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How 'bout Us
作:H.RcGoon



第二部 第一章


 その後、僕と啓奈はふたりだけで会う機会を何度か重ねた。何本かの映画を観て、何軒かのレストランで食事をし、いくつかのコンサートに足を運び、そして何杯かのカクテルをともに飲んだ。とても短い期間だったわりには、僕はよくあれこれと出歩いたと思う。そのあいだに僕は啓奈というひとりの女性を知り、啓奈は僕というひとりの男を知った。そしてキスをした。奇妙なことはなにもなかった。
 森については、最初のとき以来一度も話さなかった。意識して避けていたわけではなかったが、啓奈もその話を切り出そうとはしなかったし、特に気にしている様子も見受けられなかった。そう、何も奇妙なことなどなかったのだ、千恵子と出会うまでは。
 千恵子――彼女の存在は、僕を深い混乱の淵におとしいれた。僕がわずか3ヶ月という短い期間で大学を辞め、東京を去らなければならなくなった原因は――それがたとえ間接的であったにしても――彼女にある。でも、彼女を責め立てるつもりはさらさらない。彼女が意図的に僕をそういった方向へと導いたわけでもなく、彼女が僕に対して直接的に何かをしたわけでもないのだから――何もしなかったわけでもないのだけれど。
 それは僕に対して危害を加えたとは言えない。少なくとも、僕は危害を加えられたとは思っていない。当時も、そして今も。しかし千恵子と出会ったことによって、何かが変わったのだ。僕の中の何かが。

 僕は大学に入学するとすぐに、六本木で新しくオープンしたパブでアルバイトをはじめた。その店を選んだ理由は単純明瞭だった。それまで経験したアルバイトがウェイターという職種に限られていたこと、そしてなんといっても待遇がよい――この二点だった。給料は時給制だっが、同様の他の店と比較しても尋常じんじょうとは思えないほどよかった。
 その店には僕のような男子アルバイトのウェイターが二〇人もいて、常時二〇〇人近い女子大生やら専門学校の女の子やらOLやらが在籍していた。ホステス(彼女たちのことをこう呼ぶと、店の連中は決まって腹立たしげにコンパニオンだと訂正していたが、僕からしてみればどちらもたいして変わりはなかった。やっていることは同じなのだ)がいることなど、僕はアルバイト初日までまるで知らなかった。ウェイター仲間にそのことを話すと、おまえはいったいここに何をしに来たんだ?、とたいそう不思議そうな顔をして言われた。
 その理由は休憩時間中の彼らの話を聞いて明らかになった。彼らはこの店に集まってくる女の子が目当てだった。休憩時間になると、昨日はあの女と寝ただとか、あの女はあまりよくないだとか、そんな話題で持ちきりになった。従業員同士でのそういった関係はかたく禁止されていたはずだが、彼ら(彼女ら)は一向におかまいなしだった。とても上手に立ち回っていた。僕としては収入さえ確実にもらえればそれでよかったから、誰が誰と寝ようとそんなことはそれこそ一向にかまわなかった。
 その日、僕は最後まで残って後片付けをする当番になっていた。もちろん僕ひとりがするのではなく、日替わりの持ち回りで五〜六人がその役を担っていたのだが、その日に限ってほかの当番の連中はひとり残らず巧妙な言い訳を作り出し、さっさと帰ってしまった。
 最初のひとりは母親が上京してきているとの理由で閉店と同時にいなくなった。次のふたりは店に入る前に同じ食堂で食べた豚肉のしょうが焼きがあたって、営業中から腹の具合が悪いということだった。最後のひとりは後片付けをはじめて五分と経たないうちに、友人が交通事故で病院へ運ばれたという電話を受け取った。
 僕は事務室の床をほうきで掃きながら、オーナーへ次々と告げられるこれらの言い訳を半ば感心して聞いていた。その現役の大学生でもあるオーナーも大きな紙袋に札束を詰め終わると、ひとことも残さずさっさと帰ってしまった。結局そんなわけで、その夜ひとりで後片付けをする破目になってしまったのだ。
 ひとりになってしまうと、小型の体育館ほどもある広い店内はさすがにあまり気味のよいものではなかった。当たり前に五人で手分けして手っ取り早く済ませてもゆうに一」時間はかかる後片付けが、ひとりではいったどのくらいかかるものなのか見当もつかなかった。
 まず事務室を終わらせ、次に店内の床を掃いてまわった。ビニールクロスを貼った床のモップ掛けが、開店前の業務だということが唯一の救いだった。かたく絞ったタオルでテーブルを一つ一つ拭いていき、ソファや丸椅子をきちんと整頓して歩いた。そのようにしてホール内の清掃がひととおり終わったときには、午前一時をとっくに過ぎていた。
 僕は店内の照明を落とし、男子更衣室兼倉庫に入った。そこはこういった種類の店の倉庫としてはかなり大きめの部屋だったが、そのほとんどのスペースは八〇〇本のウィスキーと十五本の生ビール二〇リットル缶で占領されていて、大の男が三人も並んで着替えをしようものなら、必ず肘や腰や頭がウィスキーを詰めたダンボール箱かほかの着替えをしている連中のどこかしらにぶつかった。その狭いスペースに僕は椅子代わりの空の二〇リットル缶と灰皿代わりのデルモンテのケチャップ缶を持ってきて、煙草に火をつけて腰かけた。背中の汗が乾きはじめていた。

 じたばたしたところでどうにかなるものではない。明日は朝から授業があるわけでもない。あったところでそれにどれだけの意味があるのか。このペースでことを運べば、当初考えたほどの時間は必要なさそうだった。そんなわけで、僕は一服することに決めたのだ。
 煙草を半分まで吸ったとき、倉庫の入口にひとりの女の子が立っているのに気づいた。名前は知らなかったが、顔には見覚えがあった。二、三回店の中で見かけたことがあった。その彼女がいったいどこから入ってきたのか、いつからそこに立っていたのか、僕にはわからなかった。おかげで僕は腰が抜けるほどびっくりして、煙草を取り落とし、デルモンテ缶を蹴飛ばし、腰かけていた二〇リットル缶をひっくり返すこととなった。  
 彼女は二〇リットル缶がひっくり返って騒々しい音を響かせるのと同時に大きく肩をすくませ、それから思い切り吹き出した。僕は笑い転げている彼女を唖然あぜんとなって見つめ、舌打ちしながら煙草を拾い、デルモンテ缶と二〇リットル缶を起こした。それから腹立たしげに、そんなところで何をしているのかと彼女に訊ねた。彼女は両手を腹にあて、瞳に涙を溜めて笑っていた。目のまわりはほんのりと朱色に染まっていた。僕は憮然ぶぜんとなって彼女を見た。
「ごめんなさい、おどかすつもりはなかったの」彼女は必死になって笑い声を抑え、そう言った。「忘れ物をしちゃったから、引き返して来たの。あ、表の扉は閉まってたわよ。裏から入ったの」
 彼女の口調は奇妙なほどにあっけらかんとしていて、僕をひどく驚かせてしまったことに対する罪の意識などは微塵みじんも感じられなかった。僕はなるべく彼女と視線を合わさないように心がけた。
「だったら、さっさと忘れ物を取って帰ってくれないかな」僕は吐き捨てるようにそう言った。
「あなたは?」
 僕は彼女を見た。彼女は相変わらず目じりを下げてにこにこしていた。妙な安堵感を覚えさせる不思議な笑顔だった。身体にぴったりした、目の醒めるようなレモン色のワンピースは彼女によく似合っていたし、肩から提げた小さなグリーンのポシェットもセンスのよさを伺わせる。腰にまわしたゴールドのチェーンタイプのベルトがいささか大きすぎて派手だと言えばそう思えなくもなかった。
 はっとするほどの美人ではなかったが、それでも十人中七人はお世辞抜きで彼女を誉め讃えるだろう。世の中には一目見ただけで人の好さが知れてしまう類いの顔をした人がいる。彼女の顔はまさにそんな感じだった。
「まだ仕事が残っているんだ」と僕は言って、彼女から目を逸らした。
「ひとりで後片付けをしているの?」
「ああ」
「手伝おうか?」
 僕はびっくりしてふたたび彼女を見た。
「ほかの人はどうしたの?」
「帰った」
「どうして?」
「知らない」
「それで、あなたは納得してるの?」
 僕は彼女の服と揃いの色の靴を見て、それから顔を上げた。「君には関係ないことだよ」
「ふむ。たしかに」
「そんなことより、早く忘れ物を取って帰ってくれないかな。こんなところを誰かに見られたら――」
「困る?」
「当たり前じゃないか」
 僕は煙草をデルモンテ缶に突っ込んで立ち上がった。それから彼女に一瞥いちべつをくれて箒を取り上げ、掃除を再開した。彼女に見られているとあまり居心地のよいものではなかったが、何もしていないよりはましだった。 
「ねえ、何をすればいい?」
 僕は掃いていた手を止めてこの夜何度めかの深いため息をつき、彼女を見た。彼女は顎の前で両手の指を絡ませ、倉庫の染みだらけの天井や壁や雑然と酒が並べられた棚をものめずらしそうにきょろきょろと見回していた。僕は目を閉じて余計なことを考えないようにした。そして、いち早くこのむさ苦しい店内から彼女を追い出す方法だけを考えるようにした。
「もう終わりなんだ、ここを掃いてしまえば」と僕は言った。「だから君に手伝ってもらうほどのことはないんだ」
「うそ。女の子の更衣室がまだよ」
 僕は彼女を見つめ、ほとんど無意味なため息をついた。「迷惑なんだ、本当に」
「どうして?」
「さっきも言っただろう。こんな時間に店の女の子とふたりきりで、しかも後片付けの手伝いまでさせたとあっては、僕はクビになるだけではすまないかもしれないんだ」
「人からとやかく言われるようなこと、私たち何もしてないわ」
「私たち?」僕は頭が痛くなった。「あのね、誤解されたってちっともおかしくない状況なんだ」
「誰も知らないわよ、私がここにいること。だったら何も問題ないでしょう?」
「なんて強情なんだ、君は」
「あなたのほうこそ」
 僕は彼女を言葉で説得するのを諦め、ふたたび床を掃きはじめた。ほどなくして、彼女は小さな鼻唄とともに倉庫兼男子更衣室を出て行った。僕は安堵のため息をつき、掃除を再開した―――そのとき、厨房のほうで大きな金属音が響いた。僕は舌打ちして箒を持ったまま駆け出した。
 厨房に入ってみると、すみの掃除道具を収める木製のボックスの前のコンクリートの床に、彼女がしりもちをついて転んでいた。彼女は僕を見ると、恥ずかしそうに顔を赤らめ、下唇を噛んだ。
「ごめんなさい。バケツにヒールを引っかけちゃったの」
 僕は手を貸して彼女を引き起こした。彼女は窮屈きゅうくつそうな姿勢で立ち上がると、ヒールのとれてしまった靴に足を突っ込み、手のひらについた水滴を振り払った。僕は調理台に並べて干してあっったタオルを一枚取って彼女に渡した。彼女は両手をタオルで拭いながら、割れてしまった右手の小指の爪をひどく気にしていた。
「ひとつ言ってもいいかい?」と僕は言った。「割れた爪なんかより、帰りの服をどうするかを考えたほうがよくないか?」
 彼女はほんのしばらく僕の顔を見つめ、それからはじかれたように身体をひねって自分の腰を見下ろした。しりもちをついた際に彼女の洋服は床にかれた水をたっぷりと吸い込み、下着の線と丸い腰をくっきりと浮かび上がらせていた。彼女は唇を固く結ぶと、慌てて後退あとじさりした。
「タオルは帰りがけに洗濯機に放り込んでおいてくれたらいいよ」僕はたいそう暗い気持ちで出口に向かった。「それから、ストッキングも破れているから」
 倉庫に戻って憂鬱ゆううつな気分で掃除を続けていると、彼女がドアの陰から顔だけをのぞかせた。すっかり困惑しきった表情になっていた。
 彼女は消え入りそうな声で、何もないのと言った。「ロッカーに誰かの洋服が残っているのじゃないかと思ったんだけど・・・」
「言われたとおりにしないからだよ」と僕はうんざりした口調で言った。
 彼女は涙を溜めた目で僕を恨めしそうに見つめた。僕は倉庫の棚のすみからオーナーの指示で買い置きしてあったパンティ・ストッキングの束を取り出して白のMサイズを一枚引き抜き、残りを棚に戻した。それからハンガーに掛けてあった自分の紺色のスウェットシャツを取って彼女のそばまで歩み寄った。
「洋服の替えまでは持ち合わせがないから」僕はストッキングとシャツを彼女に手渡しながら言った。「代わりにこれ――腰に巻くしかないだろうね。気に入ればの話だけど」
 彼女は今にも涙が溢れてしまいそうな瞳を僕に向けた。僕は咳払いをして目を逸らしながら、そして言った。「靴はどうしようもないね。スニーカーを貸してあげてもいいけど、これだけサイズが違うとヒールの折れた靴と大差ないからね」
 不意に彼女はありがとうと言って、僕が彼女のほうを振り向く前に女子更衣室へと消えた。
 どっと疲れがでてきた。僕は残っていたごみをすくい取り、それから彼女の着替えが終わるのを煙草を吸いながら待った。二本めを吸っているとき、裏口の鉄製扉がそっと閉められる音が聞こえた。あれだけ強情だった彼女も、自ら引き起こしてしまった失態が相当こたえたようだった。僕とは顔を合わせたくなかったのだろう。ひょっとしたら彼女はもうこの店には来ないかもしれない。漠然とそんなことを思った。

 すべての掃除を終えて店を出たときには、時計は午前二時を回っていた。薄暗い路地から通りに出るとあちらこちらのネオンサインは消えていたが、金曜日の夜ということもあって人とタクシーと違法駐車の数だけは多かった。
 僕はタクシー料金を少しでも浮かせるために、余計な回り道をしなくてもすむ大通りに向かって歩いた。五〇メートルと歩かないうちに、通りを包んでいるさまざまな音に混じって奇妙なリズムが耳に届いてきた。
 コト、クリッ、カッ、・・クッ、コッ、コツ、カッ、ック・・・。
 交差点を曲がり、さらに十メートルほど歩いてから僕は後ろを振り返った。僕の紺色のスウェットシャツを腰に巻きつけた彼女が、足元に神経を集中して片足を引きずりながらちょうど角を曲がるところだった。
 彼女は左肩にポシェットを掛け、右手に折れてしまったヒールを持っていた。通りがかりのスーツ姿の三人組に、すれ違いざまに肩を掴まれそうになって彼女は右によろけた。下卑げびた笑い声が彼女の後ろで上がった。彼女はくっと唇を噛み締めて体勢を立て直し、ふたたび歩き出そうとして僕と目が合った。はっと息を呑み、ヒールを持った右手をあてもなく彷徨さまよわせ、それから所在しょざいなげにうつむき加減で首を振った。僕は意を決して彼女のそばまで足早に歩み寄った。
「帰る方向が同じなのかな?」僕は自分でもびっくりするくらいに毒の含んだ口調で言った。「それともまだ、何かあるのかい?」
 彼女は思いがけない瞳で僕を見た。その瞳にはなにかしら強く訴えるものがあった。お互いの名前すらも知らない彼女から、そんな眼で見られる憶えはなかった。僕はそれで余計に腹立たしくなってしまった。
「ごめんなさい」と彼女は言った。「あなた、ずいぶんと気にしていたから。少しでもお店から離れたほうがいいかと思って」
「僕にまだ用があるという意味なのかな、それは?」僕は彼女を半ば睨みつけて言った。「どうしてタクシーをつかまえない?」
 彼女は僕の質問には答えようとせず、まばたきを繰り返して僕を見ていた。らちがあきそうになかったので、僕はそばを通りかかったタクシーに手を上げた。
「いいんです」突然、彼女は運転手に向かって叫んだ。「ごめんなさい。行ってください」
 タクシーの運転手は露骨にいやな顔をすると、乱暴にドアを閉めて走り去った。
「どういうつもりなんだ?」
「ごめんなさい」彼女は僕の様子を探るかのような上目遣いで言った。「もう迷惑はかけないから。あの、お礼をさせてください」
 僕は眉間にしわを寄せて、彼女をのぞき込んだ。
「おかしいですか、私の言っていること」
 僕は眼を閉じ、息を停め、余計なことを考えないようにした。大きく息を吸い込むと、わけもなく辺りをきょろきょろと見渡し、それから彼女を見た。そして言った。
「つい今しがた肩を掴まれそうになったね。こんな時間にこんな場所でそんな恰好をしていたら、手を出してくださいって張り紙して歩いているようなものじゃないか。汚れたところを隠すくらいなら、すぐにでもタクシーに飛び乗って、部屋に戻ってシャワーでも浴びるべきじゃないのか?」
 彼女は神妙な顔つきで僕を見た。その眼はまるで品定めをするような眼で、僕をひどく落ち着かない気分にさせた。
「お礼なんて気にしなくていいんだ」僕はさらに言った。「そのスウェットだって次に君が出勤したときにでもついでに返してくれさえすれば、それでことは足りるんだ。それで終わりなんだよ」
 僕はけっこう真剣に腹を立てていた。これ以上、他人に引っ掻き回されるのはごめんだと思った。
 僕はすでに手一杯になっていた。しかし、それは傲慢ごうまんで自己中心的で、どこにも向かわない怒りだった。実際のところ、これほどの怒りの気持ちを彼女に対して抱いていたわけではなかったのだ。ただ、いろいろな些細ささいなできごとがまるで回収された古新聞紙のようにうずたかく積み重なり、そこへ――そんなところに乾ききった古新聞が山のように積まれていることなど思いもしない――彼女がやってきて、軽い気持ちでマッチを擦ってしまっただけなのだ。本当にそれだけだったのだ。
「スウェットはきちんと洗って返します」と彼女は僕を見て言った。「でも、お礼は別。今でなければあなたにお礼なんてできないかもしれない。あなたと私はまったく別々の生活で、どこに住んでいるのか、どこの学生なのかも知らないし、お店のこともあるし、それに・・・・」
 彼女は早口でまくし立てた。しかし瞳は妙に落ち着き払っていた。じっと僕を見据えて一瞬たりとも逸らさなかった。そして、そこにはなんだかほだされるようなものがあった。僕は長いあいだ彼女の瞳を見つめていた。彼女が右手を唇にあてて小さく咳払いをしたとき、先ほどまでの怒りがきれいに消え失せていることに僕は気づいた。  

 彼女が礼と称して僕を案内した店は、お世辞にもあまりめられた店ではなかった。どこかで名前を聞くか見るかしたことのある有名な店で、一枚板のカウンターを据えた洒落た造りのバーだったが、どことなく店全体が陰鬱いんうつで、あまり清潔でもなく、そしてきつねの目をしたバーテンダーは信じがたいほど無愛想だった。温かみも居心地のよさも何も感じられない、僕としてはあまり近寄りたくないタイプのバーだった。深夜にもかかわらず十人ほどの客がいたが、女の客は彼女ひとりだった。
 彼女が二杯めのサンセット・メモリーズというオレンジ色の酒を注文したとき、この店にはよく来るのかと彼女に訊ねてみた。彼女は二度めだと答えた。この店が気に入っているのか、と僕はさらに訊ねた。案内されてこんな言い草もなかったが、訊かないわけにはいかなかった。しかし、彼女の返事はかなりはっきりとした“ノォ”だった。僕は奇妙なものでも見るような目つきで彼女の横顔を見つめた。
「まさか――」彼女は右手で隠して唇の酒を舌でそっとぬぐい、僕を見て言った。「私が意地悪かなんかであなたをここに連れてきたなんて、思ってないわよね?」
「ほとんどそう思いかけてた」
 彼女はゆっくりとうなだれて寂しげなため息をつくと、自分はやっぱりだめな女だといった意味合いの台詞を口にした。
「それは僕が誤解したから?」
 彼女は首を振った。「私が自分をうまく表現できないだけ。それだけのことなの。気にしないで」
 それっきり僕と彼女のあいだには会話らしい会話はほとんどなかった。彼女は思いつめたような表情でため息を繰り返し、ときおりふっと苦笑いを浮かべ、そしてグラスを口に運んだ。
 彼女は彼女自身気に入ってもいないこの店で僕に何を伝えようとしたのか。彼女のどんなところを理解して欲しかったのだろうか。三杯のスロウ・ジン&クラブ・ソーダを飲むあいだ、僕はずっとそのことばかり考えていた。

 彼女が五杯めの酒を注文しようとしたとき、僕は彼女の手を掴んでそれを止めた。彼女は恨めしそうに潤んだ瞳で僕を睨んだが、それ以上飲ませるわけにはいかなかった。彼女は先ほどからすでに身体が前後左右に揺れはじめていた。すでに限界を超えていたのだ。
 スツールから降りると、彼女は自分の脚でまっすぐ立つことができなかった。僕は彼女の脇に手を回して彼女の身体を支えた。彼女がきちんとダイエット管理をしてくれていたおかげで、さほど辛い思いをせずに二人分の金を払い、店を出た。 
 さて、と思った。時計は土曜日の朝五時を回り、東の空はほのかに明るくなり、そして彼女はほとんど意識不明の状態である。頬を軽く叩いてみても、わけのわからないことをつぶやくだけで一向に用を成さない。細い両足はもう粘土のようだ。僕は彼女を片手で支えたまま街灯にもたれ、仕方なく彼女のポシェットの中身を探った。
 ポシェットの中には幾種類かの化粧道具と小型のヘアブラシ、ポシェットと同じブランドの財布、何枚かの名詞やクレジットカードの類いが収まったカードケース、三本の鍵がついたタヒチ土産らしいキーホルダー、花柄のハンカチ、茶色の革表紙のアドレス帳、それから洋服と同系色の小さな下着が丸められて入っていた。
 幸いアドレス帳の最後のページに住所が書いてあった。彼女の部屋は驚くほど僕のアパートに近かった。おそらく歩いても十五分とかからないだろう。僕は意味もなく彼女の顔をしげしげと眺めた。それからタクシーをつかまえて彼女を押し込むと、僕もあとから乗り込んで彼女の住所を告げた。
 彼女は車の中で僕に寄りかかって意識を失い、ときおり寝言のようなことを言っていた。車が着くころまでに、僕の肩口は彼女の寝息ですっかり湿っぽくなっていた。
 彼女のマンションに着いたら、僕はタクシーを待たせて彼女を部屋までかついで上がり、それからすぐにタクシーに引き返して帰ってしまうつもりだった。玄関先でポシェットから鍵を取り出しているとき、彼女の口から嗚咽おえつが漏れていることに僕は気づいた。これ以上の問題事を抱え込んでしまうことが賢明な策とは到底思えなかったが、泣いてしまっている彼女をひとり残して帰るわけにはいかなかった。原因の三〇パーセントくらいはもしかしたら僕にあるかもしれないのだ。
 僕はフローリングされた廊下に彼女を降ろすと、ひとりにしないでと涙ながらに訴える彼女にすぐ戻ってくることを理解させ、タクシーの料金を清算するために部屋を出た。
 マンションの玄関に出てみると、タクシーはすでにいなくなっていた。車から降りる際、運転手はここまでの料金を預からせてくれ、そのまま出て来ない連中がいるのでねと言った。そして彼はほとんど最初から僕が出て来ないものと決めつけていたかのような素早さで、少し多めの金額を受け取ったまま行ってしまったのだ。
 まあいい。歩いて帰れない距離ではないのだ。少し酔いを醒ませば大したことはない。僕は諦めて彼女の部屋へ引き返した。
 部屋に戻ってみると、彼女はトイレの便器に突っ伏すようにして吐いていた。僕は台所に行ってグラスに水を汲み、塩をひとつまみ振って薄い食塩水を作った。それを持ってトイレに戻り、完全に閉まり切っていないドアを叩いた。入らないで、と彼女はか細い声で言った。僕はドアの隙間すきまから手を差し入れて彼女にグラスを渡し、それから台所で水を飲みながら彼女が出てくるのを待った。 
 彼女はいくら待っても出てこなかった。何度めかの水を流す音が聞こえたあと、トイレはすっかり静まり返っていた。僕はしびれを切らし、ドアをノックしてみた。返事はなかった。ドアを開けると、便器の横に腕を枕にして眠り込んでしまった彼女がいた。
 僕は彼女を抱えて奥の部屋に入り、ベッドに彼女の身体を降ろした。彼女は精も根も果てた様子で小さな寝息をたてていた。胃の中のものをすっかり吐いてしまったおかげで、寝顔は安らかだった。顔色はまだあまりすぐれなかったが、さほどの心配はなさそうだった。
 僕はもう一度彼女を抱えあげ、ベッドカバーをはいだ。その下にギンガムチェックのパジャマが脱いであったが、それに着替えさせることはさすがにためらわれた。彼女はいま下着を着けていないのだ。目を覚まして服が替わっていることに気づいたら、彼女は絶叫してしまうかもしれない。素敵なレモン色のワンピースはしわになってしまうかもしれないが、それは仕方なかった。僕は彼女の身体を布団のあいだに押し込み、明りを消して寝室を出た。
 濃い木目調のタンスの上には小さな鳥かごがあって、二羽のセキセイインコが止まり木の上からじっと僕を見ていた。灰皿が見当たらなかったので、僕はベランダに出て煙草を吸った。
 空はちょうど夜と朝の中間にいて、なんとなく眠たそうにぼんやりとしていた。朝靄あさもやが街全体を覆っていた。街並はまもなく夜の闇から逃れ、その輪郭をくっきりと浮き出させようとしていた。月は輝きを失い、星はすでに見えなかった。時計は土曜日の午前六時を指そうとしていた。
 どうしたものかと思った。彼女はもう大丈夫そうだったし、おそらく昼ごろまで目を覚まさないだろう。僕がここにいる必要はなさそうだ。もしかすると目を覚ましたとき僕がいれば、彼女は汚れた服のままベッドに寝かしつけられたことで腹を立てるかもしれない。シーツが汚れてしまった、と。あるいは、彼女が腹を立てる原因は皺になってしまった洋服にあるかもしれない。彼女が僕のことを覚えている確証すらない。いずれにしても、そんなことで不平を言われるのは
心外だった。
 しかし、僕は彼女のことが妙に気になっていた。彼女はなぜ僕をあのような店に連れて行ったのか。彼女が言ったように意地悪でしたことではなかったのだとしたら・・・。彼女が正体を失くすほど飲みすぎてしまった原因も、僕が彼女の意図をうまくみ取ることができなかったことにあるのかもしれない。そして彼女が泣いてしまった理由も。
 何かが引っかかっていた。礼を受けるはずの僕が名前さえ知らない酔いつぶれた彼女を抱きかかえ、酒とタクシーの料金を払い、部屋まで連れ帰ってベッドへ運んでやり、そしてここにいるということは、奇妙といえば実に奇妙だった。まるで自分の意思で好き勝手に動き回っていたつもりが、実はあらかじめ決められた軌道の上を走っていただけなのだ、と今日の午後あたりに宣告されそうな気がした。 







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