第六部 第三章
莉絵さんがフィン・エアーのオフィスに預けておいてくれた荷物をフィウミチーノ国際空港で受け取ると、僕と啓奈はアリサリダに乗り込みサルディーニア島へ飛んだ。オルビア空港からタクシーに乗り、サンドピンク、アズーロの壁の家並みを抜けてコスタ・スメラルダに着くと、すぐに僕たちが泊まる『ホテル・ピトリッツァ』は見えてきた。なだらかな傾斜の緑溢れる丘に石造りのヴィラが点在するコテージスタイルのホテルだ。9月下旬の午後3時とはいえ、昨日滞在したヘルシンキから比べると地中海の日差しははるかに強烈で、エアコンのあまり効かないタクシーの中では僕も啓奈もジャケットを脱ぎ、ホテルに到着してから再度着込んだ。
チェックインを済ませて石畳の階段を登りコテージに入ると、啓奈は着ていたものをすべて脱ぎ捨ててバスルームに駆け込んだ。彼女が出たあと、僕も清涼感のある白と水色のタイルのバスルームでシャワーを浴びた。
シャワーから出ると、僕は真っ白なボタンダウンシャツに着替えてテラスに出た。石畳のテラスには、目の前に広がる海とまったく同じ色の目の覚めるようなブルーのクッションが敷かれた籐製のサンチェアが2脚用意されていた。テーブルの上にはブーゲンビリアの花瓶とフルーツの入ったバスケット、その脇では汗をかいた銀製のバケットの中でボランジェのボトルが眩しい光をまとっていた。
啓奈はゆったりとしたピンクのストライプのワンピースを着ていた。肩までの細い髪の毛が海からの風を受けてゆっくりとなびいていた。時折強い風がスカートの裾を巻き上げ、それはブーゲンビリアの花びらのように揺れた。
僕はバケットからシャンパンを取り出し、栓を開けてふたりのグラスに注いだ。僕と啓奈は無言でそっとグラスを触れ合わせ、ゆったりとした気分でシャンパンを味わった。長い時間をかけて2杯づつシャンパンを飲み干すと、僕たちはどちらからともなく立ち上がり、抱き合ってキスし、それから部屋をあとにして散歩に出かけた。
あたりを夕闇が包みはじめるとコテージに戻り、啓奈はキャラ・ボーニのぴっちりとした赤のワンピースに着替え、僕はバグッタのクレリックシャツとクレミュのあずき色のジャケットを着込んで、海の見えるテラスレストランへ行った。カジキマグロのカルパチョと仔牛のソテー・サルディーニア風、黒と緑のパスタ・バジリコ入り、トマトとモツァレラチーズのピツァを半分づつ食べ、キャンティワインを一本空けた。それから僕はアマレットのオン・ザ・ロックを注文し、啓奈はイタリアンオレンジ・シャーベットを取った。
食事が終わりコテージに戻ると、蒼い闇が差し込む部屋の中で互いの服を慌しく脱がせ、抱き合った。それからふたりでシャワーを浴び、シャンパングラスを持って裸のままテラスに出た。僕と啓奈はひとことも喋らずに、深夜までテラスのサンチェアに横たわっていた。
翌朝、僕たちは目を覚ますとシャワーを浴び、水着に着替えて浜辺に出た。深くえぐりとられた湾を二度泳いで往復した。彼女の持久力は、かつて野球をやっていた僕と大差なかった。海から上がると白い砂浜にタオルを敷いて横たわり、1時間ほど肌を焼いた。
太陽が高くなってからホテルに戻り、シャンパンを飲みながらゆっくりと昼食を取った。それからコテージのテラスで昼寝をした。途中目を覚ました啓奈は椅子を移動させ、僕の手を握ってふたたび眠った。
目が覚めると、僕たちはホテルのコンシェルジュで道を訊き、スラーゲと呼ばれる紀元前2000年頃の住居跡を訪ねた。僕たちを乗せてくれたタクシーの運転手は、この島にはこれと同じものが7千ヵ所以上残っていると誇らしげに説明した。
湾をはさんでホテルの対岸にある街並みの中でタクシーを降りると、日本ではちょっとお目にかかれない色使いの家々のあいだをゆっくりと散歩して、小高い岩山まで歩いた。僕と啓奈は岩肌に腰を下ろし、夕陽が落ちるまで海を眺めた。風が強く、啓奈は時折目を細め、それでも飽きることなく海を見つめていた。
コテージに帰り着いたとき、あたりはすっかり暗くなっていた。コテージの外壁に取りつけられたランプのオレンジ色の光に照らされて、建物や階段の石はピンクがかった淡い紫色に輝いていた。啓奈はプラダのシックなブラウスにディオールのシルクのパンツを合わせ、僕はジョルジナ・アベルのシャツとモスグリーンのベストを着て夕食に出かけた。
その夜、啓奈はテラスで地中海の風に吹かれながら、満天の星に見取られながら、静かに泣いた。涙が手の甲に落ちる音さえも聞こえてきそうな、そんな泣き方だった。その涙の意味は、今もってわからない。
翌日、アリサリダでナポリのカポディチーノ空港まで戻り、レンタカーを借りて僕たちはポジターノに向かった。車は無理を頼み込んで84年式のイタリアンレッドのアルファ・スパイダーにしてもらった。ワックスでぴかぴかに磨き上げられたそのボディは、僕と啓奈のはじけるような笑顔を明るい陽光の下で映し出していた。僕たちは意気揚々とした気分で車に乗り込んだ。
念願のおもちゃを与えられた子供のように、無邪気にはしゃいで出発したまではよかった。空港を出て1キロと行かないうちに、僕はこのスパイダーがとんでもない代物であることに気づいた。クラッチの切れが妙に悪く、シフトを切り替えるたびにがりがりと不吉な音が足元から聞こえてくるのだ。おまけに煙草に火をつけようとしてほんの一瞬両手をステアリングホイールから離した隙に、スパイダーの鼻先は見事なまでに反対車線に向けて飛び出し、僕は煙草を吹き飛ばしてハンドルを切り返さなければならなかった。そして、ゆうに100メートルの高さはある断崖絶壁を走っている最中には、遂にギアレバーのノブまでがまるで牡丹の花が落ちるみたいに取れてしまった(実際このときには、最初何が転げ落ちたのかわからず、カーブでシフトダウンしようとしてはじめて気づき、ふたりで真っ青になってシートの下を探した)。高速でのステアリングのぶれは目を覆いたくなるほどで、無事にサンピエトロ教会に辿り着いたとき、ふたりは思わず万歳して抱き合ってしまった。
空港からホテルに電話を入れておいたのが正解で、到着したとき教会の前ではふたりのポーターが僕たちを待ち受けていた。薄い色のサングラスをかけたいかつい体格のポーターは比較的聞き取りやすい英語を喋ったが、もうひとりのフセイン髭をはやしたスタッフは、本人はどうやら英語を喋っているつもりらしかったが、僕と啓奈には何がなんだかさっぱりわからなかった。エレベーターまで下りる細い道の途中で啓奈は、彼のは絶対に英語なんかじゃないわと日本語で言った。
「イタリア訛りがひどいのかな?」
「違う、あれは絶対に未知の言語よ。そうに決まってる」彼女はそう言って、ひとりクスクスと笑った。
「ところで――」とサングラスがエレベーターの中で僕に訊ねてきた。「さっきのあれは日本式の挨拶か何かなのかい?」
「『さっきのあれ』?」
「ほら、さっき君たちが車の中でしていたやつさ」
「なんのことなんだ?」僕は日本語で啓奈に訊いた。
「さあ」啓奈は首を傾げた。「私たち何かしたかしら?」
「なんのことを言っているのかよくわからないんだけれど・・・?」と僕はサングラスに言った。
サングラスは訝しげに僕を見て、それからフセイン髭を肘でつついて何事か話しかけた。そして突然ふたりして両手を挙げ、“イエーツァ! ヨウホウィ!”と叫んだとき、エレベーターの扉が開き、我々はロビーに到着した。エレベーターの前に立っていたヨークシャテリアを抱いた老婦人は、両手を高々と掲げたふたりのポーターを見ると、無言のままきびすを返してロビーの奥へ引き返して行った。ふたりは互いの顔を見合わせて両手をゆっくりと下ろし、咳払いをして厳かな面持ちで僕たちの荷物を持った。
ロビーには爽やかな風が吹き抜けていた。白い天井や柱を伝う緑にはピンク色の可愛らしい花が咲いていた。ロビーラウンジの窓辺のテーブルでは、2組のカップルが海を眺めながらのんびりとした表情でくつろいでいた。僕と啓奈は思わずため息を漏らした。
部屋に向かう途中で、サングラスはふたたびさっきの件を訊ねてきた。僕は特別な人と会ったときなどに使う特別な挨拶だと教えた。サングラスは“グラーツェ!”と言って嬉しそうに頷いた。フセイン髭も顔いっぱいに笑みを浮かべて何事かを口走ったが、やっぱり僕たちには理解不能な言葉だった。
「あんな嘘を教えちゃって」ふたりがチップを受け取って部屋を出ていくと、啓奈はソファに腰かけながらそう言った。「知らないわよ、あとでどんなことになっても」(僕はこのとき啓奈の言い分をさして取り合わなかったのだが、彼女の予感は的中した。ポジターノでの滞在期間中、彼らの“イエーツァ! ヨウホウィ!”を頻繁に聞かされる破目になったのだ。)
僕はドアのそばに立って部屋の中を見渡した。どこかで見たような部屋だった。天井も壁も薄いピンク色のせいで、真っ白なタイル貼りの床も白いソファやその他の家具までもほんのりピンクがかって見える。どこかの部屋に雰囲気が似てないか、と僕は啓奈に訊ねた。
啓奈はゆっくりと部屋の中を見回して、そういえばそんな気がすると言った。「もしかして、うちの客間のこと?」
「そう、それだ」
「きっと天井と壁のせいね」と彼女は言った。「でも、けっこう素敵よ。誰かさんの頭の中に入り込んだみたいで」
「え」
「さて、ビーチにでも降りてみましょうか。いかがでございますか、侯爵様?」
「ふむ。そうしよう」
僕と啓奈はさっそく眼下のプライベートビーチに降りてみることにした。啓奈はカポディチーノ空港で買った真っ白なワンピースの水着に着替えた。エレベーターで降りる途中、啓奈と同じくらいの体格をしたこげ茶色の大型犬が乗り込んできて僕たちを驚かせた。しかし、そのあとの犬の行動にはもっとびっくりさせられた。彼は操作盤を見上げてビーチを示すランプが点いているのを確認すると、パッと飛び上がって鼻先でボタンを押して扉を閉めてしまったのだ。それから僕たちのほうへ向いてちょこんと座った。僕がそっと手を差し伸べて顎の下を撫でてやると、彼は気持ちよさそうに舌を出してはあはあと言った。エレベーターが微かに揺れてビーチに到着すると、彼はすくっと立ち上がって扉のほうを向き、わんと一声吠えた。扉が開くと犬は一目散にビーチへ駆け出して行ってしまった。
「勝手知ったる常連さんというわけか」
「彼は毎年ここに来てるのね、きっと」
「羨ましいな」
「ええ」
僕は無意識に口をついて出てしまった言葉に愕然となった。「ごめん・・・悪かった」
「ばかね、なにを気にしてるのよ」啓奈はにっこりと微笑んで僕の手を取った。「そんなこと言ってないで、さあ行きましょう」
僕と啓奈はまたいつものようにフリースタイルで沖合いまで競争した。往復して桟橋の柱に掴まったとき、僕の息は完全に切れていた。彼女は僕より数秒遅れて桟橋にしがみついた。ぶるんと一度頭を振って水を切ると、彼女はふうと大きく息をついて空を見上げた。
「今まであんまり負けたことなかったのになあ」と彼女は肩で息をしながら言った。「あなたには負けてばかりね」
「ほかで勝てることがあんまりないからね」僕は穏やかな波に揺られながらそう答えた。
彼女の頬や唇や肩についた水滴が、地中海の日差しを浴びてきらきらと輝いていた。
「“つき抜けるような空”って、こういうのを言うのね」
僕も空を見上げた。気が遠くなるような空がそこにはあった。どこまでも高く、どこまでも青い空だった。しばらく見つめているとそこに吸い込まれてしまいそうな、そしていつしか自分の身体もブルーに染まって溶けてしまいそうな、そんな錯覚を覚える空だった。
それは僕が幼いころ見た空によく似ていた。幼心に美しいと思った空を、僕は飽きもせずによく眺めていたものだ。その空が今、僕と啓奈の真上に広がっていた。
「懐かしい空、ね」と啓奈は言った。
「ああ」
「あの日、あなたの中にあった空と同じ青い空・・・」と彼女は言った。「でも、私にはこの空を見る機会はあまりなかった」
僕は空を見る振りをしてちらっと啓奈を見た。「たっぷりと見ればいいさ。どこにも行きはしない」
「あなたの中からも、ね?」
「たぶんね」
呼吸が落ち着くと、今度はゆっくりとしたペースで浜辺に向かって泳いだ。途中、彼女はわざとペースを遅らせて僕の後ろに回りこむと、息をたっぷりと吸い込んで海中に潜り、僕の脚を引っぱった。僕はされるがまま海中に沈み、浮き上がろうとする彼女の脚を今度は逆に引っぱった。そこからふたたびマッチレースがはじまった。今度は彼女のほうが先に浜辺に駆け上がった。砂をかけ合い、身体が乾きはじめたころ浜辺にごろんと寝転んだ。
僕は目を閉じて砂に耳を押しつけ、波の音を聞いた。静かに、何度も繰り返されるその音はゆっくりと僕の中に染み込んでいき、やがて青い空と溶け合った。
夕食のあと、ロビーラウンジの先にあるテラスのことを思い出したが、それは次の日の楽しみに取っておくことにした。やっぱりあのタイルのベンチは昼間の太陽のもとで見てみたいもの、と啓奈が言ったからだった。
その夜、僕たちは2日ぶりにセックスをした。啓奈の身体にはくっきりと水着の跡が残り、それは薄闇の中で絶妙なコントラストを醸し出していた。僕はその水着の跡に沿って唇を這わせ、それからゆっくりと彼女の中に入った。彼女のヴァギナは昼間の波打ち際の砂のように熱く湿り、静かに繰り返される波のように息づいていた。僕はしばらくのあいだ動かずに、彼女の首筋にキスしたり背中を優しく撫でたりしながらその感触を味わった。
「ねえ」と啓奈は言った。「あなたのアレ、柔らかくなってきた」
「うそだろ?」
彼女は僕の頬を両手で包み、含み笑いをしながら僕の鼻をそっと噛んだ。「うそよ。すごく気持ちいい、こうしていると。このままずっとこうしていたい」
「このまま眠る?」
「私はかまわないけど、でもあなたのは抜けちゃうんじゃない?」
「啓奈のほうは広がってしまうかもね」
「まさか。試してみようか?」
僕は彼女の中に入ったまま身体を入れ替えて彼女を上にした。彼女は僕の両肩を掴んで、耳から首筋へ、首筋から肩へと唇を這わせた。彼女の髪の毛が僕の頬を撫で、熱い息が肌を湿らせた。僕は彼女の背中に両手をのせたままピクリとも動かなかった。長い時間が流れ、やがて開け放たれた窓から一陣の風が吹き込むと、彼女は微かに全身を震わせた。
「ねえ、動いてもいい?」啓奈は切なげな声で言った。「私、我慢できそうにない」
「かまわないんじゃなかった?」
「だめ・・・」
彼女の息づかいが激しくなり、肩や背中にはうっすらと汗が浮いてきていた。僕が肩をそっと掴むと、それがなにかの合図だったかのように啓奈は上体を起こし、大きく伸びをするような感じで顎を反らした。同時に彼女の唇から微かな声が漏れた。それから彼女はがっくりと首を落とすと、僕の胸に手を置いてゆっくりと身体を動かしはじめた。
髪の毛が彼女の動きに合わせて揺れていた。窓から差し込む月明かりを背に受けて、彼女はたった今新たな生命を吹き込まれた最終の生物のように見えた。そこには清純な息吹があり、斬新な躍動感があった。僕は紫色の影を見つめ、新鮮な匂いを胸いっぱいに吸い込み、鮮やかな肉の鼓動を感じ、そして射精した。
サルディーニアで過ごした2日間の啓奈はとても物静かであまり多くを語らず、どこか意識を解き放ってしまったかのような印象を受けたのだが、ナポリの空港でレンタカーを借りたころから彼女はふと意識が戻ってきたみたいに急に生き生きとしてきていた。冗談も口をついて出るようになった。反応も早くなり、ひとつひとつの行動にもめりはりが感じられるようになった。喜ばしい兆候だった。
翌日から僕と啓奈は何もしなで過ごした。朝目が覚めると水着に着替え、青い海や白い砂浜、海を見下ろすプールで思い切り遊んだ。それからシャンパンを飲みながらゆったりと昼食を取り、そして昼寝をした。
地中海を一望できるサンテラスの、思わずうっとりと見惚れてしまうほど美しいタイル貼りのベンチに腰かけて、ときにはアクア・ミネラーレのグラスを片手にペーパーバックを読む。太陽が傾きはじめると気の向くまま思いのままにあたりを散歩して、それからディナーへと向かう。けだるい光の中で迎える朝、シャンパンと長めの昼食、ゆっくりと過ぎていく午後のひととき・・・。ひとつひとつのスパンが3時間くらいで自然に流れていく。日常からかけ離れたそれらにも段々と慣れ、僕も啓奈も次第にポジターノの風にソフィスティケートされていく。そのようにして、地中海の晩夏はゆっくりと僕たちの前を通り過ぎていった。
そして、僕と啓奈の中には何かが残った。僕たちはそれを自分の手で取り出して確認することができた。それはこれから先僕たちを励まし、勇気づけてくれる何かだった。
ポジターノを離れるときが近づいていた。僕はラゲッジの蓋を閉め、部屋の中を見渡す。啓奈は窓を閉め、クッションを元あったところへ戻す。やがて静かにチャイムが鳴り響く。
僕と啓奈とサングラスとフセイン髭は無言のまま荷物を運び出す。静まり返った部屋の中で、僕と啓奈は意味もなく互いの顔をしばし見つめる。それから、どちらからともなく背中に腕を回して部屋を出る。
最後にもう一度、僕は部屋の中を振り返る。なにも忘れ物なんてないはずなのに、もう一度ゆっくりと見渡す。そして、僕は静かに扉を閉めた。 |