと感じたので、それ以上追求することをやめた。それから僕と彼女は黙ってお茶を飲んだ。
「ねえ」彼女は心なしか甘えるような声で言った。「今夜も泊まっていい?」
 僕は息を止めて彼女を見た。
「ううん、心配しなくても今夜はせまらないから」彼女はそう言うと、僕の右腕に手をかけた。「ね、いいでしょ?」
「じゃ、今日は別々に寝ような」
「どうして?」
「睡眠不足になるから」
「えーーっ!」
 彼女は小さな声で悲鳴を上げながら両手で頭を抱え込んで、いくぶん大げさに驚いてみせた。考え込んでいるあいだ、彼女の細い人差し指が柔らかい髪の毛の中でゆっくりとリズムを刻んでいた。不意に彼女は顔を上げて僕のほうを向いた。その彼女の顔に笑みはなかった。かわりにかなり真剣な瞳があった。
「だったら、私が絨毯じゅうたんの上に寝る」
「だめだよ。君がベッドで寝ればいいんだ」
「いやよ、そんなの。あなたのベッドなのに」
「遠慮することなんかないさ。予備の毛布くらいあるんだから」
「じゃ、その毛布捨ててくる」
「な――ちょ、ちょっと」
 僕は彼女を追って慌てて立ち上がった。彼女はかまわずクローゼットの前まで行くと、開き戸に手をかけた。僕は咄嗟とっさに彼女の手を掴んだ。彼女は唇をかたく結び、僕を見た。
「ちゃんとベッドで寝てくれる?」
 僕は眼を閉じてため息をついた。「けっこう極端なことをするんだね」
「驚いた?」
「わかったよ」僕は何度も頷きながら言った。「君の言うとおりにする」
 彼女はしばらく硬い表情で警戒したあと、途端に顔いっぱいの笑みを浮かべた。「じゃあ、いっしょに寝ましょうね」 

 彼女の微かな寝息が聞こえてくると、僕は彼女を起こさないようにそっとベッドを抜け出した。彼女は軽く握った左右の手を顔の前に置き、とても安らかな寝顔をしていた。口元にはうっすらと笑みさえ浮かんでいるように見えた。僕はしばらく彼女の寝顔を見つめたあと、煙草を持ってベッドを離れて窓辺に腰を降ろした。
 煙草に火をつけてゆっくりと煙を吐き出し、ぼんやりと暗い夜空を見上げた。僕はやっぱり眠ることができなかった。しかし、今夜は啓奈が隣りにいるからではなかった。千恵子が言った台詞のことをふたたび考えはじめていたのだ。
 偶然にも僕と千恵子は互いの存在を知るところとなり、それぞれの中にある何かを確認した――そう、僕は千恵子と出会って何かをかなりはっきりとしたかたちで確認したのだ。その証拠として、僕の中には明らかに何かがしるされていた。それは小さな“みのようなもの”で、なんだかおろしたての真っ白なシャツに小さなインクの粒を落としてしまったように思えた。目をらして見なければわからなかったが、それは確かにそこにあった。シャツはすでに真っ白なシャツではなくなっていた。
 啓奈が今日ここへやってきたことは、本当にただの偶然なのかもしれない。僕と啓奈のあいだにはキスより先の関係はまだなかったが、それでもかなり急速に次の段階への距離を縮めつつあったし、ふたりともすでにお互いの気持ちを理解しているはずだった。彼女が今夜泊まりたいと言ったことは、誰もが人を好きになった直後に抱く、一時もそばを離れたくないという感情にき動かされただけなのかもしれない。
 しかし、僕にはそれだけだとはどうしても思えなかった。第一に、彼女は僕が岸本との約束を反故ほごにしてしまったことをなぜ知っていたのだろう。第二に、あまりにタイミングのよすぎた電話。そして第三に、彼女には僕の調子があまりよくないことが最初からわかっていた。そのため彼女はこの部屋にやって来たときから僕に対してずいぶんと気を使っていた。僕が自力で立ち上がるのをそばで温かく見守っていてくれたのだ。僕はそんな彼女を見ていて、なんだかとても哀しい気持ちになった。そして、その哀しみと僕の中にしっかりと記された“染みのようなもの”がどこかでつながっているということをはっきりと感じた。
 このまま彼女との関係を、それこそ時の流れるままに続けていって果たしてよいものなのだろうか。彼女は本当に心の優しい素敵な女性だ。人並はずれた勇気と知性も持ち合わせている。今の僕のことをもっとも理解し、気遣きづかってくれているのも彼女だ。その彼女に対して、僕は何をしようとしているのだろう・・・いや、果たして何ができるのか。なぜ彼女はこんな僕のことを・・・。
 いくら考えてもわからなかった。僕の中で何かが深く沈み込んでしまったような気がした。それは決して手の届かない位置までもぐり込み、あたかも深層水しんそうすいのように漂っていた。そして、闇に浮かぶほのかな火が煙草の巻紙を焦がしていくように、その“染みのようなもの”はゆっくりと僕の中で拡がりつつあった。 







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