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How 'bout Us
作:H.RcGoon



第五部 第一章


 啓奈が去った空港のロビーで、僕は立ち尽くしていた。啓奈が左手を挙げてそっと振った辺りに、彼女の姿はなかった。がらんとして妙に静かで、そしてあまりに空虚だった。
 彼女の残像を探すかのように、彼女の残り香をかき集めるかのように、僕はじっと動かずに立っていた。空気が乾燥し、それは喉を通り過ぎるたびに粘膜と神経を逆撫でした。頭の中は空っぽだった。文字どおり何もなかった。誰かがそこを埋めるための何かを持って来てくれるのを僕は待った。しかし、誰も何も持ってきてはくれなかった。ただ失くしたもののあまりの大きさを痛感しただけだった。
 僕の部屋の中は、たぶん恐ろしいほどの静寂に包まれていることだろう。僕はそこで彼女が卒業するまでのあと何ヶ月かを過ごさなければならないのだ。そう考えただけでも気が狂いそうだった。寂しさが募った。僕は本当に啓奈のことが好きだった。好きで好きでたまらなかった。誰にも渡したくないし、片時も離れたくなかった。いつもそばにいたいと思った。僕は啓奈を愛していた。
 啓奈の声が聞きたかった。その思いは彼女が去った直後に湧き上がった。一秒ごとにどんどん大きくなっていった。しかし、彼女の声は届いてこなかった。翌日も、次の日も、そのまた次の日も、彼女からの電話はなかった。
 3日目の夜、僕は南青山の啓奈のマンションに電話をかけた。14回呼び出し音を聞いて受話器を置いた。4日めの朝と夜に一度づつ電話をかけた。それでも啓奈の声は聞こえてこなかった。その次の日に優子から電話が入った。
 優子は僕と啓奈の誕生日に高価な銀製のフォトフレイムを贈ってくれた。その中には19歳の僕と啓奈が湖畔の白い手摺の前で長閑な顔をして並んで写っている写真が入っていた。啓奈は涼しげな笑みを浮かべてほんの少し左に首を傾げていた。僕は啓奈のそばでなんとなくぼんやりとした顔を横に向けていた。そんな写真をいつ撮ったのか僕にはまるで記憶がなかった。啓奈にそのことを訊ねると、4人で山中湖に行ったときのものだと彼女は答えた。
 優子はいつもと変わらない様子で、久しぶりねと言った。「どう、楽しくやってる?」
「まあまあだね」
「ずいぶん贅沢な言い草ね、啓奈をひとり占めしておいて」
 軽口を叩く余裕が、僕と優子にはまだあった。悪い予感のかけらもなかった。気がかりなことがなかったわけではないが、僕たちの目の前には明るい光に溢れた道が続いているはずだった。永遠に続くものと信じて疑わなかった。しかし、それは夏の夕暮れ時のように唐突に厚い雲に覆われ、光は失われた。すべてを洗い流すかのような雨が乾いた大地を叩いた。
「ところでね――」彼女はさして気にしている様子もなく言った。「学校はもうとっくにはじまってるのだけど」
「知ってるよ」
「せっかくのところ水を注すようで悪いんだけど、そろそろ啓奈を帰らせてくれない?」
 僕はじっと優子の声を聞いていた。言葉の意味を理解したあと、聞き間違いであることを祈った。
「大事なゼミもあるの。これをとばしちゃうと、啓奈と言えども今まで積み重ねてきたものが台無しになるの」
 僕は受話器を耳から離した。不意に部屋の中の空気が重く澱んだような気がした。
「もしもし?」優子の声がまるで山の向こう側で喋っているような感じで受話器から聞こえてきた。「もしもし・・・? 聞いてる?」
 僕は気を確かに持とうと頭を2、3回振り、それから受話器を耳に当てた。
「ちょっと――こらあ! 起きなさい! 起きなさいってば!!」
「起きてる」
「もう、なによ。急に黙り込まないで。眠りこんじゃったのかと思ったじゃない」
「ちゃんと聞いてる」
「おやすみの邪魔をしたことは謝るから。わかった? もう学校は3日前からはじまってるの。わかる、私の言ってること?」
「わかると思う」
「思うって、どういうことよ」
「啓奈は・・・」
「は?」
「啓奈は5日前に帰った」
 ふっとエネルギーの供給が途絶えたかのように彼女は押し黙った。やがて暗い影が静かに僕と優子を包みこんだ。しばらくして彼女の呆れたようなため息が聞こえた。
「あまり感心しないジョークよ、それって」
 僕は返事ができなかった。うまく喋れなくなっていた。それはよくない予感のようにすぐさま優子に伝わった。
「ねえ、その沈黙はどういう意味? 変ないじわるしないで。そばに啓奈もいるんでしょう? ちょっと代わってくれない? もしもし? ねえ、ちょっと――」
「啓奈は」僕はできるだけ冷静になって口を開いた。「とっくに帰ったよ」
「帰った?」
「あ、ああ」
「嘘を言わないで」
「嘘なんかじゃない」僕はなるべく口調を変えないよう気遣いながら喋った。「彼女はもうここにはいないんだ」
 電話線がぴんと張り詰めたような気がした。冷たい悪寒が走った。
「か、帰ったって――どこへ?」
「わからない」
「わからないって――ちょっと待って。南青山の部屋には帰って来ていないよ。郵便物もそのままになっているし、授業を・・・授業をさぼるような子では――ねえ、どういうことなの?」
「本当にわからない。空港で見送ったんだ。彼女がゲートをくぐって、羽田行きの飛行機に乗り込むところまで、僕はずっと見ていた」
「な、何があったの? ねえ、そっちでいったい何があったのよ!」
 そのとき僕はようやく思い当たった――森だ。あの森のせいだ。啓奈が優子にも知らせず行方を断った理由があの森にあることを僕は悟った。それ以外に思い当たるふしはまったくなかった。僕は何度か大きく息をついてなんとか平静を保とうとした。
「とにかく」と僕は言った。「すぐにそっちへ向かうよ」
「どういうことなの?」優子は今にも泣き出しそうな声で半ば叫んだ。「あのコ、私に黙ってどこかに行っちゃうようなことなんて、今まで一度もなかったのよ」
「知ってる」
「だったら、どうして!?」
「とにかく、今日中にはそっちへ着くから。それからどうするか考えよう」
 僕は正気を失いつつある優子をなだめ、岸本と連絡を取るように念を押してから電話を切った。それから共同経営者の彼のところへ電話を入れた。彼は最初のうち冗談だと思って取り合わなかったが、僕があまりの勢いでまくし立てると息を呑んで黙り込んだ。それから静かな声で、店のことはいい、すぐに行ってこいと言った。そのあと航空会社に電話をかけ、空席を確認するといちばん早く羽田に着く便を予約した。慌しく着替えをすませたとき電話がなった。岸本だった。
「どういうことなんだ?」
「僕にもわからない」
「わからないだと!? ずっといっしょにいたんじゃないのか?」
「いっしょだったさ。彼女が飛行機に乗り込むまで、ずっといっしょにいたんだ」
「間違いないのか?」
「間違うもんか」
 岸本はゆっくりと深いため息をついた。「それで?」
「今から向かう」
「取り合えず心当たりを当たってみる」
「両親は?」
「当たってみる」
「7時ごろには羽田に着くと思う」
「行けたら迎えに行く。もしオレがいなかったら電話を入れてくれ。留守番テープをセットしておくから」
「いなくても、お前なんか探しはしないぞ」
「当たり前だ」
 僕はマルベリーのセカンドバッグを掴むと、部屋を飛び出してタクシーを拾い、空港に向かった。タクシーの中で部屋の鍵をかけ忘れたことに気づいたが、そんなことはもうどうでもよかった。

 羽田空港の玄関を走り抜けたとき、クラクションが聞こえた。聞き覚えのある音だった。振り返ると、薄闇の中に買い換えたばかりの岸本の赤いアルファGTV6がタイヤを軋ませて発進するのが見えた。僕が乗り込むと、岸本は再会の挨拶もそこそこに車を出した。
「何かわかったのか?」僕は慌しくそう訊ねた。
 岸本は忙しなくシフトアップしていき、ぐんぐんと加速していった。まるでそのことだけに心を奪われてしまったかのように、彼は無言だった。
「岸本?」
 彼の瞳はフロントガラスとのあいだの何もない空間をじっと見つめていた。どこか虚ろな眼差しだった。
「どうしたんだ?」
「え?」暗闇の中で不意に肩を掴まれたかのように、彼は顔を向けた。
「何かわかったのかって訊いてるんだ」
「あ、青山・・・」
「あおやま?」
「青山に帰ってから、それから話すよ」
「何をのんきなことを――」
「黙ってろ!」
「な――」
「どこにも、どこにも行きやしないんだ、今いる場所から」
「だから、それがどこなのかって訊いてるんだ」
「静かにしろ!」彼は思いがけず怒鳴った。「突っ込んじまうぞ」
 僕は歯軋りをして、握り締めていた左の拳を開いた。それからシートに深く寄りかかってため息をつき、悪かったと言った。岸本は何も答えなかった。
「優子は?」
 やはり岸本は無言だった。ふと、彼の顔が異様に蒼ざめていることに気づいた。最初は街灯の光の加減かと思ったが、そうではなかった。彼は蒼白だった。まるで死神にでも遭遇したかのような眼で正面を見据えていた。ハンドルを持つ手は小刻みに震えていた。
「どうしたんだ?」
「な、なにが?」
 彼は努めて平静を装おうとしていた。隠しようがないほど、彼の全身は震えていた。不意に彼が言った言葉を思い出した。
『どこにも行きやしないんだ、今いる場所から』
 どこにも行かない? どこにも・・・? 今いる場所から? 今いる・・・・
 僕はゆっくりと息を吐き出し、そして言った。
「生きているのか?」
 岸本の肩が震え、車体が大きく揺れた。
「なにをバカなことを――」彼は大声で言った。「あ、当たり前じゃないか」
 僕はこれから彼に宣告されることが決して好ましくない内容だということを悟った。啓奈は生きている。死んではいない。しかし、それにごく近い状態にある。僕にはこれ以上ないほどにはっきりとわかった。
 ゆっくりと息を吐き出しながら、僕は正面を見据えた。前の車のテールランプが滲んでいき、目の前を真っ赤な膜が覆った。目を閉じると頭が揺れた。彼女と過ごした2ヶ月間が走馬灯のように蘇ってきた。あの交差点もあの森もあの海も、蛍を追う啓奈の姿や彼女の宝石のような涙や、ふたりで観た映画のワンシーンや彼女の好きなカクテルまでもが、ぼんやりとした薄明りに照らし出されてくるくると回っていた。そして最後に、白いシーツに包まれて眠っている啓奈の姿が見えた。
「病院なのか?」僕は目を閉じたまま言った。
 車がもう一度大きく揺れた。岸本は慌ててハンドルを切り返し、それからハンドルにしがみつくようにして震える息を吐き出した。
 彼女があの森で知ってしまったことというのは、おそらくこのことだったのだ。あの森で僕と啓奈を待ち受けていたものは、ほかでもない彼女自身の死だった。近い将来における現実の死を、彼女はあの森の中で悟ってしまったのだ。そう考えると、そのあとの彼女の劇的な変化にも説明がついた。いや、啓奈だからこそ、その程度の変化ですんだのかもしれない。これが啓奈でなかったら・・・もし僕が彼女の立場だったとしたら、おそらく――おそらく僕はあの森から出てくることはなかっただろう。
 森に対する激しい憎悪が湧き上がった。それが彼女の死の直接の原因ではなかったにしても、23歳の女性に告げられるにしてはあまりに残酷な話だ。
 新宿に入ったところで、僕は病気なのか事故なのかと岸本に訊ねた。彼はためらったあと、おまえに啓奈のことで隠し事をしても仕方ないものなと、力なく言った。骨肉腫だ、と彼は言った。骨肉腫という病気がどういうものなのか正確にはわからなかった。が、見当はついた。そして彼の様子からしてそれがすでに後戻りのできない状態であることも。

 鎮静剤でよく眠ってます、と当直の看護婦が病室のドアを音もなく開けながら言った。岸本が僕のことを彼女の婚約者だと説明してくれたおかげで、夜間にも関わらず看護婦は特別に面会を許可してくれたのだ。その岸本は今、優子に電話をかけに行っていた。
 啓奈は白いシーツに包まれて、安らかな寝息を立てていた。僕は入口に立ち尽くしたまま彼女の寝顔を眺めた。仄かな光に照らし出された彼女の顔は心なしか青白く、頬にははじめて見る影ができていた。黒い髪はすっかりつやをなくしてしまっていた。彼女はとても疲れているように見えた。生きているのかどうかさえ、僕にはわからなかった。ここに来てからずっと検査づくめだったから、と看護婦は囁いた。
 僕は看護婦に促されて病室をあとにした。ナースセンターの前のソファに、がっくりとうなだれた岸本の姿が見えた。お茶くらいご馳走しますわ、とその看護婦は僕の背中をそっと押しながら言った。
 センターには4人の当直の看護婦がいた。僕と岸本は中に通されて、インスタントのコーヒーをごちそうになった。
 看護婦の話によると、啓奈は4日前の午後、ひとりでこの医大にやってきて彼女の父親の友人でもある、ある著名な医学教授に診察を依頼したということだった。彼女の両親にはその段階ではまだ何も知らされていなかった。初日の問診で左大腿部に鈍い痛みがあることを啓奈から聞かされた教授は、その部位のレントゲンを撮影し、それから採血・採尿をした。レントゲン写真に硬化像が診とめられると、腫瘍学専門の整形外科医が呼ばれ、大腿部のCTスキャンの撮影も行った。
 診断にそれほどの時間は必要なかった。翌日、啓奈はかつてない激しい痛みを訴え、緊急入院させられた。即刻彼女の両親は教授室へ呼び出された。その場で教授は、がん細胞の肺転移と啓奈の寿命がよくもってあと2ヶ月であることを両親に告げた。岸本は啓奈の自宅に電話を入れて、母親からそのすべてを打ち明けられたのだった。
「あんなにきれいな子なのに・・・」いちばん若そうな看護婦が沈痛な面持ちでそう言った。すぐに年長らしい看護婦が彼女の名前を叱りつけるように口にした。
「本人にはなんと?」と僕は看護婦に訊ねた。
「もちろん本当のことは伏せてあります。検査のためだと」僕を病室に案内した看護婦がそう答えた。岸本がそれに同調するかのように頷いた。
 僕は看護婦が煎れてくれたコーヒーを飲みながら、これから僕がすべきことを頭の中で整理した。答はひとつしかなかった。
「お願いがあります」と僕は看護婦に言った。「お忙しいことはわかっていますが、明日にでも彼女の主治医の先生にお会いすることはできませんか? 至急会ってご相談したいことがあるんです」
 年長の看護婦が僕の顔を見て何かを言いかけ、思いとどまった。看護婦は少しばかり僕を見つめ、そして緊張の糸をほどくかのようにふっと小さく息をついた。それからスケジュール表のようなものを見て、明日の朝もう一度確認の電話を入れてから来院するよう前置きしながら、教授へ取り次ぐことを約束してくれた。
 それから僕は、啓奈には僕が来ていることをまだ知らせないでほしいと看護婦に言った。彼女たちは不思議そうな顔をしたが、それも了承してくれた。付き添い用のベッドを用意すると看護婦は言ってくれたが、僕はそれを断わり、夜遅く面会させてくれたこととコーヒーの礼を言って病院をあとにした。
 医大の正門をくぐりながら、岸本は言った。「おまえ、冷静だな。もしかして知っていたのか?」
 僕はシートに身体を深く沈めたまま首を横に振った。岸本はためらいがちに僕を見て、また同じようにして視線を正面に戻した。
 啓奈は知り合いの教授に大腿部の痛みを打ち明けたということだったが、これほどの進行状況ならかなり以前から自覚症状があったはずだった。そう、思えばこの春に届いた手紙の中で啓奈は、昨年のクリスマスのころから彼女の中の変化に気づいていたことを示唆していた。おそらくこのことだったのだ。彼女はそのころからすでに薄々感づいていたのかもしれない。だから、僕に会いに来ることも決意したのかもしれない。そして森から帰ったあと――自らの命があと残りわずかだということを知ったあと、啓奈は彼女の身体を内側から容赦なく蝕んでいく病魔とひとり闘いながら、僕にこの上ない貴重な時間を与えてくれた。
 そう考えると、僕はどうしようもなく哀しくなった。どうしてひとこと言ってはくれなかったか? 僕に余計な心配をかけまいと考えてのことだったのだろう。そこまで僕のことを気遣う彼女の、僕のことをあんなにも理解してくれている彼女の、こんなに大きな体調の変化に僕は気づきもしなかったのだ。おそらく彼女は隠しとおせるものなら最後まで隠し通そうとしたに違いない。もし騒ぎが大きくならなかったなら、最後の最後まで彼女は僕に対して沈黙を守り通しただろう。

 その夜、僕は岸本の部屋に泊めてもらった。優子は僕の顔を見ると、再会の挨拶さえも惜しむかのように抑え切れず泣いた。まるで自分ごとのように泣いた。岸本は長い時間をかけて優子をなだめ、寝かしつけた。
 僕は大きな窓から赤坂辺りの夜景を眺めた。ぼんやりとした光のドームがその辺り一帯を包みこんでいた。
 なにも啓奈だけではなかった。啓奈だけが求めていたわけではなかった。彼女が僕を求めたように、僕も彼女を求めていたのだ。それは偽りのない正直なところだった。啓奈のいない人生なんて到底考えられるものではなかった。僕はそのことを長い時間をかけてやっと悟り、その矢先のことだった。
 辛かった。どうしようもなく辛かった。心が屠殺前の牛のように怯えていた。冷たいひとりきりの部屋で過ごすほうがはるかにましだった。僕は啓奈の死を待ちながら、これからの数ヶ月を過ごさなければならなかった。そして、啓奈が死んだあとは文字どおりひとりぼっちになってしまうのだ。
 今にも叫び出しそうだった。叫びながら、目の前の分厚い窓ガラスを突き破ってしまいそうだった。







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