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How 'bout Us
作:H.RcGoon



第六部 第六章


「お願いがあるの」
 啓奈がぽつりとそう言ったのは、バルセロナ・ブラット国際空港を発ってチューリッヒ・クローテン国際空港に向かったスイス・エアーが、バリスアルプスの上空に差しかかったときのことだった。彼女の顔は眼下の山々のように相変わらず青ざめ、唇はふたたび震えはじめていた。
 啓奈はイビザでの一件以来ほとんど口を訊かなくなってしまい、そして片時も僕の手を離そうとしなかった。眠るときももちろん僕の手を握っていた。ときには手のひらが汗ばんでしまうくらいに強く握りしめていたが、それでも決して離そうとはしなかった。
 僕は彼女の精神面での急激な変化に戸惑いを感じ、どうしようもないほどの不安を覚えた。旅を中止して日本へ帰ることも提案した。しかし彼女は首を振ってそれを拒んだ。僕は彼女に内緒で彼女の主治医に電話を入れた。医師はしばらく考え込んだのち、彼女を一日でも長生きさせてやりたいと願うか、それとも彼女が本当にやりたいと思うことを思う存分やらせてやりたいと願うのか、どちらかだと言った。そして、どちらを選択するにしても相当な勇気が必要である、と言った。僕は考えてみますと言って電話を切った。しかし、電話を切った時点で僕の頭の中に選択肢はひとつしかなかった。
 啓奈は死にたいなどと思ったことはなかった。早く死んでもかまわないと思ったことも一度もなかった。ただ啓奈はそのとき、彼女がやりたいと思っていたことをそのままやらずに残しておきたくなかった。そのためだけに懸命に生きていた。できることなら一日でも長く生きたい――啓奈だってそう思っていたに違いない。しかし、そのためだけに貴重な何日間かを寒々しいベッドの中で費やすことは、彼女には耐えられなかった。啓奈は選んだのである――たとえ寿命を削ってでも今やりたいことをやろうと。残りわずかな日々でも、僕といっしょに暮らそう、と。
 啓奈の声は微かに震えてはいたが、静かで落ち着きのある声だった。その声で、あなたはチューリッヒから日本へ帰ってほしいと言った。僕は彼女が握った僕の手に思わず力をこめた。彼女は霞にまとわりつかれたような笑みを浮かべて自分の膝先をじっと見つめていた。
「そうしたほうがいいと思うの」
「どうして?」と僕は平静を努めて言った。
「私はあんなことをしてしまった」啓奈は哀しげな瞳で僕を見た。「どこの誰ともわからない男とキスしたのよ」
「キスくらい誰だってするじゃないか」
「それだけじゃない」彼女はすでに何もかも諦めてしまったような目を僕に向けたまま逸らそうとしなかった。「抱かれてもいいって・・・そう思ってたの」
「正直に言うよ」と僕は言った。「僕もひょっとしたらナディーンと――なんて思ってたんだ。だからおあいこだよ」
「おあいこ?」途端に彼女の声は冷ややかになった。「それ、どういう意味? そんなんじゃないでしょう? おあいこならどうしてあなたひとりが傷つくの? 私がなんともなくて、あなたがひとりで深い傷を負って、それでどうしておあいこなの?」
「啓奈だってあれだけ泣いたじゃないか。それだけ啓奈も思うところが――」
「違う」啓奈は首を強く振って僕の言葉を遮った。「そんなんじゃない」
 啓奈の声に驚いた様子で、前の席の口髭をたくわえた禿げ頭の男性が後ろを振り返った。彼は啓奈を見て、それから僕と目が合うとにやっと笑って顔を引っ込めた。僕は膝の上にあったヘッドフォンをフルボリュウムにして彼の頭に取りつけてやろうかと思った。
「そうじゃないの」と啓奈は言った。「私は知ってたの。あなたが私たちを見ていることを・・・知っていてキスしたの」
 そこまではさすがに思いもしなくて、僕はびっくりして啓奈を見た。彼女は左手で僕の右手を固く握りしめ、唇を噛んで前のシートを睨みつけていた。
「どうして・・・?」
「最初はなんともなかった」啓奈は驚くほど静かな声でそう言った。「あなたがナディーンと楽しそうにお話していても、最初はなんとも思わなかった」
 僕は後頭部を思い切り殴りつけられたような気がした。彼女は目を閉じて、酸素を節約するかのような呼吸を繰り返していた。
「ごめん」と僕は咄嗟に言った。「悪いのは僕だ。そうだよ、そもそも最初から悪いのは――」
「ううん、そうじゃない。いいの、そんなこと。あなたが誰と仲良くしたってかまわないの・・・ぜんぜんかまわない」啓奈はそう言って鼻を啜った。今にも押し潰されそうな小さな肩が震えていた。
「私はやきもちを焼くかもしれない・・・ショックを受けるかもしれない――でも、そんなことはどうでもいいの」
 禿げ頭が座席を倒した。彼の位置からなら窓際の啓奈が座席の隙間からよく見えることだろう。ヘッドフォンを取りつけるにはおあつらえむきの角度だったが、僕はなんとか我慢した。
「私が我慢できないのは、そのあと私自身がとった行動なの」
「気にするなよ、そんなこと」彼女の心の慰めになる言葉とも思えなかったが、僕はつい口に出してそう言ってしまった。
「気にするわよ」案の定、彼女は怒りをあらわにして怒鳴った。
 何人かの乗客が僕たちのほうを見ていた。そして、心配そうな顔をしたスチュワーデスがやってきた。
「いかがなさいました?」とスチュワーデスは言った。
 頼むから僕たちをそっとしておいてくれないか、僕はそう思った。大丈夫です、気にしないでくださいと僕は言った。ご気分が悪いのでは? と彼女は啓奈のほうを見ながら言った。僕は大丈夫ですともう一度答えた。彼女はにっこりと微笑んで去って行った。
「気にするわよ」啓奈はひどく傷ついた口調でもう一度そう言った。
「私はあなたに・・・あなたに見せつけようとして、それであんなことをしたの。ひどい女なのよ、私は」
 禿げ頭が咳払いをした。僕は彼の禿げ頭をよほど蹴飛ばしてやろうかと思った。
「そのとき、キスしながら私、ぼおっとしてた。このまま抱かれてもいいと思ってた。気がついたら彼の手が、私の胸に触れてた」
「でも、啓奈は僕にも気づいてくれたんだ」
「そう」と彼女は言って、きっと僕を見た。「あなたが駆け出したのに気づいて、それから自分のしていたことに気がついて、彼を突き飛ばしてあなたを追った。あなたに、深い傷を負わせてしまったあとに・・・」
 僕はため息をついてうなだれた。啓奈の手がそっと離れた。
「私には・・・あなたを愛する資格なんてないの。あなたに愛される資格なんてないの」啓奈は視線を窓の外に向けた。「罰を受けるべきなの」
 気に入らなかった。何もかも全部、気に入らなかった。啓奈のことを放り出してしまっていた自分も気に入らなかったし、目の前の禿げ頭も、眼下の息を呑むような雄大な景色も気に入らなかった。そして今まさにすべてを放棄しようとしている啓奈のことも、僕はぜんぜん気に入らなかった。ふつふつと怒りにも似た感情が湧き上がってきた。僕は心を決めた。
「啓奈? よく聞いてほしいんだけど――本当のことだから」と僕は言った。
 彼女は僕の話など聞きたくないとでも言うかのように、ふっと笑みを浮かべて眼差しを窓の外に向けた。僕はかまわず続けた。
「今ね、僕は啓奈のことをとても愛してるんだ。誰にも渡したくないし、誰にも文句は言わせない。啓奈の両親にだって負けやしないと思う。その気持ちは多少のことでは決して揺るがない。いいから聞いて――でもね、今の啓奈のように自分自身が許せなくなったことなんて、僕には啓奈とは比べものにならないくらいたくさんあったんだ。それこそ啓奈に愛される資格なんてないほどにね。もちろん今でもしょっちゅうあるよ。知ってた? 知らなかったでしょ? ――なのにさ、それでも啓奈は僕のことをずっと待っていてくれた。ずっと愛してくれたじゃないか。僕はその啓奈の想いに、僕のあらん限りの力で応えたいと思ったんだ。そう決めたんだよ。
 シィーッ! だまってて――いいから聞いて。
 はっきり言うけど――冗談じゃないからね――今の僕の啓奈に対する気持ちは、啓奈が僕を想ってくれる気持ちよりも、きっとはるかに強いよ。自信あるんだ、僕には。ふむ――確かにあのときはちょっと驚いた。でも、そのあとの啓奈にはもっとびっくりした。啓奈があんなにも自分を見失うなんて思いもしなかったよ。自分でもびっくりしたでしょ? ――でしょう?
 嬉しかったんだよ。足を血だらけにして僕を捜しまわって、僕が砂を噛んで顔を歪めてるのにぜんぜんおかまいなしでしがみついて、泣き叫んで・・・。本当に嬉しかったんだ。どうしようもないくらいに嬉しかったんだよ。啓奈にこんなにも愛されてると思うと、今すぐ死んでしまいそうだった。胸が張り裂けるんじゃないかと思ったよ。おかげで僕はますます強くなった。僕の想いはもう何ものにも邪魔できない。そう、ヘミングウェイのディートリッヒに対する気持ちなんてメじゃない――あ・・・・思い出した――そうだよ、ディートリッヒが言ったんだ。“これからふたりが犯すかもしれない過ちに”って―――え・・・あ、いや、それは今はどうでもいいんだ。・・・とにかく、それだけ僕は啓奈のことを愛しているんだ。そんな僕の想いを、アルプスのこんなうすら寒い山ん中に放り出したりなんか、絶対にしないでほしいね。絶対に。―――それだけだよ、僕の言いたいことってのは」
 啓奈の強張っていた頬の筋肉がゆっくりとほころんでいった。彼女は僕の右手をそっと掴み、ふたたび視線を窓の外に向けた。それから手に力をこめた。まるで握りつぶそうとでもするかのように、強く啓奈は僕の手を握りしめた。
「でも、私はあなたをひどく傷つけた」彼女は瞬きすらせず瞳を雲に向けたまま言った。「これからも、きっと傷つける」
「そんな予定、この旅には入っていないぜ」
「思いがけない出来事だってある」
「みくびっちゃいけないね。僕はこう見えても反射神経は鋭いんだ。いざとなったらいくらでもかわせるさ」
「どうして?」啓奈は振り返り、哀しげな瞳で僕を見た。「どうしてそんなことを言うの? お願いだからもっと自分を大切にして・・・もっと自分に素直になってよ」
「僕はいたって素直なつもりだけどな」
「あなたをだめにしてしまうのよ、このままだと」
「だめになんかならないさ。うん、絶対にだめになんかならない」
 啓奈は僕の右手と彼女の左手を見下ろしていた。そして、そこにそっと右手を重ねた。僕は手持ち無沙汰の左手で啓奈の髪の毛をくしゃくしゃにした。
「元気出せよ」と、僕は啓奈の瞳をのぞき込みながら言った。「今すぐいつもの啓奈に戻らないと、その窓を突き破って飛び降りるぞ」
「ほんとに、だめにならない・・・?」
「だめになんかならない」
「本当に?」
「信用できないの?」
「ううん、信じる・・・」
 僕は呆れて大きく息をついた。「なんだか、今までぜんぜん信用されてなかったみたいだな」
「そんなことない、そんなことないよ。ずっと・・・ずっと信じてた。あなたのこと、ずっと・・・」
「泣くのは一向にかまわないけど」僕は啓奈の頬にそっと左手をあてて言った。「裏切りっこはなしだよ、絶対に」
 頬を伝った涙が眩いばかりの光を放ち、やがて窓の外にはツークの蒼い湖面が見えはじめていた。







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