第六部 第五章
僕たちがカダケスの『ホテル・ポルトリガ』に到着したのは夜9時を過ぎてからのことだった。バルセロナから乗ったレンフェが定刻を40分も過ぎて出発し、さらに予定から1時間30分も遅れてカダケスに着いたからだった。列車自体は快適だったが、時間感覚の変更は考えざるを得ないことを痛感した。
僕たちはシャワーを浴び、ルームサービスで遅い夕食を取った。
「スペインってもう少し暑いのかと思ってた」
「ちょうど今ごろくらいから涼しくなるの」啓奈はワイングラスを持ったまま立ち上がり、窓辺に歩み寄りながらそう言った。「でも、昼間はまだけっこう暑いわよ」
「まだ泳げるのかな」と僕は葡萄の粒を口に放り込みながら言った。
啓奈はゆっくりと振り返り、僕を見て笑みを浮かべた。「さあ、どうかしら・・・」
その夜、僕と啓奈は8日ぶりにセックスをした。久しぶりだったわりには啓奈は意外に淡白だった。しばらく僕の胸の上でお喋りをしていると、彼女はすぐに微かな寝息をたてはじめた。
翌日、僕たちはサルバトール・ダリが住んでいた家のある入り江まで歩いて出かけた。歩くにしては少し距離があったのだが、イタリアの地中海とはまたちょっと違った色の海や、そこに浮かぶ帆をたたんだままの幾隻ものヨットやクルーザー、その海と青空にはさまれた白い壁の街並、まるで大きなノミかなんかで無造作に削り落としたような絶壁やなんかを眺めながら、たくさんの椰子やオリーヴの木に囲まれた道を歩くのはとても心地よかった。海面と道路との高さがほとんど変わらない箇所では、波しぶきが細かなミストとなって僕たちに降りかかった。
ビーチではさすがに海に入っている人は少なかったが、それでもかなり大勢の人々が砂浜に寝そべって、のんびりと肌を焼いていた。僕たちはダリの家の中に入れないとわかるとちょっぴりがっかりして、近くのカフェに寄って簡単にランチを済ませ、それからビーチに出て身体を焼いた。真夏ほどの強烈な日ざしはなく、午睡を楽しむにはうってつけの陽光が射していた。啓奈はサングラスをかけ、インディゴブルーの水着のブラジャーをはずし、仰向けになって寝そべった。サルディーニアやポジターノのビーチでトップレスにはすっかり慣れっこになってしまっていて、彼女にはなんの抵抗もないみたいだった。
4時前に目を覚ますと、僕と啓奈は近くでビーチバレーをやっていた4人組の仲間に入れてもらって1時間ほど新たな汗をかいた。それからビーチに備え付けのシャワーで汗を流したあと、ヨットハーバーに向かった。今夜の夕食は借り切ったクルーザーで沖合いに出て、地中海の海上で取る予定になっていたのだ。
入り江を出るころ、僕たちはもう一度シャワーを浴び、それからデッキに出てシャンパンを飲みながら夕方の地中海を眺めた。啓奈はハイビスカスの花を全体にあしらった、いかにもリゾート向きといった感じのゆったりとしたドレスを着ていた。僕はなんの変哲もないピンクのストライプのシャツに、フランクフルトで買ったカーキ色の半ズボンだった。
「そろそろ夕食のご用意をいたしましょうか?」と背後でキャプテンが言った。
僕と啓奈は互いの顔を見て頷き、それからお願いしますと言った。時刻は7時、オレンジ色の太陽が我々の左手でゆっくりと沈みかけていた。クルーザーはそのエンジンを止め、静かに打ち寄せる波の音だけが聞こえていた。海上での夕食にはぴったりの時刻だった。
次の日、僕たちは朝早くホテルを発ち、アビアコ航空でマヨルカ島に向かった。昨夜ホテルに帰ったのが午前2時で、それからどういうわけか異常に興奮した啓奈に求められるまま2回セックスをしたおかげで、僕はじっとしていると立ったままでも眠れそうなくらいに眠たかった。しかし、彼女のほうはこの小さな身体のどこにそんなエネルギーが蓄えてあるのかと不思議に思わずにはいられないくらいに元気で、荷物をポーターに預けてしまうとさっさと軽い足取りで、空港のロビーを歩いていた。僕は彼女のあとを追いながら何度も大きな息をついた。
マヨルカでの2日めの朝、僕はふたたび啓奈に叩き起こされた。時計を見るとまだ6時前だった。昨夜も2回セックスをして、つい先ほど眠りについたばかりのような気がした。いくらなんでもこれはないんじゃないかと、僕は彼女にもう少しゆっくりさせてくれと枕に顔を埋めたまま不平を言った。
「ひとりで出かけるよ」と啓奈は朝陽のような明るい声で言った。
薄目をあけてみると、彼女は水色のワンピースの背中のボタンをとめているところだった。僕は彼女の背中を眺めながら、かまわないよ、そうしてくれと言いかけたが、なんとか思い止まってふたたび目を閉じた。
不意に啓奈が僕の背中に飛び乗った。僕は息が詰まって思わず呻き声を漏らした。
「ひとりで出かけてもいいの?」啓奈は異常に低い声でそう言った。
「今日はどこに行くの?」僕は目を閉じたまま枕を抱きかかえてそう訊ねた。
「フォルメンテーラ」
「ここがフォルメンテーラ」
「ここはフォルメントールでしょ」
「・・・・・・どこにあるの?」
「少し行ったところ」
「少しって?」
「ほんの少し」
僕は深い深いため息をついて顔の向きを変えた。啓奈は僕の右の耳をがじがじと齧った。それからマットと僕の腹のあいだに左手を差し込み、いきなりペニスを掴んだ。
「だめだ・・・そんな元気ない」
「セックスはいいの」彼女はそう言いながら、それでも指先を動かしていた。「本当にひとりで行くわよ?」
「うぅ」
「帰らないよ、今夜は」
僕は目を開けた。目の前には真っ白な壁があった。「どこに泊まるの?」
「さあ」と彼女は言った。「でもヌーディストビーチがたくさんあるの、フォルメンテーラには。私の裸を見たら一晩くらい泊めてくれる男性はいくらでもいるんじゃないかなぁ」
そんなわけで僕はふかふかのベッドから這い出して、10月とは思えない暑い陽射しの中を啓奈と出かけた。
フォルメンテーラはマヨルカから飛行機で40分、船で1時間のところにある小さな島だった。船から降り立ったとき僕は、ほんとにほんの少しだと言った。彼女は僕の皮肉など意にも介さず、そうでしょと軽く受けた。
「今夜は本当に帰らないつもりなの?」と僕は歩きながら訊ねた。
「うん」彼女は僕の1メートル前を元気いっぱいの足取りで歩きながら答えた。
「どこに泊まるの?」と僕はさらに訊ねた。
「声をかけてくれた男の人のところ」
僕はそっとため息をついた。「それで、僕は一体どこで眠ればいいの?」
「いっしょでもいいわよ」彼女は振り返りながら言った。「相手の方がオーケーしてくれたら、の話だけれどね」
「いやだよ、そんなの」
「私がそんなところに泊まるということと――」彼女は両手を後ろ手に組んで僕のほうを向き、後ろ向きに歩きながら言った。「あなたがそこへいっしょに泊まるということと、どっちがいや?」
「どっちも」
「じゃひとつだけ減らしてあげる、いやなこと」彼女はそう言ってくるっと向きを変えた。そして僕に背中を向けたまま言った。「あなたはホテルに帰ってもいいわよ」
僕はもう一度ため息をついた。「そうさせてもらうよ」
「決まりね」
啓奈が服を全部脱ぎ捨て全裸になって真っ白な砂浜に横たわったとき、僕はもう一度今夜はどうするのか訊ねた。彼女は片肘をついて身体を起こし、わりに真剣な目で僕をじっと見た。それから不意に笑い出した。
「ばかね」彼女は笑いながら言った。「そんな泣きそうな顔しなくてもいいじゃない?」
「それじゃ・・・」
「今夜一晩だけなんだから」
僕はがっくりと肩を落とした。啓奈は思いっきり笑った。笑いながら僕の胸を突き飛ばした。それから口元に笑みを残したまま僕の額にそっと口づけた。
「冗談よ」
僕は目の前を通り過ぎた2組の中年のヌーディストのカップルをぼんやりと見つめた。
「信じてたの?」
「本気かと思った」
彼女はまた笑った。「本気で? 本当に私がそんなことをすると思ってた?」
若いカップルが通り過ぎた。ふたりとももちろん全裸だった。
「どこ見てるの」啓奈は僕の頬に手をあて、僕の顔を彼女のほうへ向けさせた。「傷ついた?」
「少し・・・」
「私がほかの人と寝るのがそんなにいや?」
「当たり前じゃないか」
「みんな裸なのよ」と、啓奈はまるで優しい小学校の先生のような口調で言った。「そんな、他人のことをじろじろ眺めて声かけてきたりなんかするわけないじゃない、あなたがそばにいるのに。渋谷のど真ん中じゃないんだから。それがここのルールでしょ?」
「でも、今の若い男は啓奈のことをじっくり見てた」
彼女は今度は優しげに微笑んだ。「ありがと、気にかけてくれて。嬉しいよ、とっても」
今度は若い女性がふたり通り過ぎた。啓奈はもう一度僕の頬に手をあてた。しかし、今度は最初の仕種とは比べものにならないくらいに優しかった。
「ごめんね。そんなに深刻になるなんて思わなかった」
僕は啓奈の顔を見た。そして、もう少し我慢するつもりだったのだが、思わず吹き出した。彼女は呆気に取られて僕を見ていた。
「啓奈のほうこそ――」と僕は笑いながら言った。「そんなに真剣に謝るとは思わなかった」
「な・・・ひ、ひっどぉい!」
僕は彼女に掴みかかられる前に立ち上がって波打ち際のほうへ駆け出した。「僕が傷つくようなひどい冗談を啓奈が言ったりするからだよ」
それから彼女のご機嫌は夜の9時まで直らなかった。ビーチで寝そべっているあいだも、イビザへの帰りの船の中でも、アルガローバやオリーヴやアーモンドの林が続く小道を散歩しているときも、アラブ侵略時代を偲ばせる古城を見て回っているあいだも、彼女はひとことも僕とは口を訊かなかった。夕食のとき、胡椒挽きを取ってとたったひとことだけ喋った。
夕食が済むと僕たちは港の近くをぶらぶらと散歩し、それからカフェに入って窓から通りを歩いている人々を眺めた。通りはちょっとそれはまずいんじゃないかと思えるような服装をした女の子やそれを口笛で追いかける男で、それこそ――日曜日とまではいかないまでも――土曜日の竹下通りくらいにごった返していた。僕は時々かすれた口笛を小さく吹いたり、“すっげぇ”などと口にしながら彼らを眺めていた。啓奈はまるで僕が元気なのは犯罪だとでも言いたげな顔つきで僕を見ていた。そして時々ワインを飲んだ。
カフェでそうやって小一時間つぶしたあと、僕たちは『ペピトーン』というナイトクラブに行った。時刻はすでに9時を回っていて、本土への最終便もとうの昔にイビザを離れていた。ただ、啓奈が久しぶりに笑みを浮かべて、『ペピトーン』へ行こうと言ったので、そんなことはもうどうでもよかったのだ。
その店の中は、僕たちがカフェから眺めた通り以上の混雑ぶりだった。まさにお祭り騒ぎだった。ディスコホールでは耳をつんざくほどの音量で音楽が流れ、それに合わせて若者たちが文字どおり肌と肌をぶつかり合わせて踊っていた。ざわめきと嬌声とステップの音と音楽とが混じりあって、まるで土砂崩れのような音がバーにいる僕の耳に届いていた。
僕はカウンターの隅でロングアイランド・アイスティというカクテルを飲んでいた。啓奈はひとりでさっさとディスコホールの人ごみの中に消えていた。しばらく彼女の姿を追っかけていたのだが、やがてそれも面倒くさくなってやめた。
3杯めのロングアイランド・アイスティとオリーヴのおかわりをしたとき、僕の隣のスツールにすっとひとりの女性が腰かけた。僕は自分のスツールを少しだけ壁のほうへずらし、それから煙草に火をつけた。
彼女は目の覚めるような紫色のぴっちりとしたドレスを着ていた。ノースリーブで胸元が大胆にカットされている。スカートは、下着が見えてしまうことを気にする人には絶対はけないほど短い。よく陽に焼けたこめかみや首筋や胸元できらきらと汗が光っていた。どうやら踊り疲れてひと休みといった感じだった。
フルート型のシャンパングラスに注がれたスプモーニを一気に半分ほど飲み干すと、彼女はふうと大きく息を吐き出し、それから僕に、煙草くれない? と英語で言った。僕はこれでもかまわないかと言って両切りのラッキーストライクを差し出した。(もう時効だと思うから白状するけれど、僕はこの旅行に3カートンの両切りのラッキーストライクを同行させていた。毎日吸うのだから当然数は減っていくわけだが、最初のヘルシンキとローマの空港ではさすがにちょっと緊張した。)
彼女はにっこりと微笑んで一本抜き取り、それからしげしげとその煙草を観察したあと、これはいったいどうやって吸うのかと僕に訊ねた。僕は別の一本を取りだし、カウンターの上でとんとんとんと叩いて見せた。わずかに葉が詰まって2ミリほどの吸い口ができていた。さらにとんとんとんと叩くと、4ミリほどの空間ができた。それを内側に折り込んで、口にくわえて火をつけて見せた。彼女はえらく感心した様子で何度も頷き、僕と同じ動作をして煙草に火をつけた。それから思いっきりむせて咳き込んだ。僕は思わず吹き出した。
「#%*@¥!」
彼女は右手の指先にはさんだ煙草を見ながら、日本語ではちょっと表現できない言葉を吐いた。それから顔をしかめて、口の中に残った煙草の葉を舌で押し出しながら左手の親指と人指し指で取り出した。眉間に皺をよせた彼女はなかなか素敵だった。
「なによ、これ」と彼女は灰皿に煙草を押しつけながら言った。
「そんなに不味い?」
「不味いもなにも、ケホケホッ・・・ごめんなさい・・コホッコホ・・・・ちょっと待って・・・」
彼女はスプモーニをひとくち飲んだ。それからもう一度咳き込んだあと唾を飲み込んだ。「こんなの・・・コホ・・あなたよく吸えるわね」
僕はもう一度笑った。彼女は不機嫌そうにちょっと待っててと言ってスツールを降りると、足早にどこかへと消えた。僕は彼女が消えた方向を見つめ、店内をぐるりと見渡し、それからロングアイランド・アイスティを飲み干しておかわりを注文した。オリーヴの種を取り除いていると、彼女が小さなポシェットを持って戻ってきた。
彼女はスペイン語で何事かを呟きながらスツールに座りなおすと、ポシェットからメンソールの煙草を取り出して僕のライターで火をつけた。それから、一息つくような感じで音を立てて煙を吐き出した。僕は彼女の横顔を見ながら声を出さずに笑った。
「笑わないでよ」彼女はすねたような口調でそう言った。「なんだか車のマフラーを吸ったみたいだったんだから」
「車のマフラー―――!? 君、吸ったことあるの?」
「あるわけないじゃないの、そんなの」
僕はとうとう押さえ切れずに本格的に笑ってしまった。彼女もしばらくして半ば諦めの境地で仕方ないなといった感じで笑った。
彼女は2杯めのスプモーニを注文したあと、スカートの裾を両手できゅっきゅっと引っぱりながら座りなおして、どうして踊らないのかと僕に訊ねた。
「酒を飲んでるほうがいから」
「踊ってるより?」
「そう」
彼女は不思議そうな顔をした。「アル中なの?」
「まさか」
「でも、さっきからかなり飲んでる」
「さっき? さっきっていつだい?」
彼女は少しだけ赤くなったような気がした。しかしそれは酒のせいだったかもしれないし、店内の熱気のせいだったかもしれないし、ただ単に照明のせいだったのかもしれない。いずれにしても僕にはわからなかった。
「さっきって・・・さっきよ」
「まだこれ2杯めだぜ」
「うそよ。4杯はいってる」
僕は少し思い出してみた。彼女の言うとおり確かに4杯めだった。
「君はいったいいつから僕のグラスを数えてたんだ?」
彼女はまた少し赤くなった。
「ねえ、あなた名前は?」彼女はまたスカートの裾を引っぱりながらそう訊いた。僕は唐突な方向転換に驚いて、煙草をくわえたまま彼女を見た。
「私はナディーン、N・A・D・I・N・Eよ」気のせいか彼女は照れくさそうにそう言った。
僕はふっと笑ってカクテルをひとくち飲み、ヒトシと答えた。どう書くの? と彼女が訊いたので僕はHITOSHIと答えた。彼女はそれをグラスについた水滴でカウンターの上に書いてみせて、これでいいのかと言った。僕はそれで正しいと言った。彼女は腕組をしてカウンターの水文字を眺めながら、ふむふむといった感じで何度も頷いた。
スペインのこういった種類の店では、若い男と女はこんな会話をしているものなのだろうかと、僕はいささか不思議に思いながら彼女の横顔をしげしげと眺めた。改めて見ると、彼女は相当に美しい娘だった。少し茶色がかったブロンドの細い髪の毛が無造作に二の腕まで伸びている。それは左の眉の上で左右に分けられ、左は耳にかかるように緩やかなウェーブを描いてそのまま下へ、右は一度アップさせてそれから右耳のほうへと流れていた。鼻は小さく、きりっと筋が通っている。唇はどちらかといえば薄めで、下唇がやや厚い。瞳は灰色がかったブルーで、まつ毛がおそろしく長い。その目の下には微かだが雀斑の痕がある。唇の下の影と口元から顎にかけての線は結構勝気な性格であることを伺わせた。
ふと、ボトルの棚の鏡の部分に啓奈が映っていることに僕は気づいた。振り返ると、2メートルほど後ろのテーブル席に脚を投げ出すような感じで啓奈が座っていた。彼女は目を閉じてハンカチではたはたと火照った頬を扇いでいた。僕に気づくと手を止めて口元に笑みを浮かべ、それからまた頬を扇いだ。僕は煙草を消してスツールを降りようとした。
「どこ行くの?」とナディーンが僕の腕にそっと触れて言った。
僕は啓奈を見た。彼女はハンカチで額の汗を拭いながら、相変わらず笑みを浮かべて僕を見ていた。そして唇が“いいわよ、そこにいて”と動いた。僕は一瞬息を止め、それから静かに吐き出して、こめかみをぽりぽりと掻きながらスツールに座りなおした。
「トイレ?」とナディーンが訊いた。
「あ、ああ、そうだ、トイレだよ」
ナディーンはいってらっしゃいといった感じで左手を振った。啓奈を見ると、彼女もテーブルの下で手を振っていた。
広いうえに年末大バーゲン初日のワゴン前のような混雑の中を、僕は何人もの若者とぶつかりながらやっとの思いでトイレに辿り着いた。たいして尿意をもよおしていたわけではなかったが、便器の前に立つとしっかりロングアイランド・アイスティ2杯分の小便が出た。用を済ませて鏡の前で手を洗いながら、このあとどうしたものかと思った。ナディーンとふたりで酒を飲むのは決して悪くなかったが、かといってこのまま啓奈を放り出しておくわけにはいかなかった。僕はため息をつき、それから2、3回首を振った。
来たときと同じ手順で人の波をかき分けかき分け戻ってみると、啓奈の前にひとりの男が腰かけていた。僕は思わず立ち止まってふたりを見つめた。啓奈がすぐ僕に気づき、小さく微笑んでテーブルの下で指先だけを振った。彼女は意外と楽しげに話をしていた。僕はナディーンの目の届かない位置でふたりに気づいたことで、内心ほっと胸を撫で下ろしていた。“なんだ、うまくやってるじゃないか”。僕はひとりごちてナディーンの隣の椅子に戻った。
「ずいぶん遅かったね」とナディーンが言った。
「そう?」と僕は言った。「だいぶ溜まってたんだよ」
彼女は唇を隠して笑った。「ほらごらんなさい。やっぱりあなた飲みすぎよ」
僕は自分のグラスを空にしておかわりを注文した。
「聞こえなかった?」
「なにが?」
「もういい」
「踊りに行かないの?」
「あなたは?」
「僕はまだ飲み足りないんだ」
「そう? 私もまだ飲み足りないの」
僕とナディーンは比較的ゆっくりと酒を飲みながらオリーブをつまみ、煙草を吸い、話をした。彼女はまだ17歳だった。見ようによっては僕より年上に見えなくもなかった。しかし、時折見せるあどけない笑顔や仕種からほぼ間違いなく年下だと踏んでいたのだが、さすがに17歳と言われたときには正直驚いた。帰らなくてもいいのかと訊くと、どうしてかと本当に不思議そうな顔をされた。愚かな質問であったことを僕は痛感した。女の友達と3人で来たけれど、みんなはもうどこへ行ったのかわからなくなってしまったと、彼女は不思議な笑みを浮かべて言った。僕はどうして僕の隣りなんかに座ったのか訊ねてみた。
「なんとなく」と彼女は答えた。
「なんとなく?」と僕は鸚鵡返しに言った。「それだけ?」
彼女はグラスを唇に当てたまま僕を見てこくっと頷いた。
「でも、話し相手になるだけでももっとかっこいい男はたくさんいるよ」
彼女は腰をひねって店内をぐるっと見渡す素振りを見せた。それから、たしかにねと言った。
「でもね」彼女の指先が僕の腕にそっと触れた。「私、あなたに声かけてみてよかったと思ってるよ」
「なんで?」
「だって、あなたと話してるとおかしいもの」
「おかしい?」
「ごめんなさい。おもしろいの間違い」
「・・・・・」
「じゃ楽しいに訂正するよ」
「やれやれ、光栄だね」
「冗談なんかじゃないよ」
「嬉しいよ」
「信じてない、その顔」
「いや、信じるよ」と僕は言った。「信じてみるさ」
「『信じてみるさ』?」
彼女は煙草の灰が落ちたのも気づかずに僕の顔をじっとのぞき込んだ。「ねえ? あなたってさ、さっきから時々変わった喋り方するね。それとも、ウ〜ン・・・・どこか南極の僻地ででも英語を習ったのかな?」
まさかスペインくんだりまで来て同じようなことを言われるとは思わなかった。僕はしげしげと彼女を見つめ、それから気を取り直して英会話力が未熟なだけだよと言った。彼女は喉を鳴らすようにして笑った。
午前1時を過ぎるとさすがに少々不安になってきて、僕は会話が途切れた隙に後ろを振り返った。が、そこに啓奈の姿はなかった。トイレにでも行ったのかと最初思った。しかし啓奈の相手をしていた男の姿も見当たらなかった。僕は無意識にディスコホールへ目を向けた。午前1時だというのに、一向に客が減った気配はなかった。彼らはまるで壊れてしまったおもちゃのように見えた。ほとんど陶酔状態で踊っていた。ぜんまいが切れるまで踊り続けそうだった。そんな中で啓奈が見つかるわけがなかった。僕は狂ったように踊り続ける若者の群れを茫然と見つめた。
「どうかした?」とナディーンが訊いた。
「いや、なんでもない」僕は座りなおしながらそう答えた。
そうだよ、啓奈には先のことが読めるんだ。ここから先へ行ったら危ないとか、そんなことが彼女にはわかるんだ。危険な真似を犯すわけがないじゃないか。そう考えてみても、僕の頭から悪い予感は拭い切れなかった。
「どうしたの?」ナディーンの声には不安が絡みついていた。「誰かを探してるの?」
「い、いや、そうじゃない」と僕は言った。「そうじゃないよ。みんなタフだなと思って」
「なんかへんだよ」と彼女は言った。「急にどもったりして」
「どもってなんかないさ」と僕は言った。「少し飲みすぎたかもしれない」
「外へ出てみる?」
「え?」
「外の風にあたったら少しは楽になるよ」
「ああ・・・そうだな」
啓奈が戻ってきて僕が見当たらなかったら探すのではないかと思ったが、店から離れさえしなければ大丈夫だろうと判断し、僕はナディーンに連れられて店の外に出た。
通りは店の中ほどではなかったが、それでもかなりの数の若者がたむろしていた。ここイビザでは、自己浄化の歴史は夜作られる。本当に朝までみんな踊り続けるんだ、そう思った。
僕はナディーンに支えられながら店先の階段に腰をおろし、何を見るともなく通りを行く人々を眺めた。みんなほとんど陽気なドランカー状態だった。歩きながら大げさな身振り手振りを交えて大声で話をしている者、女の子の前で軽くステップを踏んで見せる男、なぜか頭の上で手拍子を取りながらスキップして通り過ぎていくカップル、ボクシングの真似事をしている男・・・。次第に闇に目が慣れてくると、建物の陰や木立の下に寄り添うようにして立っている人の姿があちらこちらにいくつもあることに気づいた。行く手をふさぐように手を木の幹について女の子を口説いている男、行儀よく並んで壁にもたれ、星空を眺めている若い恋人たち、テラスの手摺に両肘をついて話しこんでいるカップル、そして抱き合っている者、キスをしている者・・・・男と木の幹にはさまれて片脚が宙を彷徨っている女もいた。そんな影の中のひとつに啓奈はいた。
彼女は『ペピトーン』の斜め向かいの雑貨屋の壁にすがるようにして立っていた。『ペピトーン』の明るいネオンサインに照らし出されて彼女の姿ははっきりと見えた。彼女は両手を後ろ手に回して正面の斜め上を見上げていた。その視線の先にはさっきまで僕たちの後ろで啓奈と話しこんでいた男の顔があった。時折楽しげな彼女の笑い声が聞こえた。いや、啓奈の笑い声かどうかは定かでない。はっきりと聞き取るには周囲はあまりに騒がし過ぎた。僕は『ペピトーン』の軒先の階段に腰を下ろし、仲睦まじげに見知らぬ男と見つめ合う啓奈を見ていた。
「だめだよ、じろじろ眺めたら」ナディーンが僕の脇をつつきながら言った。「どう、少しはよくなった?」
僕は頷いた。
「ほんとに?」
もう一度、僕は頷いた。
「顔色悪いよ」
「大丈夫」
「そう」と彼女はそよ風のような声で言うと、そっと腕を絡め、僕の肩に頭をのせた。
“ナディーンはいったい僕になにを求めているのだ? そして啓奈は?”
“彼女は僕と寝てもいいと思っているのだろうか? そして、啓奈はあの男と?”
“なぜナディーンにとって僕なのだ? 啓奈はなぜあんなところにいるのだ?”
そんな疑問が僕の頭の中を駆け巡った。ぐるぐると、ぐるぐると、まるでメリーゴーランドのように何度も駆け巡った。しかしそれはどこにも向かない疑問だった。どこからも答えの返ってこない疑問だった。そして、僕は茫然とふたりのキスシーンを見ていた。
僕は港の近くを歩いていた。波が足元に飛沫を散らし、すぐそばで白いヨットが穏やかに揺れているのが見えたから、たぶん港だったのだろう。どのようにしてそこまでやってきたのかわからなかった。いつからそのあたりをふらついていたのかもわからなかった。すでに夜が明けかけていた。白い船体がかなりくっきりと見えていた。ふとナディーンのことを思い出したが、今さらどにもならなかった。たぶん僕は彼女を傷つけてしまったのだろう。ひょっとしたら汚い言葉のひとつやふたつ吐いてしまったのかもしれない。悪いことをしたと思った。
頭の中では『ペピトーン』の店先で見た光景が生々しく映し出されていた。男の両手が啓奈の肩を掴んでいた。啓奈は思い切り爪先立ちしていた。両手は後ろ手のままだったが、瞼を閉じて気持ちよさそうに男に寄りかかっていた。そして口づけていた。
“なぜこんなことになってしまったのだろう。僕が間違っていたのか・・・? たぶん・・・たぶんそうなのだろう・・・そうなんだと思う。・・・・でも、こんなことになってしまうなんてどうしてわかるんだ? 誰がわかると言うんだ? よりによってあの啓奈が・・・・”
足先に砂が触れると、僕はさらに歩いて波打ち際に腰を下ろした。穏やかな波が寄せては引き寄せては引きしていた。僕はその波泡を見つめた。ゆっくりと砂の中に吸い込まれていく白い泡を、時が経つのも忘れて見つめた。
“帰ろう”、ふとそう思った。不意に、それも漠然と浮かんだ思いだった。しかし僕にはそれしか残された道はないような気がした。
“そうだ、帰ろう”、僕はゆっくりと立ち上がり、そして愕然となった。“帰る・・・? 帰るのか? どこへ・・・いったいどこへ・・・?”
僕はふたたび腰を落とした。もうどうしたらよいのかわからなかった。恐ろしい欠落感があった。地獄のような深い穴だった。足元からこぼれた小石が木霊して転げ落ちていく。しかし最後の音は聞こえない。そんな深い穴のそばに僕は立ち尽くし、帰る場所を探すかのように漆黒の闇をのぞき込んでいた。
強い陽射しが僕を貫いていた。いつしか太陽が昇り、そして相当な時間が過ぎていた。すでに見上げる位置に太陽はあった。眠っていたのか意識を失っていたのか、それともちゃんと起きていたのかまるでわからなかった。僕は時間を見ようとして腕時計がなくなっていることに気づいた。ローマの空港で、海水に濡れるといけないからと言って啓奈がミザーニのリストウォッチの代わりに買ってくれたウブロのクロノグラフだった。僕はもう一度太陽を見上げ、それから顔をしかめた。
周りにはすでにかなりの数のヌーディストたちが浜辺に出て、気ままに肌を焼いたり、走り回ったり、のんびりとお喋りをしたりしていた。“なんだ、フォルメンテーラでなくてもヌーディストビーチはあるじゃないか”。
ふと、啓奈はこのような状況を作り出すために、そのためだけにスペインを旅の日程の中に組み入れたのではないかと脈絡もなく思った。馬鹿げてる、そう思い込もうとした。しかし、そう思い込もうとすればするほどその思いは強くなっていった。
僕は突然別の世界に置き去りにされたような気分になった。背筋を冷たい何かが駆け抜けた。“僕はひとりなのか・・・? この世界の中に、僕はひとりぼっちなのか?”。分厚い本のページのあいだに落ち込んでしまったような気がした。まるで僕の知らない風景だった。灰色の空、くすんだような土、黴臭い空気、あちらこちらには小指の先ほどもある塵が浮かんでいる。呼吸が震え、激しい目眩が僕を襲った。それでもしばらくして僕は立ち上がり、ふたたび歩きはじめた。ゆっくりと目眩も治まりつつあった。しかし脚はまるで沼地を歩いているみたいに重かった。脚を引きずりながらどこへ行くともなく、僕は長い海岸線を歩いた。
“どこまで行けば終わりがあるのだろう。僕はどこまで歩けばよいのだ? 今までずいぶんと歩いてきたじゃないか。これ以上、まだ歩こうというのか?”それでも僕は歩いた。歩いて、歩いて、歩き続けた。あとには大蛇がのたくったような跡がどこまでも延びていた。
岩場にあと10メートルほどの距離にさしかかったとき、僕の名前を叫ぶ声が聞こえた。もう一度、聞こえた。僕は頭を強く何度も振って、ふたたび歩き出した。“とりあえず、あの岩場まで。今日はこのくらいで・・・”。
また僕を呼ぶ声が聞こえた。今度はもっと大きな声で、もっと悲痛な叫び声で・・・。
僕は背後からいきなり突き飛ばされた。手をつく暇もないまま砂浜につんのめって倒れ込んだ。瞼の裏側に小さな砂が入りこみ、顎の皮膚が破れ、砂利を噛んだ。僕は無神経なほどの強引さで身体をひっくり返された。僕の上にはひとりの女がいた。涙でぐしゃぐしゃになった女の顔が、そこにはあった。
「ばかぁぁ!」
女は鼓膜をつんざくほどの大きな声で叫びながら僕の胸に突っ伏すと、両方の拳を激しく振り下ろした。それは僕の頬にあたり、顎にあたり、肩にあたった。僕は左目に入り込んだ砂粒を涙と指先で取り出してから、それから女を見ようとした。しかし僕には女の顔が見えなかった。
“いいじゃないか、このままで”。僕は考えた。“醜いものも見えなければ、煩わしいものも何もない。これはこれで、まあそこそこに住めるじゃないか”。それでも僕は、漆黒の深い闇の底から首根っこを掴んで僕を引き上げようとする力強い腕の持ち主を、必死で見極めようとしていた。
長い時間が過ぎていた。NFLの試合がひとつ執り行えるくらいの時間だ。女は僕の胸の上で張り裂けるような声をあげて泣き続けていた。何十人もの人々がまるで溺死体でも見るような目で恐る恐る僕をのぞき込み、それからため息をついて去って行った。太陽はすでに西に傾きかけていたが、それでも女の涙と叫び声は止まらなかった。
遠くの砂浜から駆け寄ってくる3人の人影が僕の視界に入った。最初に僕が叫び声を聞いたあたりで、それがひとりの警官とひとりの婦人警官と、そしてナディーンであることがわかった。男の警官は真っ先に僕の元に駆け寄ると、息を切らしながら、あなたはマツモトヒトシさんですかと訊ねた。僕は震える女を抱いたまま静かに頷いた。追いついてきたナディーンが僕のそばにひざまづきながら、間違いないとふたりの警官に言った。3人は顔を見合わせて一斉に安堵のため息と笑みを漏らした。
どこか怪我はありませんか、と婦人警官が女を抱き起こそうとしながら訊いた。女は激しく頭を振り、僕をきつく抱きしめてそれを拒んだ。僕はゆっくりと首を横に振った。婦人警官は少し困惑した表情で唇を舐め、それから微かに頷くとそっとため息をついて立ち上がった。ナディーンが、あとは私がふたりのそばにいますと警官に言った。ふたりの警官は何事かを打ち合わせ、ナディーンに耳打ちした。それから男の警官が僕の顔をのぞき込み、とにかく無事でよかったと言った。そしてふたりの警官は満足げに笑みを浮かべて頷き合うと、ゆっくりとした足取りで去って行った。あとには僕とナディーンとひとりの女が残った。
ナディーンの話によると、
昨夜(といっても今朝早く)、『ペピトーン』の店先の階段で僕とナディーンが寄り添って座っていたとき、僕は不意にナディーンの腕を振りほどいて立ち上がり、いきなり走り出したということだった。ナディーンが呆気に取られて僕が走り去った方角をぼんやりと眺めていると、突然彼女の肩を誰かが掴んだ。それが啓奈だった。啓奈は真っ青な顔をして、今駆け出して行ったのはこの僕ではなかったかとナディーンに訊いた。ナディーンは啓奈の不躾な態度に憤りを覚えたが、啓奈があまりに必死の形相で彼女の腕を掴んで激しく揺さぶるものだから、仕方なしにそうだと答えた。すると啓奈はナディーンを払いのけるようにして僕が走り去った方向へ駆け出して行った。ナディーンは何がなんだかわけがわからず、しばらくのあいだ茫然と啓奈の後姿を目で追った。それからいささか傷ついた気持ちで店に戻り、朝4時過ぎまで鬱憤を晴らすかのように踊った。
新たに知り合った男と店を出て数十メートルと歩かないうちに、ナディーンはふたたび啓奈と出会った。啓奈は涙をこぼしながら途方に暮れた様子でとぼとぼと通りを歩いていた。水色のワンピースは泥だらけで、サンダルを履いた足の先は両方とも血まみれになっていた。ナディーンは何かに衝き動かされたように――なぜ自分でもそうしたのかわからなかったが――男を放り出して啓奈のもとに駆け寄った。何があったのかとかなりしつこく訊ねたが、啓奈は僕がいなくなったとしか答えなかった。
仕方がないので彼女は啓奈を支えながらとりあえず啓奈の足を治療できるところを探した。幸い近くのカフェの軒先に水道の蛇口があったので、そこで啓奈の足を洗ってやった。ふたつの爪が割れ、3ヵ所の切り傷があった。いつもポシェットに入れて持ち歩いているバンドエイドで応急処置をしてやっているとき、啓奈が右手に僕のクロノグラフを握りしめているのに気づいた。ただごとではないと察した。
それからふたりで僕を捜した。夜が明けて7時過ぎまで捜し回った。そのころには啓奈も落ち着きを取り戻していたので、相談して警察にも協力してもらうことにした。途中で啓奈とはぐれてしまったが、通行人のひとりが海岸で男に抱きついて泣き叫んでいる女を見かけたと教えてくれたので、警官といっしょに海岸へ出てみた――
ということだった。
「あなたが何にもしようとしないわけだ」と、ナディーンは煙草を灰皿に突っ込みながら言った。
「隠すつもりはなかったんだ。ただ、君といっしょに飲んでいると楽しかったから・・・」
「あら、私だって楽しかったんだよ、とっても。言ったと思うけど、あなたに声かけてみてよかったと今でも思ってるもの。ちょっとばかし走り回って疲れたけどね」と彼女は言った。「でも、あんな素敵な恋人をほったらかしにするなんて、ちょっと許せないよね」
啓奈は小さな診療所のベッドで鎮静剤を打たれて眠っていた。僕とナディーンはその診察室の前の廊下の椅子に腰かけていた。つい先ほど、海岸で会った警官が簡単な調書を取って帰ったばかりだった。
啓奈はちょっと異常なくらいに自分を見失っていた。僕の身体にしがみついて泣き続け、決して離れようとしなかった。僕たちはそのままこの診療所まで歩いて、啓奈は僕に抱きついたまま鎮静剤を打たれたというわけだ。
「あなたも知らないはずはないと思うけど」とナディーンは言った。「彼女のあなたに対する気持ちはちょっと普通じゃないわね」
僕はナディーンを見た。
「あ、普通じゃないくらいに深い愛情だって言いたかったの。気づいてた、そのことに?」
「気づいてたはずだった」
「『はずだった』? じゃあ昨夜は忘れてたってわけ?」
「そうじゃない」
「どういうわけよ?」
「・・・慣れてきてたんだ。慣れ過ぎていたのだと思う」
「ふむ。彼女の愛情に?」
僕は頷いた。
「それって、ちょっとした倦怠期みたいなもの?」
「・・・」
「ふうん」
「ねえ」と僕は言った。「僕は君に、昨夜君の元から走り去るときに何か言わなかったのか? その・・・たとえば君をひどく傷つけてしまうようなこととか――」
「気にしないでよ、そんなこと」
「でも、知り合ったばかりの君にこんな迷惑までかけてしまったし――」
「そんなこと――」と彼女は語気を強めて言った。「そんなこと、気にしないでったら」
僕は不意に漏れてきた嗚咽にびっくりして彼女を見た。彼女は笑いながら泣いていた。
「なぜ君が泣くんだ?」
「ばか」と彼女は言った。「彼女の・・・彼女のさっきの姿を、・・・思い出しちゃっただけだよ」
診察室から啓奈の声が聞こえた。ふたたび声が上ずりはじめていた。僕とナディーンは慌てて診察室に駆け込んだ。啓奈はかっと目を開き、シーツを握りしめてがたがたと震えていた。
「どこなの、ここは? どこ・・・?」啓奈は震える声で、まるで夢遊病者のように呟いた。「ヒトシは? ヒトシ・・・ヒトシィ!」
僕は啓奈の手を取ってベッドのそばにかがみ込んだ。彼女の瞳はしっかりと僕を捉えていたが、それが現実の僕なのかそれもと幻なのかわからないようだった。震える指先が僕の頬を彷徨い、唇をなぞった。彼女の唇が何かの言葉を形作ろうとして震えていた。やがて啓奈はかすれた声でごめんなさいと言った。
「もう気にしないでいいよ」
啓奈は僕の首に両手を回して身体を起こし、しがみついた。「ごめんなさい。あんなこと・・・許して・・・」
「わかったよ。大丈夫、ほらもう安心して」
啓奈は激しく頭を振った。「違う。違うの・・・そんなんじゃない。気がついたら・・・本当に・・・ごめんなさ・・・・」
あとはもう言葉にならなかった。啓奈は僕の肩口で激しくしゃくりあげて泣いた。僕は彼女の背中に両手を回して優しく摩った。
「行かないで」彼女は僕の首筋に爪を立て、泣き声でそう言った。「どこにも・・どこにも行かないで。ひとりに・・・しないで・・・」
僕はこのとき、啓奈が次第に近づいてきている彼女自身の死をはっきりと感じ取っていることを悟った――そして、ひどく怯えていることも。 |