第六部 第四章
西ドイツのフランクフルト・アム・マイン国際空港へ着いたのは夕方の4時過ぎのことだった。そのアム・マイン空港でちょっとした手違いがあった。観光案内所でミシェランの道路地図を購入し、エイビスに車を借りに行ったときのことだった。日本を発つ前にアメックスを通して予約したレンタカーが何かの手違いで手配されていなかったのだ。おまけに貸し出し用の車はすべて出払ってしまっていた。これはイタリアならともかくドイツでは考えられないことだった。
若いころのロバート・ワグナーに似たエイビスの男性スタッフは確かに予約が入っていることが確認できると、まるで危急存亡の秋にでも立ったかのような顔つきで深く頭を下げた。僕と啓奈は彼の態度に逆に申し訳なく思ったくらいだ。彼はすぐに空港内のほかのいくつかのレンタカー会社に問い合わせてくれたが、あいにくすべての車が出払っているか予約が入ってしまっていた。彼の好感のもてる態度はともかくとしても、僕と啓奈はすでに夕闇の迫ってきているフランクフルトの空を見上げて途方に暮れた。
「わかりました」と僕は言った。「仕方ないです。こんなこともたまにはあるのかもしれません」
彼は泣き出してしまいそうな顔をしてもう一度頭を下げた。
「そんなに気になさらないでください」啓奈は頭を下げたままのロバート・ワグナー氏を気遣うように言った。「別の手段がまったくないというわけではありませんから」
彼は口を半開きにして啓奈を見て、それから僕を見た。僕たちはこのままでは彼が土下座でもしてしまうんじゃないかと思ったので、簡単に礼を言ってそのオフィスを出た。彼は僕たちの背中にもう一度深々と頭を下げた。
ふたたび観光案内所によって、アモールバッハへの交通手段を訊ねようとしたときだった。後ろで誰かが僕の名前を呼んだ。びっくりして振り返ると、エイビスのロバート・ワグナー氏が右手を振って走ってくるところだった。
「よかった・・・」彼は僕たちに追いついて息も絶え絶えにそう言うと、両手を膝についてはあはあと肩で息をした。
「どうされたのですか、そんなに息切らして?」啓奈はびっくりして思わず彼の肩に手をかけ、そう訊ねた。
「大丈夫ですか?」と僕も言った。
「いや・・・ハアハア・・・ちょ、ちょっと待ってください・・・」と、彼は必死に呼吸を整えようとしながら言った。
僕と啓奈は彼の荒い息づかいが治まるのを待った。ある程度落ち着いてくると彼は、たしかアモールバッハに向かわれるとおしゃいましたねと僕に訊ねた。僕ははいと答えた。
「私は今からダルムシュタートまで行かなきゃならんのです」と彼は言った。「妻の実家なんですが」
「はあ・・・」
「よろしかったら――いえ、できましたらぜひともそうさせていただきたいのですが――私の車でご一緒しませんか、アモールバッハまで」
僕と啓奈は顔を見合わせ、彼の言ったことの真意を互いの目で確認した。
「それはつまり・・・」と啓奈は言った。「私たちをお送りしてくださるということでしょうか?」
彼は頷いた。「おふたりの邪魔をするつもりはございませんが、できましたらぜひ・・・」
「そのダル・・・ダル何とかというのはアモールバッハと近いのですか?」と僕は訊ねた。
「ダルムシュタートです。ええ、ほんのわずかな距離のところです」
「ご迷惑では?」と啓奈は訊ねた。
「とんでもございません」彼は首と右手を横に振った。「そもそもご迷惑をおかけしたのは私どものほうなのですから」
僕は困惑した面持ちで啓奈を見た。ところが、啓奈はすでに満面の笑みを浮かべて彼を見ていた。
「ねえ、お言葉に甘えましょうよ。せっかくだから」と啓奈は日本語で僕に言った。
「本気なの?」
「ぜんぜん悪い人じゃなさそうだし、それに今から列車かなんかの手配をしてたら、ホテルに着くのは真夜中になってしまうわ」
「真夜中なんてことはないだろうけど・・・そりゃ、確かに悪い人のようには見えないけどね――」
「ね、そうしましょ?」啓奈は僕の肩をとんとんと叩いた。「――本当にお言葉に甘えさせていただいてよろしいのでしょうか?」
「もちろんです」とロバート・ワグナー氏は笑顔で答えた。
「あの、どこかそのへんの・・・森かなんかに連れ込んで、その・・・」
僕はびっくりして啓奈を見た。
「私が? まさか」彼は真顔できっぱりと否定したあと笑った。
そんなわけで、僕と啓奈は彼の車でアモールバッハまで送ってもらうことになった。
彼はアウディ100アバント2.3Eの運転席で、ヴォルファールトと名乗った。当然名前のほうも教えてくれたのだが、僕にはそれを自分の口に出して言えるほどはっきりと聞き取れなかった。年齢は32歳、ダルムシュタートへは、はじめての子供を産んだあと経過があまり思わしくなくて、実家で静養中だった彼の奥さんを迎えに行くということだった。
「それで、奥様のお身体の具合はもうよろしいんですか?」啓奈は前に身を乗り出して彼にそう訊ねた。
「ええ、おかげさまで」と彼は答えた。「だいぶ良くなったと電話で言っておりました」
「それは良かったですね」と啓奈は言って、まるで自分ごとのように喜んだ。
「ひと安心といったところです。ところで、あなた方はご新婚旅行か何かで?」彼は、僕たちがこの旅行の計画を立てはじめたときから何度も、それこそうんざりするほど耳にしてきた質問を口にした。
「いえ――」
「はい、そうです。10日前に結婚したばかりなんです」
「それはそれは。おめでとうございます。せっかくのご新婚旅行に水を注すようなことになってしまって、まことに申し訳ござしません」
「ちょっと――」僕は啓奈の腕を肘でつついた。「どういうつもりだ、いったい?」
「いいからいいから。――ヴォルファールトさんはいつもこんなにご親切なんですか?」
「親切? ああ・・・いえいえ、いつもというわけでは・・・。ただ、あなた方にとんだご迷惑をおかけしてしまいましたから。そう、以前に一度だけタクシーがつかまらなくて困っていらした日本人の女性を市内のホテルまでお送りしたことがありましたね。最近は日本の方も西ドイツによくみえられますが、でもアモールバッハというのは珍しい」
「あまり日本人は行かないのですか、アモールバッハへは?」
「日本の方だけではありませんよ。あんなちっぽけな村を訪れるのはドイツ人の、それも『デル・シャーフォフ』を知っている人たちくらいのもんです」
「そうなんですか」と啓奈は感心したように言って僕の脇を肘でつついた。「――ね、あのホテルを選んで正解だったでしょ?」
啓奈とヴォルファールトさんは彼の奥さんと子供の話だとか我々の子供の予定だとか、彼が飼っているシェパード犬の話だとか、そういった話をホテルに到着するまで続けた。僕はふたりの会話をそれとなく聞きながら、すでに薄闇が覆いはじめたマイン川沿いの森をずっと眺めていた。一度だけ木材を積んだ大きな船を見かけた。森の樅の木々の深い緑色を眺めていて、僕はふと美奈子が死んだ日にはいていた同じ色のスカートを思い出した。僕は心の中で美奈子にそっと礼を言った。
ヴォルファールトさんの運転するアウディは、6時を少し回ったころ『デル・シャーフォフ』に着いた。僕たちはヴォルファールトさんに礼を言い、啓奈はラゲッジの取っ手に付けていた七宝焼きの可愛らしいキーホルダーを奥さんへと言って差し出した。ヴォルファールトさんはみたび深々と頭を下げた。
僕たちの部屋はハネムーナー用のスイートだった。しかしスイートと言っても、その部屋は高価な家具が並べてあったりマーブルが使ってあったりというのとは少々趣を異にしていた。天井も壁も木の柱や梁が剥き出しで、高級というよりは素朴といったほうがしっくりきた。そしてその素朴さはエレガントな素朴さだった。正直に美しいと思った。
このホテルも啓奈の選択のひとつだったわけだが、僕はこのホテルに入るなり改めて彼女の鋭敏な感性を痛感した。おまけにそこはとても清潔で、啓奈なんかは――僕にはどうして彼女がそんなことをするのかさっぱりわからなかったのだけれど――まるで姑のように埃の残っている場所はないかと30分間も部屋の中を探し回ったくらいだ。結局、彼女が見つけてきたのは机の引き出しの奥に積もったほんの微かな埃だけだった。彼女も相当にきれい好きなほうだったから、この部屋の清潔さは並大抵ではなかった。
シャワーを浴びてさっぱりしたあと、レストランに行ってボリュームたっぷりのバイエルン料理を食べた。それから赤砂岩の暖炉に早々と火の入った柔らかな照明のラウンジで、僕はきりっと冷えたシュタインヘーガーをロックで、啓奈はスプリッツァーを飲んだ。
「ねえ、ちょっと・・・」啓奈がいきなり椅子から立ち上がりながらそう言ったのは、僕が2杯めのシュタインヘーガーを注文し終えたときだった。彼女は空港で買ったミシェランの道路地図をぼんやりと眺めていたのだ。
「これ・・・見てよ」彼女は地図に見入ったまま歩み寄り、僕へ地図を差し出した。「ほら、ここ」
僕は彼女が指したところを見てみた。そこには[DARMSSTADT]と印刷された小さな文字があった。
「ダー・・ダームズ――」
「ダルムシュタートよ。ほら、ヴォルファールトさんが今から奥さんを迎えに行くって言ってたところじゃない?」
「ああ、なるほど。こんなところに――ええっ!?」
「・・・でしょう?」啓奈は天を仰ぎながら大きくため息をつき、それからどさっと椅子に腰を落とした。「信じられない・・・」
僕は思わず地図に釘付けになった。と言うのも、ヴォルファールトさんがこれから向かうと言ったダルムシュタートはフランクフルトからほぼ真南で、それに対して僕たちが今滞在しているアモールバッハは南南西の方角にあり、しかも直線距離にしてもフランクフルトからダルムシュタートまでの倍はあったのだ。つまり、ヴォルファールトさんはダルムシュタートの倍の距離をわざわざ送り届けてくれたのだ。
「ぜんぜん方角が違う・・・距離も倍はあるよ」
啓奈はもう一度ため息をついた。「彼に悪いことしちゃったわ、私・・・」
「まいったな」僕もため息をつきながら頭をかいた。「彼は本当に親切な人だったんだ」
「あの方となんとか連絡は取れないかしら?」
「会社に連絡すれば――そうだよ、会社に連絡すれば彼と話ができる。お礼もできるよ」
「もう閉まっちゃったかな?」
「明日だ。明日の朝電話をかけてみるよ」
翌朝僕はエイビスに電話を入れた。彼はもちろんちゃんと出社していた。僕が何も知らないで好意に甘え過ぎてしまったお詫びを言うと、彼は信じられないくらいに恐縮した。そして、お礼をしたいので今日か明日にでも奥さんといっしょに食事でもどうかと提案すると、彼はさらに恐縮した。それでも僕が引き下がらずにいると、彼はしばらく考え込んだのち、明後日ではいかがでしょうと言った。僕はかまいませんと答えた。彼は、それでは明後日の昼ごろお迎えに参りますと言った。僕は楽しみにしていますと言って電話を切った。
僕はホテルの前の牧草地を散歩しながら、啓奈にヴォルファールトさんの返事を伝えた。そこはとてもホテルの庭とは思えない風景の中だった。ホテルの古い樫の玄関を出ると、まず羊飼いと大きなアフガン・ハウンドに引き連れられた羊の群れに出くわした。若い羊飼いは玄関先で思わず立ちすくんでいる僕と啓奈に手を上げて、笑いながらおはようと言った。それから彼は地球の裏側にでも届きそうな長い杖をつきながら、羊を連れて牧草地を下って行った。
気を取り直して牧草地に出てみると、6頭の馬が放牧されていた。サラブレットのような研ぎ澄まされた馬ではない。農耕用のずんぐりむっくりの馬だ。彼らは柔らかな10月の朝陽を浴びながらのんびりと草を食んだり、ちょっと追いかけっこをしてみたり、興味深げに僕たちを見つめたりしていた。それほど高くない山々に囲まれた牧草地はなだらかなスロープを描いて下り、向かいの山にいくつかの別荘の建物が見えた。思わずため息が出てしまいそうな穏やかな光景だった。
「ねえ」と啓奈は言った。それは僕がヴォルファールトさんの返事を彼女に伝えて、しばらくしてからのことだった。「ヴォルファールトさん、明後日って言ったの?」
「そう、明後日の昼――あ・・・」
「もう・・・」啓奈は呆れたように言った。「本当にあわてんぼうなんだから」
「ごめん・・・」
「すぐに連絡入れたほうがよくない?」
「ああ、そうする」
僕はホテルに引き返して再度ヴォルファールトさんに電話を入れた。
「そろそろ電話がくるころじゃないかと思ってましたよ」と彼は穏やかな口調で言った。
「は?」
「いえ、そろそろ気づかれるころじゃないかと思ってたんです」
「はあ」
「私たちは明後日でぜんぜんかまわないのですが、あなた方は何かご予定でも?」
「い、いえ、予定も何も、明後日の朝にはもう僕たちはここを発ってしまうんですよ」
「ですから、それでいっこうにかまいません。私と妻がお迎えにあがります」
僕は彼の言わんとしていることがさっぱりわからなかった。僕たちは明後日の10月7日にはアモールバッハを離れ、バーデンバーデンに向かうのだ。
「もうバーデンバーデンへの足は確保されてしまったのですか?」と彼は相変わらず穏やかな口調で訊ねた。
「いえ、それはまだ・・・」
「でしたら、よろしいんではないでしょうか、明後日で」
「どうして僕たちがバーデンバーデンへ向かうとご存知なのですか?」
「昨日、車の中で奥様からお聞きしましたよ」
「奥様? あ・・ああ、奥様・・・奥様、ね」
「お美しい方です、奥様は」
「いえ、この際彼女のことはどうでもいいんですが、その・・・」
「私と妻がバーデンバーデンまでご案内して差し上げますよ。もちろんあなた方がよろしければの話ですけれど」
「はあ・・・え・・あ、あの、ちょっと待ってください。それは・・・そこまであなたにしていただいたら、僕たちは本当に困ったことになってしまいます」
「困ったことになる? ほう、たとえば?」
「たとえば――たとえば・・・そう、たとえばドイツで買ったお土産が日本に帰って不良品だったと気づいたとしても、クレームのひとつもつけられなくなってしまいます」
「ハハハ――いや失礼。あなたはなかなかのユーモアのセンスをお持ちの方だ。またお会いできるのが一層楽しみになってきましたよ」
「い、いえ、ユーモアとかそういうんじゃなくて・・・」
「本当にご迷惑でなければそうさせていただけませんか?」彼は驚くほど真剣な声でそう言った。
「ご好意は大変ありがたいのですが・・・」
「お気になさらんでください。私たちがそうしたいと言っているのですから」
「はあ」
「これもなにかのご縁です」
僕は何度も礼を言い、そのたびに彼は何度も恐縮した。そして、僕は電話機に向かって何度も何度も頭を下げていた。気がつくと、フロントのヨハンナさんが僕を見てクスクスと笑っていた。
次の日僕と啓奈は、数日前からホテルに滞在していた夫婦のふたりの子供を連れて近所の丘にピクニックに出かけた。子供はふたりとも女の子で5歳と8歳、ともになかなか可愛らしい娘たちだったが、なんといってもおしゃまな盛りである。おまけにふたりとも好奇心のかたまりが服を着て歩いているようなものだった。そんな女の子を預かるほうもほうなら、知り合ったばかりの僕たちみたいな若いカップルに平気で預けてしまう親も、僕からしてみればちょっと信じられなかった。
前夜の7時ごろ、早めの夕食も終わってのんびりとラウンジの椅子に腰かけ、シュタインヘーガーを飲りながらジェラルド・ペティヴィッチの『To Live and Die in L.A.』を読んでいたときのことだった。どんな経緯があったのか僕にはわからなかったのだが、啓奈はいつのまにかフロントのヨハンナさんとすっかり仲良くなって、僕のことなどそっちのけでラウンジの隅の椅子に陣取り、ふたりで話しこんでいた。ふたりとも妙に深刻な顔つきで話しているときもあれば、不意にはじけるような楽しげな笑い声が聞こえて来ることもあった。
僕はペーパーバックに神経を集中していて、いつのまにかふたりの女の子が背後から本をのぞき込んでいることにまったく気づかなかった。背後からいきなり可愛らしい声で「ねえ」と言われて、僕は思わず椅子から飛び上がってしまったのだ。ふたりの女の子はそんな僕を見てけらけらと笑った。
背の高いほうの女の子が――当然のことながら――ドイツ語で僕に話しかけてきた。僕にはまったくと言ってよいほどドイツ語はわからなかったので、申し訳ないのだけれど僕はドイツ語があまり理解できません、とその女の子に片言のドイツ語で伝えた。するとその女の子は今度は英語で、“でもあなた、たった今ドイツ語を喋ったじゃない?”と言った。呆気に取られていると、ふたりはまたけらけらと笑った。
「君は英語が喋れるの?」僕は椅子に座りなおしながら、背の高いほうの女の子にそう訊ねた。
「もちろん喋れるわよ」と彼女は答えた。
「私も少しだけ」と、小さいほうの女の子が僕の肩に遠慮がちにそっと触れながら言った。
聞けば、ふたりは先月まで父親の仕事の関係でワシントンに住んでいたということだった。僕が読んでいた本の表紙に“L.A.”の文字を見つけ、それでどうやら興味を示したようだった。
「あなたはアメリカ人なの?」と、マリーと名乗った背の高いほうの女の子が僕に訊いた。
「どうして?」と僕は訊き返した。
「だって、英語を喋ってアメリカの本を読んでいるもの」と彼女は言った。
「いや、僕は日本人だよ」と僕は言って笑った。「知ってる、日本という国のこと?」
「日本て国は知ってるわ。学校で習ったもの。でも英語を喋る日本人は、私知らない」
「私も知らない!」アンナと名乗った小さいほうの女の子が僕の肩を揺さぶりながらそう言った。
「君たちだって英語を喋ってるよ」
「それはそうだけれど・・・」とマリーは言った。
「それはそうだけれど・・・」とアンナも言った。
僕はもう一度笑った。
気がつくと、ヨハンナさんと啓奈が僕たちのほうを見てくすくすと笑っていた。僕はその場を繕うように咳払いをしてふたたび読書に戻ろうとした。しかしそばでマリーとアンナがしきりにあれこれと質問してくるものだから、僕は本に集中できず、とうとう読書を諦めた。
僕はマリーとアンナのかなり突っ込んだ質問を四苦八苦しながらかわしていった。実際、ふたりはかなりのおませだった。僕がひとり旅じゃないと答えると、じゃ誰と来ているのかと訊くし、女の子だと答えると、それは恋人なのかと訊ねるし、まあそんなところだと答えると、結婚はいつするのかと訊いてくるしで、僕は本当に冷や汗をかきながら30分近くも彼女たちの無邪気な会話に付き合わねばならなかった。ヨハンナさんと啓奈は時折僕とマリーとアンナのたわいもない会話の様子を伺ってクスクスと笑いながら、僕の知らない世界の話を続けていた。
姉妹の両親がラウンジに入ってきたのは、僕がほとほと疲れ切ってからのことだった。父親はアンナを抱きかかえ、ご迷惑をおかけしましたときれいな日本語で言った。母親はあとに続いて、どうも申し訳ございませんでしたとやはり日本語で言った。僕は唖然となって彼らを見つめた。
マリーとアンナの両親は紅茶を注文して僕の隣りの椅子に腰かけた。話によると、父親は――察するところ――西ドイツ政府のかなりの要職に就いているらしく、その関係で先月まで日本に3年間、アメリカには6年間住んでいたということだった。マリーは日本での最初の年に生まれ、アンナはアメリカでの最初の年に生まれた計算だった。おかげでふたりの娘は純粋なドイツ人でありながら本来の学校とは別にドイツ語の学校にも通うという、ちょっと得がたい経験をしているということだった。
僕は3年間程度の現地生活で――彼らが日本語を喋るのと同じほどに――果たして僕にもドイツ語が流暢に喋れるようになるものだろうかと、いささか自信をなくしながら思った。それでも、彼らにはどこかの政府高官や外務省の役人に見られる高慢な態度や媚び諂うような素振りはまったくなく、僕はすぐに彼らに対してかなりの好感を抱くようになった。
しかし8時を回り、啓奈とヨハンナさんがお喋りの仲間に加わり、どこをどう辿ったのか僕にはさっぱりわからない複雑な経路を経て、次の日僕と啓奈がマリーとアンナをピクニックに連れて行くことになったときには、僕は思い切り腰を抜かしそうになった。最初のうちさすがに両親は幾許かの不安を抱いたようだったが、それも啓奈と話しこんでいるうちにいつのまにかきれいに払拭されてしまったみたいだった。おまけに両親もいっしょに行くという素振りを見せると、なぜかふたりの娘が声を揃えて、ヒトシとケイナとマリーとアンナの4人で行くと頑なに言い張ったのだ。そんなわけで、僕たちはおしゃまな――それも相当におしゃまなお嬢さんをふたりも連れて出かけることになってしまったのだ。
昼食はヨハンナさんが手配してくれて、ローストビーフとマッシュドポテトのサンドウィッチピクルス付きとフライドチキン、朝ホテルの畑で獲れたばかりの野菜を使ったたっぷりのサラダ、それにボックス・ボイテル型の地元のフランケンワインとレーベンブロイとジンジャー・エールを持たせてくれた。
「ケイナはヒトシのことを愛してるの?」と、マリーが飲み物の入ったバスケットを右手でぶらぶらさせながらわりと真剣に訊いた。
「愛してるわよ」と啓奈は子供向けの真顔で答えた。
「どれくらい?」と、アンナが道端の小さなピンク色の花を摘みながら訊いた。
「とってもよ」
「とってもってどれくらい?」とマリーがふたたび訊いた。
「そうね・・・」啓奈はほんの少し考えて言った。「あなたたちのパパとママくらい、かな」
「やったぁ!」マリーはそう叫んで軽くステップを踏んだ。アンナは摘んだばかりの草花の束を啓奈に差し出しながら、唇を尖らせてかすれた口笛を吹いた。
そのあと彼女たちは同じ質問を同じ担当で僕に向けた。僕が曖昧に答えると、マリーはそんなの不公平だと言い、アンナは私もそう思うと言った。
あたり一面信じられないくらいにまだ青々とした小高い丘に到着すると、我々はヨハンナさんが用意してくれた昼食をビールとジンジャー・エールを飲みながら食べた。啓奈がアンナの唇のへりについたマッシュドポテトを指先ですくい取り、なんのためらいもなく自分の口に持っていった仕種に、僕はとても不思議な満足感を覚えた。
「なんだかとても不思議な気分ね」と啓奈は、マリーとアンナが遊びに行ってしまってふたりきりになったとき、ぽつりと言った。
僕はビニールシートの上に寝そべってワインを飲みながら、そして少し霞がかったような青空を眺めながら、頷いた。「なんだかいっぺんに歳を取ってしまったみたいだ」
「それってどういう意味?」
「わからない?」
啓奈は鼻の頭を人差し指で擦りながら考える振りをした。
「まるで何年か先の、子供ができた僕たちみたいだって言ったんだよ」
啓奈は僕のほうを向き、じっと僕を見つめて、それから目を閉じて笑顔を作った。「なんか・・・思いっきり照れちゃうな」
「当然のことを言ったまでだよ」僕は小さなゴムボールで遊んでいるふたりを見ながら言った。「このままいけば、僕たちにもマリーやアンナのような素敵な子供が生まれるんだ」
啓奈は優しい笑みを浮かべて僕のそばににじり寄り、そっと口づけた。「だからあなたのこと好きなのよ」
「あーっ!」突然マリーが僕たちを指して叫んだ。「キスしてる!」
はじかれたようにふたりは僕たちの元に駆け寄って来た。それから僕たちの前にちょこんと並んでしゃがみ込み、もう一回してと言った。僕と啓奈は笑ってもう一度口づけた。マリーはほんの少し顔を赤らめ、アンナは大きな目をぱちぱちさせて僕と啓奈を見つめた。
それから僕たちは4人でボール遊びをし、アメリカ式の鬼ごっこをした。僕も啓奈もふたりの子供たちと同じくらいに無邪気にはしゃいだ。3時を回り少し日が翳ってくると、僕たちは荷物をまとめて家路についた。僕はアンナを肩車し、啓奈とマリーは本当の母と娘のように手をつなぎ、来た道を辿った。
夕食は姉妹の家族とともにした。マリーとアンナはすすんで僕と啓奈のあいだの席に座って父親と母親を少々びっくりさせた。
「この娘たちは今までけっこう人見知りをしてたんだがねぇ」と、父親は食後のラスティ・ネイルを飲みながら言った。
「驚きよ」母親はマンゴーのシャーベットをスプーンですくいながら言った。「見ず知らずのあなたたちにこんなに馴れちゃうなんて」
僕と啓奈は互いを見て、それからきょとんとした目で大人たちを見回している二人の少女を見た。僕と啓奈の顔には自然と笑みがこぼれた。
「あのね」とマリーが少々身を乗り出して両親に言った。「ヒトシとケイナはパパとママと同じくらいに愛し合ってるのよ」
「そうよ」とアンナも負けじと言った。「だから私、ふたりが好きなの。だってキスするところまで見せてくれたんですもの」
大人4人は同じくらいにびっくりして互いの顔を見合わせ、そして同時に吹き出した。「まいったな」と父親は言って苦笑いを浮かべた。
「実は、私たちも本当に自分たちの子供ができたような錯覚を一日じゅう抱いていたんです」と啓奈はふたりの子供たちを見ながら言った。
「あなたたち、子供の予定は?」母親が少し声をひそめてそう言った。
(実は、ここでも僕たちはほとんど啓奈の一存で若い新婚夫婦として通っていたのだ。)
「赤ちゃん生むの?」とマリーがそつなく啓奈に訊ねた。
「そうねぇ・・・」啓奈は思いを巡らすような笑みを浮かべた。
「男の子がいい!」とアンナが素早く言った。「私、弟が欲しかったの」
僕はもう何度めかわからない驚きを隠せずにアンナを見た。何の裏もない素直な笑みをアンナは浮かべていた。
「私もできたら男の子のほうがいいな」とマリーがやや控えめに言った。「そしたらもっともっと違ったお遊びができるでしょうし、もっともっと楽しくなるような気がする。――ねえ、私よいお姉さんになれると思うわ」
屈託のない笑みを浮かべて大人たちを見上げているマリーとアンナを、僕は唖然となって見つめた。父親は照れたような笑みを浮かべ、母親は口元に手を当てて呆れたような笑みを浮かべた。そして僕は笑うこともできずにうつむき、啓奈はそっと席を立った。
「啓奈・・・」
啓奈は僕の声も届かない様子で、小走りにテーブルを離れていった。マリーとアンナがほとんど同時に彼女の名前を叫んだ。何人かの客が手を止めて啓奈の背中を追い、それからふたりの少女を見つめた。あとを追いかけようとして慌てて椅子を降りようとしたアンナを、僕はちょっと気分が悪くなっただけだからと言って止めた。アンナは啓奈が出て行ったレストランの入り口を心配そうに目で追い、マリーは疑わしげに僕を見た。両親には僕がアンナに言ったことが嘘だということがはっきりとわかっているようだった。僕は両親に断わりを言い、マリーとアンナには様子を見てくるからと言って席を立った。マリーがついて席を立とうとしたが、母親が厳しい目でそれを止めた。
啓奈はホテルの玄関先のテラスのレンガ壁に寄り添うように立っていた。玄関の扉を開けるとすぐに、彼女のすすり泣く声が耳に届いた。啓奈は壁のほうを向き、両手で顔を包みこんで泣いていた。僕は彼女にかけてやる言葉が見つからずに、がっくりとうなだれたまま玄関先に立ち尽くした。
気がつくと、目の前に啓奈が立っていた。彼女は唇を噛み締めて僕を見つめ、それから崩れるようにして僕の胸の中に倒れ込んだ。彼女は声を出して泣いていた。小さな肩が世界じゅうの不幸せを詫びるかのように震え、両手が桎梏から救いを求めるかのように僕の背中を這った。僕は彼女の身体をきつく抱き、髪の毛を撫でた。
どこからか小川のせせらぎが聞こえた。その音に惑わされながら、啓奈の震える喉が言葉を作った。啓奈はまるで瀕死の鸚鵡のように、ごめんなさいという言葉を繰り返し呟いた。僕はさらに両腕に力をこめ、彼女の髪の毛の中に顔を埋めた。清んだ空気が僕と啓奈を包みこみ、そして揺れた。きれいな月がまるで慰めの言葉でも吐くかのように僕たちを見下ろしていた。
ホテルの玄関先で抱き合ったまま、ふたりしてどのくらい泣き続けていたのかわからなかった。気がつくとふたりの涙はすっかり枯れ果てていた。最初に目にした位置に月はなかった。それでも僕と啓奈はあえて新たな涙を貯水しようとでもするかのように、互いの身体を抱き続けた。
「そろそろ中へ入ろうか」とふたりの少女の父親は言った。物静かで、すべてを悟りきったような声だった。
背後で父親が僕たちを見ていることに、僕は数分前から気づいていた。そして、彼が声をかけるタイミングを計っているのだということにも。彼は絶妙な――まさに寸分の狂いもない正確さで声をかけてきた。僕と啓奈はゆっくりと頷くと彼に従った。
翌朝、僕たちは9時にホテルをチェックアウトし、ヨハンナさんに車で近くのレストランまで送ってもらった。ヴォルファールトさんへはこのレストランに来ていただけるようヨハンナさんに伝言をお願いした。昼過ぎにヴォルファールト夫妻が迎えに来てくれるまで、僕たちはこのレストランで時間をやり過ごすつもりだった。それは昨夜僕と啓奈と少女たちの両親の4人で話し合って決めたことだった。僕と啓奈のために、そして何よりもマリーとアンナのために・・・。
ヴォルファールトさんは12時半に僕と啓奈を拾い、バーデンバーデンへと車を走らせた。『ブレナーズ・パークホテル』で僕たちの大量の荷物をおろしたあと、バーデンバーデンからさらに南のトンバッハという小さな村に向かった。そこは鬱蒼と茂る森に囲まれた小さな盆地に家々が点在するだけの、とても静かな村だった。僕たちは『ホテル・トラウベ・トンバッハ』の『シュヴァルツヴァルト・ステューベ』というレストランで食事をした。料理はとても美味しいものだったが、僕と啓奈にとってそれはただ単に空腹を満たすものでしかなかった。
夫妻は奥さんのほうが病み上がりだとはとても思えにくらいに明るく、生き生きとしていた。彼らのそんな様子は僕と啓奈にとって何よりも大きな慰めとなった。
『ブレナーズ・パークホテル』の玄関先で名残を惜しんでヴォルファールト夫妻と別れたあと、僕と啓奈は部屋に入ってシャワーを浴び、それから広大な庭に面したバルコニーへ出た。ホテルの庭を流れるオース川のせせらぎが聞こえ、どこかの木でみみずくが鳴いていた。あたりは静まり返り、部屋から漏れる明かりで庭の緑が闇に浮かび上がっていた。
「私、これからどうしたらよいのだろう」啓奈は手摺に持たれて庭を見下ろしながらそう言った。顔は青白かったが、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「今のままでいいと思うよ」と僕は言った。
「でも・・・」
「みんな多かれ少なかれ誰かを傷つけながらしか生きられないんだ」
「わかってるわ」と彼女は言った。「でも、彼女たちだけは傷つけたくなかった」
「仕方がないさ。あんな展開は誰にも予想できなかったんだ」
「私は・・・彼女たちと会うべきじゃなかった」
僕は啓奈を見た。彼女の口元にはやはり微かな笑みが浮かんでいた。その笑みはどこか諦めにも近い笑みだった。僕は視線を庭に戻し、僕はそうは思わないと言った。
「なぜ?」彼女は僕が当然否定すると予想したかのように静かに訊き返した。
「あれはあれで楽しかったんだ。マリーとアンナも、あんなに楽しそうだったじゃないか」と僕は言った。「それでいいんだよ」
「大人になったら彼女たちにもわかるかな?」
「ああ」
「幸せになってほしい、マリーとアンナには・・・」
翌日、僕と啓奈はホテル内のジムで体力測定と簡単な健康診断を受け、それぞれに合ったエクササイズプログラムをインストラクターに作成してもらった。驚いたことに、僕と啓奈のプログラムのあいだには一般的な男性と女性の違いほどしか差がなかった。それを見て僕と啓奈は思わず唖然となった。
「あなた、どこか具合悪いの?」
「気づきもしなかった」
「あなたもあと2ヶ月かもよ」
「それほど喜ばしいことはないね」
「ばかね」
僕たちは暖かな木漏れ日の下でのんびりと昼食を取り、プログラムに沿って1時間ほどジムで汗を流し、室内プールでたっぷりと泳いだ。それから啓奈はエステティックサロンで全身美容を施してもらい、そのあいだ僕は部屋のバルコニーでルームサービスの紅茶を飲んだ。彼女は部屋に戻って来るなり着ていたものを全部脱ぎ、きれいになった? と僕に訊ねた。僕は笑いながら、ヴィーナスみたいだと言った。彼女はにっこりと微笑んで僕の額にキスした。
旅はまだはじまったばかりだったが、僕と啓奈にとってバーデンバーデンでの6日間はよい休息になった。エクササイズで軽く汗を流し、プールでひと泳ぎし、午後の紅茶をゆっくりと楽しみ、それから『光の谷間』を散歩した。夜はふたりとも早めに眠った。バルコニーで朝陽に包まれて取る朝食がここでの楽しみのひとつになっていたからだった。
僕と啓奈は6日間のあいだ一滴もアルコールの類を口にしなかった。そして、一度もセックスをしなかった。これといった深い意味合いがあったわけではない。特別酒を飲みたいと思わなかっただけだし、特に欲望が蓄積されているというわけでもなかったのだ。
バーデンバーデンを離れるころには、ふたりとも肉体的にも精神的にもかなり元気を取り戻していた。特にこれといった出来事もなかったが、実のところそれが僕たちにとっては何にもましてよい薬となったのだ。 |