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How 'bout Us
作:H.RcGoon



第五部 第二章


 翌朝9時過ぎに医大に電話を入れるときちんと僕の依頼は取り次がれていて、教授が正午前の1時間を僕のために空けてくれたことを聞かされた。僕は11時前に一睡もできなかった腫れぼったい瞼のまま、岸本の車を借りてふたたび病院を訪れた。受付の女性に名前と用件を告げると、彼女は少しお待ちくださいと言って電話の受話器を取り、僕のことを先方に伝えた。相手は快く了承してくれたようだった。昨夜の看護婦がきちんと伝言しておいてくれたのだ。
 受付の女性に案内された部屋の扉には、この部屋の主の名前の書かれたプラスチックの板が取り付けてあった。彼女がノックすると、低音のよく通る声が返ってきた。
 そこは10畳ほどの広さで、床にはワインレッドの絨毯が敷き詰められていた。左側の壁には大きな油絵が掛けてあり、右側はガラス戸の書棚が壁いっぱいに占領し、その中は分厚い書物で埋まっていた。
 応接セットをはさんで正面にあるオーク材でできた高級そうなデスクの向こう側の窓辺に、薄いグレイのスーツを着た白髪混じりの男性が背中を向けて立っていた。彼はこちらを振り返ると受付の女性を下がらせ、かけたまえと静かな口調で言って、コーヒーを2つ注いでテーブルに置いた。
「松本君、と言ったかな?」教授は僕の正面に腰掛けながら言った。「看護婦からおよそのところは聞いたらしいが」
 僕はまず突然の非礼を詫び、それから彼女の現在の容態について訊ねた。
「ふむ、その前に」と彼は言ってコーヒーをひとくち啜った。「君と彼女との関係を聞かせてくれるかね。いや、私も彼女とはまんざら知らない間柄でもないのでね。彼女の父親と私とは高校時代からの旧い友人なんだ」
 僕は少し間をおいて、恋人ですと答えた。彼はペーパーカップを口に運びながら2回頷いた。「長いのかね?」
「は?」
「いや、彼女と交際をはじめてから」
「大学に入ってから知り合いました。でも、長いブランクがありました。本当の意味で交際をはじめたのはこの夏からと言ったほうが正確だと思います」
「それで」と彼は言った。「どんなことが知りたいのかね?」
「どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。原因は何なのですか?」
 彼は物思いにふけるような感じで僕の50センチくらい頭上を見つめ、それから酷な言い方かもしれないがと言った。「運命的なものとしか答えられない」
「運命?」
「そうだ」
「では、彼女は最初から骨肉腫にかかる運命だったと言われるのですか?」
 彼は唇を固く結んで曖昧に頷いた。僕はその強情そうな唇を掴んで捻り上げてやりたい衝動に駆られた。
「治る可能性は?」
「すでに肺への転移が診とめられる」更に厳粛な口調で教授は言った。「左脚を切断したとしても、おそらく手遅れだ」
「死を待つだけだと?」
「彼女の場合、あと40日。もって2ヶ月というところだ」
 承知していたこととはいえ、それは自分が死の宣告をされたのと同じだった。鋭い棘が僕の身体を貫いたような気がした。鳥肌が立ち、ふたたび目の前を赤いベールが覆った。
「君は彼女と婚約しているのか?」と教授は訊いた。「そんな話を聞いたが」
 僕は唇を噛んだが、頷きはしなかった。重苦しい沈黙が僕と教授を包みこんだ。
「君の心中は察するよ」
「それで」僕はため息をつき、唇を舐めた。「彼女はいま苦しんでいるのですか?」
「いや、痛みは一応収まっている。が、いつ痛みだしたとしてもおかしくない。それだけ進行してしまっているということだ」
「動けるのですか?」
「痛みさえなければ、な」
「その痛みを抑える薬は?」
「そのためだけの薬ならある」
「お願いがあるのですが・・・」
「ん?」
「彼女を退院させていただけませんか?」
「ばかな」強い口調で教授は言った。「突然なにを言い出すかと思えば。そんなことをしてみなさい、彼女の死期を早めるだけだ」
「だめですか?」
「当然だ。医者としてそんな許可は出せるわけがない」
「彼女がそれを強く望んだとしても?」
「望んだとしても、だ」
「本人にはなんと伝えるおつもりですか?」
「それを私も案じていたところだ」
「彼女は知っています」
 教授はペーパーカップを持った手を止めて僕を見た。
「死が目前まで迫ってきていることを、彼女は知っているんです」
「まさか」教授はペーパーカップをテーブルに戻しながら、自嘲気味に笑みを浮かべた。それからふと思い当たったかのように厳しい視線を僕に向けた。「まさか、君が伝えたのか?」
「違います。僕はまだ彼女とは話をしていません」
「だったら――」教授は口を開きかけたまま言葉を失った。
 僕は大きく息を吸い込んで座りなおすと、正面から教授の目を見据えた。「誰も彼女に病状のことを伝えてなんかいません。でも、誰から聞かなくとも彼女は知っていたんです」
「どういうことだね?」教授は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながらそう訊ねた。
「彼女は彼女自身の死に気がついたから、この病院にやってきたんです」
「はじめから知っていたというのか?」
「ええ。病名までわかっていたかどうかはわかりませんが、でも死が近いことは知っていたんです。ただ、いつまで自分が生きられるのかを知りたかっただけなんです、彼女は」
 教授は目を細めて僕を凝視した。僕は唇を噛み締め、目を逸らした。
「どうして――なぜ彼女にはわかったんだ?」
「それは言えません」
「もしかすると君にもわかっていたのか?」
「僕たちにとってよくないことが近づきつつあることはなんとなく予感めいたものがありました。でも、それが彼女の死だとは思いませんでした」
「それは世に言うところの予知能力というやつかね?」
「いえ、僕にはまったくないです。僕は彼女の最近の様子から判断しただけです。彼女にはそれに近いものがあるのかもしれません。ただ、彼女にもそれが彼女自身の死だということはわからなかったんです、この夏までは」
「この夏――?」教授はじっと僕を見つめた。「何があったのかね?」
「これ以上は言えません」僕はうつむいた。「たぶん信じてはいただけないでしょうから」
 教授は荒い呼吸を繰り返しながら残りのコーヒーを飲み干した。それから立ち上がって慎重な足取りで窓辺に歩み寄った。
「彼女は」僕は教授の背中を見ながら立ち上がって言った。「おそらく今ここを出たがっているに違いありません」
「それもわかるのかね?」
「そんな気がするんです。さきほども言いましたように、彼女はそのときがいつなのかということを知るためだけにここに来たんです。それがどんなことを意味するのかはおわかりでしょう?」
 教授は微動だにせず、じっと窓の外を見ていた。
「僕としても彼女をこのまま死なせたくはないんです」
「君の気持ちはわからないでもない」教授は振り返った。「だが、しかし――」
「お願いします」
 しばらくして深いため息が聞こえてきた。
「君は自分が言っていることの意味を正常な意識で認識しているのか?」と教授は言った。「これがどれだけ危険なことなのか、君はわかっているのかね?」
 僕は教授に言った。「彼女が望んでいることですから」
 彼は目を閉じた。長い時間考え込んでいた。そのあいだに、僕は3度お願いしますと言った。ふたたび大きく息をつく音が聞こえた。
「それにしても、どんなふうに生きてきたら彼女のように逞しくなれるのだ? 普通の子ではないと承知してはいたが、自分の死期を調べるためにわざわざ検査を受けに来るとは」教授はそこまで喋ってふと言葉に詰まった。「まさか――」
「彼女に限って自殺なんてありえません」僕はきっぱりと言った。「彼女はそんなに弱くはないんです。生きる勇気を持っています」
 教授はしばらくのあいだ僕の目をじっとみていた。僕は決して目を逸らさなかった。やがて大きく息をつくと、強張っていた頬の筋肉を緩め、観念したかのように眼を細めた。
「君には負けたよ」
「では?」
「ただし、3つほど条件がある」
「はい」
「ひとつは薬を飲み続けること」
「薬はないと」
「ああ、それを飲んだからといってよくなるわけじゃない。一時的なものだ。しかし痛みはそれがいくらか緩和してくれるはずだ」
「はい」
「もうひとつ、これは医者である私として許しがたいことなのだが、君の話を聞いていると可能性としてなくはなさそうだ。もし東京を離れるようなら、行き先を必ず私に知らせること。突発的なことに備えておかなければならないからな。行った先ですぐに対処できるように手配しておく」
 僕は頷いた。
「あとひとつは――これがいちばん重要なことなのだが」
「はい」
「これからの2ヶ月間で、彼女は相当に辛い思いをする。我々の陳腐な同情などものの役にも立たない。それこそ想像を絶する苦しみだ。わかるかね?」
「はい」
「彼女ならその苦しみにも耐えるかもしれない。君がそれほどまでに言う彼女なら」
 僕は小さく頷いた。
「しかし」教授は口調をやや強めて言った。「君は耐えられるかね、そばで最愛の女性が苦しむ姿に?」
 僕は教授のぴかぴかに磨きこまれた黒のウィングチップのメダリオンを食い入るように見つめていた。すぐには返事ができなかった。彼の刺すような視線を感じた。
「約束してほしい」彼はことのほか静かに言った。「必ず最後まで彼女のそばにいてやると」
 僕は顔をあげ、彼を見た。そこには心から彼女のことを気遣う眼差しがあった。その瞳には淡い光が宿っていた。
「わかりました」と僕は言った。「お約束します。最後まで彼女のそばを離れません」
 教授は唇を結び、満足げに頷いた。それから静かに息を吐き出し、苦い記憶を辿るかのような笑みを浮かべた。僕から目を逸らし、唇を舐め、そして意外なほどの沈痛な表情を浮かべた。彼の両手はいつのまにか固く握り締められていた。
「私も辛いんだ」と教授は小さな声で言った。「彼女のことは、それこそ彼女が生まれたときから知っている。まるで自分の娘がどこか遠くへ行ってしまうような、そんな心境なんだ。助けてやれるものなら・・・」
「約束は必ず守ります」僕はまるで教授を慰めるかのようにそう言った。彼は僕の顔を見て、それから頷いた。
「薬はあとで下で受け取りなさい。退院の手続きを取っておこう」
「ありがとうございます」
 教授は疲れ果てたようにソファにどさっと腰を落とした。それからしばらくのあいだ考え込み、最後にひとつだけ訊いてもいいかね?、と僕に言った。彼はなんだかほんの一時のあいだにずいぶんと老け込んだように見えた。最初に感じたどこか近寄りがたいような雰囲気はなくなっていた。僕はソファに腰を下ろしながら頷いた。
「君たちをそれほどまでに強くつないでいるものは、いったい何なのかね?」
「わかりません」僕はそう言ったあとでしばらく考えた。「ただ言えることは、今までの人生の中で僕のことをいちばん理解してくれたのが彼女だということです。彼女は僕の考えていることなら何も言わなくてもほとんどわかってしまうし、僕の好きなものを嫌いと言ったことさえありません。だから僕も、彼女に余計な気を遣わせまいと相当な努力をしました。彼女には到底追いつけませんけど」
 教授は一時も視線を逸らさず、僕を見ていた。僕は、彼に伝えるべき話を頭の中で整理し、そして言った。
「途中で挫折したこともあります。知り合って間もなかったのですが、僕は彼女から離れるために大学を3ヶ月足らずで辞め、東京からも去りました。僕がひとりで決めました。複雑な事情があったんです、僕の中に。もう会わないほうがいいと思ったんです」
 教授は考えを巡らせるかのように、『複雑な事情』と繰り返した。
「でも、彼女は僕のことをずっと忘れずにいてくれました。僕の知る限り、3年ものあいだただひとりの恋人も作らずに」
「なるほど」と教授は言った。「いや実を言うと、私はうちの若い連中を何度か彼女に引き合わせようと試みたことがあるんだ。だが、彼女は会ってみようとすらしなかった。いつもこの私ですらどきっとするような笑みを浮かべて、申し訳ないからと言ってね。彼女の心は完全に君の元へと飛んでいたわけだ。やれやれ・・・いや、失礼。続けてくれたまえ」
「そのあいだの僕はと言えば、それはひどいものでした。一応スナックのようなものを経営していましたから、経済的にはそれほど困りはしませんでしたが、精神的にはもっとも不安定な時期を過ごしました。求めているものと手にしたものとの違いに気づくと、さらに違うものを探して彷徨いました。何度も、何度もです。最後には自分が何を捜し求めていたのかさえわからなくなりました。たくさんの女の子とも知り合いました。でも、何もありませんでした。僕が心から求めていたものはどこにもなかったんです」
 デスクの上の電話に小さな赤いランプが灯った。呼び出し音は聞こえなかったが、教授への着信であることは間違いなかった。しかし、彼はソファから立ち上がろうとはしなかった。僕は話を続けた。
「そんなとき、彼女から一通の手紙が届きました。今年の春のことです。この夏、僕に会いに来ると書いてありました。そしてもう連絡はしないと、その日が決まっても僕には知らせないと書いてありました。しかも僕の部屋を直接訪ねることもしないと・・・。彼女は賭けたんです、自分の運命――そう、運命に賭けたんです。彼女は一日かけて僕の住んでいる街を歩いてみると・・・」
 僕はひと息吐き、教授を見た。固く閉じられた両の瞼に、哀しみの色が浮かんでいるのが見てとれた。
「信じられますか。彼女はそれで僕と出会うことに賭けたんです。そんなこと、できっこない。そう思いました。絶対にそんなことは不可能だと。でも、彼女は信じたんです」
僕は啓奈の笑顔を思い浮かべながら、さらに続けた。
「“シンクロ二シティ”という言葉をご存知ですか? そうです、彼女はそれを信じて無謀な計画を実行に移したんです。そして――信じられないかもしれませんが、僕と彼女は出会ったんです、この7月に。僕はこのとき運命的なものを強く感じました。僕と彼女は生まれるはるか以前からつながっていたのではないかと、そう思ったんです。僕自身がこの日が来ることをずっと待ち望んでいたんだということに気づいたんです。探していたものにやっと巡り会えたんです。彼女はこんな僕みたいな男に一生を捧げようとしてくれたんです。彼女の強い祈るような気持ちがふたりを引き合わせたような気がします。彼女は僕を救ってくれたんです」
 教授は瞳を開き、少し考えを巡らすような仕草をし、そしてふたたび僕を正面から見据えた。
「僕には医学的な知識はまったくありませんし、今回はたとえそういったものがあったとしても、どうにもならないのだということも承知しています。ただ、今は彼女の望むことを――それがたとえあなたの人生をめちゃくちゃにするようなことであったとしても――なんとか叶えてやりたいんです。今までたったひとつの想いをずっと大切に守り続けてくれた彼女に、僕なりの手段で応えてやりたいんです。今なら、もし可能なら、僕と彼女の立場を入れ替えられてもかまわない。僕は喜んで彼女の代わりに死にます」
 話し終わってふと気づくと、僕の目からは大粒の涙が溢れていた。僕にはその涙を止めることはできなかったが、僕にとってもっとも大切なものを見失いはしなかった。
「ありがとう」と教授は言った。「よく話してくれたよ。恋人とはいえ、他人のために死ねるなんてなかなか言えるものじゃない。今の君の眼には嘘偽りが見られない。いい眼だ。君なら彼女をこの苦しみから救ってやることができるかもしれない」
 僕は唇を血が滲むほど噛み締め、頷いた。
「ただ、くれぐれも気をつけてほしい。ちょっとでも様子がおかしくなったら真っ先に私のところへ連絡するんだ。いいね?」

 僕は深々と頭を下げてその部屋をあとにした。長い廊下を歩きながら、頭の中が意外なほどすっきりとしていることに気づいた。僕の心は決まっていた。僕のすべきことはひとつしかなかった。
 啓奈の病室のある階に降りていくと、ナースセンターの前できれいな瞳をした長身の看護婦が僕を待ち構えていた。松本君ね、と彼女は言った。びっくりしてそうですと答えると、看護婦は微笑みながら「先生から連絡が来たわ。今退院の手続きを取っているから」と言った。彼女の胸には澤田とプリントされた名札がついていた。礼を言うと、澤田さんはまたにこっと微笑んだ。
「それにしても」と、僕はいささか驚きながら澤田さんに訊ねた。「よく僕だとわかりましたね?」
「彼女から聞いたのよ」と澤田さんは答えた。「あなたの特長とかこと細かくね」
「彼女って誰ですか?」
「あら、啓奈ちゃんに決まってるじゃない?」
「そんなこと話したんですか?」
「そうよ」
「あの、知り合いか何か――」
「違うわ。彼女が入院してはじめて知り合ったの。きれいな子ね、彼女」
「でも、ここに来てまだ4日めか5日め」
「6日めね、今日で」
「それで、もうそんな話をしちゃうんですか?」
「不思議ね、そう言われると。でも、私たちすぐに仲良くなっちゃったの。どういうわけか」
 僕は呆気にとられて彼女の背中を見つめた。気を取り直して彼女に追いつき、啓奈はほかにどんなことを話しましたかと訊ねてみた。
「いろいろよ」彼女は顔だけ僕のほうへ向け、意味ありげな笑みを浮かべてそう言った。「でもね、今朝はちょっと大変だったのよ」
「何かあったんですか?」
「彼女、脱走しようとしたの」
「脱走?」
「まだ4時前だった。こっそりここを出ていこうとしたの」
 僕の脚が停まった。澤田さんも振り返りながら、立ち止まった。
「あなたのせいね」と彼女は言った。「あなたにこんな姿を見せたくないって。説得するために呼び出されて、それから2時間、私は彼女につきっきりよ」
 予感は的中した。思っていたとおり、啓奈は僕が上京して来たことに気づいたのだ。
「それで、彼女は?」
「観念したみたいよ、私がずっと見張っていたから」
 気がつくと、僕は走り出していた。澤田さんが慌てて呼び止めたが僕は止まらなかった。ノブを回すのももどかしく、病室のドアを開けた。啓奈はベッドに腰掛けて髪にブラシを通していた。
 彼女は僕を見るとはっと息を呑んだ。ブラシを持った左手は耳元のあたりで凍りついた。僕は安堵のため息をついた。彼女は慌ててベッドから飛び降りてブラシを身体の後ろに隠し、そして顔を赤くしてぎこちなく笑った。
「捕まっちゃったか」と、啓奈は苦笑いを浮かべて言った。
 僕はゆっくりと息を吐き出しながら言った。「脱走未遂は重罪だって、知ってた?」
「そんなこと話したの?」啓奈は顔をさらに赤くして、僕の背後の澤田さんに言った。「もう。あれだけ言わないでってお願いしたのに」
「彼の慌てようといったらなかったわ」と澤田さんは笑いながら言った。
「私、今すごい顔してるでしょう?」と啓奈は恥ずかしそうに言った。
「そういえば昔、何かの映画で砂漠で迷子になったラクダというのを観たことがあるよ」
「そんなにひどい?」
「相当にひどいね」
「あぁ、だから会いたくないって言ったのに」
「退院したら、まず髪を洗わなきゃ」
「うん、真っ先に髪を――えっ?」
「帰るよ。真っ先に髪を洗うんだ」
「え・・・」
「もう離れ離れなんてなしだ。逃がしたりなんかしない。走るだけなら負けやしないからね」
 啓奈は息を詰め、大きな瞳をさらに大きくして僕を見た。その瞳がすでにゆらゆらと揺れはじめていた。
「もう泣くの?」
 啓奈は何かを言いかけて唇を開き、言葉を飲み込んだ。そして小さな舌で唇を濡らし、もう一度唇を開いた。
「もっとそばにきて」
「歩けるのなら、啓奈がおいで」
 彼女は唇を噛み、僕をまっすぐに見た。彼女の視線は僕の頭の先から爪先までを一往復し、顔のところで止まった。
「やっぱり来てくれたね」と啓奈は小さな声で言った。
「本当に来ると思ってた?」
「病弱な女なんて嫌だって、ひょっとしたら見捨てられちゃうんじゃないかって、少し思った」
「まさか」
 彼女は小さな舌を少しだけのぞかせて、それから鼻を啜った。
「でも、辛い検査ばかりでもうここから出られないのかと思ってた」
「ああ」
「冗談じゃないよね?」
「冗談なんかじゃない」
「かけ合ってくれたのね、あの堅物の先生に」彼女はゆっくりとそばに来て、僕の左手にそっと触れた。「ありがとう」
「どういたしまして」
 彼女は全身の力を抜くようにして僕の胸に倒れこんだ。僕は彼女の背中に手を回した。
「痛みは?」
「ものすごく痛い」彼女は大げさに顔を歪めてみせた。「うそ」
 僕は彼女の耳たぶにそっと唇をつけ、言った。「わかっていると思うけど」
 彼女は僕の胸の中で頷いた。「あとどのくらい?」
 聞かぬ振りをしながら病室の窓を開けていた澤田さんが顔色を変えて振り返り、何かを言いかけた。僕は澤田さんを見て、ゆっくりと首を横に振った。
「あと、2ヶ月だそうだ」
「ちょっと、松本君――」
「私なら平気よ、澤田さん」啓奈は僕の胸の中で澤田さんに背を向けたまま、気遣うような優しい口調で言った。「知ってたの、私にはもうあまり時間が残されていないこと」
 澤田さんは呼吸を止めたままあたふた両手を動かしながら、うまく言葉を見つけられないでいた。
「大丈夫よ、心配しないで」
「啓・・・」
「澤田さんも聞いたでしょう? この人がずっとそばにいてくれるんだって」
「そんな――」
「どうか、心配しないでください」僕は澤田さんに微笑みかけながらそう言った。
 澤田さんは震える唇を隠し、僕と啓奈を凝視した。僕がもう一度頷くと、彼女は目を逸らすようにして部屋を飛び出していった。
 啓奈は澤田さんが飛び出していったドアを見つめたまま、僕の胸の中でそっと呟いた。
「今、なんて言った?」
「結婚の約束は解消しましょうって言ったの」
 僕は彼女の身体を離して瞳をのぞき込みながら、冗談じゃないと言った。
「ふふ。そう言うと思った」
「当たり前だ。結婚するんだよ。そのつもりで上京したんだ」
 彼女は唇を噛み、僕をじっと見た。
「言いたいことがあれば、どうぞ?」と僕は言った。
 啓奈は今にも溢れてしまいそうな想いの丈を、必死で抑え込もうとしているように見えた。それは如何なるものとも引き換えることのできない、至上の宝物だった。その想いは堰を切ったかのように、彼女の口をついた。
「よし、啓奈はここに宣言する」彼女は僕の脇に右手を回して抱き寄せながら、左手を高々と挙げて言った。「私は最後まであなたを独占する。誰も私を止められない。誰にも私たちの邪魔はさせない」
 思わず笑みがこぼれた。彼女は目に涙を貯めて笑っていた。それは素直な、本当の心の底から喜びを表現した笑顔だった。
「その台詞、もしかしてずっと考えていた?」
「ちょっとだけ自信なかったけどね」
「なかなか見事だった」
 彼女は両腕に力をこめ、ふたたび僕の胸の中に顔を埋めた。
「本当にありがとう」彼女は顔を強く押しつけ、くぐもった声で言った。「絶対に忘れない、あなたのこと」
「忘れられたりなんかされたらたまんないな。飛行機代に6万もかかったんだ」
「それくらい何十倍にもして返してあげる」
「お金なんかいらない」
「お金とは言ってない、私」
 それから僕と啓奈はそっと唇を重ねた。
「服は着替えられる?」
「あなたが後ろを向いていてくれたら」
「残念だな」
「もっときれいなときに、ね」
 僕が背中を向けると、彼女はすぐ後ろで着替えはじめた。衣擦れの音が妙に艶かしく聞こえた。途中で彼女は二度僕の肩に手を置いた。着替えがすむと、ふたりでパジャマや細々としたものをバッグに詰め、彼女はベッドをきちんと整えた。病室から出るとき、彼女は廊下にも聞こえるほど大きな声で、さらばと言った。
 ナースセンターに挨拶に行くと、ひとかたまりになっていた看護婦たちが一斉に僕と啓奈を見た。何人かの看護婦は慌ててハンカチで目元を拭った。澤田さんは目の周りを真っ赤にして輪の中心に立っていた。僕も啓奈もこれにはちょっと面食らってしまった。
「いろいろとありがとうございました」啓奈が深々と頭を下げたので、僕も彼女にならって頭を下げた。
 突然、澤田さんが啓奈の名前を叫んで駆け寄って来た。彼女は啓奈の肩を抱き、まるで激痛に耐えるかのように泣いていた。ふたりの看護婦がくるっと後ろを向いてうつむいた。啓奈は眼を丸くして澤田さんに抱かれたまま僕を見た。僕は澤田さんに声をかけてみたが、彼女の耳には届いていないようだった。
「澤田さん?」と啓奈は言った。「どうしたの? ほら、泣かないで」
 澤田さんは嗚咽をこらえようとして思わず咳き込んだ。それから、なんとか聞き取れる声でもう一度啓奈の名前を呼んだ。
「私なら、このとおりぴんぴんしているわ。なにも心配いらないのよ」
 これではどちらが病人なのかわからなかった。年配の看護婦がやってきて、ごめんなさいねと言いながらまるで注意深くかさぶたでも剥がすように澤田さんを啓奈から離した。
「これお薬よ。忘れずに飲むのよ」
 啓奈は礼を言って薬を受け取ると、もう一度澤田さんを気遣った。澤田さんは肩を震わせ、濡れた目で恨めしげに僕と啓奈を交互に見た。
「大丈夫ですよ」と僕は言った。
 澤田さんは力なく唇を震わせた。彼女の瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れていた。
「いろいろとありがとう」啓奈はそう言って澤田さんの手を取った。「安心して。全部知ってしまったからといって先を急ぐようなことは、間違ってもないから。だってほら、この人が澤田さんの代わりに私を見張っていてくれるわ」
「あなたたちって・・・」澤田さんが目元をハンカチで押さえながら言った。「どこまでタフなの?」
 僕と啓奈は互いを見て笑った。
「それは違います」と僕は言った。「彼女ひとりがどうしようもないくらいタフなだけです。僕はそれに引っぱられているだけなんです」
「あら、そんな言い方ってないんじゃない?」
 澤田さんは思わず笑顔を作って、それからふたたび啓奈を抱きしめた。後ろを向いていた看護婦も今は笑顔で僕たちを見ていた。澤田さんは、下まで送るわと言った。
 僕と啓奈は澤田さんに見送られて病院の玄関を出た。澤田さんは別れ際にもう一度涙をこぼした。車に乗り込むとき、数人の看護婦が窓から手を振っているのが見えた。そして、その階上の窓辺に啓奈の主治医の姿が見えた。僕はもう一度頭を下げて車に乗り込んだ。







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