How 'bout Us(7/53)縦書き表示RDF


How 'bout Us
作:H.RcGoon



第二部 第三章


 二年前、京都の小さな街の高校を卒業したとき、千恵子はまだなにも知らない女の子だった。成績はかなり優秀なほうで、周囲が寄せる期待も大きかった。第一志望は地元の国立大学だったが、その大学を不合格になると彼女はそっと胸を撫で下ろした。その大学を第一志望に選んだことは決して彼女の本意ではなかったのだ。
 三つの合格校のうち彼女が選んだ大学は最初あまり周囲の賛同を得られなかった。家族や担任の教師はその三校の中でもっとも総合的に偏差値の高い私立大学をすすめた。それでも彼女は自分の意思を押し通して、二番めにランクが高く、かつ語学教育に定評のある今の大学を選んだ。ひとつのことをやり遂げ、初志を貫いたことで彼女は十分に満足だった。
 高校の修学旅行でしか訪れたことのなかった東京の街は、彼女にとって新鮮な驚きだった。生まれ育った街にも同じようなものはいくらでもあったはずだが、それでもどこかが違っているように思えた。すべてが輝いて見えた。ショウ・ウインドウに飾られた素敵な洋服はなんだか別世界への通行切符のようだった。小さな店先で手にしたコーヒーカップは、幼いころ見た絵本の中から飛び出してきたような不思議な魅力にあふれていた。
 街行く人々は誰もが向上心に満ち、夢を追い求める資格を与えられた選ばれし者のように見えた。自分がその一員になったことを実感し、涙がこぼれた。ビルの隙間すきまを縫うように走る高速道路も、うんざりするほどの渋滞を引き起こしてしまうおびただしい交通量さえも、彼女にとっては大都会で生活しているという自覚、この中で勝ち抜こうとする勇気をふるい立たせることに一役かった。
 引越の荷物を解いているとき、これから四年間――いや、その先もずっとこの街で過ごすことを想像しただけで、自然と笑みがこぼれた。そういった感情のたかぶりは、都会で――とくに東京で生まれ育った人たちにはおそらく一生味わうことのできない、人生という過程において一段階ステップアップした自分を認識させてくれた。 
 彼女には将来通訳の仕事にきたいという夢があった。そのため英文科に入学し、第二外国語でフランス語を選択し、ドイツ語の夜間学校まで通った。並行して三ヶ国語を学ぶということはあまりに無謀むぼうかとも思えたが、彼女にはやり抜く自信があったし、なによりも時間が惜しかった。大学での四年間はあっという間に過ぎてしまうだろうし、そのあいだにやっておきたいことはきっと山ほどあるに違いないと思った。言語学は以前から彼女のもっとも得意とするところだったし、その言語学を通して外国の未知の文化に触れることは至福しふくの喜びに近いものがあった。
 彼女の最初の危機はドイツ語の夜間学校の担任講師によってもたらされた。彼女と五歳しか違わないその男は、入学してきたばかりの千恵子にすぐに心惹こころひかれた。いつもいちばんに教室に入り、最前列に座る。ひとことも聞き逃すまいと正面を見据みすえた輝きに満ちた彼女の瞳を見ていると、講師は授業中にもかかわらず時として言葉を失った。
 彼女のほうもいつしか講師のことが気にかかるようになった。彼女にとってはドイツ語を流暢りゅうちょうに話せるというだけでも十分に憧れの対象となりえた。寝つきの悪い夜などには決まってその男のことが脳裏に浮かんでくるようになった。
 休日をいっしょに過ごすことが多くなり、大学と夜間学校とのわずかな合間にも近くのレストランなどで時間をともにした。そんなときふたりのあいだには必ずドイツ語のテキストが広げられていたが、それが本来の役割を果たすことは滅多めったになかった。
 そして六月のある雨の夜、駅へ向かう途中で男が追いついてきて声をかけたとき、彼女は頬を染めて頷いた。
 わずかな期間で講師とのあいだに築かれた信頼感は、とてもささやかで心許こころもとないものだったが、彼女にしてみればそれは異性に対する愛情から生まれたほとんど初めての信頼感と言ってもよかった。そう信じて彼女は疑わなかった。
 彼女はその講師のことを愛していると思った。近い将来、彼に抱かれることをかなりはっきりと予感した。心の準備はできていた。ヴァージンだということに幾許いくばくかの恥ずかしさがあったし、もちろん恐怖感もあった。しかしそれ以上に、今まで感じたことのないほどの期待感を抱いていたことも事実だった。実際、彼が案内したイタリア料理の店では、満足に食事がのどを通らなかったのだ。
 本来が酒に強いわけではなかった彼女を正体をくすほど酔わせてしまうことは、男にとってそれほど難しいことではなかった。食事の際のグラスワイン一杯とホテルのバーでのカクテルが三杯もあれば十分だった。彼女は不覚にも自分のアルコールの許容量を見誤った。もしかすると男のほうに余計な誤解と策略があったのかもしれない。彼女は男にすすめられるままウォッカベースのいろどりの美しいカクテルを三杯飲んで意識を失った。

 翌朝目が醒めたとき、彼女の頭にはひどい頭痛があった。まるで区別をつけるためにきちんと色分けしてあったファイルというファイルすべてを乱暴に引きずり出され、そこに黄色の絵の具をぶちかれてしまったかのような気分だった。何かを考えようとしても、たったひとつの単語さえもうまく組み立てることができなかった。ためしに自分の名前を口に出して呼んでみたが、それはまったく自分の名前のようには聞こえなかった。
 下半身に刺すような痛みと違和感を感じてシーツをめくったとき、自分が一晩じゅう意識を失っていて、そのあいだの出来事を何ひとつとして覚えていないということ、結果としてすでにヴァージンではなくなってしまったということを悟った。
 彼女は下半身だけをすっかり裸にされていた。薄手のセーターがたくし上げられ、ブラジャーはホックをはずされた状態で肩に引っかかっていた。スカートと下着はベッドの脇の床に投げ捨ててあった。ストッキングは彼女が部屋を出る直前に、びりびりに裂けた状態でごみ箱の中から見つかった。そして、彼女の性器には血がこびりついたままになっていた。
 気をしっかり持とうとしてベッドの上で激しく頭を振った。何度も何度も、首がちぎれてしまいそうなほど振った。いつしか涙があふれていた。私は彼に抱かれることを望んでいたし、期待もしていた。後悔する必要なんてちっともないんだ。何度も同じ台詞を頭の中で繰り返した。彼を愛しているのだと信じ込もうとした。しかし彼女にはできなかった。やり場のない怒りと悲しみが彼女を襲った。
 サイドテーブルの上には彼のメモが残されていた。ゆっくり休んで出るといい、といった内容だった。彼女はそれをくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。いくらなんでもひどすぎる、そう思った。
 やっとの思いでベッドを抜け出しシャワーを浴びたあとも、その思いは消えなかった。彼を愛していると信じようとすればするほど、彼の思いやりのなさに対して、男という生き物の無神経な粗暴そぼうさに対して、そして意識を失いそれらにまったくあらがうことをしなかった自分に対して、どうしようもないほどの怒りがこみ上げてきた。彼の取ってつけたような見せかけの、思いやりの素振りに無性に腹が立った。
 フロントで鍵を返却するころ、彼女の中で講師は憎しみの対象へと変わっていた。意識を失っているあいだに好き勝手にもてあそび、レイプされたあととさほど変わらないような状態のまま彼女ひとりを残し、平気で出て行った男・・・。
 その日、彼女は夜間学校を休んだ。一日じゅう体調が回復しなかったせいでもあったが、とにかく彼と顔を合わせたくなかった。顔を合わせるのが怖いとも思った。夜遅く、彼女の部屋の電話が鳴った。受話器を取らずにやり過ごした。一度切れたあと、またすぐに鳴り出した。三回繰り返された。彼からの電話であることはほぼ間違いなかった。一応私のことを心配してはいるのだ。いや、思いやっていると本人が思い込んでいるだけなのだ。今朝の私の姿に、そしてあのホテルの部屋の有り様に、本当の思いやりや優しさといったものは微塵みじんも残されていなかった。 
 彼女は翌日もその翌日も部屋から出なかった。両脚の付け根に異物を差し込んだような違和感は未だ消えていなかったし、うずくような痛みと出血が続いていた。四日めに目が覚めてみると、痛みは消えていたが、そのかわりに両方の頬に醜い吹き出物がいくつもできていた。身体の劇的な変化にホルモンの分泌がバランスをくずしたようだった。食べ物を口にすると、必ず吐いた。身体が妙にけだるく、水を含んだ綿になってしまったような気がした。一日じゅう何をするともなく、ごろごろとして過ごした。
 一度に押し寄せたさまざまな変化に身体が馴染なじむまで、彼女には十分な休息が必要だった。第一に、自分の身体がヴァージンからヴァージンでなくなったということ、第二に、世の中の優しさには自分の予測もつかないほどの種類と段階が存在するということ、第三に、信じきっていた自分の愛は思ったほど信頼のおけるものではなかったということ――そんなことをぼんやりと考えながら、彼女はあとの一週間を静かに過ごした。
 彼女を抱いた次の日、男はふたたび電話をかけてきた。とても心配している、今すぐ会いたいと彼は言った。彼女はひとことも喋らずに電話を切った。彼はひどく腹を立てているだろう、と彼女は思った。なぜ自分が避けられているのか、おそらく彼には理解できないはずだ。彼女の態度をあまりに不可解だとさえ思っているかもしれない。そう考えると彼女の胸はほんのちょっぴり痛んだような気もしたが、大勢に影響はなかった。
 彼女は講師のことをきれいさっぱりと忘れることにした。払い込んでしまった一年分の授業料は返還されなかったが、ドイツ語の夜間学校も辞めた。お金を払ったうえに高い代償まで払わされたような気もしたが――少しだけみじめな展開だったかもしれないけれど、それもいつかは通らなければならなかったこと、そう思ってあきらめた。彼からの電話はそれっきりなかったが、彼女は部屋を引越し、電話番号も別のものに替えた。 

 彼女自身が予想した以上に、彼女の回復は早くて確実なもののように思われた。思い出して涙をこぼすなどということもほとんどなかったし、男が夢の中に出てくるというようなこともなかった。引越して環境を変えたのがよかったのだと彼女は思った。
 元気を取り戻した彼女は早速べつの夜間学校に入学した。男のことが脳裏をよぎったが、それでもドイツ語を選んだ。思い出してしまうことがあるかもしれないが、乗りかかった船なのだ。最後までやり通すべきだ。それに、そのことが原因でドイツ語を続けることができないとしたら、永久にドイツ語をものにすることは不可能だ。彼女はそう思った。
 その年の夏は彼女にとってこれ以上ないと思えるほど充実したものだった。夏休みを利用したボストン近郊の大学への四週間の短期留学の許可のしらせが彼女の手元に届いたのは、ドイツ語の講師と別れてまもなくのことだった。そのことも彼女を勇気づけ、再出発させる大きな要因のひとつだったかもしれない。
 父親は留学に必要な渡航費・授業料・生活費等の総額を聞かされて危うく腰を抜かしそうになったが、彼女が熱心に将来の夢を語ってみせたおかげでこころよく出資を了承してくれた。彼女はその四週間で予想した以上の成果を上げて帰国した。
 九月は彼女にとって新たなスタートを切る重要な月だった。秋の訪れとともに彼女はすっかり立ち直り、何もかもがうまくいくと思いはじめていた。二つめの危機はその矢先に起こった。 

 十月に入って、都内の別の大学に入学した高校時代の同級生と半年振りに再会することになった。忙しさにかまけてすっかり忘れてしまっていた友人から突然電話がかかってきたときにはいささか驚いた。声を聞いただけでは五月さつきという名前すら思い出せなかった。
 それでも旧知の友人との久しぶりの会話は思いのほかはずんだ。日時を決め、会う約束をした。再会できることがとても楽しみで、胸がわくわくした。五月がどのように変わったか楽しみだったし、自分がこの半年間で上げた成果をぜひ伝えたいとも思った。
 しかし、着ていく洋服を決める段になって彼女は戸惑った。以前、母親に買ってもらったワンピースの類いは何着か持ってきてはいたが、鏡の前で最初の洋服を試着したその姿は高校時代の自分だった。彼女は愕然がくぜんとなり、あわててそれを脱ぎ捨てた。何着か試してみたが、成長のあとがうかがえる――“都内の女子大生”というイメージ(実際にそういうものがあるらしい)にふさわしいと思われる洋服はただの1着もなかった。
 そのとき彼女は、自分が大学に入ってからただの一着も洋服を購入していないことを改めて思い出した。下着類はいくつか買い足してはいたが、それ以外のものはほとんど高校時代に着ていたものばかりだった。新しく手に入れたものといえば、母親が地元で買って送ってくれたエドウィンのジーンズとラルフ・ローレンの白のポロシャツ、それと何度も捨てようとして捨てられずにいた、誕生日にドイツ語の講師からもらった大きなイニシャルのレター入りカーディガンぐらいだった。
 五月が指定したホテルの場所も千恵子は知らなかった。五月は無遠慮に驚いてみせた。彼女は五月に言われるまま住所と電話番号と最寄の駅の名前をメモし、ホテルまでのおおまかな道筋を書き取った。
 五月の言葉を借りて言うなら、そのホテルは『すっごく素敵で、とびっきりお洒落しゃれなホテル』だった。それを聞いて千恵子は、十六歳のときに出席した従姉妹いとこの結婚披露宴のことを思い出した。京都の一流といわれているあるホテルで行われたその披露宴に出席したとき、彼女は場違いなところに不相応な恰好をして紛れ込んでしまったことを痛感した。
 そのとき彼女は高校の紺の制服を着ていた。周囲を見渡しても、セーラー服を着ているホテル客なんてどこにもいなかった。披露宴に出席した自分より六つか七つ年上の女性はみな、思わずうっとりと見惚みとれてしまうような素敵な恰好をしていた。大きな花をあしらった髪飾り、きらきらと不思議な光を放つ宝石を散りばめたブローチ、レースでできた手袋、そして女性を美しく見せるための色とりどりのドレス・・・・それにひきかえ、自分はなんの変哲もない、それこそ飾り気など一切ない学校の制服・・・・・。かわいらしいレースの襟のついたベルベットのワンピースを着ていた七歳の女の子のことを、とてもうらやましく思ったくらいだ。帰りのタクシーに乗り込むまで胸がきりきりと締めつけられるような気分を味わった。
 家に帰り着くと彼女は、なぜ私だけがあんな恰好でみじめな思いをしなければならないのかと母親に喰ってかかった。それを聞きつけた父親は、学校の制服のどこが惨めなのだと怒鳴った。母親も同じ思いだった。
 それでも母親は、彼女に一着の――少なくとも披露宴に着て出席しても恥ずかしくないワンピースを翌日には買ってくれた。それは白と黒のレースの襟が状況に応じてつけ替えられるようにできた黒のサテンのワンピースだった。冠婚葬祭のすべてに対応できるようにとの母親の配慮だった。披露宴で見かけた女性たちがまとっていたような華やかな雰囲気はなかったが、それでも千恵子は涙を流して喜んだ。 
 いま、私はふたたび『すっごく素敵で、とびっきりお洒落なホテル』へ行かなければならない状況に立っている。もうあんな思いはしたくない。さんざん迷った挙句、よほど母親が買ってくれたその黒のワンピースにしようかとも思った。しかしたとえ白のレースの襟をつけてみても、どう見ても葬式か何かの帰りぐらいにしか見えなかった。
 彼女は気の滅入めいる思いで二日間を過ごした。そして約束の前夜、笑われるのを覚悟のうえで五月に電話をかけてみた。五月がどんな恰好で来るのかそれとなく探りを入れてみるつもりだったのだが、五月の返事はあっさりとしたものだった。
 それを聞いて彼女は呆気あっけにとられた。それまでの二日間、自分が思い悩んできたことを思い出して思わず吹き出しそうになった。そうなんだ、なにも披露宴だとかパーティーだとかに出席するわけじゃあるまいし、飾り立てる必要なんてまったくない。普通の恰好でぜんぜん構わないのだ。よほど不潔かみすぼらしい恰好でない限り、ホテルだって嫌な顔をすることはないだろう。いや、ただお茶を飲み、談笑するためだけに訪れた二十歳かそこらの女性を、それこそ一流といわれるホテルが身なりで差別なんてするはずがない。
 彼女は一気に肩の荷が降りた思いだった。たかが友人と再会するための洋服のことで、ここまで悩んでいた自分がなんだかとてもおかしく思えた。その夜、彼女は安らかな気分で眠ることができた。

 当日、千恵子は約束の三十分も前にホテルに到着してしまった。万が一にでも迷子なんてことになって遅れでもしたら、五月は笑い転げるだろう、そう思って早めに出かけたのだ。
 しかしそこが目的のホテルだとわかると、気後れがした。入口の両脇には、裾の長い制服を着こなした男性が2人、微動だにせずに立っている。写真やテレビでしか見たことのないロンドン皇室警備隊の姿を連想した。玄関のガラスドアはぴかぴかに磨きこまれて宝石のようだし、それを透かして見えるロビーはやわらかなベージュ色の光に包まれている。なんだか別世界みたいだ、と彼女は思った。
 彼女はひとりでホテルへ入っていく勇気をふるい立たせることができなかったので、約束の時間まで近所をぶらぶらと歩いてみることにした。十分前に戻ってきて待つことにしよう。もともと時間にあまり正確な子ではないから十分もあればじゅうぶんだろう。
 十月にしては暖かな陽射しが心地好かった。のんびりとなにも考えずに歩いていると、先ほどホテルの前で気後きおくれしてしまったことも忘れることができた。大学のテキストやノート、夜間学校用の分厚いファイリングノート、高校時代から愛用のペンシルケース、財布とハンカチとティッシュペーパーなどが入ったキャンバス地の大きな袋を肩から提げ、彼女は秋の穏やかな陽射しをを浴びて晴れやかな面持ちで散歩した。とても気分がよかった。 
 約束の十分前にホテルの前に戻ると、彼女は玄関先に立っているポーターからなるべく陰になるようにして植え込みのそばで五月を待った。思ったとおり、約束の時間を過ぎても五月は現れなかった。
 五月がやってきたのは約束の時間を十五分ほど過ぎたころだった。目の前でウィンカーを点灯させた白の外車の中からサングラスをかけた女性が手を振ったが、千恵子にはそれが誰なのかわからなかった。その女性はそのまま車寄せに乗りつけるとポーターに鍵を預け、千恵子のほうへ駆け出した。近づいてくるときサングラスをはずした彼女を見て、はじめてそれが五月であることに気づいた。
「どうしたの、こんなところで? ああ、あれ? 彼の車なの」
 五月は訊ねてもいないことまで取ってつけたように説明したが、千恵子はすぐに返事を返すことができなかった。半ば口を開き、目を大きく見開いて五月を上から下まで喰い入るように見つめていた。五月に腕を取られてやっと我に返り、ひきつった笑みを浮かべた。それから引っぱられるようにしてホテルの中のラウンジに入り、案内された窓際の席に腰を降ろしてはじめて一呼吸ついた。
「どうしたの?」と五月は言った。「顔色があまりよくないわよ」
「え? うん・・・なんでもないの。大丈夫よ」彼女にはそう答えるのが精一杯だった。
 話が違う、彼女はうつろな眼差しを五月に向けながらそう思った。同級生で、大の仲良しでもあった――よく知り尽くしていたはずの五月は、いまは千恵子の知らない華やかさをまとっていた。
 五月は高校時分から流行とかにはかなり敏感なほうだったが、今から思えばやはり地方都市の一少女の域を抜け出してはいなかった。ほかの女の子と比べると相当にセンスよく自分を体現できていたのだが、それでも東京に出てきて見かける大人の女性から比べると、どこか垢抜あかぬけしてなくて野暮やぼったく思えたのだ。
 しかし、いま目の前に座っている五月は千恵子の知っている――流行に敏感でセンスもよいのだけれど、やはり地方都市特有の野暮ったさをまとっている五月では、もはやなかった。わずか半年間で千恵子にもはっきりとわかるほど五月は洗練されていた。肩幅の広いピンク色のスーツはとても高価そうで、長身の彼女によく似合っていた。薄い生地でできたブラウスは言いようもない光沢をたたえて、豊に張り出した胸をしっとりと包みこんでいる。スーツと揃いのぴったりとしたスカートは、ちょっと眼のやり場に困るくらい短い。千恵子は五月の洋服を息を呑んで見つめていた。
 彼女は今日お休みなのかしら? どこかにお出かけの帰り? それとも今からパーティーにでも出席するのかしら? さまざまな思惑が浮かんできたが、彼女はそれを口にすることはできなかった。そうではないことが彼女にもはっきりとわかっていたからだ。
 そして洋服以上に千恵子を唖然とさせたのは、五月の全身から放たれている輝きにも近い洗練された美しさだった。半年間で身につけることのできるそういった種類の雰囲気はたかが知れていたが、それでも当時の千恵子の度肝を抜くには十分過ぎた。
 今と違って当時の、それも地方に住む女子高生で化粧品を日常的に使っている子などほとんどいなかった。たまに母親の口紅をこっそり使うか、薄いピンク色に着色されたリップクリームを塗るくらいだ。卒業が近づくにつれて、大胆にもはっきりそれとわかる化粧を施して登校してくる女の子もいるにはいたが、きわめてまれな例だった。実際に千恵子も卒業式を目前に控えたある日、五月とはじめて幾種類かの安物の化粧品を買い込み、五月の部屋で互いの化粧の出来具合を寸評しあったこともある。そのときふたりは互いの顔を見て腹を抱えて笑ったのだ。
 しかし、今の五月は別人に見えた。ぜんぜん笑えない。正直に美しいと思った。それが化粧のせいだけではないことも千恵子にはわかった。素敵なスーツからのぞくまるでやすりでもかけたような手と、精密なコンピュータ制御によって鋳型いがたから取り出されたような無駄の一切ない長い脚を見れば、五月の全身がいかに手入れされているかということは、それまでほとんどそういったことに関心を持たずに生きてきた千恵子でも十分にうかがい知ることが可能だった。
 十九歳の女の子が、人の持つ内面の美しさ――みがきぬかれた知性だとか物事を追求していく勇気だとか相手を思いやる愛情の深さだとか――を正確に理解することは、それほどやさしいことではない。その倍の年齢でもあやしい。このときの千恵子のように五月の容姿にすっかり魂を抜かれた状態になっていれば、それはもう不可能に近い。だが、そのことで彼女を責めることはできない。当時の千恵子にしてみれば、五月の外見に心を奪われたとしても無理からぬことだったのだ。 

 千恵子を取り巻くそれまでの環境にさしたる問題はほとんどなかった。特別に裕福というわけではなかったが、娘の夢をかなえるためには腰を抜かしそうになるほど高額の留学資金でも惜しみなく提供してくれる父親と、女性らしい愛情に満ちた母親に、十八年間大切に育てられてきた。ほしいものがすべて手に入るわけではなかったが、不自由を感じたことは一度もなかった。普通の幸せに包まれた、どこにでもあるごく普通の温かな家庭だった。
 重要な選択を迫られた岐路きろでは、あくまでも自分の意思決定に従ってきた。高校も大学も自分で決めた。12歳のとき家族旅行で訪れたハワイで言葉の不自由さを痛感し、英語に興味を持った。英語を勉強していると、彼女は自由に自分を変えることができた。好きな外国映画のヒロインにもたやすくすり替わることができた。おかげで英語の成績は中学・高校の六年間を通して抜群だった。
 やがて将来の夢と呼べるべきものが彼女の中に芽生めばえた。その夢はどんどんふくらんでいき、揺るぎないものとなった。高校での英語の授業がもどかしく感じられることも一度や二度ではなかった。自分の進路を決めるにあたってはなんの迷いもなかった。
 大学に進むと、環境のせいもあって彼女の夢はより現実的なものとなった。自分のやりたいことも正確に把握できていたし、そのための苦労や努力も惜しんだことはなかった。
 しかしこの半年間、彼女の中でなにかが引っかかっていたことも事実だった。気の合った大学の女友達の中にいても、ESSのサークルの中にあっても、そしてただ街中を歩いているだけのときにも、それは決して消えはしなかった。それどころか、そのしこりのようなものは彼女の中でどんどん大きくなっていったが、それが何であるか彼女はまだ気づいていなかった。
 やりたいことをやりたいようにやって将来の夢に邁進まいしんする自分の姿勢に不満はなかった。夏のはじめの出来事は少なからずショックではあったが、それからも驚くほどの回復力で立ち直った。それは彼女にとって大きな自信にもつながった。でも、なにかが欠けていた。それも相当に重要ななにかが。
 真剣に夢に向かって進むとき、人は脇目など振らない。のんびりと道草を喰っている暇などないのだ。一分一秒が惜しいし、一円たりとも無駄にはできない。しかし、たまの息抜きは夢を叶えるために必要なかてでもある。疲労が溜まり硬くなった頭や筋肉をほぐしてくれる。明日の鋭気を養ってくれる。
 彼女も決して息の詰まるような毎日を送っていたわけではない。日曜日は完全に語学の勉強から離れ、それ以外の自分の好きなことに時間をてた。ひとりで映画を観に行くこともあったし、仲のよい女友達と大好きなルエル・ドゥ・ルリエールのシフォンのケーキをつつきながら、たわいもないおしゃべりに時間をつぶし、夜には決して強くない酒を飲みに行くこともあった。車を持っている友人がドライブに誘ってくれることもある。周囲の人たちから見れば、彼女の大学生活はこれ以上ないほど充実したものに映っただろう。
 彼女は半年振りに五月と再会し、彼女の変貌ぶりにひどく驚かされ、そしてそれまで自分の中で引っかかっていたもの、実は自分自身が心から欲していたものに気づいた。愚かな発想だとは思うけれど(彼女自身がそう言った)、それは“東京の女子大生”というイメージにいろどられた、五月が今まさに自らのものにしつつある“華やかさ”だった。
 東京という大都会に憧れ、その中で生きていくうちに至高の宝石へと磨かれていく自分の姿を夢見ない日はなかった。そのための手段が大学であり、夜間学校だった。しかしそれだけでは不十分だった。わかりやすく言えば、彼女は内面に磨きをかけると同時に、外見も同じように磨かれていくことを渇望かつぼうしていたのだ。
 彼女は東京で生活している人々に以前から憧れていた。なんといっても日本の首都だし、人口も多い。入手できる情報の早さ・正確さ・量、いずれをとっても地方都市とはくらべものにならない。それだけ競争率も高いから、おちおちなんてしていられない。昨日まで仲のよかった友人が今日敵に成り代わるということも十分に考えられる。仲間が落ちていくのを黙って見過ごすこともときには必要だろう。その逆の立場だってありうるのだ。人々はそんな中で日々努力を重ね、己を磨き、そして光り輝いていく。それが大都会での生活というものであり、かつ自分を高めていくには最適の環境なのだ。
 上京した当初、通学途中の駅などで素敵なスーツを着こんで足早に出勤していく二十代の女性の姿を、うっとりと眺めていることがよくあった。今でこそ通りにぼんやりと突っ立って彼女たちを見つめるなんてことはなくなったが、一日も早く自分もそうなりたいと思わない日はなかった。
 自分の知っている半年前から比べると見事な変貌を遂げた五月を目の前にしてそのようなことを考えると、今の自分の姿はみすぼらしいたらなかった。き古してすっかり白っぽくなってしまったジーンズ、どこにでもある綿一〇〇%のポロシャツ、見方によっては子供っぽくさえ見えてしまいそうな大きなイニシャルのついたカーディガン、そしてもとの白さを失って久しいスニーカー・・・。持ち物といえば、五月のルイ・ヴィトンだかなんだかのブランドもののセカンドバッグに対して、私はただの大きなずた袋・・・。化粧なんてほとんどしたこともない。たまに口紅をさす程度だ。スポーツをおこたっているせいで、高校時代よりもかなり太ってしまったようにも思える。体重計にさえこの半年近く乗ったこともないのだ。
 これでは新しい恋をしたいと思ったところで、だれも声をかけてくれたりなんかしない。それこそ、どこかの物好きに好き勝手にもてあそばれるのがおちかもしれない。ドイツ語の講師もひょっとすると、この程度の女はこのくらいの扱いでちょうどいい、なんて思ったのかもしれない。たしかに語学に対する情熱はひたむきなものがあるけれど、どこか垢抜あかぬけしなくて田舎いなかくさい世間知らずの女・・・、ちょっと優しくしてやればすぐにのぼせあがり、捨てられまいと多少のことには目をつぶってでもしがみついてくるような経験不足の女の子・・・・。
 千恵子は五月の話を上の空で聞きながら、そんなことを思ってその場を逃げ出してしまいたい気持ちにられた。ぐるぐると天井が回っていた。震えて取り落としてしまうのではないかと思うと、怖くてティカップさえ持てなかった。
 これでは私はまるで五月の引きたて役じゃない。あのウェイターの男の子だって五月のほうばかり見ている。高校時代の成績だって、現在の大学の成績だって、私のほうがはるかによいのに・・・。私は五月のように男の子とファッションと行きつけのレストランとお気に入りのシティホテルの話題はぜんぜん持ち合わせていないけど、もっともっと知的な会話をこなすことはできるわ・・・。
 でも、いくらそんなことを思ってみても無駄だ。誰も今の私のことなんて気にかけてくれやしない。私はどこにでもいる、どちらかと言えば見栄みばえのあまりぱっとしない女の子なのだ。 
 わずか半年間とはいえ、自分がひた走ってきた道が急に色褪いろあせてしまったように思えた。明るくまぶしいほどの光にあふれていたその道は、いま急激に闇に包まれようとしている。それも真っ暗で自分の存在自体も不確かなものとなってしまいそうな、そんな恐ろしい闇だ。いくら語学の勉強を頑張っていても、このままでは私が憧れているような彼女たちにはぜんぜん近づけない。それどころかどんどん置き去りにされていく。千恵子は涙がこぼれ落ちそうになるのを必死でこらえた。感受性が強くて情感豊かといってめられたこともある、どちらかといえばゆるめの涙腺をこのときばかりはうらんだ。

 結局、千恵子は自分の近況をほとんど五月に伝えることもできずに別れた。彼女の台詞は曖昧あいまいな頷きと拍子抜けした感嘆符に終始した。ただ、五月の会話の内容、口ぶりから推察すると、彼女は千恵子の伝えたかったようなことなどほとんど興味を示さなかったのではないかと思う。そう思うと、千恵子はよけいに悔しさがつのり、よけいに惨めな思いを味わわねばならなかった。
 千恵子は五月と別れてのち、まる三日間悩みぬいた。そしてひとつの決心をした。翌朝いちばんに、彼女は銀行の預金口座からすべての預金を引き出した。その金は来年留学するために実家からの毎月の仕送りの中から少しづつ貯めてきたものだった。高校時代に貯めていたものと合わせると三六万円になった。それから本屋に立ち寄り、六冊もの女性ファッション雑誌を買い求めた。
 大学へは行かず雑誌を抱えて部屋に戻ると、彼女は食事を取ることも忘れてファッション雑誌に没頭した。ページをめくりながらレポート用紙に店の名前・住所・電話番号・ブランドの名前などを書き取っていった。六冊の雑誌をすべて読み終えるころには、レポート用紙は十二ページにも及んだ。外国映画のヒロインになりきってしまうことが得意だったくらいだから、雑誌に掲載された洋服に頭の中で袖を通してみることはそれほど難しい作業ではなかった。しかし、果たしてそれが他人から見て自分に似合っているのかどうか彼女には自信がなかった。 
 翌日、彼女は勇気を振り絞って、ファッション雑誌の中で見つけた青山のあるブティックを訪れた。現在の自分の恰好がそういった店を訪れるのに相応しい身なりとは思えなかったが、もうそんなことは気にしてなどいられなかった。ひょっとするとこばかにした目つきで見られるかもしれない。でも、いま一歩を踏み出さなければ・・・・。
 しかし、彼女が訪れた店の店員は思いのほか感じがよかった。それだけでも彼女は幸運だった。彼女より五、六歳年上に見える美しい女性が二時間ものあいだつきっきりで、真剣に彼女に似合う洋服を選んでくれたのだ。
 一着づつ試着している合間には、この洋服にはこんな色の靴が合うとか、口紅はこの色がぴったりだとか、洋服以外のアドバイスもしてくれた。土台がしっかりしているからどんな洋服でも合わせやすい、とも言ってくれた。驚いたことに、既製の洋服をほとんど手直しする必要がないほど、千恵子は理想的な体型をしていたのだ。彼女にとってもこれは新鮮な驚きであると同時に喜びでもあった。店員は本心から言ってくれているのだと思うことにした。
 彼女はその年上の店員のことをすっかり気に入り、身体にぴったりした鮮やかなミッドナイトブルーのワンピースと肩に大きめのパットの入ったクリーム色のスーツ、それぞれと同系色の、ちゃんと歩けるのか不安になってしまいそうなかかとの高い靴を二足、それから襟元をリボンで結ぶ仕組みになったシルクのブラウスを買った。総額で二六万円の買い物だった。値引きはなかったが、店員はワンピースと同色のカチューシャと小さなルビーのついたブローチをサービスでつけてくれた。
 大きな紙袋を両手に提げた帰り道、彼女は二六万円の買い物のことを思って末恐ろしくなった。自分でこれだけ高額の買い物をしたのはもちろん生まれて初めての経験だった。父がこのことを知ったら腰を抜かす程度ではすまないかもしれない。ひょっとしたらぶたれる。来年の留学だって諦めなければならないだろう。
 しかし、彼女は後悔はしていなかった。少しづつでも生まれ変わるのだという強い意思は揺らぐことはなかった。その証拠に、ほんのちょっぴりの後ろめたさをぬぐい捨てたあとの彼女の右手には、六万円分の化粧品の紙袋がひとつ増えていたのだ。 

 半年振りに再会し、ひどく驚かされうらやましく思った五月の華やかさを、千恵子が手にするのにさほどの時間は必要なかった。最初に高価な洋服を買った店の店員が言ったこともお世辞ではなかった。恐る恐る乗った体重計の針は高校時代の最後に計ったときとほとんど同じ位置を指していた。太ったと感じたのは大人の女性のふくよかさが備わってきたせいなのかもしれない。
 自分にもっとも相応ふさわしい化粧もすぐに覚えた。自分の思い描いた通りの髪型をきちんと作り上げてくれる美容室も見つけた。もちろん洋服選びにおいても彼女の眼は確実に、かつ驚くべき早さで養われていった。もともと素質があったのだろう。
 そうなってくると、実家からの仕送りだけで彼女の欲求を満たすことは到底不可能となった。彼女は大学の近くのケーキ屋でウェイトレスのアルバイトをはじめた。その店には週四日通った。しかしその程度の収入では、彼女が望むような洋服は月に一着購入するのがやっとだった。彼女は迷うことなくアルバイト先を変えた。
 彼女が新たに選んだアルバイトは、渋谷にあるイギリス風パブのウェイトレスの仕事だった。夕方から深夜にかけての勤めだったからドイツ語の夜間学校からは自然と足が遠ざかっていったが、収入は飛躍的にアップした。両親には大学の友達とスキーに行くと嘘をついて、新しい年をアルバイト先で迎えた。
 ちょうどそのころ、彼女には新しい恋人ができた。アルバイト先で知り合ったひとつ年上の大学生だった。その男とは誘われるまま知り合ったその日のうちに寝た。男はほとんど授業に出席することはなく、親からの多額の仕送りとアルバイトで稼いだ金でかなり派手に遊びまわっていた。
 わずか半年のあいだに彼女の生活は急激な変化を遂げた。昼間は大学にも行かず、男の部屋で過ごすか、ふたりして遊びに出かけていることが多くなった。夜はそのまま遊び続けるか、アルバイトをしているかのどちらかだった。その男には内緒で何人かのほかの男とも寝た。大した深い意味はなかった。適度な酒に酔い、心地好いたかぶりの赴くままだった。 

「私も例外ではなかったの」千恵子は寂しげな笑みを浮かべて言った。「ほとんどもうなにも考えていなかったし、感じなかったし、それにお金も欲しかった」
 僕は重苦しい空気を払拭ふっしょくするかのようにひとつため息をついた。そのとき、僕の中ではかちゃかちゃと小さなブロックが組まれていた。やがてそれはひとつの形を成しかけるのだが、どこかで組み合わせを間違っているらしく、最後のひとつがうまくはまらない。もう一度ばらばらにして組み立てていく――やっぱりひとつ残る。どうやら、それは最後のひとつを組み込んだ上で、きちんと決められた角度から眺めなければ実体を把握することは不可能らしい。僕は完成されたものがなにをあらわすものなのかもわからないまま、何度も何度もブロックを重ね続けた。
「気がつくと」と彼女は言った。「自分が誰なのかわからなくなっていた。そう感じることすら次第に失くなっていった」
 彼女はぼんやりと窓の外を見ていた。
「ほとんどすべての、そこらじゅうの女子大生と見分けがつかなくなった、というわけだ」と僕は言った。「でも、それを望んだのも君自身だ」
「望んだわけじゃない――ううん、望んでいたのかもしれない。でも・・・」
「僕にそんな話をすることで、もとの君が取り戻せるとでも?」自分でもびっくりするほど冷ややかな声だった。「それは無理だ」
「違うわ」彼女の声は冷静だった。「あなたに助けてもらおうなんて考えたわけじゃない。この状況から抜け出したいなんてことも思っていなかったのだから」
「だったらなにも言うことなんてない。そのままぬるま湯につかって――」
 彼女ははじかれたように身体の向きを変え、厳しい目で僕を見た。まるで努めて冷静に振舞おうとする僕の言動をとがめているかのようだった。
「私は・・・」彼女は言いよどんだ。彼女の瞳が急速に力を失っていくのがはっきりとわかった。焦点が定まらなくなり、視線は僕の胸のあたりをうつろに彷徨いはじめた。やがて長い沈黙のあと、彼女はそっと言った。
「あなたがうらやましかった・・・・」 

 開け放たれた窓から心地好い五月の午後の風が吹き込んできた。それは灰皿の灰を巻き上げ、彼女の髪を揺らし、僕の中を吹き抜けて廊下へ消えた。
 突然部屋の中が薄暗くなってしまったような気がした。太陽が雲の陰に隠れてしまっただけかもしれない。そうでなければただの錯覚だ。しかし、彼女の頬にはうっすらと影が浮かんでいた。顔色はあまりよくなく、生気を失ったような瞳はじっと宙を見つめたままぴくりとも動かなかった。唇は半開きのまま乾きはじめていた。一種のトランス状態に陥ってしまったかのように見えた。
 遠くで救急車のサイレンの音が聞こえた。それ以外は何も聞こえなかった。頭の中で静けさが木霊こだましていた。ふたりの鼓動が聞こえたような気がした。テーブルの上のちりを数えているかのような、恐ろしく凝縮された沈黙だった。
 永遠に続くかと思われた静寂は突然の電話によって破られた。彼女も僕もこれにはひどくびっくりした。彼女は両手を胸にあて、おぞましいものでも見るかのような目つきで電話機を見つめた。呼び出し音が4回鳴ったあと、彼女の留守番メッセージが流れた。落ち着きのある澄んだ声だった。そして男の声が聞こえてきた。
“もしもし、チエコ? いないのか? もしもし?―――チッ。今夜バイト休みなよ。メシ作りにきて欲しいんだ、なんでもいいから。ビールも忘れずに。ん、それから、えーと、アレ切れてるから。アレ、わかるだろ? これもな”
 電話は切れた。ふたたびゆっくりと静けさが降りてきた。電話はぴくりとも動かなかった。最後の深いため息を吐き出したあと、死に絶えてしまったかのように見えた。彼女は眼を閉じて諦めにも似た笑みを浮かべていた。僕の視線に気づくと、一瞬思いを巡らせるような素振りを見せ、それから額に手をあてて声を出して笑った。
「アレって、わかるでしょ?」彼女は楽しげな声で投げやりに言った。「まったく、セックスのことしか頭にないんだから」
 寝不足のせいか、酒のせいか、それともソファで眠ってしまったせいなのか、今ごろになって後頭部から首筋にかけて鈍い痛みが生まれてきていた。あるいは、ほとんどすべてを埋め尽くしてしまっている静寂のせいなのか――。
 彼女は不意に立ち上がって寝室に向かった。戻ってきたとき、彼女の右手には光沢のある赤色の箱が握られていた。
「心配しなくてもちゃんとあるのよ」彼女は僕の目の前にその小箱を差し出した。
「今からしようよ。もったいないでしょ?」
「もったいない?」
「そう。もったいない」
 彼女は無遠慮に僕の手を取った。しかし、僕は立ち上がらなかった。
「ソファのほうがいいの?」彼女はそう言って僕の前にしゃがみ込み、いたずらっぽい笑みを浮かべた。「いいわよ、それでも。あなたがそのほうがいいって言うのなら」
 彼女はじっと僕の眼をのぞき込んでいた。それからじれったそうに何度かまばたきをしたあと大きく息を吐き出して立ち上がると、窓とカーテンを閉めた。そして髪の毛を束ねてあった輪ゴムを抜き取り、おもむろにパジャマを脱ぎはじめた。下着だけの姿になると、彼女は隠すこともせずに僕の前に立った。
 美しい身体だった。肌は水銀のようになめらかで瑞々みずみずしく、無駄な贅肉ぜいにくは一切ない。形のよい乳房が自己主張するかのように上を向いている。唯一の落ち度のような黒いかげりが薄い生地を通して伺える。カーテン越しに薄日が差し込む紫色の空気の中で、それは太古の昔からこの場所で息づいていたかのような、力強さとしなやかさと威厳のようなものを感じさせた。僕は心ならずも彼女の裸身に圧倒され、言葉を失っていた。
 彼女の眼は僕をじっと見ていた――いや、僕の中のなにかをじっと見ていた。息苦しさを感じた。突如として酸素が薄くなってしまったかのようだった。彼女の視線に縫いつけられてしまったかのように、僕は息さえもつけずに長いあいだ彼女を見ていた。

 どのくらいの時間が過ぎてしまったのか見当もつかなかった。ほんのわずかな時間だったような気もしたし、恐ろしく長いあいだ彼女の身体を見つめていたような気もした。灼熱しゃくねつの太陽にあぶられて喉はからからに乾き、全身の感覚が蒸発してしまったかのようだった。彼女はもといた場所にそのままの姿で、そのままの瞳で立っていた。
 彼女はゆっくりとした動作でパジャマの上着を拾い上げてそれを肩にかけ、僕の前にひざまづき、それから僕の膝に両手をのせた。
「ひとつ訊いてもいいかしら?」彼女は静かな口調で言った。「この前の夜、あなたの部屋にやって来た女の子は、あなたの恋人?」
 僕は一瞬躊躇ちゅうちょしたあと、首を横に振った。
「でも抱き合ってキスしていたでしょう?」
「あれはそんなんじゃないんだ」
「同じベッドで寝てたじゃない?」
「そうじゃない。違うんだ」
「だったら、私とどう違うの?」
 彼女は僕の眼を見ていた。僕にはなんと答えればよいのかわからなかった。
「あのとき、なぜセックスしなかったの? 私には女の子のほうはもうそのつもりでいるように見えたけど」
「それは説明できる。僕と彼女は恋人同士でも夫婦でもないからだ」
「恋人同士でも夫婦でもなかったらセックスをしてはいけないの?」
「そんな一般論とはまた別の問題だと思う」
 彼女は少し考え、そして言った。「あなたは恋人ではない彼女とはセックスしたくなかったのね? 彼女のことが好きなのね?」
 彼女はやはりじっと僕の眼を見ていた。まるで鑑定士が導き出したひとつの回答を確認するかのような眼だった。やがて彼女は大きく息を吐き出し、それから僕の膝においた自分の手の上にゆっくりと左頬をのせた。辺りに絡みついていた緊張の糸がゆっくりとほどけていった。僕は彼女の髪の毛を見て肩を見て、それから背中を見た。彼女は静かに息をしていた。
「ありがとう」彼女はそっと言った。「あなたはやっぱり私の思っていたとおりの人だった」
 カーテンの隙間から差し込んだ午後の光が、緩やかなカーブを描いた彼女の背中を貫いていた。僕は息をしながら、髪の毛でほとんど隠れてしまった彼女の横顔を長いこと見下ろしていた。 







この物語が気に入っていただけたなら、下記のリンクをクリックしてください。
投票していただけると励みになります。


本なび>現代文学部門>「How 'bout Us」に投票

ネット小説ランキング>恋愛シリアス(PG12)部門>「How 'bout Us」に投票






ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう